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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第918号--2016.09.24------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(54)1927年-4」「〔西のあをじろがらん洞〕」

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-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(54)1927年-4」
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 今回で1927年も終りです。夏までは作品もたくさんあったのに、
この時期になると激減しています。書簡なども乏しく、やはり体調
が悪かったのではないか?と思います。

 話題としては、レコードの交換会をしたこと、「東北六県菊花品
評会」の審査員をしたこと、藤原嘉藤治の結婚式をあげたこと、な
どが目につくところです。

 こうして見ると、別に寝込んでいたわけでもなさそうです。賢治
の「俳句」は珍しいもので、特に「菊花展」を詠んだものが残され
ています。

 たぶんこのときに詠んだものと思いますので、ここで掲載してお
きます。

 もう一つ、「無産者新聞」という、日本共産党の機関誌に接近し
ています。こういう左翼方面に接近するのは、だいたい羅須地人協
会時代と重なるようです。

 その羅須地人協会にも、残された時間はあとわずかです。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

宮沢賢治の手ざわり  信時哲郎
http://www.konan-wu.ac.jp/~nobutoki/papers/texture.html

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 2 謄写版による心象スケッチ

 さて二冊の本による「歴史や宗教の位置の変換」はどうなったの
だろう。結論から言えば「宗教家やいろいろの人たち」は「どこも
見てくれませんでした」ということになる(前掲・森荘已池宛書簡)。

 『春と修羅』は「詩」としてなら、幾人かの評者から絶賛に近い
言葉を与えられた。しかし「詩といふことはわたくしも知らないわ
けではありませんでしたが厳密に事実のとほりに記録したものを何
だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした。
(大正十四年十二月二十日・岩波茂雄宛書簡)」と言う賢治が、彼
らの言葉を素直に受けいれられたとは思えない。

 賢治はこの後すぐに『春と修羅 第二集』の出版を計画している
のだが、これは計画だけに終わり、実際に出版されることはなかっ
た。ところでこの第二集の出版は、活字によるものではなく、岩波
茂雄宛て書簡に「こんどは別紙のやうな騰写刷で自分で一冊こさえ
ます」と書いて、心象スケッチの「鳥の遷移」を同封していること
からわかるように、謄写版によるごく小規模なものが考えられてい
たようである。森荘已池氏に宛てても「夏には謄写版で次のスケッ
チを拵えます(大正十四年十二月二十三日)」と書いているので、
この計画はかなり具体化していたように思える。

 ここで考えてみたいのは、なぜ謄写版印刷という方法が選ばれた
か、である。賢治は私的に短歌を書き溜める段階から、同人誌、自
費出版と、近代作家としてはまっとうな出世コース(?)に乗って
いたはずである。それなのにここで活字印刷から謄写版印刷への
「格下げ」を自ら決意したことについては、考えてみる必要がある
のではないだろうか。

 岩波書店に向かって、『春と修羅』(第一集)と「あなたがたが
お出しになる哲学や心理学の立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下
さいますならわたくしの感謝は申しあげられません」という賢治で
あるから、経済的理由を第一に挙げることができるだろう。しかし
賢治が積極的に謄写版印刷に期するところがあった、という可能性
はないだろうか。例えばオングが指摘するように

 本の生産に用いられた大量生産方式のために、本を思想の伝達の
道具であることばの容器というよりも、物品として考えることが可
能になったし、またそう考えることが必要になったのだった。本は
ますます製品として、そして売り捌かれるべき商品としてみなされ
るようになった。生きている人間の言葉である語はある意味で物象
化される。

といったことを、賢治自身が感じた可能性はないだろうか。

 『春と修羅』は全く売れず、出版元の関根書店が、在庫を一斉に
処分してしまった結果、ゾッキ本として扱われるようになったと言
われている。「歴史や宗教の位置を全く変換しやう」というくらい
思い入れのあった自信作が、物品として、商品として扱われている
ことに、賢治は平気な顔をしていられただろうか。ましてそんな賢
治が一年ほどの冷却期間の後に、同じ方法によって続編を出すほど、
果たして能天気であっただろうか。

 賢治は、大正十四年八月十四日に森荘已池氏に宛てて

あなたの作品の清浄さうつくしさ、いろいろな模様のはいった水精
のたまを眼にあててのぞいてゐるやうな気がします。早く一冊にし
てください。わたくしの微力から たとへそれが小さいものであら
うとも。小さくても一頁づつがふしぎな果樹園のやうになった本が
できます。あなたのならどれだって中央のものより一段上です。ど
うか自重してください。詩の政治家になんぞならないことをぼくは
至心に祈ります。

と書いている。この頃に賢治が抱いていた詩壇や出版界についての
反感とともに、詩集とは小さくてもいいものになりうることを、い
や政治力を背景としない小さいものこそがいいものなのだ、とでも
言いそうな口振りではないだろうか。

 そしてもう一つ忘れてはならないのが、第一集の序文で「正しく
うつされた筈のこれらのことばが」「すでにはやくもその組立や質
を変じ/しかもわたくしも印刷者も/それを変らないとして感ずる
ことは/傾向としてはあり得ます」と戒めているにもかかわらず、
いつしか印刷された活字たちが固定化・絶対化していることに気づ
いた可能性である。

 賢治が推敲をよくした人だというのは有名で、現存するものだけ
でも四、五回の下書き稿が残っているのはざらで、既に雑誌に掲載
された作品や、手元に残った『春と修羅』の数冊にまで推敲の手を
入れていたことがわかっている。賢治の作品は、その時々に一番ふ
さわしい形に書き換えられるのであり、決定稿というものは原理的
に存在しない。しかし日本中にちらばってしまった印刷物をその時
々の形に改めることは、さすがの賢治にもできなかった。本来流動
的であるはずの言葉たちは、印刷されたまま活字として化石してし
まい、もはや生きた言葉ではなくなってしまっているのである。

 オングはまた次のような指摘を行っている。

印刷されたテクストは、著者のことばを、決定的な、あるいは「最
終的な」かたちで示すと考えられている。というのも、印刷は、最
終的なものでないと具合がわるいからである。いったん活字の組版
が閉じられて締めつけられ、あるいは、写真リトグラフの平版がつ
くられ、それが紙に印刷されると、テクストは、手書きのものほど
簡単には(削除や挿入などの)変更がきかなくなる。対照的に、手
書き本は、その書き込みや欄外注をとおして、本がもっている境界
の外部の世界とたえず対話をかわしていた。手書き本には、声によ
る表現のやりとりにまだ近いところがあったのである。手書き本の
読者は、印刷むけに書かれたものの読者ほど、著者から隔絶されて
はいなかったし、著者にとって不在でもなかったのである。

 謄写版印刷は厳密な意味での手書き本であるとは言えない。しか
し活字によるものとは違って、そこには大きな字や小さな字、書き
損じの字もあるだろうし、インクがかすれたりにじんだりすること
もあるだろう。それらは読者に、著者・賢治の人間を感じさせるに
十分な「情報」であるというだけでなく、テクストの「流動性」を
アピールするにも役立つのではないだろうか。「こんどは別紙のや
うな謄写刷で自分で一冊こさえます。いゝ紙をつかってじぶんです
きなやうに綴ぢたらそれでもやっぱり読んでくれる人もあるかと考
へます(前掲・岩波茂雄宛書簡)」という言葉は、単なる痩せ我慢
ではなく、ある種の自負さえ窺えるように思えるのである。

 ところが賢治は謄写版による第二集を出版しなかった。森荘已池
氏が「詩集を作るために買った新しい謄写版を、無産政党の支部に、
金二十円を添えて寄贈したためであった」と書いているように、昭
和三年の二月頃に、賢治が労農党稗和支部に謄写版を寄贈したこと
が原因であると思われる。

 しかし第二集出版の話はすぐ再浮上する。入沢康夫氏は、森氏の
言を受けて、同年の四月に賢治が藤原嘉藤治と帰郷中の菊池武雄に
会った際、「二月に謄写版を寄附してしまったことを知った二人の
友人が、では第二詩集の出版は、こちらで考えてやるから、ぜひま
とめろ」とでも言って、短歌雑誌『ぬはり』社の菊池知勇を紹介し
たのではないかと推定している。そして賢治はその初夏に第二集の
序文を書いたのではないかと言う。

 それでは賢治は再び活字印刷に接近したのかというと、一概にそ
うとも断言できない。なぜなら賢治は自分から活字印刷による出版
計画を言い出したわけではないからである。序文にある「友人藤原
嘉藤治/菊池武雄などの勧めるまゝに/この一巻をもいちどみなさ
まのお目通りまで捧げます」という言葉も、どこか言い訳がましく、
友人の好意を断りきれないから出す、というふうに読めないだろう
か。

 そもそもこの序文は晴れて自著を公刊するにしては、あまりにも
消極的な言葉が目立つのである。「わたくしの敬愛するパトロン諸
氏は/手紙や雑誌をお送りくだされたり/何かにいろいろお書きく
ださることは(略)何とか願い下げいたしたいと存じます」と言っ
てみたり、「わたくしにもっと仕事をご期待なさるお方は/同人に
なれと云ったり/原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになった
り/わたくしを苦しませないやうおねがひしたいと存じます」とい
った言葉には、賢治が表舞台に立つことをなんとか避けようとして
いるかのように読めるのである。また「どこまでも孤独を愛し/熱
く湿った感情を嫌」うために、「おれたちは大いにやらう約束しよ
うなどといふこと」を忌避するというのも、何とも後ろ向きの言葉
であるように感じられないだろうか。ここにはかつて「歴史や宗教
の位置を全く変換しやう」と書いた時のような気概はどこにも見当
たらず、もし出版されてこの序文を読む人がいても、「それほど一
人でいたいなら、本など出さなければいいのに」と思ったに違いな
い。

 結局この活字印刷の話も出版条件で折り合いがつかず、計画は立
ち消えとなる。しかし謄写版を寄附したこと自体も、賢治自身の判
断によるのだろうから、第二集が世に出なかったのは、つまるとこ
ろ賢治の出版に対する意欲が弱くなっていたからだと言ってよいだ
ろう。

 ただこの後も賢治がさまざまな雑誌にコンスタントに作品を発表
し続けていることは知られている通りだし、『注文の多い料理店』
の挿絵を担当した菊池武雄に、社交辞令なのかもしれないが、「こ
の前より美しいいゝ本をつくりあげる希望をば捨て兼ねて居ります。
(昭和八年一月七日)」と書いたりもしている。また臨終の前夜、
弟の清六氏に向かって「この原稿はみなおまえにやるから、若し小
さな本屋からでも出し度いところがあったら発表してもいい」と言
ったことなど(しかし父には、「それらは、みんな私の迷いの跡だ
んすじゃ。どうなったって、かまわないんすじゃ」と言ったらしい)、
なかなか簡単に結論を導き出すことはできない。しかし清六氏に向
かっても「小さな本屋」に限定しているあたり、マイナー出版に対
するこだわりは、最後まで貫かれたように思えるのである。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

--〔1927年-4〕----------------------------------------------
31歳(昭和二年)
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10月
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21日、高橋慶吾のための職業として、レコードの交換会を考え、
知友への紹介と趣意を書き、自分のレコードを提供する(書簡232)

 高橋は1906年生まれ、この年21歳、先年上京したが何というこ
ともなく、帰ってからも職はなく、父が養蚕の教師や麦作指導をし
ていた関係から賢治を知っており、協会へ來させたのであった。レ
コード交換会は印刷物を作って賢治紹介先に働きかけ、好意的な買
い手もあったが、古本売買のようなわけにはいかずまもなく頓挫し
た。

 この頃、帰郷療養中の石田奥平(高橋勘太郎四男)が宮沢家を訪
れたのを、花巻病院まで案内、佐藤隆房に診察依頼、帰路北上川畔
を歩いて下根子桜へ案内。

 花巻を訪れた刈屋主計と花巻温泉に行く。

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11月
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1日〜3日、恒例の花巻秋香会主催東北六県菊花品評会開催。会場
花城小学校。この審査にあたる。

 この頃、「無産者新聞」の資金カンパニアに応じて醵金する。

 1927年11月から1928年3月の三・一五事件で検挙されるまで「無
産者新聞」の「編集局員の一員としして、各地の支局通信の管理も
していた」石堂清倫は「岩手県の花巻支局員は有能かつ熱心な人で
一カ月に二回は通信を送ってきました。その中で宮沢についての報
告が二回あり、一回は無新の輪転機購入カンパニアに応じて彼から
金子をもらったとあります。二回目の通信には彼が労農党支部に印
刷機(たぶん謄写版)をカンパしたとありました。」と証言してい
る。

 「無産者新聞」は日本共産党の合法機関誌であり、それへの醵金
の意味は理解されていただろうと石堂は言う。

 「文語詩篇」ノートに「11月、白藤ヲタノミテ藤原ノ婚式」と
メモ。

白藤慈秀の話。

「はじめ宮沢さんは、青天井の下の川原で結婚式をやろうなどとい
っていましたが、たぶんお父さんやお母さんにとめられたのでしょ
うか。盛岡の私のところで式をあげました。式の万端、花婿花嫁、
親戚の者などの坐る位置や扇のはてまで、宮沢さんがさいはいをふ
って、ちゃんと滞りなくすませました。」

藤原嘉藤治の話。

「宮沢さんは結婚式の費用として、70円出せといいました。私に
持ち合わせがないので、例の芳文堂の親父から借りました。白藤さ
んの家は、そのころ盛岡の油町という町にありましたが、そこで式
をあげました。盛岡駅でも汽車の中でも、宮沢さんは知人がおりま
すと、この人は藤原君の新夫人です。こんごよろしくと、紹介しま
したし、桜の住宅の近くでも、こんど結婚しましたからよろしくと、
紹介して歩きました。そのため、誰もうんともすんとも言いません
でした。」

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12月
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21日、本日付発行の盛岡中学校「校友会雑誌」41号に森佐一の
仲介により「冬二編」として「銀河鉄道の一月」「奏鳴四一九」を
発表。

26日、本日付「新潟新聞」三面に詩誌「新年」主催「代表詩人作
品 誌誌、詩集展」が新潟市カフェ・ロオランサンで本日から開催
される(31日まで)旨の記事が出る。この出品者中に賢治の名が
ある。(「新年」同人寒河江真之助と草野心平の縁によるもの。カ
フェ・ロオランサンは寒河江の経営)

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3月、金融恐慌はじまる
5月、リンドバーグ、大西洋横断飛行、山東出兵
6月、ジュネーヴ軍縮会議
7月、願教時住職島地大等死去
8月、中国共産党南昌武装蜂起
12月、花巻−釜石間鉄道建設閣議決定

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高村光太郎「ロダン」
佐藤紅緑「あゝ玉杯に花うけて」連載開始
岩波文庫刊行開始
芥川龍之介自殺
徳富蘆花没
八木重吉没
「キンダーブック」創刊
ブルースト「失われた時を求めて」

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政次郎 53歳 12月、町育英会理事を退任
イチ 50歳 
シゲ 26歳 8月、長女フミ出生
清六 23歳
クニ 20歳

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【俳句(「装景手記」ノート)】

魚燈して霜夜の菊をめぐりけり

灯に立ちて夏葉の菊のすさまじさ

斑猫は二席の菊に眠りけり(東北大会)

緑礬をさらにまゐらす旅の菊(東北大会)

たそがれてなまめく菊のけはひかな(東北大会)

魚燈してあしたの菊を陳べけり(東北大会)

夜となりて他国の菊もかほりけり(東北大会)

狼星をうかゞふ菊の夜更かな

その菊を探りに旅へ罷るなり

たうたうとかげらふ涵す菊の丈

秋田より菊の隠密はいり候

花はみな四方に贈りて菊日和

菊株の湯気を漂ふ羽虫かな

水霜をたもちて菊の重さかな

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[232] 1927年10月21日 封書(紹介状)

(表)「ご不用のレコードをご交換ねがひます。」といふ意味
の書面
(裏)レコード交換会 宮沢賢治(封印)〆

突然ではございますが高橋慶吾氏をご招介いたします。何卒ご引見
をねがひあげます。

今度同氏が事務を執りましてレコードの交換会を作らうと思ふので
ございますがもしご不用の分ご用の分等ございますれば会をご利用
下さるやうおねがひいたします。何分レコードも年々大量廉価に出
来るやうになりましてやがては雑誌乃至新聞のやうな調子に扱はれ
るかとさへ存ぜられますので古いものを聴かないで蔵って置くより
は古いもの同志或は相当の割合で交換した方が得かと思はれます。

規則は追って作ることに致しまして差当り別紙へご不用のものご希
望のものお書込をねがひあげます。

  昭和二年十月廿一日

--〔文語詩稿一百編(99)〕----------------------------------
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(本文)
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     〔西のあをじろがらん洞〕

西のあをじろがらん洞、   一むらゆげをはきだせば、
ゆげはひろがり環をつくり、 雪のお山を越し申す。

わさび田ここになさんとて、 枯草原にこしおろし、
たばこを吸へばこの泉、   たゞごろごろと鳴り申す。

それわさび田に害あるもの、 一には野馬 二には蟹、
三には視察、四には税、   五は大更の酒屋なり。

山を越したる雲かげは、   雪をそゞろにすべりおり、
やがては藍の松こめや、   虎の斑形を越え申す。

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(下書稿推敲後2)
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     わさび田

西のあをじろがらん洞
一むらゆげをはきだせば
ゆげはひろがり環をつくり
雪のお山を越し申す

わさび田ここになさんとて
枯草原にこしおろし
たばこを吸へばこの泉
たゞごろごろと鳴り申す

それわさび田に害あるもの
一には野馬 二には蟹
三には視察 四には税
五は大更の酒屋なり

山を越したる雲かげは
雪をそゞろにすべりおり
やがては藍の松こめや
虎の斑形を越え申す

------------------------------------------------------------
(下書稿推敲後1)
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     わさび田

Tourquoisの板と見申せど
まことはひどいがらん洞
うす青じろの西ぞらに
雪のお山は立ち申す

枯草原にこしおろし
たばこを吸へばこの泉
たゞごろごろと鳴り申す

西のあをじろがらん洞
一むらゆげをはきだせば
ゆげはひろがり環をつくり
もつれて山を越し申す

虎斑の上のがらん洞
もつれた湯気を吸ひ込めば
鵞王のごとくしろびかり
雪のお山は立ち申す

------------------------------------------------------------
(下書稿推敲前)
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Tourquoisの板と見申せど
まことはひどいがらん洞
うす青じろの西ぞらに
雪のお山は立ち申す
   鵞王のごとくしろびかり
   雪のお山は立ち申す
烏一疋とびあがり
谷のこちらをすぎ行けば
烏が二疋とびあがり
ならんで谷を截って行く

西のあをじろがらん洞
一むらゆげをはきだせば
ゆげはひろがり環をつくり
またももつれて山を越す

北面は藍の松をこめ
熔岩流のあと光り
雪に落ちたる雲のかげ
しづかにすべり落ちてくる

西のあをじろがらん洞
もつれた湯気を吸ひ込んで
ふっとひかれば日はしづか

--〔後記〕--------------------------------------------------

 台風が少し速くなって、20日のうちに通過していきましたので、
予定どおり21日から23日まで、花巻に行くことができました。温泉
にも入れて、満足でした。

 22日が祝日ということもあって、学会行事、特に懇親会への参加
者はとても多く、賑やかに過ごすことができました。

 今年から、「イーハトーブセンター功労賞」ができて、第一回の
授与式がありました。副賞の「金のどんぐり」を一個いただいてき
ました。中身は普通のどんぐりですが、何と金箔を貼ってあるので
す。

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