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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第915号--2016.09.03------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(51)1927年-1」「風底」

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-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(51)1927年-1」
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 今回から1927年になります。引続き羅須地人教会の活動を続けて
いますが、ここでちょっとした「事件」が起こります。

 賢治の活動は地元名士の息子ということもあり、注目を集めてい
たようで、新聞に紹介する記事が掲載されています。

 そのことで警察の「事情聴取」を受けたようで、当人はこう語っ
たそうです。「誤解を招いて済まない」

 当時の時節柄、社会主義的な運動は警戒されていたのですが、賢
治の活動も、そのようなものと同一視される面があったのは確かだ
と思います。

 今でも、羅須地人教会の目的とか、日常的な活動とか、もう一つ
よくわからないところがありますが、何か社会運動のようなもの、
というとらえられ方をしたのも無理もないところです。

 もちろん、賢治自身が「誤解」と言っているように、本人の考え
としては、社会主義的な運動とは全く違うことを考えていたのです。

 人によっては、賢治はこのころ、社会主義運動に近づいていて、
警察に睨まれたので撤退したかのように見えるでしょうが、元々が
違っていたので、完全にすれ違いに終わったのだと思います。

 それから、この時期に有名な「札幌市」という詩を書いています。
賢治は何度も北海道に行っているので、北海道旅行時の作品と思っ
ていましたが、この時期にそういう事実はないので、ちょっと不思
議な気がします。

 「業のはなびら」「岩手山」とともに、賢治の短詩の中では特に
印象的なものです。

 最後に、友人の藤原嘉藤治の結婚に関する話が出てきますが、こ
の後、結婚式まで賢治は活躍します。私などと違い、こういう世俗
的なことも意外とできた人ではあったようです。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

 こんなメールをいただきましたので、この欄を使って回答します。

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 宮沢賢治に関する情報を提供していただけるメルマガに登録した
ばかりの者です。質問させていただきたいことがあり、メールを差
し上げます。よろしくお願いいたします。

 賢治が参禅したり、大沢温泉での仏教講習会に参加したときに影
響を受けたと言われている盛岡報恩寺の尾崎文英住職の評判として、
行動が粗雑、売笑婦との噂も囁かれているとされている文章を他の
サイトでも目にするのですが、それがまことである根拠は何なので
しょうか?教えていただけないでしょうか。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

 一番適当な解説は、以下の岡澤さんのものでしょう。

■他宗派の寺院を遍歴
http://www.morioka-times.com/news/2013/1312/21/13122103.htm

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 賢治の生涯を決める書となった島地大等編著『漢和対照妙法蓮華
経』に飛躍する道程には、3歳児(明治32年)の揺籃期から青年
期(大正2〜4年)に遍歴した各寺院での助走に目を向けてもよい
のではないか。

浄土真宗「安浄寺」 3歳の頃「正信偈」「白骨の御文章」を唱え
る。
日蓮宗「法華寺」 中学2年生(14歳)の頃ひげ題目「南無妙法」
をノートに落書きする

曹洞宗「清養院」下宿 中学5年4月(17歳)

浄土真宗「徳玄寺」下宿 同年5月末 作品「疑獄元凶」に名を残


曹洞宗「報恩寺」 同年9月 尾崎文英住職について参禅、頭を剃
り丸坊主になって登校す 『雨ニモマケズ手帳』に回想のメモ

時宗「教浄寺」下宿 高農受験勉強のため(19歳)文語詩「僧の
妻面膨れたる」

 以上のように菩提寺・安浄寺を起点として法華寺→清養院→徳玄
寺→報恩寺→教浄寺へと寺院を遍歴する賢治の精神史にどんな風が
吹き抜けていったのか。

 賢治はどの寺院でも作品に反映する足跡を残しており、通り一遍
の通過儀礼ではなかったと考えられる。法華寺では石塔から模写し
たひげ題目について住職にその由来を尋ね、法華教の教理や日蓮上
人に関する知見を得たのではないか。だが、寂しい時には「無意識
に小生の口に称名の起こり申し候」(明治45年5月30日宮沢政
次郎宛書簡)という他力本願を回向して、禅宗や法華教の聖道門に
はまだ距離感があったとみえる。静寂な環境にあった清養院や徳玄
寺では仏書に親しみ宗教的思索を深める機縁があった。

 そして中学5年の9月、ついに曹洞宗報恩寺の門をたたき住職尾
崎文英師について参禅の修行することになる。これは自力門に踏み
込んだ画期的な第一歩というべきことです。報恩寺での参禅修行は
賢治にとってよっぽど印象深かったらしく、晩年の病床で書かれた
『雨ニモマケズ手帳』の129頁〜132頁にある幻想メモは、確
かに報恩寺で参禅した時代を回想したものとみられる。

 報恩寺の僧堂には参禅者が多く集まり賢治もその一人でした。文
英は学識も深く態度も堂々として「口八丁手八丁」の活動家だった
らしい。そのためにおとなしい盛岡人士間に「巨大なるニセ坊主」
という評判がたつことになったいう。しかし若い賢治は文英に深く
信頼していて次の歌を詠んでいる。

 逞ましき麻のころもの僧来り老師の文をわたしたりけり

 いまはいざ僧堂に入らんあかつきの般若心経夜の普門品

 賢治が真宗の他力信仰に限界を感じたのは、信仰が小乗的であっ
たことと、家業から自立して雄飛しようとする青年期特有の客気に
あったと思われる。そうした惑いから脱却しようと異なる宗派の寺
院を遍歴することになり、その契機を曹洞宗報恩寺へ参禅すること
によってつかんだが、惑いの深淵から賢治をすくい上げるには文英
師の爽やかな弁舌では不足であったのでしょう。真宗願教寺住職に
して学僧として名高い島地大等の出番が必要だったのです。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

 報恩寺の住職尾崎文英=「巨大なるニセ坊主」という人物評があ
ったのは間違いないですが、具体的な行状まではわかりません。

 とにかく毀誉褒貶の激しい人だったようですが、賢治は悪くは思
ってはいなかったようです。

 しかし中学生がこんなに寺に出入りしていたというのは、当時で
も珍しかったと思います。宗教かぶれの変な子だった…と言うと悪
口のようですが、とにかく変わった少年だったことは間違いありま
せん。

--〔1927年-1〕----------------------------------------------
31歳(昭和二年)
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1月
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1日、本日付発行の「無名作家」に「陸中国挿秧之図」を発表。

 手帳断片Aに「国語及エスペラント 音声学」、また同手帳年頭
のMEMO欄に「本年中セロ一週一頁 オルガン一週一課」とある。

10日、羅須地人教会講義。午前10時より午後3時。講義案内で
の日程は以下のとおり。

一月十日 農業ニ必須ナ化学ノ基礎
一月廿日 土壌学要項
一月卅日 植物生理要項
二月十日 同上
二月廿日 肥料学要項
二月廿八日 同上
三月中  エスペラント 地人芸術概論

 草野心平は父と争い東京大森八景坂の両親の家を出奔、「宮沢農
場」(草野の想像した羅須地人教会)で働かせてもらうつもりであ
ったが、たまたま赤羽駅に入ってきた郡山廻り新潟行きに乗車、結
果的には生涯賢治と逢う機会を失う。

31日、本日付「岩手日報」夕刊三面に写真入りで次の記事が出る。

農村文化の創造に努む/花巻の青年有志が/地人協会を組織し/自
然生活に立返る

花巻川口町の町会議員であり且つ同町の素封家の宮沢政次郎氏長男
賢治氏は今度花巻在住の青年三十余名と共に羅須地人教会を組織し
あらたなる農村文化の創造に努力することになった。地人協会の趣
旨は現代の悪弊と見るべき都会文化に対抗し農民の一大復興運動を
起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始
人の自然生活にたち返らうといふのである。これがため毎年収穫時
には彼等同志が場所と日時を定め耕作によって得た収穫物を互ひに
持ち寄り有無相通ずる所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音
楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふの
である。目下農民劇第一回の試演として今秋「ポランの広場」六幕
物を上演すべく夫々準備を進めているが、これと同時に協会員全部
でオーケストラーを組織し、毎月二、三回づゝ慰安デーを催す計画
で羅須地人教会の創設は確に我が農村文化の発達上大なる期待がか
けられ、識者間の注目を惹いている。(写真。宮沢氏、氏は盛中を
経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農学校で教鞭をとっていた人)

 協会員伊藤克己によると、賢治は「其の晩新聞を見せて重い口調
で誤解を招いて済まない」と言いオーケストラを一時解散し、集会
も不定期になったという。誤解云々は思想問題を指すもので、社会
主義教育を行っているとの風評もあり、日時不明(三月か)である
が、花巻警察署長伊藤儀一郎の事情聴取があったためと思われる。

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2月
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12日、「一〇〇一 汽車」「一〇〇一 〔プラットフォームは眩
くさむく〕」

17日、本日付「岩手日報」四面「文芸」欄「岩手文壇の情勢/現
代三か動静録 白雲居士」で「岩手文壇に於てはやはり盛岡ついで
花巻が一番にぎやかな様だ。筆頭としては先輩詩人宮沢賢治氏がい
る。氏は大正十三年詩集『春と修羅』童話集『注文の多い料理店』
等を出版し、当時詩集『春と修羅』をして一流詩人佐藤惣之助氏が
東京読売新聞紙上に於て堂々と批評したことなどは実に人目を引い
たものだった。唯今は同町郊外の別荘に引きこもり黙々として何か
お仕事を続けられている。」と紹介される。なお、「読売新聞」で
批評したのは辻潤である。

 同日「岩手日報」夕刊一面「展望台」(読者投稿欄)に次の投書
が掲載される。

「農村文化について

貴紙一日の記事によれば花巻川口町の宮沢氏地人協会を組織し農村
文化に努力せらるゝ由我々日々の生活に追われ人間並に子弟の教育
もできる五反百姓も一の指導者を得た心地して力強く感ぜられます。
農村問題も十数年来耳にしました。さりながら多くは長袖者の論で
一時の受け売位で一貫して真に農村の為に論ぜらるゝものは二三を
除いてありません。

況んや身自ら農民生活をあてつゝの指導者なとは全く暁天の星です。
悪口に土百姓の言葉があります、此の一事以て農民生活の如何なる
ものであるか想像さるゝでせう。宮沢氏及び協会青年諸氏飽く迄目
的の為に奮闘せられ此の枯れ果てたる農村より貧と無学を一掃せら
れ、せめて地平線にまでいでしめる様一の波動を起こして下さい。
序に貴社にも地方新聞として農民文明の為に助力を惜まれざらん事
を望みます。(菊地生)」

18日、「一〇〇二 〔氷のかけらが〕」「一〇〇三 実験室小景」

21日、本日付発行の「銅鑼」10号に「冬と銀河ステーション」
発表。

27日、この日付で「規約ニヨル春ノ集リ」の案内葉書を作成し、
発送する。(書簡226a)

日付不明、「一〇〇三 ソックスレット」

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3月
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本日付発行の「詩神」三巻三号に佐藤惣之助が回想「詩戯と懐旧−
大正詩壇回顧」を発表し、「寄贈されたしみしみ澄んだ記憶にある
もの」の中に『春と修羅』をあげる。また、中西悟堂も同じく「大
正詩壇の回顧」で「記憶」にある詩集に数える。

 さらに、本日付発行の「太平洋詩人」二巻三号に草野心平が「二
月六日」を発表。その中で「宮沢賢治は銅鑼に於ける不可思議な鉱
脈である」として伝聞を記し、かつ詩集『春と修羅』の取次ぎを表
明する。

4日、「一〇〇四 〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕」

 2月27日付案内による「春ノ集リ」が開かれたと見られる。湯
口村(現花巻市)堰田の高橋末治の日記によると「組内の人六人宮
沢先生に行き地人を始めたり 我等も会員と相成る」

8日、1月31日付「岩手日報」夕刊三面の記事を見た盛岡高農農
学別科の学生松田甚次郎の訪問を受ける。農学別科というのは「実
地ニ経学シ農民ヲ指導シ、以テ農村ヲ振興セシメントスルモノニ必
要ナル学術技芸」を習得する一年制で、松田は3月卒業の予定であ
った。

15日、「一〇〇五 〔鈍い月あかりの雪の上に〕」「一〇〇六 
〔こんやは暖かなので〕」

16日、「一〇〇七 〔たんぼの中の稲かぶが八列ばかり〕」「一
〇〇八 〔土も掘るだらう〕」

 石鳥谷、田屋農園の菊地信一へバラの苗の到着を知らせる(書簡
227)。「廿日なればみんなも集っていませう。」とあるので、20
日が羅須地人教会の例会であることがわかる。

19日、「一〇〇九 運転手」「一〇一〇 〔火がかゞやいて〕」
「一〇一一 〔ひるすぎになってから〕」

20日、羅須地人教会集会。講義は「エスペラント」か。

21日、「一〇一二 〔甲助 今朝まだくらぁに〕」「一〇一三 
〔洪積世が了って〕」

23日、「一〇一四 春」「一〇一五 バケツがのぼって〕」

26日、「一〇一六 〔黒つちからたつ〕」

27日、「一〇一七 開墾」

28日、「一〇一八 〔黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり〕」
「一〇一九 札幌市」「一〇二〇 〔労働を嫌忌するこの人たちが〕」
「一〇二一 〔あそこにレオノレ星座が出てる〕」

31日、「〔いくつかの 天末の白びかりする環を〕」

 「文語詩篇」ノートに「三月末 藤原」のメモがある。「座談会
・賢治素描」中、藤原嘉藤治のことばに、ロシアのオペラがきてい
たときの話です。二人でそれを見に行こうではないか、ということ
にな率した。」とある。

 ロシア歌劇団の来日公演はこの年4月26日から5月5日帝国劇
場で、3月は10日から29日までカービ・イタリア歌劇団が来日、
帝国劇場で公演した。どちらかの記憶違いか、とにかく上京しよう
と駅まできたがお互いに資金不足、時計を売っても不足のため残念
会を精養軒で行った。そのとき歯の美しい女性がサービスにあらわ
れ、折から藤原は女生徒のことであらぬ中傷をうけ憤激していたこ
ともあって、「この人は、ぼくの好きなタイプの女性だ」といった
ことから、たちまち賢治に「好きなら結婚しろ」、ここでハッキリ
返事しろ」と詰めよられた。藤原は一瞬、ここが人生の転機と思い
「えがべ、もろうべ」と断言した。その女性は青森県十二里村(現
藤崎町)の小野キコといい、賢治はまもなく彼女の実家を訪ねて話
をまとめてきた。

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3月、金融恐慌はじまる
5月、リンドバーグ、大西洋横断飛行、山東出兵
6月、ジュネーヴ軍縮会議
7月、願教時住職島地大等死去
8月、中国共産党南昌武装蜂起
12月、花巻−釜石間鉄道建設閣議決定

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高村光太郎「ロダン」
佐藤紅緑「あゝ玉杯に花うけて」連載開始
岩波文庫刊行開始
芥川龍之介自殺
徳富蘆花没
八木重吉没
「キンダーブック」創刊
ブルースト「失われた時を求めて」

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政次郎 53歳 12月、町育英会理事を退任

イチ 50歳 

シゲ 26歳 8月、長女フミ出生

清六 23歳

クニ 20歳

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一〇〇一
     〔プラットフォームは眩くさむく〕
                    一九二七、二、一二、
 

プラットフォームは眩くさむく
緑に塗られたシグナルや
きららかに飛ぶ氷華のなかを
あゝ狷介に学士は老いて
いまは大都の名だたる国手
昔の友を送るのです
……そのきらゝかな氷華のはてで
小さな布の行嚢や
魚の包みがおろされますと
笛はおぼろにけむりはながれ
学士の影もうしろに消えて
しづかに鎖すその窓は
鉛のいろの氷晶です
  かがやいて立つ氷の樹
  蒼々けぶる山と雲
  一つら過ぎゆく町のはづれに
  日照はいましづかな冬で
  車室はあえかなガラスのにほひ
  髪をみだし黒いネクタイをつけて
  朝の光にねむる写真師
  東の窓はちいさな塵の懸垂と
  そのうつくしいティンダル効果
  客はつましく座席をかへて
  双手に二月のパネルをひらく
しづかに東の窓にうつり
いちゐの囲み池をそなへた小さな医院
その陶標の門をば斜め
客は至誠を面にうかべ
体を屈して殊遇を謝せば
桑にも梨にもいっぱいの氷華

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一〇〇八
     〔土も掘るだらう〕
                     一九二七、三、一六、

土も掘るだらう
ときどきは食はないこともあるだらう
それだからといって
やっぱりおまへらはおまへらだし、
われわれはわれわれだと
  ……山は吹雪のうす明り……
なんべんもきき
いまもきゝ
やがてはまったくその通り
まったくさうしかできないと
  ……林は淡い吹雪のコロナ……
あらゆる失意や病気の底で
わたくしもまたうなづくことだ

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一〇一二
     〔甲助 今朝まだくらぁに〕
                    一九二七、三、二一、

甲助
今朝まだくらぁに
たった一人で綱取さ稼ぐさ行ったでぁ
  ……赤楊はみんな氷華がついて
    野原はうらうら白い偏光……
唐獅子いろの乗馬ずぼんはぃでさ
新らし紺の風呂敷しょってさ
親方みだぃに手ぶらぶらど振って行ったでぁ
  ……雪に点々けぶるのは
    三つ沢山の松のむら……
清水野がら大曲野がら後藤野ど
一人で威張って歩って
大股にいくうぢはいがべぁ
向ふさ着げば撰鉱だがな運搬だがな
夜でば小屋の隅こさちょこっと寝せらへで
ただの雑役人夫だがらな
  ……江釣子森が
    ぼうぼうと湯気をあげて
    氷酢酸の塊りのやう……
あらがだ後藤野さかがったころだ

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一〇一九
     札幌市
                    一九二七、三、廿八、

遠くなだれる灰光と
貨物列車のふるひのなかで
わたくしは湧きあがるかなしさを
きれぎれ青い神話に変へて
開拓紀念の楡の広場に
力いっぱい撒いたけれども
小鳥はそれを啄まなかった

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[225] 1927年1月30日 伊藤清一あて 封書

(表)花巻川口町十二丁目 伊藤清逸様
(裏)桜 宮沢賢治拝(封印)〆

  伊藤清逸様

宮沢賢治

先刻は失礼いたしました。

その節お話のありまし南城での農事講話の件あとで考へて見ますと
私は三年ほど前やはりあの場所で土壌肥料のことを一日間申して居
りますし第一あまり地元で殊にさうでなくても只今の仕事が学校や
役所へ挑戦的でありますので今度また出ましては何とも不遜の譏を
免れません。且つ正直を申せば私ももうそろそろ一科の学にまとま
りを付けなければなりませんので誰かそんな農芸化学的なことを専
攻にこの土地でやって呉れる人がないかせっかく考へてゐるのであ
ります。

就ては今度は何卒

   農事試験場本場  工藤藤一氏
   当地農学校    工藤又治氏
   水沢農学校(当町出身)那須川郁氏

の御三名中からご都合宜しいお方をご依頼下さるやうおねがひいた
したう存じます。お互いはどうせ百姓ですから百姓らしく春になっ
たらまたいろいろ往復して研究もいたしませう。

   一月三十日夕。

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[227] 1927年3月16日 菊地信一あて 葉書

   稗貫郡石鳥谷 田屋農園 菊地信一様
   三月十六日 岩手県稗貫郡下根子羅須地人協会

ばらの苗が来て居ります。廿日なればみんなも集ってゐませう。お
知らせまで。

--〔文語詩稿一百編(96)〕----------------------------------
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(本文)
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     風底

雪けむり閃めき過ぎて、  ひとしばし汗をぬぐへば、

布づつみになふ時計の、  リリリリとひゞきふるへる。

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※定稿以外に下書稿なし。「ふるへる」は当初「ふるえる」と記載
後訂正。それ以外に推敲なし。

--〔後記〕--------------------------------------------------

 珍しく台風が岩手県に上陸して、相当な被害が出ているようです。
花巻あたりは無事だったでしょうか。被害に会われた方々には、お
見舞い申し上げます。

 いよいよ9月になり、定期大会ももうすぐです。いつも花巻農高
のりんごを会場で買うのですが、昨年はとても出来が悪かったです。
今年は天候的にどうなのでしょうね。

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