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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第945号--2017.04.01------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(81)1933年-5」「〔われかのひとをこととふに〕」

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-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(81)1933年-5」
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 いよいよ最後の時が近づいていますが、今回は1933年9月の前半
のみです。次回がいよいよ最後の時です。

 このころ、賢治の病状はかなり悪化していたようで、いろんな訪
問客の記事がありますが、賢治自身にはつらいことだったでしょう。

 もちろん、そんなときに嫌な顔の一つも見せないのが宮沢賢治と
いう人です。みんなに丁寧に応対し、また訪問客もいろんな情報を
書き残しています。

 もちろん、宮沢賢治という人が死後時を経ないうちに有名人にな
ってしまったこともあるでしょうが、裕福な家の子で、周りから大
切にされていた人だったと感じさせます。

 このころ、最後の「投稿」をしています。出版されたのは賢治の
死後になってしまいましたが、「産業組合青年会」という詩です。

 元は1924年10月5日の日付を持った詩で、「春と修羅」第2集に
入っているものです。10年近く前、まだ農学校教師だった時代の作
品をわざわざ持ち出してきたのは、やはり「産業組合」というもの
への思い入れがあるのだと思います。

 おりしも、1933年にはこの運動が大きく盛り上がったということ
ですので、この詩を選んだ背景にそういうことがあるのは間違いな
いと思います。

 しかしながら、単なる産業組合運動を賛美した詩ではなく、いき
なり「祀られざるも神には神の身土がある」ですから、読んだ人は
驚いたと思います。

 このあたりの事情が、かつてあって「ニセ賢治詩」を称揚してい
た人たちにはわからないのでしょうね。

 最後になって、急にグズグズしてしまった年譜も、次回が本当に
最終回(?)です。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

産業組合運動のクライマックス
http://www.jacom.or.jp/noukyo/rensai/2013/07/130731-21819.php

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 前回は産業組合の発展を制度面から述べたが、産組拡充運動は巨
大な社会運動として展開されたのであり、制度上の考察だけでは、
私たちの歴史認識はひからびたものになってしまう。恐慌から戦時
体制へと向かう状況のなかで、自らの経済的地位の向上とよりよい
社会の到来を願う農民のエネルギーの爆発が産組運動だったのであ
り、そこには戦前社会最後のロマンが込められていた。

 社会運動には優れたリーダーと大衆を動員するだけの理念が必要
である。リーダーを務めたのは産組中央会会頭となる千石興太郎で
ある。札幌農学校を卒業した千石は、一貫して農業団体に奉職し、
中央会だけでなく全購連や全販連の会長も兼ね、「産業組合の独裁
王」とよばれていた。

 産業組合拡充運動は千石が立案し、彼の指導の下で発展したもの
である。産組もようやく平田東助など政府高官の庇護から離れ独り
立ちしようとしていた。 千石がかかげた運動理念は「産業組合的
経済組織論」として知られる。それは産業組合が発展して生産者と
実需者の間の中間利得の排除に成功すれば「資本主義でも社会主義
でもない理想的な経済社会」が生まれるとするもので、ヨーロッパ
の協同組合主義とほぼ同一の思想とみてよい。この思想はわが国で
はきわめて新鮮な旗印となり、昭和恐慌で反資本主義的気分が充満
し、社会主義運動への弾圧をも経験した農村で広く支持を集めた。

 とくに正義感が強く、何らかの社会変革を熱望する青年層に強く
支持されるのを感じた千石は、1933(昭和8)年に全国の農村青年
によびかけて産業組合青年連盟(産青連)を組織した。産青連は産
組拡充運動の実行部隊として、台頭しつつあった反産運動と対峙し
ながら、産組発展のために村々で活発に活動した。

 戦後高度経済成長期に北海道農協界のリーダーとなった橋場正一
(旧東旭川農協組合長)は、筆マメな人で遺稿集『大地に生きて』
を残している(その編纂を私が務めた)。その中から橋場の青年時
代の産青連活動をリアルに記録した一節を引用しておこう。

 「会合は主として夜間に組合の当直室に集まって運動方針・行動
方針を練って、いざ行動となると翌朝早くから組合前に自転車で集
合、みんな腰に弁当をブラ下げて、自転車のハンドルや荷台に共販
宣伝の旗をしばりつけて、一斉に手分けして各方面別に農家の庭先
訪問をするのである。夕方組合に集まり今日の戦果を、何部落の誰
々さんから何十俵の出荷予約を取り付けた、などと報告し合って次
の戦果を目指すなど、その行動と実行力は組合の基礎作りに大きく
貢献した」

 こうした活動は、そうはさせじと村の入り口で待ちかまえる米穀
業者の買子たちを「実力排除」しながらの壮絶なものだったらしい。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

--〔1933年-5〕----------------------------------------------
37歳(昭和八年)
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9月
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5日、母木光から、盛岡と御所村からとの2通の便りをうけとる。
母木の健康がよくないようなので自愛を祈り、次の作品への期待を
示す。また、送った石川善助遺稿出版費用の「受取」が仙台の錫木
碧から届いたので同封する(書簡485)。

 福島県須賀川町、北方詩人会、大谷忠一郎、寺田弘にあて「産業
組合青年会」一篇を同封送る(書簡486)。詩誌「北方詩人」へ寄
稿を依頼されたのである。「若しお使い下さるなら、どうか名前を
迦莉又は迦利としてお出し願いたく」という。この詩は1933年10月
1日付発行の同誌10輯に発表されたが、作者名は宮沢賢治であっ
た。

6日、夜、関徳弥家から森佐一が送ってきた本2冊と見舞の果物を
届けられる(書簡487)。本の一冊は石川三四郎著のもので、賢治
が自然科学、森が社会科学を担当してお互いに交換教授を行おうと
いう計画があり、そのためのテキストとして送られたも器である。

7日、宮沢直治の二男幸三郎がくる。8月下旬訪ねてきてベートー
ヴェンの第五ピアノ協奏曲を一緒に聞き、借りて行ったレコードを
返しに来たのである。その記述。

「賢さんにお目にかゝつたの一番の最後は9月の7日私が上京する
前日で非常に暑い日だった。お借りしたベートーヴェンの「第六」
及「第九」のレコードをお返しに賢さんの家に行った時、賢さんは
わざわざ店先まで出て来られた。二三日前から風邪気味との事で少
し熱のある顔色だった。私が詩集『春と修羅』を友達にくれちまっ
てない事を云ったら奥から新しいのを一冊持って来られ、そしてあ
のむし暑い店先で椅子に腰かけて誤植を一々直しながら大分永い事
元気に詩の話をし最近の詩など見せてくだすったりした。その時軽
い咳さへして居られたが、之が私の賢さんに対するあまりにも印象
深い最後にならうとは夢にも思はれなかった。」

 森佐一へ礼状(書簡487)。昨夜関家を介して届けられた果物と
本の礼をのべる。つづいて関徳弥の歌集「寒峡」の感想を書くよう
頼まれていること、「岩手日報」で本格的な紹介がなされた上で別
の面から見たところを書き綴って送ること、関の文面からはどうや
ら森に一言批評してもらいたい様子が感じられること、母木光の来
訪があったこと、その後の手紙で石川善助随筆集がまだ森の手許に
ないようなので自分のところに一、二冊あるので送ること、別瓶で
浮世絵を数葉送ること、念のために半日日光あてて消毒するから納
めてほしいこと、などを書く。

 森あての書簡はこれが最後となる。

10日、夜県農会に勤務の教え子小原忠が見舞と出張挨拶に来る。
小原は東京事務所に出向していた。夜、小原が訪ねると居間へ通さ
れ、父母もそこに居り、賢治は二階さら下りてきて片隅に坐った。
以下小原の記述による。

「先生は、絣の着物をきちんと着込んで、その姿は、前よりは幾分
痩せた様だったが、それでも、それが却って引締った様に見られ、
丈夫の様に見られたので、これならばと安堵の思ひをしたのであっ
た。悪いといふのは僕の思ひ過ぎであったことを喜んだ。「起きて
いても宜う御座いますか」「なに、たゞ今迄涼んで今二階に上った
ばかりでしたから」が心なしか、いつもより元気はない様に見受け
られた。「もう、段々涼しくなりますから、お身体にもよくなりま
せう。今まで頑張って来たのですから、どうか頑張って下さい。一
番元気が第一だと思ひますから」

(お父さんは私に「なあに、だまって農学校の先生、やってればよ
かったのス」この言葉にはつよいひびきがあった。賢治はきちんと
座ったまゝ黙っていた。賢治は父母の前なので、いつもとちがい口
数が少ないと計り思っていたのだが──)

 先生のお母さんは、例の口調で傍から一生懸命元気をつけられた。
「ほんとにそうです。そんな気の弱い事ぢゃ駄目だ、元気を出さな
くちゃいけない、といつでも云っているんですが」が先生は弱々し
く(後で考へると、こんな元気のない事を云ったのは初めてだった
が)「なあに、どうなるのか……私は、いつでも、どんな暑さでも
困らないが、寒くなると身体に応へてきます……」(中略)先生は
珍しいと云って、持参して行った一籠の梨果を取りよせ、薄い一切
れを口に入れられた。梨果は,近頃出初めたばかりのフレミッシュ
ビューティー。先生は「これは大変おいしい」と云はれた。「何れ
来月の末頃帰りますから、それまでもっと元気になっていて下さい。」」

11日、稗貫郡亀ヶ森小学校、柳原昌悦へ返書(書簡488)。柳原
は農学校の教え子である。8月29日付で見舞状をうけた。

14日、本日付「岩手日報」夕刊三面に掲載された確戸信太郎「最
近の日報文壇評(下)」の中で「偽タイコ(泰固)」として世上の
宮沢賢治評に言及。

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1月、ドイツでヒトラー内閣成立
2月、小林多喜二死亡
2月、国際連盟脱退
3月、三陸大地震、大津波
5月、京大滝川事件
この年、県下豊作

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谷崎潤一郎「春琴抄」
川端康成「禽獣」
西脇順三郎「Ambarvalia」
「文学界」「文芸」創刊
9月29日、佐々木喜善没

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政次郎 59歳
イチ 56歳 
シゲ 32歳
清六 29歳 1月5日、長女コウ出生(25日死亡)
アイ 22歳
主計 30歳
クニ 26歳
フヂ 4歳
ヒロ 2歳

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[485] 1933年9月5日 母木光あて 封書

(表)岩手郡御所村上南畑 母木光様
(裏)九月五日 花巻町 宮沢賢治(封印)〆

盛岡並びにご郷里からのお便りありがたく拝誦いたしました。お身
体のお加減いけなやうですが、どうか折角ご自愛早くご元気になっ
て、次のお仕事お見せください。碧氏から同封受取ありました。出
版費用中へと云ってやったのでした。

ずゐぶん残暑の続く歳です。呉々もお大切に。  まづは。

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[486] 1933年9月5日 大谷忠一郎・寺田弘あて 封書(封筒ナシ)

お手紙ありがたく拝誦いたしました。ご指示の原稿一応同封いたし
ましたがお役に立ちますかどうですか。若しお使ひ下さるなら、ど
うか名前を迦莉又は迦利としてお出しねがひたく、何とも失礼な申
し分ですがあちこちへのおかしな義理があって止むを得ない点ご諒
承ねがひあげます。

尚乍末筆度々詩誌いたゞき厚くお礼申しあげます。

    九月五日

宮沢賢治

  大谷忠一郎様
  喜田 弘様
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[487] 1933年9月7日 森佐一あて 封書

(表)盛岡市惣門 森 惣一様 平安
(裏)九月七日 花巻町 宮沢賢治拝(封印)〆

昨晩徳弥さんのところからあなたがお送り下すった由で立派な果物
と本を二冊届けて来ました。昨年も戴いて居りそのご挨拶さへまだ
録に申しあげないうちに重ねての次第で何とも恐縮です。どうかご
家中皆々様へも宜しくお伝へねがひあげます。

徳弥さんの歌集拝見して居りますが私にも何か感想を書けとのこと。
あなたの新聞よりお願ひする処もありませんから、そのうちどなた
か歌人のかたが本格的に招介亦は評論されました後、別の面から観
たところうぼつぼつと綴ってお送りいたして見やうかと思って居り
ます。徳弥さんの手紙の口調ではどうやら先にあなたに一言でも批
評して貰ひたい様子でした。

次に先日母木氏来られ詩人たちの噂などいろいろ伺ひました。その
后郷里からの手紙に石川さんの随筆あなたのお手許になかった由、
私は版元からまっ先に行ったものと思ひ、数部もちながら差しあげ
るのをご遠慮いたして居りました。尚一二部ありますから送り先ご
指定ねがひます。

別便浮世絵少しくお送りいたします。真版と再刻品をお見分けいた
ゞきたく、念のため半日日光にあてますからお納め下さらば幸甚で
す。真版が二三枚あればあとは再刻品の全くいゝものの見当ったと
き一年に二枚か三枚加へて行くこと仲々楽しみです。   まづは。

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[488] 1933年9月11日 柳原昌悦あて 封書

(表)稗貫郡亀ケ森小学校内 柳原昌悦様 平安
(裏)九月十一日 花巻町 宮沢賢治(封印)〆

八月廿九日附お手紙ありがたく拝誦いたしました。あなたはいよい
よご元気なやうで実に何よりです。私もお蔭で大分癒っては居りま
すが、どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず、咳が
はじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり、或は夜中
胸がぴうぴう鳴って眠られなかったり、仲々もう全い健康は得られ
さうもありません。けれども咳のないときはとにかく人並に机に座
って切れ切れながら七八時間は何かしてゐられるやうなりました。
あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来
さうもありませんがそれに代ることはきっとやる積りで毎日やっき
となって居ります。しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりゐる
やうな訳です。私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般
の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに
原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とか
いふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、
じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからかじぶんを所
謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ
生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空
しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞ
もう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったや
うな順序です。あなたは賢いしかういふ過りはなさらないでせうが、
しかし何といっても時代が時代ですから充分にご戒心下さい。風の
なかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間でも話ができ
るとか、自分の兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなこと
はできないものから見れば神の業にも均しいものです。そんなこと
はもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、本気に観察し
た世界の実際と余り遠いものです。どうか今のご生活を大切にお護
り下さい。上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や
興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないもの
は苦しんで生きて行きませう。いろいろ生意気なことを書きました。
病苦に免じて赦して下さい。それでも今年は心配したやうでなしに
作もよくて実にお互心強いではありませんか。また書きます。

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     産業組合青年会

祀られざるも神には神の身土しんどがあると
あざけるやうなうつろな声で
席をわたつたそれは誰だ
……雪をはらんだつめたい雨が
  闇をぴしぴし縫つてゐる……
まことの道は
誰が云つたの行つたの
さういふ風のものでない
祭祀の有無を是非するならば
卑賤の神のその名にさへもふさはぬと
いきまきこたへたそれは何だ
……ときどき遠いわだちの跡で
  水がかすかにひかるのは
  東に畳む夜中の雲の
  わづかに青い燐光による……
部落部落の小組合が
ハムをつくり羊毛を織り医薬を頒ち
村ごとの、また、その聯合の大きなものが
山地の肩をひととこ砕いて
石灰岩末の幾千車かを
えた野原にそゝいだり
ゴムから靴を鋳たりもしやう
……くろく沈んだ並木のはてで
  見えるともない遠くの町が
  ぼんやり赤い火照りをあげる……
しかもこれら熱誠有為な村々の処士会同の夜半
祀られざるも神には神の身土があると
老いて呟くそれは誰だ

-〔文語詩稿未定稿(025)〕----------------------------------
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(本文=下書稿2推敲後)
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     〔われかのひとをこととふに〕

われかのひとをこととふに
なにのけげんもあらざるを
なにゆゑかのとき協はざる
クラリオネットの玲瓏を
わらひ軋らせ
わらひしや

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(下書稿2推敲前後)
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     推問

なにゆゑかのとき協はざる
クラリオネットの玲瓏を
わらひ軋らせ
わらひしや

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(下書稿1=「冬のスケッチ」第4葉第2章)
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なにゆゑかのとき きちがひの
透明クラリネット、
わらひ軋り
わらひしや。

--〔後記〕--------------------------------------------------

 月曜日に手術も無事終わり、かなり回復してきていますが、まだ
病院のベッドの上からです。

 心配してお便りをいただいた方々には、この場を借りて御礼申し
上げます。なんとか次週以降も続けるつもりですので、引き続きよ
ろしくお願いします。

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