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歌稿A 大正五年三月より

 
256
日はめぐり幡はかゞやき紫宸殿たちばなの木ぞたわにみのれる
 
257
山しなのたけのこやぶのそらわらひうすれ日にしてさびしかりけり
 
258
たそがれの奈良の宿屋のののきちかくせまりきてんよ銀鼠ぞら
 
259
にげ帰る鹿のまなこの燐光となかばは黒き五日の月と
 
260
かれ草の丘あかるかにつらなるをあわたゞしくも行くまひるかな
 
261
そらはれてくらげはうかびわが船のうれひ行くかな渥美をさして
 
262
明滅の海のきらめきしろき夢知多のみさきを船はめぐりて
 
263
青うみのひかりはとはに明滅しふねはまひるの知多をはなるゝ
 
264
日は落ちてかなしみしばし凪ぎたるをあかあか燃ゆる富士すその野火
 
265
あゝつひにふたゝびわれにおとづれしかの水色のそらのはためき
 
266
いかでわれふたゝびかくはねがふべきたゞ夢の海しら帆はせ行け
 
267
さそり座よむかしはさこそいのりしがふたゝびこゝにきらめかんとは
 
268
輝石たちこゝろせはしく別れをば言ひかはすらん函根のうすひ
 
269
別れたる鉱物たちのなげくらめはこねの山のうすれ日にして
 
270
ひは色の重きやまやまうちならびはこねのひるのうれひをめぐる
 
271
うすびかるうれひのうちにひわ色の笹山ならぶ函根やまかな
 
272
風わたりしらむうれひのみづうみをめぐりて重きひわ色のやま
 
273
うるはしく猫睛石はひかれどもひとのうれひはせんすべもなし
 
274
そらしろくこの東京の人群にまじりてひとり京橋に行く
 
275
浅草の木馬に乗りて哂ひつゝ夜汽車を待てどこゝろまぎれず
 
276
つぶらなる白き夕日は喪神のかゞみのごとくかかるなりけり
 
277
しめりある黒き堆肥は四月より顫ふ樹液とかはるべきかな
 
278
山山はかすみて繞る今日はわれ畑を犂くとて馬に牽かれぬ
 
279
あらひたる実習服のこゝろよさ草に臥ぬれば日はきららかに。
 
280
爽かに朝のいのりの鐘鳴れとねがひて過ぎぬ君が教会
 
281
北上は雲のなかよりながれ来てこの熔岩の台地をめぐる
 
282
今日よりぞ分析はじまる瓦斯の火のしづかに青くこゝろまぎれぬ
 
283
双子座のあはきひかりはまたわれに告げて顫ひぬ水色のうれひ
 
284
われはこの夜のうつろも恐れざりみどりのほのほ超えも行くべく
 
285
伊豆の国三島の駅にいのりたる星にむかひてまたなげくかな
 
286
黄昏の中学校のまへにしてふっと床屋に入りてけるかな
 
287
わが腮を撫づる床屋のたちまちにくるひいでよとねがふたそがれ
 
288
くるほしくひばりむらがりひるすぎてますます下る紺の旗雲
 
289
うすぐもる温石石の神経を盗むわれらにせまるたそがれ
 
290
夕ぐれの温石石の神経はうすらよごれし石絨にして
 
291
今日もまた岩にのぼりていのるなり河はるばるとうねり流るを
 
292
笹燃ゆる音はなり来るかなしみをやめよと野火の音はなりくる
 
293
雪山の反射のなかに嫩草をしごききたりて馬に食ましむ
 
294
一にぎり草をはましめつくづくと馬の機嫌をとりてけるかな
 
295
仕方なくすきはとれどもなかなかに馬従はずて雪ぞひかれる
 
296
風きたり高鳴るものはやまならしあるひはポプラさとりのねがひ
 
297
弦月の露台にきたりかなしみをすべて去らんとねがひたりしも
 
298
ことさらに鉛をとかしふくみたる月光のなかにまたいのるなり
 
299
星群の微光に立ちて甲斐なさをなげくはわれとタンクのやぐら
 
300
黒雲をちぎりて土にたゝきつけこのかなしみのかもめ落せよ
 
301
温室の雨にくもれるガラスより紫紺の花蔟こゝろあたらし
 
302
赤き雲いのりのなかに湧き立ちてみねをはるかにのぼり行きしか
 
303
われもまた白樺となりねぢれたるうでをささげてひたいのらなん
 
304
でこぼこの熔岩流にこしかけてかなしきことをうちいのるかな
 
305
ひとひらの雪をとり来て母うしのにほひやさしきビスケット噛む
 
306
岩手やま焼石原に鐘なりて片脚あげて立てるものあり
 
307
しかみづらの山のよこちよにやるせなく白き日輪うかびかゝれり
 
308
雲ひくき裾野のはてに山焼けの赤ぞら截る強き鳥あり
 
  308a 山やけにはえたる雲をながめつゝ鈴蘭のつゝみをそつとおろしぬ
 
  308b 山やけの雲を見やりつゝ鈴蘭のつゝみをそつと椅子におろしけり
 
309
わが為に待合室に灯をつけて駅夫は問ひぬいづち行くやと
 
310
とりて来し白ききのこを見てあればなみだながれぬ寄宿の夕
 
311
たゞさへもくらむみ空にきんけむしひたしさゝげぬ木精の瓶
 
312
かくこうのまねしてひとり行きたればひとは恐れてみちを避けたり
 
313
雲かげの山の紺よりかすかなる沃度のにほひ顫ひくるかも
 
314
雲かげの行手の丘に風ふきてさわぐ木立のいとあはたゞし
 
315
かたくりは青き実となるうすらやみの脳のなかなる五月の峡に
 
316
曲馬師のよごれて延びしもゝひきの荒縞ばかりかなしきはなし
 
317
この暮は土星のひかりつねならずみだれごころを憐れむらしも
 
318
ひるすぎのといきする室の十二人イレキを含む白金の雲
 
320
山脈のまひるのすだまほのじろきおびえを送る六月の汽車
 
321
をきな草丘のなだらの夕陽にあさましきまでむらがりにけり
 
322
白樺のかゞやく幹を剥ぎしかばみどりの傷はうるほひ出でぬ
 
323
風は樹をゆすりて云ひぬ「波羅羯諦」あかきはみだれしけしの一むら
 
324
青がらすのぞけばさても六月の実験室のさびしかりけり
 
325
あをあをとなやめる室にたゞひとり加里のほのほぞ白み燃えたる
 
326
はややめよかゝるかなしみ朝露はきらめきいでぬ朝露の火は
 
327
青山の裾めぐり来て見返ればはるかに白く波たてる草
 
328
風ふきて木々きらめけばうすあかき牛の乳房もおなじくゆれたり
 
329
本堂に流れ入れる外光を多田先生はまぶしみ給ふ
 
330
うす黝く感覚にぶきこの岩は夏のやすみの夕暮を吸ふ
 
331
愚かなる流紋岩の丘に立ちけふも暮れたり雲はるばると