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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第937号--2017.02.04------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(73)1931年-9」「〔われらが書に順ひて〕」

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-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(73)1931年-9」
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 ようやく1931年の最終まで来ました。花巻に帰ってからは闘病生
活に入るわけですが、枕許の手帳に書きつけたりはできたようです。

 このとき書かれたのが、あまりにも有名になった「雨ニモマケズ」
です。この手帳は仮に「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれていますが、
賢治存命中は存在を知られておらず、死語遺品の中から出てきたと
いうことです。

 今ではみやげ物として「雨ニモマケズ手帳」の複製が売られてい
ます。

 「雨ニモマケズ」の書かれた頁には、11月3日という日付が書
かれていて、たぶんこの詩が書かれた日なのでしょう。

 しばらく前に「ヒドリ論争」というのがありまして、この詩の一
般には「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」として知られているとこ
ろが、手帳では「ヒドリ」となっていることを問題にする人が出て
きました。

 確かに「ヒドリ」と書かれていますので、私のサイトでは「手帳」
の記事として紹介しているところでは「ヒドリ」のままとし、詩稿
補遺の部分では「ヒデリ」と校訂して記載しています。

 この部分は「サムサノナツ」と対句になっている部分なので、意
味としては「日照り」しかあり得ない、というのが私の見解です。

 「サムサノナツ」=冷害、「ヒデリノトキ」=旱害です。賢治在
世の晩年は、東北地方では常にこのどちらかが起るという、不作続
きの時代でした。

 現在では冷害は品種改良と栽培技術の改善により、旱害はダムを
はじめとした灌漑設備の充実により、ほぼ克服されて、東北地方は
米の大生産地となりました。賢治生涯の念願は、ようやく実現した
のです。

 それから、「〔この夜半おどろきさめ〕」の方には10月20日
の日付があり、以前は「十月二十日」という題で知られていたこと
もあります。

 同居していた妹クニ夫婦と、その子、姪のフヂの一家が、賢治に
よい部屋を譲って、寒い部屋に移っていました。その様子が胸に迫
ります。

 こうして、何とか危篤状態を持ちこたえた賢治は、年を越すこと
ができました。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

「雨ニモマケズ」の手帳公開 生誕120年で宮沢賢治記念館
http://www.sankei.com/life/news/160819/lif1608190018-n1.html

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 詩人で童話作家の宮沢賢治(1896〜1933年)の生誕12
0年に合わせ、生まれ故郷岩手県花巻市の宮沢賢治記念館は19日、
「雨ニモマケズ」の詩が書き込まれた手帳を報道陣に公開した。2
0〜28日に特別展で一般公開する。この詩は、東日本大震災後に
人気が高まっており、所有者から他施設への貸し出しはあるが、同
館での展示は初めて。

 宮沢明裕上席主任学芸員は「一般に『雨ニモマケズ』が代表作と
思われがちだが、作品としてではなく、理想や希望を個人的に記し
たものだと分かる。ぜひ直接見て、生の賢治を感じてほしい」と話
している。

 手帳は縦13.1センチ、横7.5センチ。黒色の革で覆われ、
166ページにわたって作品の構想や宗教について記している。
「雨ニモマケズ」の詩は51〜60ページに書かれ、後に字句を修
正した痕跡もはっきりと残っている。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

2010年6月17日 入沢康夫『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』
http://www.ihatov.cc/blog/archives/2010/06/post_709.htm

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 入沢康夫著『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』宮沢賢治「雨ニモマ
ケズ」中の一語をめぐって』(書肆山田)という本を読みました。

 言うまでもなく入沢康夫氏は、『校本宮澤賢治全集』『新校本宮
澤賢治全集』編纂の中心を担った一人であり、氏の力によって賢治
の作品の姿やテクストが初めて明らかになった例も、たくさんあり
ます。

 その入沢氏が、このたび上のような本を上梓されました。その内
容と趣旨については、本書の「後記」において入沢氏自らが書いて
おられることを引用させていただくのが、最も明快でしょう。

  本書は、宮沢賢治が手帳に書き遺した「〔雨ニモマケズ〕」中
の「ヒドリ」という一語の取り扱いに関する拙文を集成したもので
ある。読み返せば少々《大人げない》文章というきらいもないでは
ないが、これも、「校本」「新校本」の編纂担当者としての《務め》
だったのだと、自らを納得させている。

  1989年の10月に、読売新聞全国版社会面のトップでセンセーシ
ョナルに報じられて以来、「〔雨ニモマケズ〕」の「ヒドリ・ヒデ
リ」問題がクローズアップされ、今日でも、まだその余燼は収まり
きってはいない。本書に収録したのは、「ヒドリとは、方言で《日
雇い仕事(の賃金)》のこと」という新説に対し、「ヒドリはヒデ
リの誤記に違いない」とする立場からの、この20年余りの、折に触
れての反論であり、解説である。

 《大人げない》などとは滅相もないことで、賢治が書いた一つの
文字・言葉をもおろそかにしない入沢氏らの厳格な姿勢が、『校本』
『新校本』の業績を成し遂げる根本にあったわけですし、また上の
文中にあるように、両全集の「編纂担当者としての《務め》」とし
て、校訂の子細を明らかにしなければならないという強い責任感が、
このたった一語(一文字)のために、一冊の本を世に出させたのだ
と言えるでしょう。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

--〔1931年-9〕----------------------------------------------
35歳(昭和六年)
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10月
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2日、鈴木東藏あて宮沢商会より「賢治東京にて、病気の為、三十
八度八分の高熱中帰宅目下治療中に有之候」といい、利府行石灰値
段は、松川渡25銭の契約の旨を通知している。9月28日付八幡
館賢治あて問合せのあった件である。

10日、本日付発行「詩芸術」2輯に発表の母木光「散文的ノオト」
で「岩手詩集」をとりあげ、賢治にも言及。

20日、「雨ニモマケズ手帳」は帰花後病床の手元に置かれてメモ
されていったと思われるが、この日付の明記された17頁より25
頁にかけ「〔この夜半おどろきさめ〕」の詩が書かれている。

24日、同じく「雨ニモマケズ手帳」29〜31頁に「〔聖女のさ
ましてちかづけるもの〕」を書く。

25日、同じく「雨ニモマケズ手帳」34頁に「たとへ三世の怨敵
なりとも亦斯の如き痛苦あらんをねがはじ」と書く。

28日、同じく「雨ニモマケズ手帳」37頁に「〔快楽もほしから
ず〕」を書く。

29日、「疾すでに治するに近し」と感じ、健康を得た場合の自戒
を「雨ニモマケズ手帳」41頁以下に書く。

10月末、花巻町大工町の八木源次郎あて手紙の下書き(書簡396)
があり、「私事先月末仙台水戸を工場の用にて巡歴致し東京着と共
に直ちに発熱致し流感より気管支炎肺炎と変じ約一ヶ月三十八度前
后の熱に苦しみ近日漸く恢復の兆相見え候へ共尚未だ起床に至らず」
といい、菊花愛好会「秋香会」展の手伝いもできず、裏庭の花壇を
見て開花の分は枯木も山の賑わいだから切って隅の方へ展示してほ
しいこと、その際「参考品高橋喜一郎」と仮名で出してほしいこと
をいう。秋香会は大正初年より八木のはじめた会で、八木は政次郎
の知人。

10月、草野心平、府下豊多摩郡淀橋町角筈に転居。屋台「いわき」
は新宿紀伊国屋書店裏、市電角筈終点近くに移る。このころ高村光
太郎と賢治、黄瀛へあて、寄せ書きを送る。賢治は病臥中にこれを
受け取り、たいそうよろこんだことを妹シゲが記憶している。

 そのころ、賢治から草野にあてて次のような手紙がきたらしい。

「……隣人は或いは五銭で、つかれた筋肉や神経を癒すでせうか。
それは工夫のしやうで、もっとうまく有効に、もっとふすくできな
いでせうか。よき電気ブドウ酒ありとせば、私こそ上手に合成いた
し得るものです。黒豆に煮汁と酒石酸及び枸酸、砂糖及び蜂蜜の適
量、葡萄エステル、右の混合物はほんものの葡萄酒と同じく疲労を
去り、栄養を加へるでせう。……」

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11月
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1日、鈴木東藏から容態の問い合わせがあり、家人代筆で返書(書
簡397)それによると「未ダ臥床中ニ候ヘ共病勢日々退却之模様ニ
候間快復ノ日モ遠カラズト被存候」とあり、やや快方に向ったこと
を示す。なお小岩井農場への200トン納入状況について問う。予
定どおり進んでいないためである。

3日、「〔雨ニモマケズ〕」を同手帳51〜59頁に書き、続けて
60頁に十界曼陀羅の中心部を書写する。

6日、「雨ニモマケズ手帳」67〜70頁に「疾ミテ食摂スルニ難
キトキノ文」を書く。なおこの日以後「雨ニモマケズ手帳」のメモ
には日付が付されていない。

27日、26日付鈴木東藏の見舞に対し、家人の代筆で答える(書
簡398)。前回と同じ賢治名であるが、多分に「宮沢商会」として
の実務的な文面である。

「御庇様にて日増軽快に候へ共寒さに向ひ候故尚自重罷在候 今后
又事業の方にも協カ申上度と存居り候 一層御自重願上候/尚小岩
井の方如何相成候哉 何卒一段落御付け被下候様偏に奉願上候」

11月、草野心平、この日詩誌「弩」を創刊。執筆者は逸見猶吉、
三野混沌と三人であった。賢治は文語詩を送ったが草野の意に添わ
ず、別稿を求められたがそれには応じなかった。謄写版刷。草野は
自分の作品が気に入らず、二、三部を残し、あとは捨てられた。こ
のころ、石川善助が草野家二階に同居。

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12月
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1日、「雨ニモマケズ手帳」77、78頁に「為菩提平賀ヤギ」と
して「南無妙法蓮華経」の題目七通りを記したのはこの日と考えら
れる。叔母ヤギは大正元年12月1日に没しており、この日が命日
にあたる。

3日、家人の代筆による鈴木東藏あて葉書(書簡400)で、約束の
小岩井農場へ10車送付の件のその後を問い合わせ、「病体は其後
順調に有之不日起床出来ることゝ存候」とある。

 なおこの件については工場側の小岩井あて発送が予定通りいかず、
やがて小岩井側の年末年始の休日が来、支払いは年内に行われなく
なった。それらを含めて工場側は日常経費の不自由もあり、共同経
営を望み、宮沢家側に翌年1月よりの出資を要望した。

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田河水泡「のらくろ二等卒」連載開始
岩手県立花巻中学校開校
初の国産技術による合成硫安生産
岩手県で低温・多雨、豪雨で洪水被害などがあり、県下凶作
清水トンネル開通
9月、満州事変始まる
宣統帝溥儀天津を脱出、関東州大連へ

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金田一京助「アイヌ叙事詩ユーカラの研究」
佐々木喜善「聴耳草紙」
草野心平「明日は天気だ」
中野重治「中野重治詩集」
永井荷風「つゆのあとさき」
サン・テクジュベリ「夜間飛行」
チェップリン監督・主演「街の灯」

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政次郎 57歳
イチ 54歳 
シゲ 30歳
清六 27歳
主計 28歳
クニ 24歳 5月、次女ヒロ出生
フヂ 2歳

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     〔この夜半おどろきさめ〕

この夜半おどろきさめ
耳をすまして西の階下を聴けば
あゝまたあの児が咳しては泣きまた咳しては泣いて居ります
その母のしづかに教へなだめる声は
合間合間に絶えずきこえます
あの室は寒い室でございます
昼は日が射さず
夜は風が床下から床板のすき間をくゞり
昭和三年の十二月私があの室で急性肺炎になりましたとき
新婚のあの子の父母は
私にこの日照る広いじぶんらの室を与へ
じぶんらはその暗い私の四月病んだ室へ入って行ったのです
そしてその二月あの子はあすこで生まれました
あの子は女の子にしては心強く
凡そ倒れたり落ちたりそんなことでは泣きませんでした
私が去年から病やうやく癒え
朝顔を作り菊を作れば
あの子もいっしょに水をやり
時には蕾ある枝もきったりいたしました
この九月の末私はふたゝび
東京で病み
向ふで骨にならうと覚悟してゐましたが
こたびも父母の情けに帰って来れば
あの子は門に立って笑って迎へ
また階子からお久しぶりでごあんすと声をたえだえ叫びました
あゝいま熱とあえぎのために
心をとゝのへるすべをしらず
それでもいつかの晩は
わがなぃもやと云ってねむってゐましたが
今夜はたゞたゞ咳き泣くばかりでございます
あゝ大梵天王こよひはしたなくも
こゝろみだれてあなたに訴へ奉ります
あの子は三つではございますが
直立して合掌し
法華の首題も唱へました
如何なる前世の非にもあれ
たゞかの病かの痛苦をば私にうつし賜はらんこと

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      〔聖女のさましてちかづけるもの〕

聖女のさましてちかづけるもの
たくらみすべてならずとて
いまわが像に釘うつとも
乞ひて弟子の礼とれる
いま名の故に足をもて
われに土をば送るとも
わがとり来しは
たゞひとすじのみちなれや

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     〔快楽もほしからず〕

快楽もほしからず
名もほしからず
いまはたゞ
下賤の癈躯を
法華経に奉りて
一塵をも点じ
許されては
父母の下僕となりて
其の億千の恩にも酬へ得ん
病苦必死のねがひ
この外になし

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     〔疾すでに治するに近し〕

疾すでに治するに近し
警むらくは再び貴重の
健康を得ん日
苟も之を
不徳の思想
目前の快楽
つまらぬ見掛け
先ず──を求めて以て──せん
といふ風の
自欺的なる行動
に寸毫も委するなく
厳に
 日課を定め
 法を先とし
 父母を次とし
 近縁を三とし
 農村を
 最后の目標として
只猛進せよ
利による友、
快楽を同じくする友
尽く之を遠離せよ

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   〔雨ニモマケズ〕

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

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     疾ミテ食摂スルニ難キトキノ文

コレハ諸仏ノオン舎利ナレバ
一粒ワガ身ニイタゞカバ
光明身ウチニ漲リテ
病カナラズ癒エナンニ
癒エナバ邪念マタナクテ
タゞ十方ノ諸菩薩ト
諸仏ニ報ジマツマント
サコソオロガミマツルナリ

-〔文語詩稿未定稿(017)〕----------------------------------
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(本文=下書稿推敲後)
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     〔われらが書に順ひて〕

われらがふみに順ひて
その三稜の壇に立ち
クラリネットとオボーもて
七たび青くひらめける
四連音符をつゞけ
あたり雨降るけしきにて
ひたすら吹けるそのときに
いつかわれらの前に立ち
かなしき川をうち流し
渦まく風をあげありし
かの逞しき肩もてる
黒き上着はそも誰なりし

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(下書稿推敲前)
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われらが云はれしごとく
その三稜の灰いろなせる壇に立ち
クラリネットとオボーもて
七たび青くひらめける
四連音符をつゞけて吹き
あたり雨降るけしきにて
ひたすら吹けるそのときに
いつかわれらの前に立ち
かなしき川をごうごう流し
また渦まき風をあげゐし
かの逞しき肩もてる
黒き上着はそも誰ぞ

--〔後記〕--------------------------------------------------

 「年譜」も1931年が終わるとあと2年分です。このところ、この
頃生まれの人の訃報をよく聞くようになりました。賢治の死後84
年、賢治と同時代を生きた人はこれからどんどん少なくなっていき
ます。

 1925年生まれの私の母は、この頃やっと小学生になったころです。
先日92歳になりましたがまだまだ元気で、このところ体調不良の私
としては、息子の方が先になるのはまずいと真剣に考えたりしてい
ます。

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