目次へ  縦書き

[83a](1918年8月)保阪嘉内あて 封書

御機嫌はいかゞですか。

これから暫らくの間、私の手紙は、あなたに対して全然何の関係もないものとして、丁度日記の頁をちぎつてあてのない処へ郵送すると云ふ事にして、書きます。そうでないと私に大そう不愉快な事がありますから仕方ありません。

この前の手紙で申し上げた通り、先づ私はこれから先に、何の仕事をしなければならないと云ふ約束を持たない事になりました。けれどもこれは又苦しいことです。私は何もできないのです。畑を掘っても二坪も掘ればもう絶えず憩んでばかりゐる。少し重いものを取り扱へば脳貧血を起したりする。それでもやっぱり稼ぎたくて仕方ないのです。毎日八時間も十時間も勉強はしてゐます。がこれは何だか私にはこのごろ空虚に感じます。もしこの勉強がいつまでも続けられ事情ならば斯うは感じますまい。

みんな流転ではありませんか。速かに速かに複雑に何等の法則を容れる余地もなく、或は明るく時には暗くこの万法の流転よ。わが明滅よ。今私は中学校の時に夢想したと同じ外形の生活を願つてゐます。それも直き実現されるでせう。

この間中、地質調査で歩いて来たやうな明るい草地、(これは一町歩から一二円代の草ができる丈です)その少し平らな処へ土間の家を一軒作ることにして。やはり床は張った方が好いな。なに、家は十坪もあれば沢山です。このまわりへ苗床を作って桐の実を砂にまぜて蒔く。やがて少さな苗ができる。一回植えかへる。二年目にまとめて、むしろにつゝんで二万本もそろへて売る。買ふ人がなかったら自分の草山のうちで静かな傾斜の処へ翌春植える。それから山の沢の様な処、湿地、傾斜の急な処へは胡桃をつける。

虫が来て桐のみきを食ふ。鳥、ことにきつゝきが来てその虫をほじくる。その孔へは何か変な油の様なものを塗りつけて置く。又くるみは盛に栗鼠が食ふ。丁度リーダアにある様に食ふがいゝ。栗鼠の食ひ残りは人間生存競争の落伍者たる私が拾つて集めてほしてたべたり売ったりする。又草地を堀りかへして三年の間には一町歩も畑を作る。この畑はみんな菊芋を作るつもりです。

さて、この様な考で働くのでは、私は私の今の家を支へては行けません。けれどもやつとわれわれの生活費には間に合ふ。(学費とか、伊勢詣りの費用は出せないと云ふことです。)毎年二万本の桐苗を作つてゐれば千円は入る。沢山でせう。ことに私は昆布や豆や米をたべる丈ですから交際費なんかはさつぱりかゝらないし、又やがては私も木の葉でもたべて生きて行ける様に練習して置かないと山の中のことですから凶作に会つたときに困るのでせう。

私は長男で居ながら家を持って行くのが嫌で又その才能がないのです。それで今私は父に、どうかこれから私を家が雇って月給の十円も呉れる様な様式(形式ではない、本統に合名会社にでもして仕事をするつもりです ことに鉱業的なこと、又工業原料的なこと)にして呉れまいかと頼んでゐます。そして又この辺では沢山仕事はありますがみな大きな資本が要ります。とても私などが経営できる事はありません。とにかくこの様にして三十五迄も働けば私の父と私の母とが一生病気にかゝっても人に迷惑をかけないで済む様な状態に私の家がなります。それは私が稼いでそうなるのではなくて今私の家にある株券(少しの)や何かゞ生活費さへ償って行けばひとりに三万円位にはなるでせう。この訳は今、私の家では銀行から金を借りて居て毎年千円も利子を払ひ、一方株券でもつと余計の配当を得てゐるのです、但しそれもどうなるか誰もわかったことではない。その時迄には私は弟でも妹でもちゃんと家を自分から進んで守って行く人にたのんで私は許して貰はうと思ふのです。本統を云へばそれ迄ぐづぐづしてゐても今すぐに許して貰っても同じことです。同じことながらこゝは私の優柔な性質できちんと母の云ふのを断って行脚にも出れない処です。

今の夢想によればその三十五迄には少しづゝでも不断に勉強することになつてゐます。その三十五から後は私はこの「宮沢賢治」といふ名をやめてしまってどこへ行っても何の符丁もとらない様に上手に勉強して歩きませう。それは丁度流れて、やまない私の心の様に。けれども私は私の心を見習ふのではありません。その様にして偉い和尚様になるのではありません。もとより出家しないのですから和尚様になれ様筈がありません。最早夜も更けました。

学校は面白うございますか。
私の様に落ぶれる手筈ならぱ農学校等は入らなくとよかったのでせうな。さよなら。

  保阪嘉内様                   宮沢賢治

 追白

  今日の手紙は変に経済的でしたな。

けれどもこの次にはもつと元気のあるごあいさつができるでせうから気持が悪くともがまんして下さい。実に私は今つかれてゐるのです。