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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第925号--2016.11.12------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(61)1930年-1」「〔しののめ春の鴇の火を〕」

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-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(61)1930年-1」
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 今回から1930年に入ります。年譜の記事はやや多くなってきます
が、賢治の生活の方は相変わらずの闘病生活です。

 ようやく手紙を書いたりはできるようになり、「療りました」な
どと書いていますが、「四月はきっと外へも出られます」と言って
いるとおり、春までは家で寝ていたようです。

 今回は三月までですが、実際に四月になると、花を植えたりして、
起き上がれるようにはなったようです。次回からしばらく、そうい
う記事が多くなります。

 前年に東北砕石工場の鈴木東藏が訪ねて来ているので、すぐにそ
っちの活動が始まったように思っていましたが、賢治が外を出歩け
るようになるのは、まだ一年先だったようです。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

312 花巻温泉の花壇はどこに
http://blog.goo.ne.jp/suzukikeimori/e/21173e543c4dedce3ed81a459eeeb7c1

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

2.当時の花巻温泉鳥瞰

 さてこの絵図は『花巻温泉遊園図絵』から抜粋しものであり、こ
の絵図は大正15年に「株式會社花巻温泉」が発行したもののようだ。 

 中央やや左寄りに見える白い部分は第二スキー場である。以前
”花巻温泉スキー場”で『創業当時にスキー場があったか否かは定
かでないが』と書いたが、これで花巻温泉にはほぼ開設当初からス
キー場(それも二つの第一、第二の)があったことが判った。なぜな
ら、花巻温泉が開かれ始めたのは大正12年で、この絵図が発行され
たのその直後の15年だからである。

 ここで気になるのが大正15年発行の『花巻温泉遊園地図絵』には
あった堂ヶ沢山の斜面の第二スキー場(図の楕円形状の白い部分)が、
昭和6年に発行したと思われる『花巻温泉案内』の絵図の方には見え
ないことである。こちらにはその場所に植物園が描かれている。

 そこで、パンフレット裏の「花巻温泉御案内」を見てみると次の
ように案内されている。
 
【花壇】千三百餘坪より成る南斜花壇及びダリヤ花壇と別荘地に點
々數ケの花壇あり春夏秋の観賞盡きず。

とある。

 ということは、昭和6年当時には第二スキー場は植物園に変わっ
ており、そこに南斜花壇とダリヤ花壇があったということか。いま
まで南斜花壇が花巻温泉にあったということは聞いていたが、「ダ
リヤ花壇」があったなんて知らなかった。なおおそらく次の設計図
がこの南斜花壇の設計図だと思う。

 ならば、同じく花巻温泉に賢治が設計したと聞くあの「日時計花
壇」等はどこにあったのだろうか。

 そこで、かつてイーハトーブ館で行われた企画展『宮沢賢治と温
泉展』(2006年6月〜7年2月)のパンフレットを見直してみた。

 するとその中には「花巻温泉の土壌改良・植樹指導」及び「ラン
ドスケープデザインとしての花壇設計」という節があり、それぞれ
次のようなことが書かれていた。

 1924年(大正13)4月、花巻農学校寄宿生を率いて花巻温泉大通
りに桜の並木を植樹したのを皮切りに、推定1926年(大正15)春の
対称花壇・日時計花壇設計、推定同年土壌改良・植樹指導、1927年
(昭和2)春の南斜花壇設計等、賢治は花巻温泉の「装景」に参加
した。

 それまでの受動的な温泉体験からの飛躍。賢治は、地質土性調査
の知見や農村改革の構想に基づきながら、自ら新たな〈リゾート〉
を設計する行動に出たのだ。いいかえれば、イーハトーブ像の展開
や武者小路やトルストイなどのユートピア思想ばかりでなく、大正
から昭和初期にかけての全国的な観光ブームや、観光地・温泉地・
遊園地の開発ないし整備が存していたということである。

 賢治は造園を高度な芸術と考えていたが、賢治花壇の意義を、開
発地から切り離して論じるべきではない。羅須地人協会、花巻共立
病院、花巻温泉――、彼が大規模な花壇を実現した場所は、新設さ
れたばかりの公共福祉施設であり、癒しの場である。…(略)…

 しかも、賢治は周辺環境の潜在力を読み取り、それとの相関にお
いて花壇を設計することで、風景全体を再設計していたといえる。
…(略)…

 貸別荘間の矩形の平地「小遊園」につくられたこれらの花壇のデ
ザインが幾何学的・対称的なのに対し、1927年(昭和2)春に山裾
の緩斜面(第二スキー場)につくられた南斜花壇のデザインは、蛇
行する遊歩道を主要要素とし、非幾何学的・非対称的・有機的であ
る。…(略)…
<『宮沢賢治と温泉展』(2006年6月〜7年2月)より>

 ということは、日時計花壇や対称花壇は貸別荘の間に造成された
ということになる。たしかに、『花巻温泉案内』パンフレットには
《8 貸別荘》貸別荘間には、花壇らしきものがあるようにも見える
が、はっきりしない。

 そこで、『目で見る花巻・北上・和賀・稗貫の100年』を捲って
みたならば「花巻温泉全景」の写真があったので、その写真から
《9 貸別荘間の花壇らしき場所》を抜き出してみた。

 一方、たしか『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山書房)の中に賢治の
設計図があったはずなので探してみたならばありましたありました
《10 花壇設計図》

 写真と設計図を見比べてみると、日時計花壇は写真の中央にある
ものであったに違いない。
 またこちらの《11 花壇設計図》と絵図そして写真を見比べてみ
るとこちらは対称花壇の方で、おそらくそれらの場所はそれぞれ下
図のように推定できる。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

--〔1930年-1〕----------------------------------------------
34歳(昭和五年)
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1月
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1日、花巻温泉遊園地事務所の富手一へき年賀状(書簡253)で、
「お蔭で療りました」という。九戸郡種市小学校の照井謹二郎あて
年賀状(書簡253a)でも、「お蔭ですっかり療りました」という。

26日、弘前歩兵第31連隊第九中隊第二班に入営した菊地信一へ
の返書(書簡254)

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2月
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1日、草野心平、本日付発行の「文芸月刊」創刊号のアンケート
「活躍を期待する新人は誰か?」に「宮沢賢治──詩集『春と修羅』
は日本詩の驚異、世界の傑作です。」と答える。

9日、上閉伊郡上郷小学校の高橋(のち沢里)武治あて葉書(書簡
255)「わたくしもすっかり療って仕事してゐます」

日付不明、森佐一が前年1月結婚した夫人タミとともに見舞いにく
る。「浮世絵をもらったこと」から抄記すると、次のようである。

「弟の清六さんの経営する店は、大きな金物屋だった。向って左の
横を通って中庭のようなところに出て、そこに入口がある常居に招
じ入れられてお父さんにおじぎをした。」

「お母さんが裏二階へ案内した。裏二階の下は、すのこを渡ったり
したが、暗くて何があるか、しばらくそこに立っていないと、物も
見えてこない感じであった。」

「階段をあがろうとしたとき途中で大きな楽器が目に入った。目を
とめて見ると「セロ」であった。二階にあがると、そこはまた明る
かった。」

「この前お見舞いに来たときは、(中略)ハアハアといきをつくよ
うな、ほんとうに病人の感じだったが、こんどはもう半ば回復して
療養中の人いう風であった。」

「賢治は寝たまま私たちを見て、目を細くしてニコニコと嬉しそう
に笑った。」

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3月
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4日、森佐一への見舞と土産の礼状。(書簡257)

6日、花巻温泉照井写真館勤務の高橋忠治(武治の兄)への病気見
舞の礼状。(書簡257a)半日は起き、半日寝る程度に回復し、体重
11貫と知らせる。高橋には後、温泉での菊花(〜ダリヤ)展で写
真をとってもらう。(書簡286)

10日、下根子の伊藤忠一への返信(恣意貫258)中に、四月はき
っと外へ出られるとある。

30日、弘前歩兵第31連隊第九中隊の菊地信一への返書(書簡259)。

日付不明、「銀行日誌手帳」に注文予定の種苗目録や苗床プランを
記す。

 なお、4月1日より6月15日までの天候、、花・野菜の播種、
移植、定植、収穫の記録はこの手帳の記述をもとに整理したもので
ある。

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1月、金輸出解禁、一般物価大暴落、昭和恐慌
   ロンドン軍縮会議開会
2月、共産党員大検挙
10月、第3回国勢調査(内地人工6千4百万人)
    台湾で霧社事件おこる
11月、浜口雄幸首相、東京駅で狙撃され重傷
    静岡、伊豆地方大地震

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ファーブル「昆虫記」日本語訳刊行開始
アメリカのローエル天文台、冥王星を発見
金子みすゞ没(26歳)
内村鑑三没(69歳)
田山花袋没(58歳)
林芙美子「放浪記」
ランボー「地獄の季節」(小林秀雄訳)
堀辰雄「聖家族」
三好達治「測量船」

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政次郎 56歳 7月、暁烏敏来花
イチ 53歳 
シゲ 29歳 7月19日、三女杉子出生
清六 26歳 10月、教育召集のため三週間、弘前歩兵第31連
隊第一大隊小隊長として入営。
主計 27歳
クニ 23歳
フヂ 1歳

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[253] 1930年1月1日 冨手一あて 葉書

(表)花巻温泉遊園地事務所内 富手一様

謹賀新年

 お蔭で療りました、お序でお目にかゝりたいですが。

昭和五年一月一日       花巻町

宮沢賢治
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[254](1930年1月26日)菊池信一あて 封書

(表)弘前歩兵第卅一聯隊第九中隊第二班 菊池信一様 平安
(裏)岩手県花巻町 宮沢賢治(封印)〆

忙がしいなかからお手紙をまことにありがたう。どうかいろいろ気
を散らさずに一生けん命やってください。

こゝまでが順調だったのでほんたうに安心してゐます。寒さもまづ
これからは下り坂でせうが、それにつけてもおからだを大切にねが
ひます。お発ちの日は電報をあげやうかとも思ひましたが考へ直し
てやめました。

南無妙法蓮華経と唱へることはいかにも古くさく迷信らしく見えま
すがいくら考へても調べてもさうではありません。

どうにも行き道がなくなったら一心に念じ或はお唱ひなさい。こっ
ちは私の肥料設計よりは何億倍たしかです。

軍陣の申によく怖畏を去り怨敵悉く退散するのこれが呪文にもなり
あらゆる生物のまことの幸福をねがふ祈りのことばともなります。

いまごろ身掛けでいふなら私ぐらゐの年でこんなことは云ひません。
たゞ道はあくまでも道でありほんたうはどこまでも本統ですから思
ひ切ってあなたへも申しあげたのです。私もう癒りまして起きて居
ります。早くご丈夫でおかへりなさい。

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[255](1930年2月9日)澤里武治あて 葉書

(表)上閉伊郡 上郷高尋小学校内 高橋武治様
   九日 花巻町豊沢町 宮沢賢治

寒さもも少しですが変りはありませんか。一月の休みには見えるか
と思ってオルガンの本上げないでゐましたが三月は来れますか。わ
たくしすっかり療って仕事してゐます。命を一つ拾ったやうな訳で
す。無理をなさらないやうにして下さい。もし三月来られるなら栗
の木にっいたやどりぎを二三枝とってきてくれませんか。近くにあ
ったら。

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[257] 1930年3月4日 森佐一あて 封書

(表)盛岡市新穀町一四 森佐一様
(裏)三月四日 花巻町豊沢町 宮沢賢治(封印)〆

先日はお出でくだすってまことにありがたうございました。結構な
お土産までいたゞいて何とも済みません。おうちの皆さまにもどう
かよろしくお伝ひねがひます。またその節ごいっしょのお方はお妹
さんではなかったし伺はうと思ひながらたうたう云ひそびれてしま
ひましたが、小原忠君があなたから伺って来たといふ事など考へ合
せてあなたがこんどご結婚をなすった方だと思ひますがさうでなか
ったらどうぞ悪しからず、さうでしたら改めてのご挨拶も変ですが、
まことにおめでたう存じます。そちら様へも今后よろしくとお伝へ
ねがひあげます。

ご来訪以来わたくしも気分大へん明るくなり昨日も今日も半日づつ
起きて今度こそはとわざと風に吹かれて見たりして居ります。

 まづはお礼ながら申しあげます。

   昭和五年三月四日

宮沢賢治

 森佐一様
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[257a]  1930年3月6日 高橋忠治あて 封書

(表)花巻温泉遊園地 照井写真館内 高橋忠治様
(裏)花巻町豊沢町 宮沢賢治 (封印)ナシ

お手紙まことに嬉しく拝見しました。

昨年はまたわざわざお見舞下すって何とも有り難う存じます。お蔭
でいまはすっかりよく体温も三十七度以下脈も七十五以下になり半
日ぐらゐづつは起きてゐます。たゞ目方が十一貫しかないやうな訳
でそれもだんだん恢復するかと思ひます。まったくこの度はみなさ
んのお蔭で命を拾ったやうな次第です。

たゞいまのお仕事兼々いかにもご適才と思ひます。いろいろご動静
なども会ふ人に尋ねたりしてゐました。どうか一つ立派に仕上げて
下さい。共立の連中に対する意地にも。次に昨年から一つお頼みし
たいと思ってゐることがありますがやはり写真の方です。ご承知で
せうが当地の菊の会の秋香会が今年からそちらの方の方々三十人ば
かり加はり大へん大きくなりました。その賛助会員に女学校の中井
さんや画家の高橋さんなど入ってゐます。そこであなたにも一つは
いってすけていたゞきたいといふのは展覧会のとき写真を四五枚と
って実費で頒けていたゞきたいといふのです。勿論会費はありませ
んしさりとてお礼もできませんでせうがご損は決して掛けません。
もしご承知でしたら私から云って来たが賛助会員入会の件承知の旨
 東公園下蚕業取締所高橋広治氏まで葉書一枚ねがひます。尤もさ
つ影はそちらの遊園地ででせう。もし又館主とのご都合などいけま
せんでしたらご返事はいりません。あとで気の向いてご都合いゝと
きまたおねがひいたします。

まづはご返事ながら勝手なおねがひまでいたしました。おからだ大
切に。

  三月六日

宮沢賢治

高橋忠治様

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[258](1930年3月10日) 伊藤忠一あて 封書

   花巻町下根子 伊藤忠一様
   三月十日 豊沢町

お手紙拝見いたしました。

ご元気のおやうすで実に安心いたしました。無理をしないで着々進
んで行かれることをどんなに祈ってゐたでせう。

農事のこともおききしたいことばかりですが四月はきっと外へも出
られますからお目にもかかれると思ひます。

根子ではいろいろとお世話になりました。

たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめから
おしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済み
ませんでした。

どうかあれらの中から捨てるべきは はっきり捨て再三お考になっ
てとるべきはとって、あなたご自身で明るい生活の目標をおつくり
になるやうねがひます。

宗教のことはお説の通りの立場は大きなものでせう。けれどもその
ほかにもいろいろの立場はあるかもしれません。

はっきり私はわかりません。

次に法華経の本は

   山川智應 和訳法華経
   島地大等 和漢対照妙法蓮華経

等ありますが発行所がちょっとわかりません。国柱会からパンフレ
ットでも来たらお送りして参考に供しませう。

今年は温床はやりませんか。
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[259] 1930年3月30日 菊池信一あて 封書

(表)弘前歩兵第卅一聯隊第九中隊第二班 菊池信一様
(裏)三月三十日 岩手県花巻町 宮沢賢治

    三月卅日

宮沢賢治

  菊池信一様

お手紙忙しいなかから書いて下すってまことにありがたう存じます。
ご元気のお様子でまことに愉快です。すっかり暖かになりました。
お蔭で私も起きてゐます。そしてまたこり性もなく苗床を人をたの
んで拵えて貰ったりはじめました。結局山だちは山で果てるといふ
ものでせうか。今年はこちらも大へん暖かで雪がなく、麦は今のと
ころ非常にいゝやうですが、これからの十日が一寸心配です。早魅
の掛念もありましたが、どうやら大丈夫さうです。弘前はこちらで
考へると暗いところのやうな気もしますが案外陽気でせう。あなた
のやうな人はどこへ出ても明るく進んで行けるものです。この夏は
私の弟も三週間そちらへ行くでせう。弟が居たときは営舎と大石野
とへ二度私も訪ねて行きました。

私の幸福を祈って下すってありがたう、が、人はまはりへの義理さ
へきちんと立つなら一番幸福です。私は今まで少し行き過ぎてゐた
と思ひます。おからだお大切に。まづは。

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-〔文語詩稿未定稿(005)〕----------------------------------
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(本文=下書稿3推敲後)
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     〔しののめ春の鴇の火を〕

しののめ春の鴇の火を
アルペン農の汗に燃し
縄と菩提樹皮にうちよそひ
風とひかりにちかひせり
  四月は風のかぐはしく
  雲かげ原を超えくれば
  雪解けの 草をわたる
黒玢岩メラフアイアーの高原に
生しののめの火を燃せり

島わの遠き潮騒えを
森のうつゝのなかに聴き、
羊歯のしげみの奥に
青き椿の実をとりぬ、
  黒潮の香のくるはしく
  東風にいぶきを吹き寄れば
  百千鳥すだきいづる
三原の山に燃ゆる火の
なかばは雲にとざされぬ

------------------------------------------------------------
(下書稿3推敲前)
------------------------------------------------------------

しののめ春の鴇の火を
アルペン農の汗に燃し
縄と菩提樹皮にちかひせり
風とひかりにちかひせり
  四月は風のかぐはしく
  雲かげ原を超えくれば
  雪解けの 草をわたる
黒玢岩メラフアイアーの高原に
生しののめの火を燃せり

島わの遠き潮騒えを
森のうつゝのなかに聴き
まひるもけぶる下蔭に
青き椿の実をとりぬ
  南の香のかぐはしく
  潮のひかりを吹きくれば
  百千鳥すだきいづる
三原の山に燃ゆる火の
なかばは雲にとざされぬ

------------------------------------------------------------
(下書稿2推敲後)
------------------------------------------------------------

しののめ春のときの火を
アルペン農の汗に燃し
縄と菩提皮にうちよそひ
風とひかりにちかひせり
  四月は風のかぐはしく
  雲かげ原をこえくれば
  雪どけの風をわたる
黒玢岩の高原に
しののめ春の火をもせり

島わの遠き潮騒えを
うつゝの森のなかに聴き
まひるもけぶる下蔭に
にくらき下影に
青き椿の実をとりぬ
  南の香のかぐはしく
  潮のひかりを吹きくれば
  百千鳥すだきなけり
三原の山に燃ゆる火の
なかばは雲に鎖されぬ

------------------------------------------------------------
(下書稿2推敲前)
------------------------------------------------------------

島わの遠き潮騒えを
まひるの森のなかに聴き
うつゝにくらき下影に
青き椿の実をとれり
  南の香のかぐはしく
  ぬるき潮を吹きくれば
  百千鳥つどひ
  すだきなけり
三原の山に燃ゆる火の
なかばは雲に鎖されぬ

------------------------------------------------------------
(下書稿1推敲後)
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     大島開墾者の歌

島わもあらき潮騒えを
アルペン農の夢椿の森のなかに聴き
縄と鍬とにうちよそひ
青き椿の実をとれり

二月は西の風受けて
潮ぬるみ草もかほる

三原の山に燃ゆる火の
なかばは雲に鎖されぬ

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(下書稿1推敲前=「三原三部手帳」Bの4・5頁)
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     大島開墾者の歌

島わの しらき潮騒えを
アルペン農の夢に聴き
縄とかつぎにうちよそひ
風とひかりにちかひせり

二月は風のかぐはしく
雲かげ原を超えくれば
椿咲き橙もかほる

三原の山に燃ゆる火の
なかばは雲に鎖されぬ

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※下書稿2には、1928年6月の上京(大島旅行)時のメモがある。

※なお、本稿の逐次形として、洋紙一枚に赤インクで書かれた下書
稿4があるが、用紙が詩稿用紙と異なるので、「〔島わにあらき潮
騒を〕」として六巻「補遺詩篇2」に収める。

--〔後記〕--------------------------------------------------

 急に寒くなって、先週からずっと体調不良です。もう少し年寄り
らしい服装にしないといけないようで、寒さが身に沁みます。

 今年は長男が賢治の享年、37歳になります。そのとき、父親の
政次郎氏はまだ60歳になっていなかったのですから、私よりずい
ぶん若かったわけです。ちょっと調子が悪くなると、年齢のことを
いろいろ考えますね。

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