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うろこ雲

 そらいちめんに青白いうろこ雲が浮かび月はその一切れにはいっ て鈍い虹を掲げる。
 町の曲り角の屋敷にある木は脊高の梨の木で高くその柔らかな葉 を動かしてゐるのだ。
 雲のきれ間にせわしく青くまたゝくやつはそれも何だかわからな い。
 今夜はほんたうにどうしたかな。八時頃からどこでもみんな戸を 閉めて通りを一人も歩かない。
 お城の下の麦を干したらしい空くいの列に沿って小さな犬が駈け て来る。重く流れる月光の底をその小さな犬が尾をふって来る。
 夜の赤砂利、陰影だけで出来あがった赤砂利の層。桜の梢は立派 な寄木を遠い南の空に組み上げ私はたばこよりも寂しく煙る地平線 にかすかな泪をながす。
 町はまことに諒闇の龍宮城また東京の王子の夜であります。
北上岸の製板所の立て並べられた板の前を小さな男の子がふいと歩 く。
 それから鉄橋の石で畳んだ橋台が白くほのびかりしてならび私の 心はどこかずうっと遠くの方を慕ってゐる。
 もう爪草の花が咲いた。さうだ。一面の爪草の花、青白いともし びを点じ微かな悦びをくゆらしそれから月光を吸ふつめくさの原。
 小さな甲虫がまっすぐに飛んで来て私の額に突き当りヒョロヒョ ロ危く堕ちやうとして途方もない方へ飛び戻る。原のむかふに小さ な男が立ってゐる。銀の小人が立ってゐる。よこめでこっちを見な がら立ってゐる。にやにやわらってゐる。にやにや笑ってうたって ゐる。銀の小人。

「なんばん鉄のかぶとむし
 月のあかりも つめくさの
 ともすあかりも 眼に入らず
 草のにほひをとび截って
 ひとのひたひに突きあたり
 あわてゝよろよろ
 落ちるをやっとふみとまり
 いそんでかぢを立てなほし
 月のあかりも つめくさの
 ともすあかりも眼に入らず
 途方もない方に 飛んで行く。」

原のむかふに銀の小人が消えて行く。よこめでこっちを見ながら腕 を組んだまゝ消えて行く。
アカシヤの梢に綿雲が一杯にかゝる。
そのはらわたの鈍い月光の虹、それから小学校の窓ガラスがさびし く光りひるま算術に立たされた子供の小さな執念が可愛い黒い幽霊 になってぢっと窓から外を眺めてゐる。
 空がはれてそのみがかれた天河石の板の上を貴族風の月と紅い火 星とが少しの軋りの声もなく滑って行く。めぐって行く。