-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=--=/=-=/=-=/
--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第944号--2017.03.25------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(80)1933年-4」「〔卑屈の友らをいきどほろしく〕」

-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=--=/=-=/=-=/
-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(80)1933年-4」
------------------------------------------------------------

 1933年の4回目ですが、今回も根性なく8月の記事のみです。だん
だんと最後の時が近づいてきて、気が重いですね。

 8月の記事の中では、「文語詩」の記事が目立ちます。賢治の文
語詩は「五十篇」「一百篇」の二つの詩稿にまとめられています。
(その他「未定稿」もありますが)

 この二つの詩稿がともにこの年8月に完成しているのです。賢治
の文語詩は「死の床にて」「最後まで」推敲を重ねたとよく言われ
ますが、具体的にはこの年、8月までかかって完成しています。

 9月ではなく、8月に一応の完成を見ているということは、たぶ
ん自分の死期について悟るところがあったのではないか、という気
がします。

 賢治が最後に、自信を持ってまとめた文語詩ですが、一般にはあ
まり知られているとはいえません。今の読者には難しいのかな、と
思うところです。

 それから、この時期に満洲に派兵されていた知人にあてた手紙が
あります。陣中への手紙ですので、ある程度の配慮はされていたの
でしょうが、少なくとも賢治が「戦争反対」などという立場ではな
かったことがよくわかります。

 もう少し生きていたら、高村光太郎と同じように、「戦争詩」な
ども書いていたのでしょうね。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

【吉本隆明】の宮沢賢治論――文語詩の発見(1)
goo.gl/XWhmG3
(http://id43.fm-p.jp/530/giton/)

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 さて、吉本さんは、宮沢賢治の文語詩に、最も早く着目して肯定
的に評価した人として知られています。

 賢治の文語詩と言えば、彼のみじかい生涯の最後の時期に、集中
して制作されたもので、韻文作品のなかで比べても、公刊詩集『春
と修羅』のような絢爛さも、後期の営農生活の詩のような苦哀の率
直な表明もなく、なんだかよくわからないけど‥なんとなくつまら
ない‥そんな否定的評価が主流になってしまっています。

 まして、同じころに完成された『銀河鉄道の夜』『グスコーブド
リの伝記』という2大童話大作と比べれば、文語詩群が見劣りする
のは避けられない‥ように思われてきました。

 しかし、賢治の文語詩を、この機会にあらためて虚心に見直して
みると、そこに視られる大きな特徴として、自然叙景のウェイトの
大きさが目につきます。文語詩の多くは、あるていど長さのある口
語詩を、推敲につぐ推敲によって刈り込んで縮め、“双四聯”とい
うミヤケン独自の定型にはめこんだものと言えます。その“刈り込
み”の過程で、人事(人の動きや心理)と作者の意想の部分は最高
度に縮められ、あるいは消去されてしまっているのですが、自然の
叙景の部分は、むしろ明確化される場合もあり、あるいは整理され
ずに残されているので、文語詩定型の形では、詩の中心を占めてい
る感があります。

 考えてみると、『銀河鉄道の夜』『グスコーブドリの伝記』の2
大童話は、文語詩よりずっとわかりやすいですが、やはりそれらの
魅力の重要なモメントとして、それぞれの特徴的な自然ないし宇宙
の叙景があると思います。『銀河鉄道の夜』から、「天気輪の丘」
や銀河の風景を除いてしまったら、また、『グスコーブドリの伝記』
から、森や火山の噴火や雲海の生々しい描写をなくしてしまったら、
いまひとつ説得力のない少年SF小説のようなものになってしまう
のではないでしょうか。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

--〔1933年-4〕----------------------------------------------
37歳(昭和八年)
------------------------------------------------------------
8月
------------------------------------------------------------

1日、本日付発行の「麺麭」に発表された永瀬清子「ノート」が
『春と修羅』を論じ、自然との独自のかかわりを指摘して、「万葉
集以後第一流の詩人」と評し、「非机上的な感性に期待をかけてい
る。」と記す。

3日、本日付「岩手日報」夕刊四面に梅野健三「石川善助氏遺稿集
『鴉射亭随筆』の感想」が掲載され、賢治に言及する。

4日、鈴木東藏へ返書(書簡482)。調整器、石灰のことなど返事
の上次のようにいう。

「尚御詞の残金の儀大体計算致置候へ共、行違ひ有之てはお互不快
に有之候間、一度全部引合せの上決算致度存居候。」

 この手紙を以て東北砕石工場との連絡は終わったと思われる。

 上閉伊郡上郷村、沢里武治へ返書(書簡483)。

「私もお蔭で格別の変りもありません。たゞ今度は幾分肺にラッセ
ル残り、この前のやうにすくすくと治りません。外へは出られませ
んが、家の中の仕事はまづ自由なのでまあ退屈もせずやって居りま
す。」

15日、「文語詩稿 五十篇」の推敲を終り、「現在は現在の推敲
を以て定稿とす」と記す。

19日、御所村の母木光来訪。二度目である。その記述から。

「部屋の隅にたたまれてある蒲団、二枚折りのひくい屏風、主人公
の左横、壁際に積まれてあった大判の上質の自家製の原稿用紙、そ
れに10冊あまりの本も片寄せてあった。」

 詩の話では「とりわけ高村光太郎のことを口にする時は如何にも
なつかしそうだったし、同県人であり、伝承文学の面で柳田国男を
扶けた佐々木喜善と、仙台出身の詩人石川善助については、くり返
して語りました。どの人を呼ぶのにも、賢治は必ず「さん」付けで
よびました。」

 そのあと浮世絵を見せられ「多少チグハグなような感じもし」小
説を書くようすすめられ、花巻出身のジャーナリスト八重樫祈美子、
昊姉弟を紹介するといい、来年の春は札幌に俳句旅行をしようとい
う。「私は見送りに出た賢治の前で、白い短靴のひもをのろのろと
むすび、(実際は反対に早く早くと自分をせきたてていたのですが、
靴のひもはほどけてばかりいたように思う)言葉もない間のぬけた
おじぎを何度もし」帰郷中という八重樫家へ案内されてゆく。しか
し八重樫姉弟は帰郷していなかった。母木は数えで25歳であった。

20日、本日付で関徳弥歌集『寒峡』出版される。

 関の記述によれば、「前々から待っていてくれた賢治へとりあえ
ず子供を使って届けさせましたら、まもなく電話がありました。電
話の声も円味があってりんとしたいい声でした。たいへんていねい
なお言葉で恐れいりました。その言葉がなかばあたりから少し力が
ないように思われましたが、それから十日もたたないのに亡くなら
れたのですから、後で思いあたり暗然としました。」とある。

22日、「文語詩稿 一百篇」の推敲を終り「推敲の現状を以てそ
の時々の定稿となす」と記す。

23日、御所村の母木光へ返書(書簡484)。母木から二通の手紙
がとどき、来訪時に渡した「鴉射亭随筆」の代金が封入されてあっ
た。

24日、本日付「岩手日報」夕刊四面に掲載された「消息」欄に、
「宮沢賢治氏快方に向ひ訪問の母木光君と会談数時間」の記事が
ある。

 また、本日付で錫木碧あて封書(恣意感484a0)発信。

29日、宮沢安太郎の二女良子をスケッチする。

30日、末妹クニの長女フヂをスケッチする。

 満洲派遣歩兵第31連隊第5中隊、伊藤与蔵あて返書(書簡484a)。
伊藤は下根子桜の出身、羅須地人協会の初期会員で、賢治開墾地と
となりあって畑があった。

8月下旬、高橋勘太郎四男石田興平の見舞いをうける。石田の記述。

「昭和8年の夏休みであったろうか。当時、私は京大の大学院で勉強
し乍ら立命館大学につとめていた。浄法寺に帰省した時、父は賢治さ
んの御病気がよくないので、京都に行きがけにお見舞いにあがるよう
にというのであった。早速、宮沢さんのお宅に参上し、賢治さんの病
室にお見舞いにあがった。それは、もとの養蚕室のかたすみに畳を敷
いたもので、その上に床をしいてやすんでおられた。お顔はほんのり
と上気したように赤らんで見えた。色白くあせばんだ腕を静かに、し
かも大きく動かし乍ら、人間の彼の世に行く模様を、いかにも幻想的
に語っておられた。これが私が賢治さんにお会いした最後である。あ
とで、お父さんが「折角、賢治の療養のために離れをたててやったの
に、勿体ないというて養蚕室から動こうとしない」と語っておられた。
私が京都に帰って、しばらくして賢治さんが亡くなられたというお知
らせをうけた。」

 石田は1927年10月にも来訪している。

------------------------------------------------------------

1月、ドイツでヒトラー内閣成立
2月、小林多喜二死亡
2月、国際連盟脱退
3月、三陸大地震、大津波
5月、京大滝川事件
この年、県下豊作

------------------------------------------------------------

谷崎潤一郎「春琴抄」
川端康成「禽獣」
西脇順三郎「Ambarvalia」
「文学界」「文芸」創刊
9月29日、佐々木喜善没

------------------------------------------------------------

政次郎 59歳
イチ 56歳 
シゲ 32歳
清六 29歳 1月5日、長女コウ出生(25日死亡)
アイ 22歳
主計 30歳
クニ 26歳
フヂ 4歳
ヒロ 2歳

------------------------------------------------------------
[482](1933年8月4日)鈴木東藏あて 葉書

(表)東磐井郡 陸中松川駅前 鈴木藤三様    四日 花
巻町 宮沢賢治

拝復 調整器は一箇八拾銭の趣右に先日の見本をも添附して送料矢
張八拾銭位かとの事に候。外にセメント袋を加ふれば運賃割廉とな
るべく候。炭酸石灰は今春頂戴の分の内、南城組合等思はしからず
尚残荷有之御諒察仰上候。尚御詞の残金の儀大体計算致置候へ共、
行違ひ有之てはお互不快に有之候間、一度全部引合せの上決算致度
存居候。

敬具
------------------------------------------------------------
[483] 1933年8月4日 澤里武治あて 葉書

(表)上閉伊郡上郷村 澤里武治様    八月四日 花巻町
 宮沢賢治

お葉書ありがたう存じます。

ずゐぶん暑い夏でしが皆々様ご健勝のご様子賀しあげます。

私もお蔭で格別の変りもありません。たゞ今度は幾分肺にラッセル
残り、この前のやうにすくすくと治りません。外へは出られません
が、家の中の仕事はまづ自由なのでまあ退屈もせずやって居ります。
  まつは。

------------------------------------------------------------
[484] 1933年8月23日 母木光あて 封書

(表)岩手郡御所村上南畑 母木光様
(裏)花巻町 宮沢賢治拝(封印)〆

先日は失礼いたしました。折角遠いところをお出で下すっても例に
よってたゞもう陰気なばかり、殊に度々横になったりしまして何と
も済みませんでした。それにお土産までいたゞいたものですからう
ちでもひどく済まながって居ります。どうかこれにこりないでまた
この辺お通りのときはお立ち寄りねがひます。

湯本温泉並に車中からのお手紙、ありがたくいたゞきました。中に
石川さんの出版へお金お言伝ですが、どうも私の手から向ふへお送
りいたしていゝか甚疑問です。けれどもまたあなたにお返して更に
仙台へといふのもあんまりややっこしいですから、むしろあっさり
と、今日お手紙の一部を同封して錫木碧氏へお送りしやうかと思ひ
ます。それがどういふやうに向ふにとられるにしても、結局こちら
だけの事ですし、向ふとしては初めから損を覚悟の出版でせうから、
かういふご好意をどんなに悦ぶかわかりません。石川さんのことに
ついて何もできないことは私こそ更に甚しく、何ともお恥しい次第
です。

次に八重樫さんのご帰郷なかったといふのは全く意外です。ご兄弟
そろってきてゐると二三日前にきいたばかりでしたのであゝおすゝ
めしてご案内いたさせたのですが、或はその予定だけをきいてそれ
が変ったのを知らずにさう云ったのかも知れません。いづれにせよ
家までお訪ねになったのですし、その辺の事情お書き送りになって、
原稿お見せなすったらいかゞでせう。姉さんの方も「岩手女性」は
毎月見て居られますし度々書いてもゐますからお名前は知ってゐる
筈です。どうか早く大広場で華々しくやってみせて下さい。たゞお
からだだけは生意気な申し分ですがあくまでお大切にねがひます。
何でも、何か書いてしまったあと胸につかえたものが残ってゐるや
うならそれを消してからでないとあと書いてはいけないやうです。
それははじめはたゞの感じだけのやうでもだんだん溜って重くなっ
てくるときっと胸へ何か悪いものがやってくるらしいです。昔の漢
詩人たちなど、この溜ったものを原動力にして更に仕事し、慷慨の
歌悲傷の詩を生々と作りだしたりしたやうですが、たしかにこれは
ある点を超えてはとりかへしのつかないものになるやうです。蓋ろ
時々に白雲中に薬をとったり、夕陽に些少の薪を負ひ、日中にキャ
ベヂの虫を拾ふといふ風にしながら読書述作を重ねられたらどこま
でも疲労といふことなしに進まれるだらうと思ったり、人のことで
すからいろいろ勝手に考へてゐる次第、私のかういふつまづきに面
じて悪しからずご了解ください。     まづは。

    八月廿三日

宮沢賢治

  母木 光様

------------------------------------------------------------
[484a] 1933年8月30日 伊藤與藏あて 封書【旧427】

   満洲派遣歩兵第三十一聯隊第五中隊 伊藤與藏様
   八月三十日 岩手県花巻町豊沢町

軍務ご多端の中からご叮重なお手紙を下さいまして厚くお礼申し上
げます。

何よりまづ激しいご勤務炎熱の気候にも係らず愈々御健勝で邦家の
為にご精励の段至心に祝しあげます。

いろいろそちらの模様に就ては、弟への度々のお手紙また日報等に
於る通信記事、殊に東京発刊の諸雑誌が載せた第二師団幹部とか、
従軍記者達とかの座談会記録に仍て読んで居りますが、実に病弱私
のごときただ身顫ひ声を呑んで出征の各位に済まないと思ふばかり
です。

然しながら亦万里長城に日章旗が翻へるとか、北京(昔の)を南方
指呼の間に望んで全軍傲らず水のやうに静まり返ってゐるといふや
うなことは、私共が全くの子供のときから、何べんもどこかで見た
絵であるやうにも思ひ、あらゆる辛酸に尚よく耐えてその中に参加
してゐられる方々が何とも羨しく(と申しては僣越ですがまあそん
なやうに)感ずることもあるのです。

殊に江刺郡の平野宗といふ人とか、あなたとか、知ってゐる人たち
も今現にその中に居られるといふやうなこと、既に熱河錦州の民が
皇化を讃へて生活の堵に安んじてゐるといふやうなこと、いろいろ
この三年の間の世界の転変を不思議なやうにさへ思ひます。

当地方稲作は最早全く安全圏内に入りました。初め五月六月には雨
量不足を憂ひ、六月も二十五日になってやっと植付の始まった地区
さへあり、また七月の半には、湿潤のため各所に稲熱病発生の徴候
も見えたりしたのでしたが、結局は全期間を通じての数年にない高
温によって生育は非常に順調に進み、出穂も数日早く穂も例年より
著しく大きく、今の処県下全般としては作況稍良と称せられてゐま
すが、西の方の湿田地帯などは仲々三割の増収でも利かないやうに
思はれます。

私もお蔭で昨秋からは余程よく、尤も只今でも時々喀血もあり殊に
咳が初まれば全身のたうつやうになって二時間半ぐらゐ続いたりし
ますが、その他の時は、弱く意気地ないながらも、どうやらあたり
前らしく書きものをしたり石灰工場の事務をやったりして居ります。
しかしもう只今ではどこへ顔を出す訳にもいかず殆んど社会からは
葬られた形です。それでも何でも生きてる間に昔の立願を一応段落
つけやうと毎日やっきとなってゐる所で我ながら浅間しい姿です。

十月は御凱旋の趣、新聞紙上にも発表ありましたが、そちらとして
もだんだん秋でもありませうし、どうかいろいろ心身ご堅固に祖国
の神々の護りを受けられ、世界戦史にもなかったといはれる此の度
の激しい御奉公を完成させられるやう祈りあげます。まづはお礼ま
で申し上げます。

-〔文語詩稿未定稿(024)〕----------------------------------
------------------------------------------------------------
(本文=下書稿3推敲後)
------------------------------------------------------------

     〔卑屈の友らをいきどほろしく〕

卑屈の友らをいきどほろしく
粘土地二片をはしりてよぎり
崖にて青草黄金なるを知り
のぼりてかれ草黄なるをふめば
白雪きららに落ち来るものか
一列赤赤ならべるひのき
ふたゝび卑屈の友らをおもひ
たかぶるおもひは雲にもまじへ
かの粘土地なるかの官庁に
灰鋳鉄のいかりをなげよ

------------------------------------------------------------
(下書稿3推敲前)
------------------------------------------------------------

卑屈の友らにいかりをいだき
かの粘土地をはしりてよぎり
崖にて青草黄金なるを知り
崖をのぼりてかれ草をふめば
雪きららかに落ち来りけり
一列赤赤ならべるひのき
ふたゝび卑屈の友らをおもひ
かの粘土地をかの崖にとり
灰鋳鉄のいかりをなげよ

------------------------------------------------------------
(下書稿2推敲後)
------------------------------------------------------------

なかばは風のこゝちして
ひとひらの粘土地を過ぎ
がけにて青草燃ゆるをおぼえ
がけをのぼりて枯草をふめば
いまきららかに落ち来る雪。

ひとつらひのきうち黝み
浮雲はるかに過ぎれども
かの卑屈なる朋党に
灰鋳鉄の憤りは去らず

------------------------------------------------------------
(下書稿2推敲前)
------------------------------------------------------------

灰鋳鉄のいかりをいだき
われひとひらの粘土地を過ぎ
がけの下にて青草の黄金なるを見
がけをのぼりてかれ草をふめば
雪きららかに落ち来りけり

あゝサイプレス一列黒くならべるを
きみをおもひておどる胸かな

------------------------------------------------------------
(下書稿1=「冬のスケッチ」第44葉4章)
------------------------------------------------------------

灰いろはがねのいかりをいだき
われひとひらの粘土地を過ぎ
がけの下にて青くさの黄金を見
がけをのぼりてかれくさをふめり
雪きららかに落ち来れり。

--〔後記〕--------------------------------------------------

 木曜日から入院しまして、検査なども終わり、あとは月曜日の手
術を待つだけです。初めてのことなので、大いにビビッているので
すが、麻酔をかけて眠っているうちに終わる、ということですので、
まずは「まな板の上のコイ」です。

 来週は手術後になりますが、はたしてどの程度回復しているか、
よくわかりません。起き上がれないときは配信をあきらめますので、
あらかじめご了承ください。

------------------------------------------------------------
-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=--=/=-=/=-=/
--通巻--944号---------- e-mail why@kenji.ne.jp--------------
--発行--渡辺--宏------- URL http://why.kenji.ne.jp/
------------------------------------------------------------
 購読者数970名です。ご購読ありがとうございます。
------------------------------------------------------------
私あてのメールのあて先は、
why@kenji.ne.jp
私のホームページ(宮沢賢治童話館、全詩篇など)は
http://why.kenji.ne.jp/ です。
バックナンバーもすべて、このページで読めます。
【まぐまぐ】
このメールマガジンは、インターネットの本屋さん「まぐまぐ」を
利用して発行しています。( http://www.mag2.com/ )
マガジンIDは10987です。
このメールマガジンの登録や解除は
http://why.kenji.ne.jp/ です。
=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=--=/=-=/=-=/