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[93](1918年12月初め)保阪嘉内あて 封書(封筒ナシ)

毎度ながら御便りをありがたう存じます

この度は又御決心の程誠に羨しく、御祝申し上げます 私も同じ様な方法をやうやく数日前採ることにきめました それで私の事情を申し上げれば自然あなたの御立場を私がどう見るかははっきりすることゝ思ひます

私のうちでは今の商売を大正九年迄続けて居ればそれから後は学費もあまり要らないし学校を出たものはみな働くし先づ仮令父が今の様に病気でも何とか出来るのです 今私が私の望む様に東京へでも小工場を持つといふことは家としては非常な損ですし又当分は不可能です

又私一人、家にかゝはりない私、箇人としてぱさっぱりそんなもうけることはしたくありませんししなくても畑の三段歩も耕してゐれぱ静に自分を完成して行くことが出来るのです。けれどもそれは私丈のことです。

みんなの為を思ふならば先づ自分を完成しなければなりませんがその道方法は自分の為でもほかのひとの為でもいゝ訳だらうと思ひました

今や私は学校を中途にやめ分析も自分の分を終らず、先生が来ても随いても歩けず、古着の中に座り、朝から晩まで本をつかんでゐるか、利子やもうけ歩合の勘定をするかしてゐます、これが体裁のよいことか悪いことか農学得業士がやってはづかしいことか恥しくないことか健康によいことかわるいことかどうも何にせよ仕方ありません

けれども若しできるならば早く人を相手にしないで自分が相手の仕事に入りたいと思つてゐます

えらい人たちは烈しい人の心の中で恐れず怒らず自分の道を進んで行くやうですが私にはそんなことは当分見込ありません やはり険しい世界へ入れぱそれにぱかり気をとられてしまひます それですから私は大正九年以後の私の仕事は今から御約束致しかねます 多分はまだ林のなかへは入り兼ね小さな工場を造つてその中で独りで、しんみりと稼ぎませう。

今来年中に読まうと思ってゐる本は

   日下部氏、物理汎論 上下
   ・化学量論、週期率等の著述
   ・解析幾何、
   ・無機化学、(非金属元素)
   ・独英対照の何か。

私もそちらへ参りたいのですがとても宅へ願ひ兼ねます。御出で下さるならば最ありがたく存じます。然しあなたは私のうちで不愉快な印象しか得られますまい。

終りに私はあなたがどれ位強い人かを知らないことを白状致します。
  ごきげんよろしう。