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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第946号--2017.04.08------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(82)1933年-6」「〔郡属伊原忠右エ門〕」

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-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(82)1933年-6」
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 今回は1933年9月の17日から21日までの5日前の記事です。
9月21日が賢治の命日ですので、臨終の場面までということにな
ります。

 次回、賢治死後の記事を掲載して、「年譜」は完了です。

 17日から19日まで、祭があり、この年は豊作ということもあ
って、大いに賑わったようです。

 賢治の「絶筆」として、色紙に2首の短歌を書いたものがありま
すが、この短歌にも豊作と祭の喜びがあります。

 賢治の遺言として、「国訳の妙法蓮華経」を千部つくり、配布す
るようにとしています。実際に配布されていて、今でも持っている
人があるということです。

 法華経の現代語訳は、ネット上にはかなり出ています。

法華三部経現代語訳
http://p.booklog.jp/download/pdf/21562_68647.pdf

 これなんかが読みやすかったです。

 とにかく、何度か書きましたが、賢治が最後まで「法華経の行者」
であったことは、この遺言からしても間違いのないところです。

 国柱会から与えられた法号は『真金院三不日賢善男子』です。

 残された「三千枚の原稿」について、賢治は父、母、弟にそれぞ
れ違った言い方をしています。このあたりも興味深いところですが、
特に臨終の場面は年譜ではなかなかドラマチックな表現になってい
るので、じっくりとお読みください。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

田中智学先生に影響を受けた人々 > 宮沢賢治(みやざわけんじ)
http://www.kokuchukai.or.jp/about/hitobito/miyazawakenji.html

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 大正8年の編と推定される『攝折御文、僧俗御判』は、先生の
『本化攝折論』および日蓮聖人御遺文からの抜き書きであるが、賢
治の主体的信仰の確立はその頃とみられる。大正10年1月、父母の
改宗を熱望していれられず、突如上京して国柱会館を訪れ、高知尾
智耀講師から「法華文学ノ創作」をすすめられ、筆耕校正の仕事で
自活しながら文芸による『法華経』の仏意を伝えるべく創作に熱中
する。国柱会の街頭布教に従事したのもその頃だが、妹トシ病気の
ため帰郷する。賢治は『法華経』の信仰と科学の一如を求めたが、
そのことは数多くの作品にも反映している。稗貫農学校(現花巻農
業高校)の教諭時代、『植物医師』『飢餓陣営』の作品を生徒を監
督して上演していたのは、国性芸術から影響されたものであること
は確かである。

 農学校を退職して独居自炊生活に入り、「羅須地人協会」を設立
して農村青年、篤農家に稲作法や農民芸術概論を講義したが、その
発想も、やはり智学先生の「本時郷団」におうものといってよい。

 賢治は昭和8年9月21日、『国訳妙法蓮華経』の頒布を遺言して永
眠したが、法名「真金院三不日賢善男子」は国柱会からの授与であ
る。大正11年11月に亡くなった妹トシの遺骨は三保最勝閣へ賢治が
持参し、今は妙宗大霊廟に納鎮されている。賢治の遺形も、昭和57
年の賢治五十回忌に大霊廟に納鎮され、申孝園には賢治の辞世の歌
碑が建立された。

 賢治は、帰郷してから国柱会とは遠ざかったという説をなすもの
がいるが、最後まで国柱会の唱導する日蓮主義の信仰に生きたこと
は、森山一著『宮澤賢治の詩と宗教』や小倉豊文著『雨ニモマケズ
手帳新考』などに明らかにされている。

■故高知尾智耀講師「宮沢賢治の思い出」

(略)

 大正11年の11月27日にトシ子さんが亡くなられ、賢治が非
常に悲しんだことは、妹を弔う彼の詩篇によって明らかである。ト
シ子さんの死去に際しては、その法号を国柱会へ願い出て『教澤院
妙潤日年善女人』と授与された。そして彼はその遺骨を抱いて、当
時国柱会本部のあった静岡県三保の最勝閣に行って、お骨を納めた。

 その後本部が一之江に移ってその遺骨も妙宗大霊廟に移しまつら
れ、不断の回向供養を受けている。納骨はだれによってなされたか
明らかでなかったが、先年私が宮沢家を訪問した際、母堂のいちさ
んに尋ねたところ、やはり賢治自身が奉持して最勝閣へ行かれたと
のことであった。

 賢治が郷里に帰った後は、時折文通があった程度でくわしい事情
はわからなかった。大正13年の4月、彼がはじめて詩集『春と修
羅』の第1集を出した時、私のところへも贈ってくれた。これに対
して、私は礼状と共に私の感想をのべたと記憶する。

 それは田舎風の質実な表装で、内容は彼のいわゆる心象スケッチ
が大部分であったが、簡単に言えば、私は難解な感じを与えられた。
しかしどことなく天才的なひらめきが各所にあって、珍しい創作で
あるという感じはしたものの、少数の同好者のほかには、大衆的に
は愛好せられないのではなかろうかと思われた。それでそのことを
賢治に手紙で書き送ったと記憶する。

 賢治はその後、岩手県稗貫農学校(後の県立花巻農学校)の教諭
となり、5年間特色ある教育をされた。退職後はかねての理想を実
現するために、下根子桜というところにあった彼の家の小屋に独居
自炊をはじめ、『農民芸術綱要』を執筆したり、『羅須地人協会』
という農民道場のようなものを組織して、熱心に農民指導に従事し、
ひたすら農村青年の幸福と向上につくされた。また肥料設計事務所
を設け、無料で肥料相談に応じたりするうち、過労がもとで病気と
なり、生家の2階で療養するようになった。

 そのころに書いたものであろうが、最後の手帖の中に

 快楽もほしからず
 名もほしからず
 いまはただ
 下賤の廃躯を
 法華経の捧げ奉りて
 一塵をも点じ
 許されては
 父母の下僕となりて
 その億千の恩にも酬い得ん
 病苦必死のねがい
 この外になし

とある。彼の信仰的熱情がよく現れている。

□最後に貰ったハガキ

 私と賢治との間の文通はあまり多くはなかった。今私の手元に残
っているのは、彼の臨終の年である昭和8年の年賀状だけで、その
添えがきに

 「客年中は色々と御心配を賜はり難有奉存候。お蔭様にて此の度
も病漸くに快癒に近く、孰れは心身を整へて改めて御挨拶申上候」

とある。しかしその後なんら聞くところなく、その年の9月21日、
37歳を一期としてついに不帰の客となられたことは、
何とも心残りの限りである。もし語りあう機会があったとすれば、
賢治は、改めて何をいおうとしたのであろうか。

 国柱会から授与された法号は、『真金院三不日賢善男子』という。

 その臨終のことは、私は彼の死後に知ったのであるが、お父さん
が、最後に何かいい残すことはないかといわれたところ、私の死後、
国訳法華経を1000部印刷して私の知己朋友に贈って頂きたい、
そしてその本の終わりに、左の言葉を印刷して貰いたいと口述した
という。

 合掌 私の全生涯の仕事は、此経をあなたの御手許に届けそして
其中にある仏意に触れてあなたが無上道に入られん事を御願ひす
るの外ありません

 昭和八年九月二十一日
          臨終ノ日ニ於テ  宮沢賢治

 彼がその死後にまで、かくのごとく周匝に遺言して法華経の正信
を鼓吹されたということは、全く法華経のためにその一生を捧げた
といっても過言ではない。

 この『国訳妙法蓮華経』は、賢治の帰寂後遺族によってりっぱに
印刷され、各方面へ賢治の遺志として寄贈されたが、私はその後、
板垣征四郎大将の未亡人から、故大将のところへも送られ、大将は
平素陣中においてこれを愛読せられ、その最後に先立ってはその信
仰も進まれて、家人への手紙の中にも法華経信仰のことばがしばし
ば書き送られたということを承って、賢治の遺志は意外な方面に影
響を与え、これからも与えるであろうと思われたことであった。

 私は目下国柱会本部にあって、毎朝妙宗大霊廟に参拝、恩師師子
王院智学日謙大居士の報恩謝徳を念じ、あわせて真金院三不日賢善
男子の霊名が納鎮されている妙塔に対し、お題目を高唱して、菩提
増進を祈っている。

 病のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし

と辞世された賢治は、私の唱題を何と聞いているであろうか。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------


--〔1933年-6〕----------------------------------------------
37歳(昭和八年)
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9月
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17日、本日より鳥谷ヶ崎神社祭礼。この日神輿は神社を出て一日
中町をねり歩き、夜おそく裏町(豊沢町東側)のお旅屋に泊る。年
に一度の秋祭りを祝うために高さ約15メートルもある山車が各町
から出ておのおのの美と着想を競い、屈強の若者がかつぎ、子供た
ちは太鼓を打ち、若い女性たちは三味線をひき鳴らす。この年は大
豊作なので近在の農民たちも波のように浮き立って町を流れ、農民
相手の商業町である花巻町も景気を盛り上げた。この光景を見るた
め裏二階から店先へ下りて、終日楽しんだ。

18日、祭礼第2日、この日も門のところまで出たり、店先にすわ
ったり、楽しげにざわめき透る人びとや、踊りまわる鹿おどりを見
ていた。この年は米収132万石を越したが、これは岩手県はじめ
ての大収穫であった。

19日、祭礼第3日。この日夜半近く裏町のお旅屋を出、、早暁,
丘上の本殿へ還御する神輿を拝みたいといい、みんなで手伝って二
階からおろし、門のところへ出て待っていた。東北の秋は夕方にな
ると冷気があたりを包む。イチが心配して「賢さん、夜露がひどい
んじゃ。引っこまってやすんでいる方がいいんちゃ。ほんとにいい
んか」と注意する。賢治はうなずき、「だいじょうぶ、ええんてじ
ゃ」と答え、じっと待っていたが、夜8時神輿をお迎えすると拝礼
して家に入った。

20日、前夜の冷気がきつかったか、呼吸が苦しくなり、容態は急
変した。花巻共立病院より主治医草苅兵衛医師の来診があり、急性
肺炎とのことである。政次郎も最悪の場合を考えざるを得なくなり、
死に臨む心の決定を求める意味で、親鸞や日蓮の往生観を語りあう。

 そのあと賢治は、短歌二首を半紙に墨書する。

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方十里稗貫のみかも
稲熟れてみ祭三日
    そらはれわたる

いたつきのゆゑにもくちん
       いのちなり
みのりに棄てば
     うれしからまし

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 夜7時ころ、農家の人が肥料のことで相談にきた。どこの人か家
の者にはわからなかったが、とにかく来客の旨を通じると、「そう
いう用ならばぜひあわなくては」といい、衣服を改めて二階からお
りていった。玄関の板の間に正座し、その人のまわりくどい話をて
いねいに聞いていた。家人はみないらいらし、早く切り上げればよ
いのにと焦ったがなかなか話は終らず、政次郎は憤りの色をあらわ
にし、イチははらはらして落ち着かなかった。話はおよそ1時間ば
かりのことであったが、何時間にも思われるほど長く感じられ、そ
の人が帰るといそいで賢治を二階へ抱えあげた。

 その夜は用心のため弟清六が一緒に寝た。賢治は「今夜は電灯が
暗いなあ」とつぶやき、おれの原稿はみんなおまえにやるからもし
どこかの本屋で出したいといってきたら、どんな小さな本屋からで
もいいから出版させてくれ。こなければかまわないでくれ。」とい
った。

 二、三日前政次郎と話したとき「この原稿はわたくしの迷いの跡
ですから、適当に処分してください」と言った。またあるとき母に
は「この童話は、ありがたいほとけさんの教えを、いっしょうけん
めい書いたものだんすじゃ。だからいつかは、きっと、みんなよろ
こんで読むようになるんすじゃ」と話したことがあった。父には迷
いの跡といい、母には信念を述べ、弟には出版の望みを託したので
ある。

21日、朝,草苅兵衛医師の診察では「どうもきのうのようでない」
とのことである。母イチは、昭和3年、4年のときもあんなに悪か
ったのになおったのだからと思い、ないとかいい薬をのませて元気
をとりもどさせたいと願って、実家へ電話し、熊の胆を届けてくれ
るように頼んだ。まもなく善治自らそれを持参し孫を見舞った。善
治の見たところでは、顔にあからみもあり、態度もしっかりしてい
るので、危機が目前にあるとは思えず、むしろ安心して帰った。家
中で善治を送り出した。

 午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」と高々に唱題する声がし
たのでみな驚いて二階に上ると、賢治の容態は急変し、喀血して顔
面は蒼白くひきしまっていた。政次郎は末期の近いことを直感し、
硯箱と紙を持ってくるようにいいつけた。イチが「なんにするのす」
と聞くと「遺言を書き取る」という。「そんたなことしたら、おま
えはもう死ぬというのと同じだんすじゃ、そんなむぞいことやすて」
というと政次郎は「そうじゃない」とふたりは小声で押し問答をし
た。

「賢治、なおか言っておくことはないか」

「おねがいがあります」

「そうか、ちょっと待て、いま書くから」

 政次郎は筆をとった。

「国訳の妙法蓮華経を千部つくってください」

「うむ、それは自戒偈だけでよいのか」

「どうか全品をおねがいします。表紙は朱色で校正は北向さんにお
ねがいしてください。それから、私の一生の仕事はこのお経をあな
たの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一
番よい、正しい道に入られますようにということを書いてください」

「よし、わかった」

 と政次郎は書いたものを読み上げ、

「これでよいか」

 と念を推すと賢治は

「それでけっこうです」

 と答えた。

「たしかに承知した。おまえもなかなかえらい。そのほかにないか」

「いずれあとで起きて書きます」

 政次郎がうなずいて下へ降りていくと、賢治は弟を見て、

「おれもとうとうおとうさんにほめられたもな」

 と微笑した。

 みな下に降りて母一人が残った。

「おかあさん、すまないけど水コ」

 母が水を差し出すと、熱のある体をさわやかにするのか、うれし
そうに飲み、

「ああ、いいきもちだ」

 と、オキシフルをつけた消毒綿で手をふき,首をふき、からだを
ふいた。そしてまた、

「ああ、いいきもちだ」

 とくり返した。母はふとんを直しながら、

「ゆっくり休んでんじゃい」

 といい、そっと立って部屋を出ようとすると、眠りに入ったと思
われる賢治の呼吸がいつもと違い、潮が引いていくようである。

「賢さん、賢さん」

 思わず強く呼んで枕もとへ寄った。

 ぽろりと手からオキシフル綿が落ちた。午後1時30分である。

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1月、ドイツでヒトラー内閣成立
2月、小林多喜二死亡
2月、国際連盟脱退
3月、三陸大地震、大津波
5月、京大滝川事件
この年、県下豊作

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谷崎潤一郎「春琴抄」
川端康成「禽獣」
西脇順三郎「Ambarvalia」
「文学界」「文芸」創刊
9月29日、佐々木喜善没

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政次郎 59歳
イチ 56歳 
シゲ 32歳
清六 29歳 1月5日、長女コウ出生(25日死亡)
アイ 22歳
主計 30歳
クニ 26歳
フヂ 4歳
ヒロ 2歳


-〔文語詩稿未定稿(026)〕----------------------------------
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(本文=下書稿2推敲後2)
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     〔郡属伊原忠右エ門〕

郡属伊原忠右エ門
科頭にゴムの靴はきて
冬の芝生をうちよぎり

南ちゞれし綿雲に
雨量計をぞさゝげたる

天狗巣病にはあらねども
あまりにしげきこずゑかな

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(下書稿2推敲後1)
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天狗巣病にはあらねども
ひかりの雲にいざよひて
あまりにしげきこずゑなり
郡属伊原忠右エ門
科頭にゴムの靴はきて
冬の芝生を過ぎ行くか

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(下書稿2推敲前)
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天狗巣病にはあらねども
あまりにしげきこずゑなり

ふらふらかける光雲
ほのかにゆるゝみふねの芽

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(下書稿1推敲後)
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天狗巣病にはあらねども
あまりにしげきこずえなり
ふらふらかける光雲
ほのかにゆるゝみふねの芽

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(下書稿1「冬のスケッチ」第28葉第5章 推敲前)
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天狗巣病にはあらねども
あまりにしげきこずえなり
 (光の雲と桜の芽)

--〔後記〕--------------------------------------------------

 無事退院してきまして、案外元気にしています。まもなく抗ガン
剤治療がはじまりますので、それまで体力をつけておかなければ…。

 入院前に2回分入力してあって、今回分は退院後の入力なんです
が、さすがに最後の場面では力が入りました。今年も9月21日に
は花巻に行かなくては…と改めて思います。それまでには元気にな
っておきたいですね

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