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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第936号--2017.01.28------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(72)1931年-8」「〔エレキに魚をとるのみか〕」

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-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(72)1931年-8」
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 今回は1931年の8回目、9月下旬の東京でのできごとです。一気
に年末まで…と思っていたのですが、東京から帰郷したところで力
尽きました。

 9月20日に東京に着き、その日のうちに発熱、結局東京では何
もできずに、27日の夜行で花巻に帰ることになります。

 このとき、二等寝台を手配したとありますが、二等というのは今
のグリーン車相当の高級車両です。(寝台車なのでA寝台相当)

 運賃は当時二等は三等の倍だったそうです。さすが宮沢政次郎氏
はお金を使い方を心得ていると思いますが、帰って来たときに賢治
はその二等寝台車ではなく、三等普通車のデッキから降りてきたと
いう話があります。

 いかにも賢治らしい話ですが、そんなことをしている場合ではな
くて、助かったのは運がよかったといえるくらいの状態でした。

 結局、この後2年間の闘病生活を送りますが、おそらくその間に
私たちの知る賢治の代表作が形を整えてきたのですから、2年間の
猶予は幸運であったと言うしかありません。

 21日の日付で父母と弟妹たちに「遺書」を書いています。書簡
の形式ということで全集では書簡に収録されていますので、ごらん
ください。父母には「お題目で私をお呼びだしください。」と言っ
ていて、法華経信仰は揺るぎなかったことをうかがわせます。

 とにかく、死を覚悟した状況から、父の配慮のおかげで生還し、
花巻に帰ってきたのです。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

石灰岩をトランクに抱いて上京したセールスマン 宮澤賢治
中西隆紀
http://www.kandagakkai.org/archives/article.php?id=000400

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

題名のない詩

「雨ニモマケズ」という賢治の有名なフレーズには題名がない。

 手帳に多くの走り書きとともにメモられていただけだから、これ
を詩といってもいいし、つぶやきといっても、決意を書き留めてお
いたのだといってもいい。この手帳は賢治の死後しばらくたってか
らトランクの小さなポケットから発見された。トランクは「ザック」
と書かれているから、おそらく帆布製で、中には原稿がぎっしり詰
まっていたろう。しかし、死後整理にあたった弟も、ポケットまで
は気がつかなかったという。

 このトランクは東京の神田で買ったもので、郷里から上京の際持
ち歩いたものだ。通常は衣類など身の回りのものから法華経の経典
やらノート・書類・原稿のたぐいが詰め込まれていたと思われるが、
最後の上京となったこの日の中身はえらく重そうであった。

大都郊外の煙=神田

 昭和6年、賢治35歳。9月19日、まず上京のため仙台に宿をとる。
隣室の客がうるさくて眠れない。翌20日朝4時発上野行の列車で東
京着、午後神田駿河台の旅人宿「八幡館」に旅装を解いた。しかし
ながら、どうも体調がすぐれず、翌21日は39度の高熱でどうにも身
動きができず、挙げ句旅館では医者を呼ぶは東京の知人に電話する
はで大変であったという。賢治の体調はこの頃かなりの変調をきた
していたらしく、騒ぎが収まり独りになると机に向かって父母宛の
遺書をしたためた。手帳にも次のような走り書きがある。
  
 昭和六年九月廿日
 再ビ
 東京ニテ発熱

 大都郊外ノ
 煙ニマギレントネガイ
 マタ北上峡野ノ松林ニ
 朽チ埋レンコトヲオモヒシモ
 父母共ニ許サズ
 廃躯ニ薬ヲ仰ギ
 熱脳ニアヘギテ
 唯是レ
 父母ノ意
 僅カニ充タンヲ
 翼フ

トランクの中身

 この時彼は神田の旅人宿で果てるかもしれないと思った。しかし
父の厳命に従い寝台車で再び花巻へ帰っていく。以後、8年9月21日
に亡くなるまで彼が上京することはなかった。

 それにしてもこの上京は何のためだったのか。その鍵は宿の人も
気付かなかったトランクの中に隠されていた。何と40キロもあるそ
の中身は石灰岩だったのである。

 彼はそれを花巻から引きずってきたのだが、幼い頃彼が「石コ賢
さん」とあだ名されたことと無縁ではない。当時、中学生だった彼
の部屋は鉱物の標本であふれていたという。星を眺めるのと同じよ
うに顕微鏡やらハンマーが友達であった。野や山へ出掛けては化石
や鉱物を採集していたからだ。

 その彼の今回の上京は、砕石工場のセールスマンとしてであり、
トランクの中には、石灰岩とセメントで大理石風に見立てた化粧タ
イル見本がいったいいくつ詰められていたのだろうか。冷たい石の
地球のように重い塊を抱えてたどり着いた先は、結果、駿河台の病
床であったのだ。

宮澤賢治・東京篇

「八幡館」を昭和8年の『東京市商工名鑑』で調べると、宿屋でも
なく旅館でもなく旅人宿となっており、佐藤クラ経営、神田南甲賀
町12とある。今の主婦の友の裏、ミズノ本社の向かいであった。

 賢治が初めて足下に東京の土を感じたのは誰しもが経験する修学
旅行の帰りであった。大正5年、関西旅行の帰途、伊勢、箱根、東
京を見物している。賢治20歳。

 神保町少しばかりのかけひきに
 やや湿りある朝日は降れり

 古書店の親父と少し話を交わしたらしい。

 大正7年末から8年3月初めまでは、当時日本女子大生だった妹ト
シを看病するため母と上京、雑司ヶ谷の雲台館に滞在。上野図書館
や日蓮宗系国柱会を訪れている。この滞在中に神田で例のトランク
を購入したらしい。

 大正10年、父と宗教上のいさかいから花巻を出奔。本郷菊坂に下
宿、赤門前で校正係などをしながら国柱会の奉仕活動をする。8月
トシ病気の報を聞き花巻へ。

商才なき石売り人

 大正12年1月、本郷に弟清六を訪ね、トランクに詰めた童話原稿
を出版社へ持参するよう依頼する。

 大正15年12月ほぼ1カ月の滞在は、神田の上州屋(錦町3-19・現
錦城学園裏)で、ここを拠点としてタイプライター・エスペラント
語・オルガン・チェロを習い、築地小劇場・歌舞伎座など精力的に
歩き回っている。

 昭和3年は上京後、大島へ渡る。

 そして死の2年間、最後の上京となったのが昭和6年の神田駿河台、
たった9日間の滞在であった。今までで最も重いトランクの中身は、
もはや原稿でもなければチェロの譜面でもない。商才なき賢治が石
を売り歩く、その製品の販売先名簿に手をつける前に、赤いルビー
のような、南国のエメラルドのような熱にやられて倒れてしまった
のである。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

--〔1931年-8〕----------------------------------------------
35歳(昭和六年)
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9月
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19日、朝6時32分発一番の東北本線上り204列車で出発。9
時31分小牛田に下車。小牛田肥料会社を訪ね、麦作用石灰の売込
みを行う。来月中旬までに8トンくらいは注文のあること、また齋
藤報恩農業館ふ工藤文太郎館長を訪ねると、宮城県では炭酸石灰の
搗粉奨励の意向があり、知事から直接館長へ具体的方法の相談があ
って、明後日までに答申するという、売込には絶好のチャンスに行
ったわけで注文の見込みが充分あり、はなはだ幸先がよいこと、ま
た館長は翌日米検査員30名へ講話の予定で、これまた近日中に効
果を示すだろうなどのよろこびを正午小牛田駅より工場あて連絡し
(書簡301)、13時45分発の上り130列車で仙台へ向う。

 仙台で宮城県庁農務課に関口三郎、長岡伊勢松を訪ねるが関口は
出張中、ふたりの宿所を訪問して「敬意のみ表し置」いたと伝える
(書簡302)。

 そのあと東一番丁の古本屋文化堂で1910年9月いっしょに岩
手登山した加藤謙次郎が偶然来て、家に案内されもてなされる。加
藤の記述によると、「石灰粉の需要は時期的に不同性があるので、
閑期には石粉を配合したら化粧煉瓦を造って売る計画をたて、その
試作品を携えて名古屋方面まで売込みに行ってくるといい、胸が悪
い様子は全然感じられなかった。試作見本を見せられたがそれらは
角礫砕砂で、色彩大理石の屑や古生層特有の濃い赤褐色や青紫色の
輝緑凝灰岩、蛇紋岩などの砕屑をセメントで固めたタイルのような
物であった。表面は磨かず、古典的な渋味もあり洋風建築の外装に
張りつければ面白そうで、賢治は色味に応じて北欧風とかドイツ風
などと説明し『これなんか教会にいいじゃごわせんか』などとひと
りでよろこんでいた」という。

 加藤はその夜遅くまで話したというが、森佐一の記述には、仙台
へ出て一泊したとき、「午前二時ごろまで飲んでさわいでいた連中
があって眠れず」にいたという。加藤家を辞して、仙台出張時の常
宿へ泊まったかと思われる。

 この日の出費控は「兄妹像手帳」196頁に書きとめられている。
「俥賃 30 汽車賃 52 見本運賃客車便4コ 350 小牛田俥 30
 自動車 10 赤帽 10 仙台赤帽 10 〃俥 30 電車 10 理
髪 50 サロメチール 50」

 これによると見本は4個を客車便で送り、大かばんを手にしてい
たこと、仙台で床屋へ行ったこと、サロメチールを必要としていた
ことなどが考えられる。

20日、「兄妹像手帳」195頁のこの日の出費控によれば宿賃2
円20銭、茶代50銭を払い、人力車にのり30銭払って仙台駅へ
着いたと推定される。森佐一の記述によると「4時仙台発の列車に
乗った。ぐっすり眠っていると、何だか未が寒いと思って目がさめ
た。するとあたまも痛いのに気がついた。向うに乗った人が、汽車
の窓をあけたまま降りてしまって、風が吹き込んでいたのである。」

 この時の列車は常磐線であろう。のち10月末と推定される八木
源次郎あて書簡には「私事先月末仙台水戸を工場の用にて巡歴致し
東京着と共に直ちに発熱」(書簡396)とあり、一方鈴木東藏あて
(書簡395)には「当地着廿日夜烈しく発熱致し」とある。

 20日出費メモに「弁当二回50銭、アイスクリーム20銭」と
ある。

 つづくメモにはは「赤帽 20 自動車 100 茶代 465 卵 30
薬 25 肌着 60」とあり、上野駅から重い荷物を円タクにつみま
っすぐに神田駿河台の八幡館へ到ったと推定する。

 次のような深沢紅子の談話があり、荷物を八幡館へ置いてから、
市外吉祥寺に菊地武雄を訪ねたと推察される。

「吉祥寺の富士見通りに菊地さんと隣り合わせに家を建てたのは昭
和5年で、二月にはそこへ移りました。昭和六年の夏ころ、宮沢さ
んが菊地さんを訪ねてきて留守だったので、うちへこられ、菊地さ
んに渡してほしいと包みをことづかりました。宮沢さんに私が会っ
たのは初めてですが、噂はしじゅう聞いていましたし、宮沢さんも
菊地さんの隣は深沢だとご承知でした。お上りくださいといっても
ここで結構ですと玄関に立ったままでした。たいそう暑かったせい
か、水をくださいということでコップで水をあげました。夜菊地さ
んが来て包みをあけましたら、浮世絵の和本とレコードでした。」

 八幡館で働いていた新藤ふさの話によると、「その人、たいへん
な熱で、汗をだらだらかきましたっけね。何度も寝間着をとりかえ
ましたよ。」云々とあり、かなり苦しい状態であった。20日夜は
烈しく発熱したのである。

21日、鈴木東藏あてに「昨日午后到着」の連絡を出し(書簡392)、
「早速諸店巡訪致し候へ共未だに確たる見込みに接せず候。何分の
不景気には候へ共、充分堅実に注文を求め申すべく茲三四日の成績
を何卒お待ち願上候」という。

 工場側は今回の上京売込みに社運を託しており、賢治も窮状を十
分承知して物心両面に重荷を負っての開拓なので、着京たちまち発
熱ダウンとはしらせかねたと思われる。そしていよいよ運命の刻が
来たと考えて父母あて異書、弟妹たちあて告別のことばを書く(書
簡393、394)

 菊地武雄の談話によると、旅館から勤務先の四谷第六小学校へ電
話があり、「宮沢さんが風邪で熱を出してい寝ているのできてくだ
さい」ということであった。午後三時過ぎ学校を出、市電で神保町
下車、旅館につく。床の間もない殺風景な六畳間にぬれ手ぬぐいを
額にのせ、赤い顔をして寝ており、菊地を見るとすぐ手ぬぐいをと
り微笑した。ひどい熱だというので「花巻のおうちへ報せよう」と
いうと強い口調で「いやそれは困ります。絶対帰りません。報せな
いでください。」というので菊地はあっけにとられた。

23日、鈴木東藏からの書簡を受けとったと推定。用件は、大阪ま
で不可能の場合は名古屋まで出張してほしいこと、西ヶ原農事試験
場長を来月招待したい希望あり訪問してほしいこと、不況打開策は
この壁材料にあり目下盛んに山より運搬中であること、である。

25日、工場は三田農場へ50トン発送の運賃に差し支え、政次郎
へ120円の融通を依頼、電報為替で受けとる。

26日、八幡館より鈴木東藏あて葉書中に、医師の往診のあったこ
とが見られる。医師から帰花して手当てを受けるように勧められた。

27日、医師のすすめも一因と思えるが、昼ごろ花巻の父へ電話す
る。小倉豊文の記述によると、「もう私も終りと思いますので最後
にお父さんの御声を…」という言葉であった。

 驚いた父は帰花するよう強く指示するとともに小林六太郎に電話
し、寝台車をとって帰花させてくれるよう取り計らいを頼んだ。

 小林六太郎は手際よく始末し、その夜の二等寝台をとり、乗車さ
せ、見送ったのである。八幡館より鈴木東藏あて前記の葉書には、
「9月27日の夜行10時55分にて御帰国遊されました」とある。

 上野駅から小林は花巻へあて「ヤコウニノツタアシタ10ジツク」
の電報を打った。

28日、朝花巻駅着。迎えに出た弟清六によると「青じろい顔では
あったがちゃんと洋服にネクタイをつけ、実は容易ならぬ重態なの
に苦しくないふりをして、汽車から下りて、家につくやいなや病床
に臥してしまった」のであるが、汽車から下りるとき寝台車でなく
三等車デッキから下りたという。

 菊地武雄が八幡館に電話したのはこの日と推定される。「宮沢さ
んはお帰りになりました」といわれ、よくなったものと一安心した
という。

 本日付鈴木東藏より八幡館気付で宮城県利府農会から10トン注
文のあったこと、その価格がぽくらか知りたいこと、小岩井農場か
ら来月中旬より200トン発送するよう注文のあったことなどをい
い送ったが返事がないので、30日八幡館へ問い合わせ、10月1
日付返書により27日離京したことを知る。

 賢治の病室は、本宅の裏手、台所をへだてた別棟二階屋の二階表
の部屋である。病室には旧式のストーブを置き、細かく削った薪を
母イチがつぎつぎと投げ入れて湯気をたたせ、屏風で出入りの風を
さえぎった。後、次の間、即ち奥の間に移る。

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田河水泡「のらくろ二等卒」連載開始
岩手県立花巻中学校開校
初の国産技術による合成硫安生産
岩手県で低温・多雨、豪雨で洪水被害などがあり、県下凶作
清水トンネル開通
9月、満州事変始まる
宣統帝溥儀天津を脱出、関東州大連へ

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金田一京助「アイヌ叙事詩ユーカラの研究」
佐々木喜善「聴耳草紙」
草野心平「明日は天気だ」
中野重治「中野重治詩集」
永井荷風「つゆのあとさき」
サン・テクジュベリ「夜間飛行」
チェップリン監督・主演「街の灯」

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政次郎 57歳
イチ 54歳 
シゲ 30歳
清六 27歳
主計 28歳
クニ 24歳 5月、次女ヒロ出生
フヂ 2歳

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[393] 1931年9月21日 宮澤政次郎・イチあて 封書

(表)父上様 母上様

この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞ
きながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりまし
た。今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次
の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。

どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしくださ
い。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。

  九月廿一日

父上様
母上様

賢治

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[394](1931年9月21日)宮澤清六・岩田シゲ・宮澤主計・クニあ
て 封書

(表)清六様

たうたう一生何ひとつお役に立てずご心配ご迷惑ばかり掛けてしま
ひました。

どうかこの我儘者をお赦しください。

賢治

  清六様
  しげ様
  主計様
  くに様

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[395](1931年9月25日または26日)鈴木東藏あて 封書(封筒ナ
シ)

拝啓 一向に御便りも申上ずお待ち兼ねの事と存候 実は申すも恥
しき次第乍ら当地着廿日夜烈しく発熱致し今日今日と思ひて三十九
度を最高に三十七度四分を最低とし八度台の熱も三日にて屡々昏迷
致し候へ共心配を掛け度くなき為家へも報ぜず貴方へも申し上げず
居り只只体温器を相手にこの数日を送りし次第に有之今后の経過は
一寸予期付き難く候へ共当地には友人も有之候間数日中稍々熱納ま
るを待ちてどこかのあばらやにてもはいり運を天に任せて結果を見
るべく恢復さへ致さぱ必ず外交も致し或は易にありし様十一月頃は
多分の注文を得るやも知れず小生のことはどうせ幾度死したる身体
に候間これ以上のご心配はご無用に、且つ決して宅へはご報無之様
願上候次に病中乍ら三田氏の石灰若し工場にて不足の際は花巻のも
の俵も腐り初め来秦ともならぱ全部詰め替へを要するやとも思はれ
候間価格は兎に角私方弟にお談しありて右におさし向け願はる間敷
候や伺上候

  鈴木様

-〔文語詩稿未定稿(016)〕----------------------------------
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(本文=下書稿2推敲後)
------------------------------------------------------------

     〔エレキに魚をとるのみか〕

エレキに魚をとるのみか
鳥さへ犯すしれをのこ
捕らでやまんと駐在の
戸田巡査こそいかめしき

まこと楊に磁の乗りて
小鳥は鉄のたぐひかや
ひとむれさっと落ち入りて
しらむ梢ぞあやしけれ

------------------------------------------------------------
(下書稿2推敲前)
------------------------------------------------------------

エレキに魚をとるのみか
あまつみそらを翔りゆく
鳥さへ犯すしれをのこ
捕らでやまんと駐在の
戸田巡査こそいかめしき

まこと楊に磁の乗りて
もずに鉄のたぐひかや
ひとむれさっと落ち入りて
しらむ梢ぞあやしけれ

------------------------------------------------------------
(下書稿1推敲後2)
------------------------------------------------------------

     楊林

黒衣に赤き鼻なして
しげに唾はく判事さばきて
いきどほろしくわが行けば
みづうみ淡くたゝえたり

一むら立てるはこやなぎ
幹はかぼそく葉は堅き
風が送れる偏光に
しらしらしらといらだてり

判事さばきてはたと立ちどまり
なれかの状を知れるやと
いと権柄のさまなして
やなぎのうれを指させり

エレキを用ひ鳥とれる
しれのをのこら出で来ぬと
黒衣に赤き鼻なせる
わがさばきては唾はけり

水素の湖に風起り
やなぎはみだれ交錯し
また明滅と乱転の
眼もくらくゆすれたり

鳥うちなかぬそのことの
エレキ企めるしるしぞと
ふたゝび唾をうちはきて
わがさばきては眉寄せぬ

ふりさけみればその楊
天末よりの側圧に
その身斜めに立ちけるは
鳥はいよよにもだしゐき

まこと楊に磁のありて
小鳥は鉄の類かや
いとかしましくなきわたり
そら翔けぬくる一群の
にはかにさっと引かされて
楊の中に落ちいれば
楊は白くかはりけり

------------------------------------------------------------
(下書稿1推敲後1)
------------------------------------------------------------

     楊林

黒衣に赤き鼻なして
しきりに唾きするひとと
いきどほろしくわが行けば
みづうみ淡くたゝえたり

一むら立てるはこやなぎ
幹はかぼそく葉はにぶき
風が送れる偏光に
その葉をゆすり迎えんへたり

判事さばきてつとに立ちどまり
なれかの鳥を知るらんと
いと権柄のさまなして
そらのかなたを指させり

エレキを用ひ鳥とれる
しれのをのこら出で来ぬと
黒衣に赤き鼻なせる
わがさばきては唾はけり

水素の湖に風起り
やなぎはみだれ交錯し
また明滅と乱転の
眼もくらくゆすれたり

鳥うちなかぬそのことの
エレキ企めるしるしぞと
ふたゝび唾をうちはきて
わがさばきては眉寄せぬ

ふりさけみればその楊
天末よりの側圧に
その身斜めに立ちけるは
鳥はいよよにもだしけり

まことに楊は磁石にて
小鳥は鉄に成りしらん
そら翔けぬくる一群を
楊ぞ引きて落しけり

------------------------------------------------------------
(下書稿1推敲前)
------------------------------------------------------------

     楊林

いきどほろしくわが行けば
みづうみ軽くたゝえたり

一むら立てるはこやなぎ
天末よりの側圧は
かぼそき幹をうちゆがめ
風がともせる偏光は
その葉を鈍きブリキと化せり

いきどほろしくわが行けば
天をすぎたる化鳥あり
さびしく立てるはこやなぎ
いま明滅し交錯し
ひかりゆすりて乱転し
喪神すでにそこにあり
眼もくらくむらがれり

     愛と憎の二相系
     氷と火との交互流

いきどほろしくわが行けば
水素の湖に波だてり

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※下書稿2は下書稿1の裏面。この上部に以下のメモがある。

   童話にうつす
毒もみのすきな署長さん
   毒もみ
    秋となる
  楊と鳥となる

--〔後記〕--------------------------------------------------

 このところずっと咳が止まらず、とうとう医者に行ったのですが、
今度は薬が効きすぎて、朦朧としています。誤字脱字があればご容
赦を(っていつものことか)。

 一年で一番寒い頃ですので当たり前なのですが、今秋は和歌山で
も積雪3センチ!。もちろん私は一歩も家を出ませんでした。

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