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[152a](七月)保阪嘉内あて 封書(封筒ナシ)(旧157)

御葉書拝見致しました。長い間御無沙汰を致しました。それは私があまりいそがしかったためです。からだがいそがしいのではありません。けれども戦が一寸のひまも与へて呉れなかったのです。そして今でもそうです。これからも勿論さうでせう。その戦は実に惨憺としてゐます。今や私の心は紙魚に食はれた歌麿の錦絵のやうにまた煤け果てたそれの様にこゝにこの輪廓が見えると考へてやっと慰めるのです。どう云ふ戦かはあなたへ御話し致したくありません。私はもし今まで多少私を他人の様に考へて見るひまがあったら

「保阪さん。今日私の方の第一の関所はすっかりこわされ、あやし い軍勢がすさまじく湧きたって来ます。」

「保阪さん。今日私の方の第二の関所はすっかりこわされ、顔の漆 黒な髪を被った軍勢は黒煙のやうに押し寄せます。」

「保阪さん。今日私の城はいつか地の底を堀って来た軍勢に充たさ れ私はある箱の中に入って身をひそめてゐます。」

と云ふ様に書いたでせう。けれども私はその軍勢が何かを申しませ う。その軍勢のときの声

  「破れよ。破れよ。    おのれを立てよ。おのれを立てよ。    ふみにぢれ。奪ひ去れ。奪ひ去れ。    引き裂けよ。」

私の軍勢はか弱く互に次の様に云ひ合ひます。

  「これはかくなるが故に    これはかくならざるべからず。    これはかくなるを以て    豈かくのごとくなるべけんや。」

私はもうそんな弱音を聞きたくないのです。

けれども私の生活をよそから脉めたら実に静な怠けたものでせう。きまった本をも読まず、きまった考をも運ばず、玉菜に虫が集れば構はず私の目が疲れてかすめぱ他人の目と感ずる。私はいまや無職、無宿、のならずもの、たとへおやぢを温泉へ出し私は店を守るとしても、岩手県平民の籍が私にあるとしても私は実はならずもの ごろつき さぎし、ねぢけもの、うそつき、かたりの隊長 ごまのはひの兄弟分、前科無数犯 弱むしのいくぢなし、ずるもの わるもの 偽善会々長 です。なにが偽善といふならばこうすれぱ人がどう思ふと考へる。何がさぎしと尋ねれば、きれいな面白い浮世絵をどこかで廉く買はうと考へる。その他は説明の限にあらず。

こう云ふ訳ですから私は著しく鈍くなり、物を言へば間違だらけ、あたまの中にはボール紙の屑 実は元来あなたに御便りする資格もなくなりました。監獄ももう遠くありません。いや私は今なぜ令状が来ないかを考へるのです。度々考へるのです。その来ないわけは心の罪は法律が問はず行の罪もないとは言へない。それでも気がつかないのです。いや監獄が狭すぎるのでせう。

今に至って私はあなたの全行為私の知るもの知らぬもの想像するものせぬものあることないことこれから未来永劫の全行為を尤ものことと感じます。尤ものこと。尤ものこと。わが友の保阪嘉内よ。保阪嘉内よ。わが全行為を均しく肯定せよ。善行は善果悪行は悪果無量劫を経て滅せず。然も、すべては善にあらず悪にあらずわれな、く罪なく、果を受くるひともなしと。

これからの私の方針のごときは申し上げません。

たゞ流れよ。流れよ。質屋の店には利慾と戦ひ、明るき杜会の表に立ちては名誉と戦ひ、もはや私は私の性質が斯くなるを以て斯すれぱ最その長所を発揮すと考へるのはあきました。われは無盾自身なるが故に両極端の混合体なるが故に転々 戦ひ流る 流さる。

けれどもこれらは私のことです。あまり私は私のことを申しあげました。厭でせう。

こんな様な私が何をあなたの御考がどうのと申しあげる資格はありません。

たゞ一言私は私ならぱどうといふことを申上げませう。

私ならぱ労働は少くとも普通の農業労働は私には耐え難いやうです。これはちいさいときからのからだの訓練が足りない為ですからもし本当に稼ぎたいと思ふならばこれからでも遅くはない。稼ぐのを練れるには遅くはない。けれどもその間は私の家は収入を得ない。少くとも収入は遥に減ずる。
あゝ私のからだに最適なる労働を与へよ。この労働を求めて私は満二ヶ年aからb、bからc、つかれはててやっぱりもとのまゝです。もう求めません、商人は生存の資格がないと云ふものも出て来い、きさまは農業の学校を出て金を貸し、古着をうるのかと云ふ人もあるでせう。これより仕方ない。仕方ないのですから仕方がないのです。
烈しい世間の唯中では私の恩を受けた人たちをかばふ為に私はまっ先に死んでみせる。
けれどももし、奇蹟のごとくまことに奇蹟の如く、われは物を求むるの要なくあゝ物を求める心配がなくなったなら、私は燃え出す。本当に燃え出して見せる。見せるのではなく燃えなけれぱならない。燃えたるも燃えざるも、安らかなるも焦慮したるも唯ひとつの道唯一つの道
あの黒い軍勢に囲まれた小さな箱の中の私にも唯一つの道。
保阪さんが国を出やうが国に止まられやうがこの道を行くときはまこと、この道を去るときはいつはり。私はいまも数しらぬあやしいものの右から左前からうしろとはね飛ぶなかをおぼろに白い道をふみはてしもしらずはてしもしらぬかの大城に向つて行きます。

さよなら。

もう一度読んで見ると口語と文語が変にまぢってゐます これが私の頭の中の声です 声のまゝを書くからかうなったのです。

あたまのなかのさびしい声
あたまの底のさびしい歌