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     野の師父(作品第一〇二〇ノ一)

かやもたふれ稲もたふれて
野はらはいちめんとむらふやうな水けむり
この雷鳴と黒雲のなかで
ひとりきちんとえんにすわり
師父よあなたが正しく座り
そのけはひをきいてゐられますことは
何たる私への慰めでせう
    ……額はきざみその眼はうつろ
      夜とあけがたに草を刈り
      冬も手織の麻を着て
      七十年を数へたひとを
      またいなづまが洗つて過ぎる……
七十年が過ぎ去れば
あなたのせなは松より円く
あなたの指はかじかまり
あなたの額は雨や日や
あらゆる辛苦の図式を刻み
あなたの瞳は洞よりうつろ
この野とそらのあらゆる相は
あなたのなかに複本ふくほんをもち
それらの変化の方向や
その作物への影響は
たとへば風のことばのやうに
あなたののどにつぶやかれます
しかもあなたのおももちの
今日は何たる明るさでせう
豊かなみのりを願へるまゝに
二千の施肥の設計を終へ
その稲いまやみな穂をいて
花をも開くこの日ごろ
四日つゞいた烈しい雨と
今朝からのこの雷雨のために
あちこち倒れもしましたが
なほもし明日或は明后
日をさへ見ればみな起きあがり
恐らく所期の結果も得ます
さうでなければ村村は
今年もまた暗い冬を迎へるのです
    ……どの松のはやしも雲とすれすれ
      幾層ものつゝみは灰いろにあふれて
      そこらはいちめん
      ただ桃いろの稲づまばかり
  この雷と雨との音に
  物を言ふことの甲斐なさに
  わたくしは黙して立つばかり
しかもあなたのおももちの
その不安ない明るさは
一昨年の夏ひでりのそらを
見上げたあなたのけはひもなく
わたくしはいま自信に満ちて
ふたたび村をめぐらうとします
わたくしが去らうとして
一瞬あなたの額の上に
不定な雲がうかび出て
ふたたび明るく晴れるのは
それが何かを推せんとして
恐らく百の種類を数へ
思ひを尽くしてつひに知り得ぬものであります
師父よもしもやそのことが
口耳の学をわづかに修め
鳥のごとくに軽佻けいてう
わたくしに関することでありますならば
師父よあなたの眼力をつくし
あなたの聴力のかぎりをもつて
わたくしのまなこを正視し
わたくしの呼吸をお聞き下さい
古い白麻の洋服を着て
やぶけた絹張の洋傘はもちながら
尚わたくしは
諸佛菩薩の護念によつて
あなたが朝ごと誦せられる
かの法華経の寿量のほん
命をもつて守らうとするものであります

それでは師父よ
何たる天鼓てんこの轟きでせう
何たる光の浄化でせう
わたくしは黙して
あなたに別の礼をばします