目次へ  縦書き

あけがた

 おれはその時その青黒く淀んだ室の中の堅い灰色の自分の席にそ わそわ立ったり座ったりしてゐた。

 二人の男がその室の中に居た。一人はたしかに獣医の有本でも一 人はさまざまのやつらのもやもやした区分キメラであった。

 おれはどこかへ出て行かうと考へてゐるらしかった。飛ぶんだぞ 霧の中をきいっとふっとんでやるんだなどと頭の奥で叫んでゐた。 ところがその二人がしきりに着物のはなしをした。

 おれはひどくむしゃくしゃした。そして卓をガタガタゆすってゐ た。

 いきなり霧積が入って来た。霧積は変に白くぴかぴかする金襴の 羽織を着てゐた。そしてひどく嬉しさうに見えた。今朝は支那版画 展覧会があって自分はその幹事になってゐるからそっちへ行くんだ と云ってかなり大声で笑った。おれはそれがしゃくにさわった。第 一霧積は今日はおれと北の方の野原へ出かける約束だったのだ、そ れを白っぽい金襴の羽織などを着込んでわけもわからない処へ行っ てけらけら笑ったりしやうといふのはあんまり失敬だと おれは考 へた。

 ところが霧積はどう云ふわけか急におれの着物を笑ひ出した。有 本も笑った。区分キメラもつめたくあざ笑った。なんだ着物のこと などか きさまらは男だらう それに本気で着もののことを云ふの か、などとおれはそっと考へて見たがどうも気持が悪かった。それ から今度は有本が何かもにゃもにゃ云っておれを慰めるやうにした。 おれにはどういふわけで自分に着物が斯う足りないのかどう考へて も判らなくてひどく悲しかった。そこでおれは立ちあがって云った。

「あたりまへさ。おれなんぞまだ着物など三つも四つもためられる 訳はないんだ、おれはこれで沢山だ。」有本や霧積は何か眩しく光 る絵巻か角帯らしいものをひろげて引っぱってしゃべってゐた。お れはぷいと外へ出た。そしていきなり川ばたの白い四角な家に入っ た。知らない赤い女が髪もよく削らずに立ってゐた。そしていきな り
「お履物はこちらへまはしましたから。」と云っておれの革スリッ パを変な裏口のやうな土間に投げ出した。おれは「ふん」と云ひな がらそっちへ行った。それでも気分はよかった。

 片っ方のスリッパが裏返しになってゐた。その女が手を延ばして 直す風をした。おれはこんな赤いすれっからしが本統にそれを直す かどうかと考へながら黙ってそれを見てゐた。

 女は本統にスリツパを直した。おれは外へ出た。

 川が烈しく鳴ってゐる。一月十五目の村の踊りの太鼓が向岸から 強くひゞいて来る。強い透明な太鼓の音だ。

 川はあんまり冷たく物凄かった。おれは少し上流にのぼって行っ た。そこの所で川はまるで白と水色とぼろぼろになって崩れ落ちて ゐた。そして殊更空の光が白く冷たかった。

(おれは全体川をきらひだ。)おれはかなり高い声で云った。

 ひどい洪水の後らしかった。もう水は澄んでゐた。それでも非常 な水勢なのだ。波と波とが激しく拍って青くぎらぎらした。

 支流が北から落ちてゐた。おれはだまってその岸について遡った。

 空がツンツンと光ってゐる。水はごうごうと鳴ってゐた。おれは かなしかった。それから口笛を吹いた。口笛は向ふの方に行ってだ んだん広く大きくなってしまひには手もつけられないやうにひろが った。

 そして向ふに大きな島が見えた。それはいつかの洪水でできてか らもう余程の年を経たらしく高さも百尺はあった。栗や雑木が一杯 にしげってゐた。

 おれはそっちへ行かうと思った。

 そしていつかもう島の上に立ってゐた。どうして川を渡ったらう、 私は考へながらさびしくふり返った。

 たしかにそれは水が切れて小さなぴちゃぴちゃの瀬になってゐた のだ。

 おれは青白く光る空を見た。洪水がいつまた黒い壁のやうになっ て襲って来るかわからないと考へた。小さな子供のいきなりながさ れる模様を想像した。それから西の山脈を見た。それは碧くなめら かに光ってゐた。あんな明るいところで今雨の降ってゐるわけはな い、おれは考へた。

 そらにひろがる高い雑木の梢を見た、あすこまで昇れぱまづ大抵 の洪水なら大丈夫だ、そのうちにきっと弟が助けに来る、けれども どうして助けるのかなとおれは考へた。

 いつか島が又もとの岸とくっついてゐた。その手前はうららかな 孔雀石の馬蹄形の淵になってゐた。おれは立ちどまった。そして又 口笛を吹いた。そして雑木の幹に白いきのこを見た。まっしろなさ るのこしかけを見た。

 それから志木、大高と彫られた白い二列の文字を見た。

 瘡せてオーバアコートを着てわらじを穿いた男が青光りのさると りいばらの中にまっすぐに立ってゐた。

「私は志木です。こゝの測量に着手したのは私であります。」帽子 をとっていやに堅苦しくその男が云った。志木、志木とはてな、ど こかで聞いたぞとおれは思った。