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【不1】 (日付あて先不明) 下書

この度御地の震災に就ては何とも申し上げやうございません。御社並に御宅の方はまづは大丈夫と存じては居りましたがみな様御恙等もございませんか。いろいろご損害も大きいことと存じます どうかいよいよお大切に

 「震災」と言えば関東大震災のことでしょうが、そうだとすると、この下書きは1923年のもので、賢治の書簡が発見されていない時期にあたります。また、この下書きの用紙は「銀河鉄道の夜」の原稿に使われているそうです。

【不2】 (日付あて先不明) 下書

お手紙拝見いたしました。

やうやくあなたも私の弱点がはっきりお見えになったやうで大へん安心いたしました。何べんも申しあげてゐる通り私は宗教がわかってゐるでもなし確固たる主義があって何かしてるでもなしいろいろな異常な環境(質屋とか肺病とか中風とか)から世問と違った生活のしやうになった(強い人ならぱならなくても済む訳です)だけのことでいまでもその続きなのです。文芸へ手は出しましたがご承知でせうが時代はプロレタリヤ文芸に当然遷って行かなければならないとき私のものはどうもはっきりさう行かないのです。心象のスケッチといふやうなことも大へん古くさいことです。そこ

 「プロレタリヤ文芸」などと言っていますので、賢治が労農党のシンパだったころのことでしょうね。羅須地人協会の活動もしていて、警察ににらまれたりしていました。

【不3】 (日付不明) 草野心平あて 下書

おはがきありがたうございました。銅鑼の節はごへんじもあげませずまことに失礼いたしました。あんなやつ叩きつけてやらうとお考へだらうと存じてゐました。あのころわたくしは芸術へ一種の偏見をもってゐまして自分でも変なものを書きながら詩の雑誌をこさえたり議論をしたりすることを大へん軽べつして居りました。その后ひどく疾みまして地獄の三丁日まで参りいまもまことに自分ながらなさけないありさまで居ます。

 「銅鑼」が出てくるので、草野心平あてと推測されています。草野心平もこの下書きのような手紙を受け取ったことがあると言っているそうです。心平は賢治からの手紙を全部、黄瀛に預けて帰国し、現在は所在不明なのだそうです。

【不4】 (日付あて先不明) 下書

で只今としては全く途方にくれてゐる次第です。たゞひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意志といふやうなものがあってあらゆる生物をほんたうの幸福に齎したいと考へてゐるものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学とのいづれによって行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。すなはち宇宙には実に多くの意識の段階がありその最終のものはあらゆる迷誤をはなれてあらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめやうとしてゐるといふまあ中学生の考へるやうな点です。ところがそれをどう表現しそれにどう動いて行ったらいゝかはまだ私にはわかりません。そこであなたがわたくしの主義のやうにお働きになるといってもわたくしはまああなたの最善の御考の通り

 吉本隆明さんが、「賢治ほどの天才が<中学生の考へるやうな>ことをまじめに考えているのだから、私たちもやはり…」などと書いているのを読んだことがありますが、このあたりからとった話なのでしょう。

【不5】 (日付あて先不明) 下書

お手紙拝見いたしました。

法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます。そのうち私もすっかり治って物もはきはき云へるやうになりましたらお目にかゝります。

根子では私は農業わづかばかりの技術や芸術で村が明るくなるかどうかやって見て半途で自分が倒れた訳ですがこんどは場所と方法を全く変へてもう一度やってみたいと思って居ります。けれども左の肺にはさっぱり息が入りませんしいつまでもうちの世話にばかりなっても居られませんからまことに困って居ります。

私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから。

  尚全快の上。

 羅須地人協会時代は病気で倒れて終わりましたが、その後に身近にいた人に出したものでしょう。「こんどは場所と方法を全く変へてもう一度やってみたい」というところもよく引用されるものです。

【不6】 (日付あて先不明) 下書

お手紙拝見、一一ご尤です。まことの遺は一つで、そこを正しく進むものはその道(法)自身です。みんないっしょにまことの道を行くときはそこには一つの大きな道があるばかりです。しかもその中でめいめいがめいめいの個性によって明るく楽しくその道を表現することを拒みません。生きた菩薩におなりなさい。独身結婚は便宜の間題です。一生や二生でこの事はできません。さればこそ信ずるものはどこまでも一諸に進まなければなりません。手紙も書かず話もしない、それでも一諸に進んでゐるのだといふ強さでなければ情ない次第になります。なぜならさういふことは顔へ縞ができても変り脚が片方になっても変り厭きても変りもっと面白いこと美しいことができても変りそれから死ねばできなくなり牢へ入ればできなくなり病気でも出来なくなり、ははは、世間の手前でもできなくなるです。大いにしっかり運命をご開柘なさいまし。

 前のものと同じ手紙の下書きかもしれないと全集には書いています。この下書きは12種類、前のものは6種類あり、全部で18枚も下書きを書いたことになります。

【不7】 (日付あて先不明) 下書

ワグネルの歌劇物をあげてみます。

べートーベンのならいろいろあります。

いつかのスコットランド風の歌

 教え子の澤里武治あてに、レコードをあげる話をした書簡がありますが、それと関係があるもののようです。「ワグネル」は「ワーグナー」のことです。

【不8】 (日付あて先不明) 下書

度々ご懇切なお見舞を戴きながらお礼も申しあげず永々まことに失

 この用紙にはこんなメモが書かれているそうです。

 創作童話/締切なし/四百字原稿用紙/四枚〜五枚/東京市麹町区/丸ノ内/時事新報社/学芸部童話係

 ここに童話を送ったという事実は確認されていません。

【不9】 (日付あて先不明) 下書

二度めのお手紙拝見いたしました。前の

 このあたりの下書きはみな同じ「丸善特製 二」と呼ばれているものを使っています。1924年〜1930年の間に使われていたものです。

【不10】 (日付あて先不明) 下書

役に立つも立たないもあなたさまがさういふ学問での後進を

 この原稿の裏は「三六八 種山ヶ原」の下書き稿になっています。

【不11】 (日付あて先不明) 下書

廿二日付のお葉書拝見いたしました。

 この原稿の裏は書簡261(1930年)になっていますので、そのころのものでしょう。

【不12】 (日付不明) 澤里武治あて 封書(封筒ナシ)

先日は折角訪ねて下すったのに病后何かにうちへも遠慮で録なおもてなしもせずまことに済みませんでした。けれどもあなたが昔のまゝ元気で明るくてどこまでも進んで行かれさうなのでじつに安心しました。レコードは厭きたら外に別のをお借ししてもようございます。本も大分売りましたがまだいくらかありますから要用の科目お便りあれば送ります。   まづは。

 書簡465(1933年)に澤里武治あてで封筒のみのものがありますが、それの中身らしきものです。

【不13】 六月五日(あて先不明) 下書

   六月五日

お葉書拝誦いたしました。病気のことご心配下すってありがたう存じます。よほどよくなりました。たゞ咳が烈しくて困ります。日中はそれでも読み書きや肥料設計などできます。店などへはもう出ません。お葉書の文調がいつも大へん急ですが、も少し落ち付かないと私のやうにからだを悪くします。あなたのいまの収入は日本では低い方ではありません。村ならば十町歩の地主ではとてもそれだけの純収はありません。町ではたいてい主人一人店員二人でその辺の収入でせう。そこから脱け出してもっとご立身なさることを望まぬぼくではさらさらありませんが、ご承知の通り中等教員とか会杜員とかでは地位の不安全なこと到底現位の比でなく、その他どこを見てもまあこゝこそと思ふところはありません。借金は町も村もです。町の生活だってもう食事や医薬まで切り込んでゐます。落ちついて大きな字の習字でも初められることを切に希望いたします。もはや今日になって貧乏のはなし、前途に光明あるはなし、何かの目論見みなはやりません。東洋人はいかなる物質の条件でもその中で楽しむことを工夫しそれができるのです。その工夫こそあなた方の立場から村を救ふ道であり自らを救ふ道であると恩ひます。生意気な申し分ですがみんなじぶんの苦しまぎれ、今日死ぬか死ぬかと思ふなかから考へたことです。ご容謝を乞ひます。

 賢治は「東北砕石工場花巻出張所」のネーム入りの用紙を作って使っていました。その用紙のネームを抹消して使っています。1932年か1933年に、教え子にあてて書いたものです。書簡247(1929年)のあて先も同じかもしれないと全集では言っています。

【不14】 (日付不明) 草野心平あて 下書

久しぶりの草野心平の手蹟、またなくなつかしいものです。ご元気の趣じつに何より、どうか

 文中に草野心平の名が出てきます。この用紙も東北砕石工場花巻出張所のものです。

【不15】 (日付あて先不明) 下書

拝啓

承れば御厳父様御入院の趣何かに御心痛万々の御事と奉存候

何卒一日も早く御快癒被遊

 晩年に使用していた用紙に書かれています。この用紙の使用時期は1932年8月から1933年5月だそうです。

【不16】 (日付不明 高知尾智耀あて) 下書

合掌

暑さ厳しい折柄先生には倍々御健勝大法の為めに

 用紙左半分に「Namu Myohorengekyo」と六回書き、裏には「南無妙法蓮華経」と十回書いています。法華経に関係して、賢治が「先生」と呼ぶ人物ということで、国柱会の高知尾智耀あてではないかと推測されています。

【不17】 (日付あて先不明) 下書

拝復 御葉書並に小包(三字不明)拝受仕侯 御案内の通り(一字不明)三円(四字不明)難有御礼申上(一字不明)

 全集の校異欄には以下のように書かれています。
「葉書の前半に本書簡を書きかけたものを墨で丹念に抹消してから、 書簡174(1920年、宮澤政次郎あて)を書いている。墨で消され ているため、判読不可能な文字が多い。
 174の直前に書かれた可能性が強いが、書き損じ葉書なども大 事に保存して家族あてなどには使用する節倹の家風であったから、 本書簡の書かれた時期については一応断定を避けておく。」