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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第919号--2016.10.01------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(55)1928年-1」「卒業式」

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-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(55)1928年-1」
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 今回から1928年分です。この年は羅須地人協会が終焉するのです
が、年初には賢治の「肥料相談所」が開かれ、対農民の活動のピー
クになっています。

 相談所が開かれたのは花巻ではなく、隣町の石鳥谷町です。現在
は花巻市と合併しましたが、南部杜氏の出身地としても有名なとこ
ろです。

 駅前には広い道路がありますが、国道がこのあたりで市街地を避
けてバイパス道路になっているため、静かなところです。このあた
りで相談所が開かれたのか、と思いながら、歩いたことがあります。

 記録によると大変な盛況だったようで、一週間の期間ではさばき
きれず、後日追加日程を組んだということです。何しろ無料相談で
すし、まだまだ情報に乏しい時代のことですから、賢治の意図は正
しい方向に向いていたのだと思います。

 肥料設計がどんな感じだったかについては、下の方で紹介してい
る詩「〔それでは計算いたしませう〕」がよく表現しています。

 まるで相談のときの会話をそのまま詩にしたような作品です。一
方的に「正しい」施肥方法を教えるのではなく、農民と対話しなが
ら、方針そのものも相談しています。

 「大やましをかけて見ますか」などと聞くのは実におもしろいで
すが、「やましをかけて」失敗した農民は、自分の責任だとは思わ
ず、賢治を非難するでしょうから、危ないことをするものだという
印象はあります。

 また、肥料とは別に「陸羽一三二号」という当時の最新品種を薦
めていたとも記録されています。冷害に強い品種として開発された
品種ですが、開発手法もまた、近代育種のさきがけといえる位置に
ありました。

 今年も花巻近辺では、冷害もなく順調に育っていたようです。

 「サムサノナツ」も「ヒデリノトキ」も、ほぼ克服された現在の
状況を見れば、賢治もきっと喜ぶでしょうね。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

305 賢治の肥料相談・設計の評価
http://blog.goo.ne.jp/suzukikeimori/e/292fc6842b63bce786b91da4e6240e1e

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 では今回は宮澤賢治の肥料設計について少しく述べてみたい。

 「石鳥谷肥料相談所跡案内板」の説明から賢治の肥料相談の様子
が垣間見えてくるが、実際の相談の中身や方法はどのようなもので
あったのだろか。おそらく次の賢治の詩に詠まれているようなもの
であったであろう。

  〔それでは計算いたしませう〕(略)

 この詩から推理するに、賢治の肥料設計は植物の生え方からそこ
の地質を判断したりしてのそれぞれの土地に見合ったものであり、
稲作指導はきめ細かであり、その田圃の持ち主の考え方に対応した
肥料相談であったに違いない。

 その仕事ぶりを佐藤文郷は「岩手県農会報」(昭和三年四月発行
一八八号)の中で次のように報告しているという。

 最近二度ほど君の仕事を見たに、冬閑には農家の希望によつて学
術講義に近村に出掛けて殆ど寧日がないとか、而して決して謝礼を
受けない、昨今は旧土木管区事務所に出張して農家の相談相手とな
り肥料設計をして居る。数日前君の所謂店を訪問したるに箱の様な
代用机三四脚の腰掛け其処で十四五名の農家は順番に設計の出来る
のを待つて居た、非常に丁寧な遠慮深い農家達だと思つたに、是は
皆無料設計で用紙なども自宅印刷なのであつた。自己を節するに勇
敢で他に奉ずる事に厚いと噂に聞いて居る宮沢君は世評の如く誠に
かざらざる服装で如何にも農民の味方の感があった」(佐藤文郷
「農界の特志家/宮沢賢治君」)

<『年表作家読本 宮澤賢治』(山内修編集、河出書房新社)より>

 己が身を磨り減らしながら、何者かに取り付かれたように近隣の
農民のために献身する賢治の姿が痛々しいほどである。なおさらそ
の肥料設計が無償であったから、貧しい農民達にとってはすこぶる
有り難く思えたのも当然であろう。それが故に佐藤文郷には”丁寧
な遠慮深い農家達だと”見えたのであろう。

 さて肝心の賢治のこの肥料設計の評価に関してだが、『年表作家
読本 宮澤賢治』には次のように書かれている。

 …賢治の肥料設計は、懇切丁寧で、しかも無料であったため、多
くの人に感謝され、当時高く評価されたが、後に古いなどとも酷評
された。それぞれの時点での評価はどうであったか。

 農学校・国民高等学校での教え子で、石鳥谷の肥料相談所で賢治
に協力した菊池信一は次のようにいう。

 「その年(昭和三年)は恐ろしく天候不順であった。陸羽一三二号
種を極力勧められ、主としてそれによって設計されたが、その人達
は他所の減収どころか大抵二割方の増収を得て、年末には先生へ餅
を搗いて運ぶとか云つてみんな嬉しがつてゐた。たゞだそれをきか
ずに、又品種に対する肥料の参酌せずに亀の尾一号などを作られた
人々は若干倒伏した様だつた」(「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」)

 一方、農学校の元同僚であり、後、稗貫郡宮野目共働組合長を務
めた阿部繁は、昭和三五年に次のようにいっている。

 「宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいも
あったし失敗もありました。(略)宮沢さんの場合、岩手県の農業を
進歩させたとか、岩手県の農業普及に大きな功績があったというの
ではありません。(略)農業技術の方から見た場合は低くて貧しく、
そしてまずい稗貫あたりの農業のやり方を幾分でも進歩させ、いく
らかでも収穫量を高めたいということで、一生懸命やったので、岩
手県の農業全般を高めたなどということはありません」(森荘已池
『宮沢賢治の肖像』)

<『年表作家読本 宮澤賢治』(山内修編集、河出書房新社)より>

 いままではつい宮澤賢治の肥料設計の実力はかなりのものである
とばかり思っていた。盛岡高等農林を出ているし、花巻農学校での
実体験もある、稗貫郡の土性調査も行っているから花巻近隣の地質
等を詳らかに知っていたはずだからである。その上、賢治と心平
と森荘已池≠ナ触れたように

 詩とはちがつて農の設計には相当の自信がある積りだから

と賢治は言っていたということから、肥料設計に関しては賢治自身
も相当自信を持っていたはず。それゆえ、賢治の肥料設計に従えば
必ずや水稲は収量は増し、農家の稲作による収益も見ちがえるよう
に上がるとばかり思っていた。

 ところがこの『年表作家読本 宮澤賢治』によるかぎり、実は賢
治の肥料設計に対する評価は分かれていたのだった。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

近代品種のさきがけ水稲「陸羽132号」
https://www.jataff.jp/senjin2/40.html

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 大正のはじめ、秋田県花館村(現大曲市)の雄物川河原で、熱心
に野鳥を観察する変わり者がいた。仁部富之助(にべとみのすけ)
、近くの農事試験場陸羽支場の技手であった。仁部はのちに「鳥の
ファーブル」と呼ばれ、わが国野鳥研究の祖と仰がれる。だがこの
人が、有名な水稲「陸羽132号」の育成に深くかかわったことを知
る人は意外に少ないようだ。

 我が国の人工交配品種のさきがけとなった陸羽132号は大正10年
に農事試験場陸羽支場で育成された。国内で人工交配が始まったの
は明治37年だから、かなりスピーディーな誕生といってよい。 育
成者は普通寺尾博といわれている。たしかに彼がいなければこの大
品種の誕生はなかっただろう。

 寺尾はのちに農事試験場長になる作物育種の先人だが、当時は新
進の研究者。交配育種法をもっとも早く習得した一人だった。明治
四13年、本場兼任のまま、陸羽支場種芸部主任として着任する。
ちょうど東北各地に冷害が頻発していた時期で、彼に期待が集まっ
たのは当然といってよいだろう。

 寺尾が赴任したとき、助手に抜擢されたのが仁部である。もとも
と鳥好きの仁部は、農学校を出てすぐ試験場の養畜部に勤務するが、
寺尾の着任とともに種芸部に配属された。 彼の研究熱心が評価さ
れたのだろう。ここから2人の品種づくりがはじまった。

 陸羽132号の親は、冷害に強い「陸羽20号」と良食味の「亀ノ尾」。
両者の長所を活かそうというのが、交配のねらいだった。交配はハ
サミとピンセットを使った細かな作業。 風に邪魔されないよう温
室で行うのだが、開花期の8月の温室はまさに灼熱地獄だった。2
人とも素っ裸でこの難行に耐えたそうだが、得られた種子はわずか
の2粒だった。 当時の技術はまだ未熟だったのだろう。

 じつはこの直後から、寺尾は海外に出張している。大切な種子を
預かった仁部は、心配で夜も寝られなかったという。さいわい翌春
に種子は発芽し、以後、増殖・選抜と品種改良を進めることができ
た。

 陸羽132号の育成には7年を要したが、寺尾の関与は最初の2年
で、以後は後任者と交代している。在任中も東京とかけもちで不在
がちだったというから、主要実務の多くは仁部が受けもったとみて
よいだろう。 寺尾自身も後年、仁部の「異常の苦心と努力」を称
え、謝辞を述べている。

 陸羽132号はその後普及に移されるが、とりわけ真価を発揮した
のは、昭和6〜10年の大冷害のときだった。このときの冷害をうた
った宮沢賢治の「稲作挿話」に、つぎの一節がある。 「君が自分
でかんがえた/あの田もすっかり見て来たよ/陸羽一三二のはうね
/あれはずゐぶん上手に行った」当時の東北農民にとって、この品
種は希望の星だったにちがいない。 昭和14年には最高普及面積24
万ヘクタールにまで達している。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

--〔1928年-1〕----------------------------------------------
32歳(昭和三年)
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1月
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 「文語詩篇」ノートに「一月 ◎林光左 弟子ヲ叱ル」というメ
モがある。林光左という人物は詩「〔湯本の方の人たちも〕」の中
で「西洋料理支那料理の/三色文字は赤から暮れ/硝子はひっそり
しめられる/(中略)/たうたう出てきた林光左/広東生れのメー
ランファンの相似形/自転車をひっぱり出して/出前をさげてひら
りと乗る」とえがかれている。

 また文語詩篇一百篇中「来々軒」では、林光文という名で「浙江
の林光文は、かゞやかにまなこ瞠き、/そが弟子の足をゆびさし、
凜としてみじろぎもせず。/(中略)/むくつけき犬の入り来て、
ふつふつと釜はたぎれど、/ぬか青き林光文は、そばだちて
まじろぎもせず。」とえがかれている。花巻ではじめてうまいラー
メンを食べさせた人物。

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2月
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1日、本日付発行の「銅鑼」13号に「氷質のジョウ談」を発表。

9日、湯本村伊藤庄左衛門の依頼をうけ、湯本小学校で農事講演会
に出席。堀籠文乃進のあとをうけて講演。聴衆100余名。

 第一回普通選挙の投票日は2月20日であるが、労農党員だった
煤孫利吉によると、この選挙運動のとき「二月初め頃だっこと思う
が、事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ20円があった。
『宮沢さんが、これをタスにしてけろ』と言ってそっと置いていっ
たものだ、と聞いた。」という。

 梅野建造「積雪深い桜の山荘に賢治を訪問」し、二階の炬燵で中
央文壇の動向と農民芸術について語り合う。

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3月
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3日、本日付発行の「詩之家」4年3輯に収録された「決算、独断
その他」で佐藤惣之助が「宮沢賢治を讃するに吝ならざれ」と書く。

8日、本日付、鮎川章太郎(梅野建造)発行の「聖燈」創刊号に
「稲作挿話(未定稿)」を発表。

13日、農学校卒業予定者で進学希望者はそれぞれ目的校を受験し
たが、この日岩手師範二部を入学した者4名の報告を堀籠文乃進へ
知らせる。賢治が学校をやめた後も生徒問題については阿部肇や堀
籠は賢治と相談していたという。

15日、本日より一週間、石鳥谷町南端の塚の根肥料相談所で、午
前8時より午後4時まで肥料設計を行う。休む間なつ続けざまに行
ったが相談に来る人はふえるばかりで、一週間でさばききれず、ま
た順次約束の町をまわるため、30日に残りの人の設計を行うこと
にした。愛弟子である菊地信一が世話した。情況は詩「三月」から
もうかがえる。

20日、本日付「岩手日報」三面に「啄木の命日に/文芸講演会/
13日花巻で」の見出しで聖燈社主催の講演会の予告記事があり、
講師の一人に賢治の名がある。

30日、午前7時半着の列車で石鳥谷に到着。この日の会場は柳原
町長の尽力でポスターもはられ、照井元三郎の世話して、一里塚の
向い合せの店の店先の八畳間と土間。既に10人余りの農民が待ち
うけており、肥料設計が進むにつれ、なお人がふえる。昼食一時す
ぎ。午後は例の講義用図解が十数枚はれら、稲作と肥料についての
講演を行う。人はあふれ、戸外にむしろをしいて耳を傾ける状況で
あった。天候不順を見通して陸羽一三二号を極力すすめる。

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二月、第一回普通選挙
五月、野口英世西アフリカで没
五月、全国農民組合結成
十一月、天皇即位礼

この年、県下旱魃40日以上に及び、陸稲、野菜ほとんど全滅。9
月14日に至りようやく降雨。

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山村暮鳥「暮鳥詩集」
河上肇「資本論入門」
「銅鑼」16号刊行。この号で廃刊
林芙美子「放浪記」連載開始
高橋新吉「高橋新吉詩集」
季刊「詩と詩論」創刊
草野心平「第百階級」
萩原朔太郎「詩の原理」

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政次郎 54歳
イチ 51歳 
シゲ 27歳
清六 24歳
クニ 21歳 9月5日、刈屋主計と養子縁組

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    氷質のジョウ談

職員諸兄 学校がもうサマルカンドに移ってますぞ
杉の林がペルシャなつめに変ってしまひ
花壇も藪もはたけもみんな喪くなって
そこらはいちめん氷凍された砂けむりです。
白淵先生北緯三十九度あたりまで
アラビア魔神がはたらくことになったのに
大本山からなんにもお振れがなかったのですか
さっきわれわれが教室から帰ったときは
そこらは賑やかな空気の祭
青くかがやく天の椀から
ねむや鵞鳥の花も胸毛も降ってゐました
それがいまみな あの高さまで昇華して
ぎらぎらひかって澱んだのです
えゝ さうなんです
もしわたくしが管長ならば
こんなときこそ布教使がたを
みんな巨きな駱駝に乗せて
あのほのじろくあえかな霧のイリデスセンス
蛋白石のけむりのなかに
もうどこまでもだしてやります
そんな砂漠の漂ふ巨きな虚像のなかを
あるひはひとり
あるひは兵士や隊商連の仲間に入れて
熱く息づくらくだのせなの革嚢に
氷のコロナと世界の痛苦をいっぱいに詰め
極地の海に堅く封じて沈めることを命じます
そしたらたぶんそれは強力なイリドスミンの龍に変って
地球一ぱいはげしい雹を降らすでせう
そのときわたくし管長は
東京の中本山の玻璃閣で
二人の侍者に香炉と白い百合の花とを捧げさせ
空を仰いでごくおもむろに
二行の迦陀をつくります
いや新聞記者がやってきました

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     稲作挿話(未定稿)

あすこの田はねえ
あの種類では
窒素があんまり多過ぎるから
もうきっぱりと灌水みづを切ってね
三番除草はしないんだ
  ……一しんに畔を走って来て
    青田のなかに汗拭くその子……
燐酸がまだ残ってゐない?
みんな使った?
それではもしもこの天候が
これから五日続いたら
あの枝垂れ葉をねえ
斯ういふ風な枝垂しだをねえ
むしって除ってしまふんだ
  ……せわしくうなづき汗拭くその子
    冬講習に来たときは
    一年はたらいたあとゝは云へ
    まだかゞやかなりんごのわらひを持ってゐた
    今日はもう日と汗に焼け
    幾夜の不眠にやつれてゐる……
それからいゝかい
今月末にあの稲が
君の胸より延びたらねえ
ちょうどシャツの上のぼたんを定規にしてねえ
葉尖はさきをとってしまふんだ
    ……汗だけでない
      涙も拭いてゐるんだな……
君が自分で設計した
あの田もすっかり見て来たよ
陸羽一三二号のはうね
あれはずゐぶん上手に行った
肥えも少しもむらがないし
いかにも強く育ってゐる
硫安だってきみが自分で播いたらう
みんながいろいろ云ふだらうが
あっちは少しも心配ない
 反当三石二斗なら
 もうきまったと云っていゝ
しっかりやるんだよ
これからの本当の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から
義理で教はることでないんだ
きみのやうにさ
吹雪やわづかの仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない
それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ
ぢゃさようなら
  ……雲からも風からも
    透明なエネルギーが
    そのこどもにそゝぎくだれ……

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     三月

正午ひるになっても
五分だけ休みませうと云っても
たゞみんな眉をひそめ
薄い麻着た膝を抱いて
設計表をのぞくばかり
稲熱病いもちが胸にいっぱいなのだ
一本町のこの町はづれ
そこらは雪も大ていとけて
うるんだ雲が東に飛び
並木の松は
去年の古い茶いろの針を
もう落すだけ落してしまって
うす陽のなかにつめたくそよぎ
はては緑や黒にけむれば
さっき熊の子を車にのせ
おかしな歌をうたって行った
紀伊かどこかの薬屋たちが
白もゝひきをちらちらさせて
だんだん南へ小さくなる
みんなはいつか
ひそひそ何かはなしてゐる
つゝましく遠慮ぶかく
骨粉のことを云ってゐるのだ
一里塚一里塚
塚の下からこどもがひとりおりてくる
つゞいてひとりまたかけおりる
町はひっそり
火の見櫓が白いペンキで、
泣きだしさうなそらに立ち
風がにはかに吹いてきて
店のガラスをがたがた鳴らす

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     〔それでは計算いたしませう

それでは計算いたしませう
場所は湯口の上根子ですな
そこのところの
総反別はどれだけですか
五反八畝と
それは台帳面ですか
それとも百刈勘定ですか
いつでも乾田ですか湿田ですか
すると川から何段上になりますか
つまりあすこの栗の木のある観音堂と
同じ並びになりますか
あゝさうですか、あの下ですか
そしてやっぱり川からは
一段上になるでせう
畦やそこらに
しろつめくさは生えますか
上の方にはないでせう
そんならスカンコは生えますか
マルコやヽヽはどうですか
土はどういふふうですか
くろぼくのある砂がゝり
はあさうでせう
けれども砂といったって
指でかうしてサラサラするほどでもないでせう
掘り返すとき崖下の田と
どっちの方が楽ですか
上をあるくとはねあげるやうな気がしますか
水を二寸も掛けておいて、あとをとめても
半日ぐらゐはもちますか
げんげを播いてよくできますか
槍たて草が生えますか
村の中では上田ですか
はやく茂ってあとですがれる気味でせう
そこでこんどは苗代ですな
苗代はうちのそば 高台ですな
一日いっぱい日のあたるとこですか
北にはひばの垣ですな
西にも林がありますか
それはまばらなものですか
生籾でどれだけ播きますか
燐酸を使ったことがありますか
苗は大体とってから
その日のうちに植えますか
これで苗代もすみ まづ ご一服してください
そのうち勘定しますから

さてと今年はどういふ稲を植えますか
この種子は何年前の原種ですか
肥料はそこで反当いくらかけますか

安全に八分目の収穫を望みますかそれともまたは
三十年に一度のやうな悪天候の来たときは
藁だけとるといふ覚悟で大やましをかけて見ますか

-〔文語詩稿一百編(100)〕---------------------------------
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(本文)
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     卒業式

三宝または水差しなど、 たとへいくたび紅白の、
甘き澱みに運ぶとも、  鐘鳴るまではカラぬるませじと、
うなじに副へし半巾は、 慈鎮くわ尚のごとくなり。

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(下書稿推敲後)
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     卒業式

三宝または水差しなど
たとへいくたび紅白の
甘き澱みに運ぶとも
鐘鳴るまではカラぬるませじと、
うなじに副へし 半巾は
慈鎮くわ尚の ごとくなり

------------------------------------------------------------
(下書稿推敲前)
------------------------------------------------------------

     卒業式

紅白張りてうす甘き
空気のなかにいそがしく
フロックを着て 賞品と
証書の盆を 持ちはこぶ

式のはじまる それまでは
カラをつめたく たもたんと
うなじに副へし 半巾は
慈鎮くわ尚の ごとくなり

--〔後記〕--------------------------------------------------

 早いもので、花巻から帰って来てもう一週間が経ちました。まだ
稲刈りをしていない田もたくさんありましたが、今頃は終わってい
る頃でしょうか。

 花巻で「年譜の次は何をやるの?」と聞かれましたが、まだ何も
考えていませんでした。

 このところの年譜で、日付を持った詩作品がよく出てきますが、
どうも私のサイトにある校本全集のときのものとは、新校本全集で
はかなり変わっているようです。童話の方は新校本全集版に更新し
ましたので、詩も新校本全集版に修正していこうかと思います。で
も、そんなことをやりだしたら、1000号で終われなくなってし
まいそうですね。

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