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青木大学士の野宿

 青木大学士は、宝石の方の、先生でした。

 ある晩大学士の小さな家へ、「貝の火兄弟商会」の、赤鼻の支配 人が来て、云ひました。

「先生。ごく上等の蛋白石の注文があるのですが、どうでせう、お 探しを願へませんでせうか。もう、ごくごく上等のやつを、ほしい のです。何せ相手がグリンランドの途方もない成金ですからなかな かありふれたものぢゃ承知しないんです。」

 そこで、大学士は、葉巻を横にくわいて、雲母紙を張った天井を 向いて云ひました。

「うん、探してやらう。僕が一ぺん山へ出かけたら、もう、どんな もんでも見附からんといふことはない。けだし、すべての宝石は、 みな僕を慕って、集まって来るんだね。いや、それだから、却って 困ることもあるよ。たとへば僕は、千九百十九年の夏、ビルマへ行 って、紅宝石〔ルビー〕を探したがね、どうだ、もう山へはいると、 紅宝石がザラザラザラザラ、僕に飛び付いて来て、はなれないぢゃ ないか。それが君、みんな、わざわざ、地殻の内部の、遠いところ から、熱い水蒸気のたまりを潜ったり、大圧力の所を過ぎたり、千 苦万苦してやって来たやつだ。全く同情に耐えんのさ。ところが僕 は、もうそいつらで身動きも出来なくなったからね、気の毒だった が、ばらばら、ふりおとして、ふり切って、こっちへ帰って来たや うな訳さ。」

「ははあ、そいつはどうも、とんだご災難でございました。しかし、 いかゞでせう。こんども多分はそんな工合に参りませうか。」

「それは、きっと、そうなるね。たゞ、その時、僕が何かの都合で、 たとへばひどく疲れてゐるとか狼に追はれていゐるとかあるいはひ どく神経が興奮してゐるとか、そんなやうな事情から 折角集まっ たやつを、みんなふり落してしまはないか、どうかゞ、問題だね。 とにかく、行って来やう。二週間目には、きっと帰るから。」

「それでは、何分、お願ひいたします。これはまあ当座の旅費のつ もりでございます。」

 支配人は状袋を上着の内衣嚢から出しました。

「さうかね。」

 大学士は別段気にもとめずそれをさらって自分の衣嚢に投げ込み ました。

「では何分よろしくお願ひいたします。」

「貝の火兄弟商会」の、支配人は帰って行きました。

 大学士か、変な灰色の袋のやうな背嚢をしょって、途方もない長 い外套を着て、七キログラムの有名なかなづちを持って、汗をポタ ポタ滴らしながら、旅に出たのは、その次の日でした。

 旅に出た為に、遂に青木大学士の野宿といふことも起ったのです。

一、野宿第一夜

青木大学士は、ある日の午后四時頃、
「ふん、この川筋があやしいぞ。たしかに、この川筋があやしいぞ。」 とひとりごとを云ひながら、からだを深く曲げて、眼を一杯にみひ らいて、足もとの砂利をねめまはしながら、兎のやうにひょいひょ いと、ある大きな谷の河原をのぼって行きました。

 けれども、間もなく、夕方になったのです。両側の山は、一生け ん命の大学士などにはお構ひもなく、ずんずん黒く暮れて行きまし た。

 その上に一寸顔を出した遠くの雪の山脈は、さびしい銀色にひか り、その上をてのひらのやうなまっ黒な雲が、行ったり来たりしま した。それから川岸の細い細い野原に、赤い野火がちょろちょろ這 ひはじめました。鷹らしい鳥が、鋭く風を切って翔けました。

 大学士はそんなことには構はず、どこまでも、川をのぼって行き ます。

 ところがたうたうすっかり夜になりましたので、今はもう、川原 の石も、赤いやら黒いやら、見分けもつかなくなってしまひました。 「これはいかん。もう夜だ。寝なくちゃなるまい。今夜は久しぶり で愉快な露天へねるんだな。うまいうまい。草の上行かうか。はて な。寝てゐるうちに、野火にやかれちゃ一言もない。よしよし、こ の石へ寝よう。まるでね台だ。ふんふん、柔らかだ。いゝね台だ。」 その石は、まっ白で実に柔らかでした。

 そのかはり、大学士が背嚢をおろして、肱をまげてごろりと横に なったときは、外套のせなかに、白い粉が一杯につきましたが、も ちろん大学士は一向知りませんでした。又知ったところで、あわて ゝ起きあがるやうな人でもないのです。

 水がその広い磧の、向ふ岸近くをごうと流れて、空のうすあかり の中には、山山がのっきのっ

〔以下原稿1枚?なし〕

残るといふあんばいになってしまふ。この棒は、大抵、頸だけを出 して、一つの山になってゐる。それが岩頸だ。ははあ、面白いぞ、 つまりそのこれは夢の中のもやだ、もや、もや、もや、もや。そこ で、その、つまり、鼠色の岩頸だがな、その鼠色の岩頸が、きちん とならんで、お互に顔を見合せたり、ひとりでそらうそぶいたりし てゐるのは、大変おもしろい。ふふん。」

 全くさうでした。それは四人兄弟の岩頸で、だんだん地面からせ りあがって来ました。そこで、大学士はよろこんで笑ひました。 「ははあ、こいつらはラクシャンの四人兄弟だな。よくわかった。ラク シャンの四人兄弟だ。よしよし。」

 注文通り岩頸は、胸までせりあがって来てならんで空にそびえま した。

 ラクシャン第一子は、黒かみをふりみだし、大きな目をぎろぎろ 空に向け、口をぱくぱくやって、何か怒鳴ってゐる様子でしたが、 その声は聞えませんでした。

 ラクシャン第二子は、長い長いあごを、両手の上にのせてねむり、 ラクシャン第三子はやさしい目をせわしくまたゝき、ラクシャン第 四子は、夢のやうな黒い瞳をあげて、じっと東のなだらかな高原を 見つめてゐました。

 大学士が、もっとよく四人を見やうとして、起きあがりますと、 ラクシャン第一子がそれはそれはとてももう耳も割れるやうな声で、 「何をぐづぐづしてるんだ。潰してしまへ。灼いてしまへ。こなご なにくだいてしまへ。早くやれっ。」

 と怒鳴りましたので、大学士はびっくりして急いで又横になって、 寝たふりをしながら、そっと横目で、そっちを見ました。

 ところがそれは、大学士に云ったのではなかったやうでした。な ぜなら、ラクシャン第一子は、やはり空へ向いたまゝ、どなりつゞ けました。

「全体、何をぐづぐづしてるんだ。砕いちまへ、砕いちまへ、はね 飛ばすんだ。はね飛ばすんだよ。火をどしゃどしゃ噴くんだ。熔

〔以下原稿数枚なし〕

兄貴は笑って云ひました。

「一吠えって。もう何十万年、きさまは寝てゐ〔一字不明〕のだ。 それでもまだ力が残ってるのか。」

 すると、無精な弟が、たゞひとこと、
「無い。」と答へたまゝ、又長いあごをうでの上に載せて、ぽかり ぽかりと睡ってしまひました。

 しづかなラクシャンの第三子が、弟に云ひました。

「空が大へん軽くなったね、あしたの朝はきっと晴れるよ。」

「えゝ、そして、今夜は、鷹が出ませんね」

「うん、さっきの野火で子供を焼いたのかな。」

「鷹の子供は、もう余程毛も剛くなりました。それになかなか、強 いんですからね、きっと焼けないで逃げたでせう。」弟が賢くも答 へました。

 兄が気持よくわらひながら、云ひました。

「そんなら結構だ、さあもう兄さんたちはおやすみだ。青木大学士 とかも、よく睡ってゐる。今、丁度、僕らの夢を見てゐるんだぜ。」

 するとラクシャンの第四子が、ずるさうに微笑〔わら〕って、
「そんなら、僕、ひとつおどかしてやらう。」と云ひました。

 ラクシャンの第三子が「よせよせ。いたづらするなよ。」ととめ ましたが、いたづらの弟はそれをきかずに、大きな長い光る舌を出 して、大学士の額をべろりと嘗めました。

 大学士はびっくりして、それでもわらひながら眼をさまし、寒さ にガタッと顫えました。

 空がすっかり晴れて、いちめんに星がまたゝき、黒い岩頸の列は、 だまってじっとそこにならんだのでした。

〔第二夜 冒頭原稿2枚?なし〕

星はみんなかすにけぶってゐました。

 大学士はしばらくつめたい空気を吸って足ぶみをしてゐましたが、 今度はたばこを一本くわいてマッチをすりながら、

「ふん、実にしずかだ、夜あけまでまだ三時間半あるな。」と云っ て又小屋の中にはいりました。

 そしてぼんやりたき火を見ながら、わらの上に横になりました。 それから手を頭の下で組んで、しばらくうとうとうとうとしました。

 突然頭の下のあたりに小さな小さな声で物を云い合ってるのが聞 えました。

「そんなに肱を張らないでお呉れ。おれの横っ腹に病気が起るぢゃ ないか。」

「おや、変なことを云ふね、一体いつ僕が肱を張ったね。」

「そんなに張ってゐるぢゃないか、ほんとうにお前、このごろは湿 気を吸ったせいか、ひどくのさばり出して来たね。」

「おや、それは私のことだらうかね。お前のことぢゃなからうかね。 お前もこのごろは頭でみりみり私を押しのけやうとするよ。」

 大学士は目を大きく開いて起きあがって、その辺を見ましたが、 誰も居ませんでした。ところが声の方はだんだん高くなるばかりで す。

「何がひどいんだよ。お前こそこのごろはすこしばかり風を呑んだ せいか、まるで人が変ったやうに意地悪になったね。」

「はてね、少しぐらゐ、僕が手足をのばしたって、それをとやかう お前が云ふのかい。十万二千年昔のことを考へてごらん。」

「十万何千年前とかがどうしたの。十万、百万、千万年、千五百の 万年の前の、その時をお前は忘れてしまってゐるのかい。まさか忘 れはしないだらうがね。忘れなかったら今になって、僕の横腹を肱 で押すなんて出来た義理かい。」

 大学士はおどろいてしまひました。

「どうも実に記憶のいゝやつらだ。えゝ、千五百の万年の前のその 時をお前は忘れてしまってゐるのかい。まさか忘れはしないだらう がね、えゝ。これはどうも実に恐れ入ったね。いったい誰だ。変に 頭のいゝやつは。」

 大学士は又起きあがってあたりをさがしましたが何の姿も見えま せんでした。声はますます高くなります。

「それはたしかにあなたは僕の先輩さ。けれどもそれがどうしたの。」

「どうしたのぢゃないぢゃないか。僕がやっと体格と人格を完成し て、ほっと息をついてゐるとお前がすぐ僕の足もとでどんな声をし たと思ふね。こんな工合さ。もし、ホンブレンさまこゝのところで 私もちっとばかり延びたいと思ひまする。どうかあなたさまのおみ あしさきにでも一寸取りつかせて下さいませ。まあかう云ふお前の ことばだったよ。」

 大学士は手を叩きました。

「ははあ、ホンブレンさまと、一人は角閃石なんだ。さうすると、 も一人は誰だらう。わからんな。ふん、これは面白い。いよいよ今 日も問答がはじまった。占め、占め、これだから野宿はやめられん。」

 大学士は煙草を新らしく一本出してマッチをシュッとすりました。 小さな声はますます高くなります。もっともいくら高くなった所で せいぜい蚊の軍歌ぐらゐなものでした。

「それはたしかにその通り。けれどもそれに対してお前は何と答へ たね。いゝえ、それは困ります、どうかほかのお方とご相談下さい と斯んなに立派にはねつけたらう。」

「おや、とにかくさ。それでもお前はかまはず僕の足さきにとりつ いたんだよ。まあそんなこと出来たもんだらうかね。もっとも誰か さんは出来たやうさ。」

「あてこするない。とりついたんぢゃないよ。お前の足が僕の体格 の頭のとこにあったんだよ。僕はお前よりももっと前に生れたジッ コさんを頼んだんだよ。今だって僕はジッコさんは大事に大事にし てあげてるんだ。」

 大学士はよろこんで笑ひ出しました。

〔以下原稿2枚?なし〕

りませんか。」

「えゝ、それはもうちがってます。コングロメレートのはなしでは お日さまはまっかで空は茶色なもんだといってゐましたが今見ると お日さまはまっ白で、空はまっ青です。あの人はうそつきでしたね。」 双子が又云ひました。

「さあ、しかしあのコングロメレートという方は前にたゞの砂利だ ったころはほんたうに空が茶色だったかも知れませんね。」

「そうでせうか。とにかくうそをつくこととひとの恩を仇でかへす のとはどっちも悪いことですね。」

「何だと、僕のことを云ってるのかい。よし。よし。僕だって覚悟 があるぞ。さあ決闘しろ。」

「まあお待ちなさい。ね。あのお日さまを見たときのうれしかった こと。どんなに僕らは叫んだでせう。千五百万年光というものを知 らなかったんだもの。ね。あの時鋼の槌がギギンギギンと僕らの頭 にひゞいて来まし

〔以下原稿1枚?なし〕

「さあ、あんまりこれから愉快なことでもないやうですよ。僕が前 にコングロメレートから聞きましたがどうも僕らはこのまゝ又土の 中にうづもれるかさうでなければ砂か粘土かにわかれてしまふだけ なやうですよ。この小屋の中に居たって安心にもなりません。内に 居たって外に居たってたかゞ二千年もたって見れば結局おんなじこ とでせう。」

大学士はすっかりおどろいてしまひました。

「実にどうも達観してるね。この小屋の中に居たって外に居たって たかゞ二千年も経って見れば粘土か砂のつぶになるとは 実にどう も達観してるね。」

その時俄かにパチパチパチと云ふ音がしてバイオタが叫び出したや うでした。

「あっいたっ、いた、いた、いた、いたぁい、いたぁい。」

「バイオタさん、どうしたの、どうしたの。」

「早くプラヂョさんをよばないと駄目だ。」

「ははあ、プラヂョさんというのはプラヂオクレースの斜長石だ。 あいつは青白くて医者なんだな。」と大学士はつぶやきました。 「プラヂョさん、プラヂョさん。プラヂョさん。」

「はあい。」

「バイオタさんがおなかがいたがってます。どうか見て下さい。」

「はあい、なあにべつだん心配はありません。かぜを引いたのでせ う。」

「ははあ、こいつらは風を引くと腹がいたくなる。つまりそれが風 化だな。」と大学士が眼鏡をはづして半巾で拭きながらつぶやきま した。

「プラヂョさん。お早くどうか願ひます。只今気絶をいたしました。」

「はぁい。いまだんだんそっちを向きますから。ようっと。はい、 はい。これは、なるほど。ふふん。一寸脈をお見せ、はい。こんど はお舌、ははあ、よろしい。そして第百八十へきかいよび面の下が いたいと。なるほど、ふん、ふん。いや、わかりました。どうもこ の病気は恐いですよ。それにお前さんのからだは大地の底に居たと きから慢性りょくでい病にかかって大分軟化してますからね、どう も恢復の見込がありませんね。」

 その病人はキシリキシリと変な声で泣きながら云ひました。

「お医者さん。私の病名は何でせう。いつごろ私は死にませう。」

「さやう、病人が病名を知らなくてもいゝのですがまあ蛭石病の初 期ですね、所謂ふう病の中の一つ。俗にかぜは万病のもとと云ひま すがね。それから、えゝと、も一つのご質問はあなたの命でしたか ね。さやうまあ長くて一万年ですね。お気の毒ですが一万年は一寸 持ちませんね。」

 病人のバイオタとパチパチパチパチ泣きながら云ったやうでした。

「あゝあ、さっきのホーンブレンのやつの呪いが利いたんだ。」

「いやいや。そんなことはない。けだし風病にかかって土になると いふことはけだしすべて吾人に免かれないことですね。けだし。」

「あゝプラヂョさん。どんな手あてをいたしたらよろしうございま せうか。」

「さあ、さう云う工合に泣いてゐるのは一番宜しくありません。か らだをねぢってあちこちのヘキカイヨビ面にすきまをつくるのはな ほさらよろしくありません。その他風にあたれば病気のショウケツ を来します。日にあたれば病勢が募ります。霜にあたれば病勢が進 みます。露にあたれば病状がかう進します。雪にあたれば症状が悪 変します。じっとしているのはなほさらよろしくありません。それ よりは精神的に目を瞑って観念するのがいゝでせう、わがこの恐れ るところの死といふものはそもそも何であるか。その本質は如何。 生死巌頭に立って、おかしいぞ、はてな。おかしい、はて、これは いかん。あいた、いたっ、いた、いたた、た、た、た。」

 双子とホンブレンとがあわてゝ叫んだやうでした。

「プラヂョさん、プラヂョさん、しっかりなさい。一体どうなすっ たのです。」

「えゝ、わたくしも、ウン、風病属のうちです。ウン、ウン。」

「苦しいでせう、これはほんたうにお気の毒なことになりました。」

「ウン、ウン、いゝえ、苦しくありません。ウン。」

「何かお手あてをいたしませう。」

「ウン、ウン、実はわたくしも地面の底からウン、ウン、大分カオ リン病にかかってゐるのです。オーソクレースさん、オーソクレー スさん。ウン、今こそあなたにも明します。あなたも丁度わたし同 様の病気です。ウン。」

「あゝ、やっぱりさやうでございましたか。全く、全く、全く、実 に、あいた、いた、いた、いた、た、た、た、た。」

そこでホンブレンの声がしました。

 「神経過敏な人だ。さうすると病気でないのは僕とクォーツさん だけだな。」

「ウン、ウン、そのホンブレンもバイオタと同病。ウン、ウン。」

「あ、いた、いたっ、いた、た、た、た、た、た。」

 はっきりした新らしい声がしました。

「おやおや、どなたもずゐぶん弱い。健康なものは僕一人になって しまった。」

「ウン、ウン、そのクォーツさんもお気の毒ですがクウショウ中の 瓦斯が病因になってゐます。ウン。」

「あ、いた、いたっ、いた、いた。たたたた。」

「たうたうみんな風化だね。」と大学士は新らしいたばこを一本く わいてつぶやきました。

 耳の下では鉱物どもが声をそろへて叫んでゐます。

「あ、いた、いた、いた、いた、た、た、た、たた、た、ウン、ウ ン、ウ、ウ、ウ、ウ、ウ、ウ、ウ、ウ、ウ、」

 みんなの声はだんだんかすかになってもう聞こえなくなりました。

「はてな。みんなだんだん死んだのかな。あるひはだんだん僕だけ に聞えなくなったのかな、どうもどっちかわからんぞ。」とつぶや きながら大学士はその一つのみかげ石をとりあげてよくよく見てか らパチッと小屋の向ふの隅へ指で弾きました。それから榾を一本火 の中に入れました。

 その時はもうあけがた間近でした。

 大学士は背嚢から巻煙草を二包み出してお礼のつもりに藁の上に 置き自分は背嚢をしょって小屋を出ました。

 石切場の壁はすっかり白く西の方に向いた面だけにかすかな青白 い月のあかりがうつってゐました。

青木大学士の野宿(第三夜)

(どうも少し引き受けやうが軽卒だったな。グリーンランドの成金 がびっくりする程立派な蛋白石などを一週間でさがしてやらうなん てのは実際少し軽卒だった。どうも斯う人の居ない海岸などへ来て、 つくづく夕方歩いてゐると街のまん中で鼻の赤い連中などを相手に して、いゝ加減の法螺を吹いたことが全くなさけなくなっちまふ。 どうだ、この頁岩の陰気なこと。全く厭になっちまふな。おまけに 海も暗くなったしなかなか流紋玻璃にも出っくはさない。今夜もや っぱり野宿だぞ。野宿も二晩ぐらゐはいゝが三晩続いちゃ全くうん ざりするな。けれどもまあ仕方もないビスケットのあるうちは歩い て野宿して面白い夢でも見る分が得なんだ。)大学士は外套のポケ ットに手を突っ込み少しせ中を高くしてつくづくこんなことを考へ ながら鼠色の頁岩の波に洗はれる海岸を歩いてゐました。

 全く海は暗くなりその波がしらはならんで寄せて来て何か白い獣 のように見えるのでした。大学士はいよいよ今日は歩いてもだめだ とあきらめるやぴたっと岩の上に立ちどまってしばらくまっ黒な海 とその上に浮ぶ腐った馬鈴薯のやうな雲とを眺めて居りましたがポ ケットから煙草を出して火をつけました。それから陸の方をぢっと 見定めて急いでそっちへ行きました。そこには低い崖がありました。 崖の脚には多分濤のために出来たらしい小さな洞穴があったのです。  大学士はにこにこしながらその中へ入って行きました。それから 背嚢をおろしました。ビスケットを食べました。そのころはもうま っくらで大学士はたゞ向ふに一列の濤の鳴るのを聞くばかりでした。

「ははあ、どうだ、いよいよ宿がきまって腹もできると野宿もそん なに悪くないぞ。さあ、もう一服やって寝るさ。あしたはきっとう まく行くぞ。その夢を今夜見るのも悪くない。」

 大学士の吸ふ巻煙草がポツンと赤く見えるきりでした。

「斯う納まって見ると我輩もさながら洞熊か洞窟住人だ。ところで もう寝やう。
 暗の向ふで 濤がぼとぼと鳴るばかり
 鳥も啼かなきゃ洞をのぞきに人も来ずと、
まあこんなあんばいか。寝ろ寝ろ。」

 大学士はいつか横になってとろとろしてゐました。ところが疲れ て睡るときはあんまり夢も見ないのです。大学士はもう夜が明けて 昨夜の頁岩が白く光ってゐるのにびっくりして洞穴を飛び出しまし た。あわてゝ帽子を落しさうになってそれを押へもしたのです。

「すっかり寝過ごしちゃった。ところでおれは一体何のために歩い てゐるんだったかな。えゝと、よく思ひ出せないぞ。たしかに昨日 も一昨日も人の居ないとこをせっせと歩いてゐたんだが。いやもっ と前から歩いてゐたぞ。もう一年も歩いてゐるぞ。その目的はと、 はてな、忘れたぞ。こいつはいけない、目的がなくて学者が旅行を するといふことはない、必ず目的があるのだ。化石ぢゃなかったか な。えゝと、どうか第三紀の人類に就いてお調べを願ひます、と誰 か云ったやうだ。いゝや、さうぢゃない、白堊紀の爬虫類の骨骼を 博物館の方から頼まれてましたがどうかお探しをねがひますと、斯 うぢゃなかったかな。斯うだ斯うだ、ちがひない。さあ、ところで こゝは白堊系の頁岩だ。もうこゝでおれは探し出すつもりだったん だ。なるほどはじめてはっきりしたぞ。さあ、探せ恐竜の骨骼だ。 恐竜の骨骼だ。」

 大学士の影は黒く頁岩の上に落ちました。大股に歩いてゐる大学 士のその影法師は踊ってゐるやうに見えました。海はもの凄いほど 青く空はそれよりも又青く幾きれかの白い雲がまばゆく浮いて居り ました。

「おや出たぞ。」大学士思はず叫びました。その灰いろの頁岩の層 面に五本ゆびさしわたし三尺ばかりある足跡がついていたのです。 それは深く頁岩の中に食ひ込んでその足裏の皺まではっきりわかり ました。

 それは頁岩の層面をべたべた向ふの方にずうっとつゞいて居たの です。

「さあ見附けたぞ。この足跡の尽きた所にはきっとこいつが倒れて ゐるんだ。巨きな骨だぞ。まづ背骨なら六十尺はあるだらう。巨き いぞ。」

 大学士はまるで雀躍してその足あとをつけて行きました。ところ が足跡はずゐぶん続き、太陽の光線もすてきに赭くてたいへん足が 疲れるのでした。ふと気がついて見ましたら大学士は一歩ごとに足 を泥にひっぱられてゐるのでした。はてなおかしい頁岩の筈だった がと思ひながらふり向いて見ましたらこいつは全く愕いたのです。

 さっきからの巨きな蟇の形の足跡はなるほどずうっと大学士の足 もとまで続きその先もまだまだ続いてゐるやうでしたがも一つ、ど うです、大学士の足跡もちゃんとついてゐたのです。

「こいつはいけない。我輩の足跡までこんなに深く入るといふのは 実際少し恐れ入った。けれどもそれでも探求の目的を達することは 達するな。少し歩きにくいだけだ。さあもう斯うなったらどこまで だって追って行くぞ。」

 大学士はいよいよ大股にその足跡をつけて行きました。大学士の 心臓はどきどき鳴りその呼吸ははげしく聞えました。そんなに大学 士は一生けん命だったのですが又そんなにあたりもしづかだったの です。大学士はふと波打ぎはを見ました。波がすっかりしづまって ゐたのです。たしかにさっきまで寄せて吠えて砕けてゐた濤がすっ かりしづまってゐたのです。

「こいつはいけない。おまけにずゐぶん暑いぢゃないか。」

 大学士は空を仰ぎました。太陽は赤くてまるで苹果のやうでした。 そこらも無暗に赤かったのです。

「ずゐぶんいやな天気になった。それにしてもこの太陽はあんまり 赤い。きっとどこかの火山が爆発をやった。その細かな火山灰が正 しく上層の気流に混じて地球を包囲してゐるな。けれどもそれだか らと云って我輩のこの追跡には害にならない。もうこの足あとの終 るところにあの途方もない爬虫の骨がころがってるんだ。我輩はそ の地点を記録する。もう一足だぞ。」大学士はいよいよ勢よく進ん で行きました。ところが間もなくその泥の岸は岬のやうな工合に突 き出ました。

「さあ、こゝを一つ曲って見ろ。すぐ向ふ側にその骨がある。けれ ども事によったらすぐ無いかも知れない。すぐなかったらも少し追 って行けぁいゝ。それだけのこった。」大学士は立ちどまって煙草 を一本出して火をつけてそれからわざと顔をしかめながら大股にゆ っくりその小さな岬をまは

〔以下原稿1枚?なし〕

戻るから。こっちを向いちゃいけないよ。」

 大学士はそろりそろりと後退りしてうしろへ戻りました。そして 雷竜の長い太い尾がまづ見えなくなり山のやうな胴がかくれおしま ひ黒い舌を出してびちょびちょ水を呑んでゐる蛇に似たその頭がか くれて見えなくなったとき大学士はまづ助かったと思っていきなり 来た方へ振り向きました。

 その足跡さえずんずんたどって遁げてさへ行けば今に汀に濤も打 って来るし空も赤くなくなるし自分の足あとももう泥に食ひ込まな い。堅い頁岩の上を行く。その頁岩の崖にはゆふべの洞穴もある、 そこまで行けばもう大丈夫こんなあぶない探検などはやめてしまっ て博物館へも断はらせて東京で赤い鼻の連中を相手に法螺さへ吹い てゐればいゝ。まあ大体こんな計算だったのです。それもまるっき り電のやうな計算でした。

 ところが大学士は又ぎくっとして立ちどまってしまひました。息 をごくっとのみました。といふわけは今来た方の泥の岸はいちめん まるでうぢゃうぢゃの雷竜でした。まっ黒なくらゐ居たのです。長 い頸を天にのばすやつ、頸をゆっくり上下に振るやつ水の中へに馳 け込むやつ頭を鎌のやうにして水から岸へのぼるやつ、実にまるで うぢゃうぢゃだったのです。

「もういけない。すっかりうまくやられちゃった。いよいよおれは 食はれるだけだ。前にも居るしうしろにも居る。まあたゞ一つ居な いのはこの岬の上だけだ。そこに登っておれは助かるか助からない か、事によったら新生代の沖積世が急いで助けに来るかも知れない、 さあ、この岬だけだぞ。」

 大学士はそっと岬にのぼりました。まるであすなろと蕈との合の 子みたやうな変な木が生えてゐました。そして本統に幸なことはそ こには雷竜が居なかったのです。けれども折角登ってもそこらの景 色はあんまりいゝといふわけではありませんでした。

〔以下原稿なし〕