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[44] 1918年2月2日 宮澤政次郎あて 封書

   (表)稗貫郡花巻川口町 宮澤政次郎様 親展
   (裏)二月二日 盛岡市内丸二九 玉井方 宮澤賢治 (封印)〆

謹啓

昨晩は取り忙ぎ色々と申し上げ定めし御読了御面倒なりし事と存じ上げ候 今夕は土曜日にも有之更に少しく今後の方針等御参考迄に御願致し候 手紙にて申し上げ候方間違も少く却つて宜しき事と存じ申し候。

 毎度申し上げ候如く実は小生は今後二十年位父上の曾つての御勧めにより静に自分の心をも修習し教典をも広く拝読致し幾分なりとも皆人の又自分の幸福となる様、殊に父上母上又亡祖父様乃至は皆々様の御恩をも報じたしと考へ自らの及びもつかぬ事ながら誠に只今の如何なる時なるか吾等の真実の帰趣の何れなるやをも皆々様と共に知り得る様致したくと存じ只今の努力はみな之に基き候処小生の信仰浅きためか縷々父上等にも相逆らひ誠に情無く存じ居り候 就ては帰盛御常に思ひ居り候 二度も死ぬ迄の病気にて殊に伝染病に罹り色々と御心配相掛け候のみか父上迄も御感染なされ今に至るまで腸に病残られ候事など只今とても高等の学校に入るのみならず他の生徒にては思ふに任せぬ書籍など迄求め得て何の不足ありて色々御諭しに逆らひ候や 信ずる所父上と異らばたゞ泣きてこそあるべきに却て怒りを致し候事など就れは前生の因縁ある事と存じ候へども兎角父上と相近けば様々の反感のみ起し候 誠に誠に情け无く帰盛の後、また逆らひ候後とても絶ず之を思ひ候

さて母上とては尚祖父様祖母様の御看病を初め随分と御肝難下され如何にもしても少し明るくゆつくりしたる暇をも作り上げ申さんと中学一年の時より之を忘れたる事は御座なく候へども何か言へばみな母上を困らす様なる事のみにて何とも何とも自分の癖の悪くひがみ勝ちなるには呆れ奉り候

亡祖父様いづれに御出でなされ様やも明かならず実は忽ちに出家をも致すべきの所只今は僧の身にては却て所説も聞かれざるの有様にて先づ一度は衣食の独立を要すと教へられ又斯く思ひて折角働く積りに御座候 操り返し候へども元来小生の只今の信も思想も父上の範囲を出で申さず書籍とてもみな父上の読み候もののみを後にて拾ひ読み候のみに御座候 父上は従来小生の極端な立場にあるときは常に一方の極端なる立場に立たれ自ら悪者ともなりて間違ひなき様導き下され候事誠に有難く存じ居り候

さて然らば如何にしてこの御恩の幾分をも報じ申さんやを真面目に考へたる事全く無之とはよもや御疑無之事と存じ候、誠に仮に世間にて親孝行と云ふ如く働きて立派なる家をも建て賢き子孫をも遺し何一つ不自由なき様に致し候ともこの世に果して斯る満足は有之べく候や 報恩には直ちに出家して自らの出難の道をも明らめ恩を受けたる人々をも導き奉る事最大一なりとは就れの宗とて教へられざるなき事に御座候 小生にとりては幸にも念仏の行者たる恩人のみにて敢てこの要もなく日本一同死してみな極楽に生るゝかとも見え候へども斯てだもの尚外国の人人総て之れ一度は父一度は母たる事誤なき人人はいづれに生れ候や ましては私の信ずるごとくば今の時念仏して一人が生死を離るべきやと誠に誠に身の置き処も無之次第に御座候

願はくゞ誠に私の信ずる所正しきか否や皆々様にて御判断下され得る様致したく先づは自ら勉励して法華経の心をも悟り奉り働きて自らの衣食をもつくのはしめ進みては人々にも教へ又給し若し財を得て支那印度にもこの教を広め奉るならば誠に誠に父上母上を初め天子様、皆々様のご恩をも報じ折角御迷惑をかけたる幾分の償をも致すことゝ存じ候

依て先づ暫らく名をも知らぬ炭焼きか漁師の中に働きながら静かに勉強致したく若し願正しければ更に東京なり更に遠くなりへも勉強しに参り得、或は更に国土を明るき世界とし印度に御経を送り奉ることも出来得べくと存じ候

依て先づ暫らく山中にても海辺にても乃至は市中にて小なる工場にても作り只専に働きたく又勉強致したくと存じ候 就れにせよ結局財を以てするにせよ身を以てするにせよ役に立ちて幾分の御恩を報じ候はゞ沢山に御座候間何卒人並外れながら只今より独身にて勉強致し得る様又働き得る様御許し下され度く本日も又極めて不整頓ながら色々と御願申し上げ候

 尚清六は風邪全く去り一同無事に御座候間御安心下され度願上候

  大正七年二月二日               賢治拝

 父上様