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[94](1918年12月10日前後)保阪嘉内あて 封書(封筒ナシ)

私があなたのカを知らないと云ふのはあなたが現在の儘であなたの理想を外に施すとして、それが果して人人とあなたとの幸福を齎すかどうかを知らないと云ふ事です。

あなたに具はれる素質をも私はよく知りません。が、どちらも一定不変なものでもありませんし、十へも一へも展開させ得るのですから実は私はいつでも現在の状態は軽く見るくせがあります。

ベッサンタラ王が施しをした為に民の怒りを買ひ王宮を遂はれ二人の子をつれて妃と山へ入りました。密林の中には多くの果実が実り子等はこれを求めて泣き叫びました。

木は自ら枝を垂れ下して果実を与へました。身毛為に竪つべきこの現象よ。これは王の過去に積んだ徳行によるのでせう。

しかし、私の申すことがあまりにあなたに累するとしても、又あなたに何等の影響がないとしても、これはよくないと存じますからあなたはあなたの信ずるところをおやりになつたらいかゞですか。私はあなたのする所をなつかしく一心に観ませう。

今わたくしは求めることにしばらく労れ、しづかに明るい世界を追想してみました。それはあなたに今さっぱり交渉のないことかもしれません。

けれどもあの銀河がしらしらと南から北にかゝり、静かな裾野のうすあかりの中に、消えたたいまつを吹いてゐたこと、そのたいまつは或は赤い小さな手のひらのごとく、あるひはある不思議な花びらのやうに、暗の中にひかってゐたこと、またはるかに沼森といふおちついた小さな山が黒く夜の底に淀んでゐたことは、私にこゝろもちよい静けさを齋します

さてまた、あけがたとなり、われわれは、はや七合目かの大きな赤い岩の下にたどりつき、つめたい赤い土に腰をおろし、東だか、北だかわからないそらを見れば、あゝこれは明るい冷たい琥珀の板で上手に張られ、またはこれは琥珀色の空間であって夢の様な中世代の大とかげらがうかびたち、また頂にいたり、一人の人は感激のあまり皮肉のあまりゲートルを首に巻きつけ、また強い風が吹いて来て霧が早く早く過ぎ行きわたくしの眼球は風におしつけられて歪み、そのためかまたはそうでなく本統にか白い空に灼熱の火花が湧き、すみやかに散り、風を恐れる子供は私にすがりついたのでした。

また私はおとうとやいとこをつれて行きました。低く低くうすしろい雲が裾野にひくく平らかにかゝり、その上で夜中かみなりが鳴ってゐました。裾野を四時頃行けばもはや空ははれわたり星が満天にひかってゐましたが、さらにあやしいのは山がしろびかりしてどうも雪が降ったらしいことです。ひとみをさだめてよく見るとたしかに雪にちがいなく私共は躍ったりはねたりして進みましたがいつか道をまちがいて丁度山の北東の方へまわってゐました。

雨がふり出しわたくしどもはかけながら柳沢にもどり火をたいて暖まってゐるうちに東のそらはびろうどのやうにひかりだしもう明るくなったとき私共はまた外へでました。

弟といとこはかゞやく山の姿白樺の美しさに叫んではしり出したうたう見えなくなりました。

勝手にわたくしのきもちのよいことばかり書きました。

    さよなら。