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[185](1921年1月30日)関徳彌あて 封書

(表)巌手県花巻川口町上町 岩田金次郎様方 関徳彌様
(裏)大正十年一月廿九日三十日 東京市本郷区菊坂町七五 稲垣方 宮澤賢治(封印)緘

合掌。廿八日附お手紙ありがたく拝見いたしました。

今回出郷の事情は御推察下さい。拝眉の機会もありませう。色々御親切に家の模様などお書き下されまして誠にありがたうございます。本日迄の動静大体御報知致します。

何としても最早出るより仕方ない。あしたにしやうか明後日にしやうかと二十三日の暮方店の火鉾で一人考へて居りました。その時頭の上の棚から御書が二冊共ぱったり背中に落ちました。さあもう今だ。今夜だ。時計を見たら四時半です。汽車は五時十二分です。すぐに台所へ行って手を洗ひ御本尊を箱に納め奉り御書と一所に包み洋傘を一本持って急いで店から出ました。

途中の事は書きません。上野に着いてすぐに国柱会へ行きました。「私は昨年御入会を許されました岩手県の宮澤と申すものでございますが今度家の帰正を願ふ為に俄かにこちらに参りました。どうか下足番でもビラ張りでも何でも致しますからこちらでお使ひ下さいますまいか。」やがて私の知らない先生が出ておいでになりましたからその通り申しました。

「さうですか。こちらの御親類でもたどっておいでになったのですか。一先づそちらに落ち着いて下さい。会員なことはわかりましたが何分突然の事ですしこちらでも今は別段人を募集も致しません。よくある事です。全体父母といふものは仲々改宗出来ないものです。遂には感情の衝突で家を出るといふ事も多いのです。まづどこかへ落ちついてからあなたの信仰や事情やよく承った上で御相談致しませう。」

色々玄関で立った儘申し上げたり承ったりして遂に斯う申しました。

「いかにも御諭し一一ご尤です。私の参ったのは決して感情の衝突でもなく会に入って偉くならうといふ馬鹿げた空想でもございません。しかし別段ご用が無いならば仕事なんどは私で探します。その上で度々上って御指導を戴きたいと存じます。お忙しい処を本当に申し訳けございません。ありがたうございました。又お目にかゝります。失礼ですがあなたはどなたでいらっしゃいますか。」「高知尾知曜です。」「度々お目にかかって居ります。それでは失礼いたします。ご免下さい。」礼拝して国柱会を出ました。そうです。こんな事が何万遍あったって私の国柱会への感情は微塵もゆるぎはいたしません。けれども最早金は三四円しかないしこんな形であんまり人にも会ひたくない。まあ後は略します。

第二日には仕事はとにかく明治神宮に参拝しました。その夕方今の処に問借りしました。はじめの晩は実に仕方なく小林様に御厄介になりました。家を出ながらさうあるべきではないのですが本当に父母の心配や無理な野宿も仕兼ねたのです。その内ある予約の本をやめて二十九円十銭受け取りました。窮すれぱ色々です。

三日目朝大学前で小さな出版所に入りました。謄写版で大学のノートを出すのです。朝八時から五時半迄座りっ切りの労働です。周囲は着物までのんでしまってどてら一つで主人の食客になってゐる人やら沢山の苦学生、辯(ベンゴシの事なさうです)にならうとする男やら大低は立派な過激派ぱかり 主人一人が利害打算の帝国主義者です。後者の如きは主義の点では過激派よりももっと悪い。田中大先生の国家がもし一点でもこんなものならもう七里けっぱい御免を蒙ってしまふ所です。

さあこゝで種を蒔きますぞ。もう今の仕事(出版、校正、著述)からはどんな目にあってもはなれません。こゝまで見届けて置けば今後は安心して私も空論を述べるとは思はないし、生活ならぱ月十二円なら何年でもやって見せる。

     一向順序もありません。ごめん下さい。

稽首本門三宝尊
       合掌
南無妙法蓮華経

おからだお大切に。それからうちへは仕事が大変面白くそして時問も少いさうだと云って置いて下さい。

 社会の富の平均よりも下の方に居る人はこゝでは大低過激派で上は大低国家主義者やなにかです。変れば変ります。