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[484a] 1933年8月30日 伊藤與藏あて 封書【旧427】

   満洲派遣歩兵第三十一聯隊第五中隊 伊藤與藏様
   八月三十日 岩手県花巻町豊沢町

軍務ご多端の中からご叮重なお手紙を下さいまして厚くお礼申し上げます。

何よりまづ激しいご勤務炎熱の気候にも係らず愈々御健勝で邦家の為にご精励の段至心に祝しあげます。

いろいろそちらの模様に就ては、弟への度々のお手紙また日報等に於る通信記事、殊に東京発刊の諸雑誌が載せた第二師団幹部とか、従軍記者達とかの座談会記録に仍て読んで居りますが、実に病弱私のごときただ身顫ひ声を呑んで出征の各位に済まないと思ふばかりです。

然しながら亦万里長城に日章旗が翻へるとか、北京(昔の)を南方指呼の間に望んで全軍傲らず水のやうに静まり返ってゐるといふやうなことは、私共が全くの子供のときから、何べんもどこかで見た絵であるやうにも思ひ、あらゆる辛酸に尚よく耐えてその中に参加してゐられる方々が何とも羨しく(と申しては僣越ですがまあそんなやうに)感ずることもあるのです。

殊に江刺郡の平野宗といふ人とか、あなたとか、知ってゐる人たちも今現にその中に居られるといふやうなこと、既に熱河錦州の民が皇化を讃へて生活の堵に安んじてゐるといふやうなこと、いろいろこの三年の間の世界の転変を不思議なやうにさへ思ひます。

当地方稲作は最早全く安全圏内に入りました。初め五月六月には雨量不足を憂ひ、六月も二十五日になってやっと植付の始まった地区さへあり、また七月の半には、湿潤のため各所に稲熱病発生の徴候も見えたりしたのでしたが、結局は全期間を通じての数年にない高温によって生育は非常に順調に進み、出穂も数日早く穂も例年より著しく大きく、今の処県下全般としては作況稍良と称せられてゐますが、西の方の湿田地帯などは仲々三割の増収でも利かないやうに思はれます。

私もお蔭で昨秋からは余程よく、尤も只今でも時々喀血もあり殊に咳が初まれば全身のたうつやうになって二時間半ぐらゐ続いたりしますが、その他の時は、弱く意気地ないながらも、どうやらあたり前らしく書きものをしたり石灰工場の事務をやったりして居ります。しかしもう只今ではどこへ顔を出す訳にもいかず殆んど社会からは葬られた形です。それでも何でも生きてる間に昔の立願を一応段落つけやうと毎日やっきとなってゐる所で我ながら浅間しい姿です。

十月は御凱旋の趣、新聞紙上にも発表ありましたが、そちらとしてもだんだん秋でもありませうし、どうかいろいろ心身ご堅固に祖国の神々の護りを受けられ、世界戦史にもなかったといはれる此の度の激しい御奉公を完成させられるやう祈りあげます。まづはお礼まで申し上げます。