-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=--=/=-=/=-=/
--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第914号--2016.08.27------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(50)1926年-4」「〔商人ら やみていぶせきわれをあざみ〕」

-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=--=/=-=/=-=/
-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(50)1926年-4」
------------------------------------------------------------

 羅須地人教会時代の始まりである1926年も今回でおしまいです。
「大正」から「昭和」に変わった年なんですが、12月も末になっ
てやっと昭和になります。大正天皇崩御は12月25日ですので、昭和
元年は一週間ほどしかありませんでした。昭和の最後、昭和64年も
年初の一週間ほどでしたから、昭和年間は実質62年ということです。

 秋から年末にかけてのできごとでは、12月に東京に行っているこ
とが目立ちます。

 何を思ったのか、セロのレッスンを受けたり、エスペラントを習
ったりしています。

 「音楽まで余計な苦労をするとお考へではありませうがこれが文
学殊に詩や童話劇の詞の根底になるものでありまして、どうしても
要るのであります。」

 と父に書き送っていますが、何だかよくわからない話です。

 もっとも、賢治が留守にしてい間も、賢治の教え子たちは賢治の
家に勝手に出入りして楽しんでいたといいますから、賢治ひとりが
焦っていたということなのでしょう。

 エスペラントの話もここで初めて出てきました。私も中学生のこ
ろ少しかじったことがあるのは、賢治の影響なのかどうか、よく覚
えていません。

 私の少年時代にはもう実質的な役目を終えていたと思いますが、
賢治が習っていた時代にはまだ将来性のある話と考えられていたの
でしょう。

 賢治童話の中に、エスペラント風の固有名詞はよく出てきます。
これを「利用」したのがJR釜石線の各駅につけられているエスペ
ラント風の愛称です。

 花巻駅と新花巻駅の間にある「似内(にたない)」駅が海岸を意
味する愛称になっているのは、もちろん近くに「イギリス海岸」が
あるからですね。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

JR釜石線営業所管内 エスペラント愛称駅名一覧
http://tossy.road.jp/jrklesn.html

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

花巻 チェールアルコ(虹)Cielarko
似内 ラ マールボルド(海岸)La Marbordo
新花巻 ステラーロ(星座)Stelaro
小山田 ルーナ ノクト(月夜)Luna Nokto
土沢 ブリーラ リヴェーロ(光る川)Brila Rivero
晴山 チェリーズ アルボイ(桜並木)Ceriz-arboj
岩根橋 フェルヴォイポント(鉄道橋)Fervojponto
宮守 ガラクシーア カーヨ(銀河のプラットホーム)Galaksia Kajo
柏木平 グラーノイ(どんぐり)Glanoj
鱒沢 ラクタ ヴォーヨ(天の川)Lakta Vojo
荒谷前 アクヴォラード(水車)Akvorado
岩手二日町 ファルミスタ ドーモ(農家)Farmista Domo
綾織 テクシーロ(機織り機)Teksilo
遠野 フォルクローロ(民話)Folkloro
青笹 カパーオ(カッパ)Kapao
岩手上郷 ツェルヴォダンツォ(鹿踊り)Cervodanco
平倉 モンタ ディーオ(山の神)Monta Dio
足ヶ瀬 モントパセーヨ(峠)Montopasejo
上有住 カヴェルノ(洞窟)Kaverno
陸中大橋 ミナージョ(鉱石)Minajo
洞泉 ツェルヴォイ(鹿)Cervoj
松倉 ラ スーダ クルーツォ(南十字星)La Suda Kruco
小佐野 ヴェルダ ヴェント(緑の風)Verda Vento
釜石 ラ オツェアーノ(大洋)La Oceano
両石 フィッシハヴェーノ(漁港)Fishaveno
鵜住居 プラージョ(砂浜)Plago
大槌 ルーモトゥーロ(灯台)Lumoturo
吉里吉里 レジョランド(王国)Regolando
浪板海岸 オンドクレストイ(波頭)Ondokrestoj

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

【6月12日】世界共通言語の夢、エスペラントの日
http://kyowanannohi.blog.fc2.com/blog-entry-113.html?sp

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 本日、6月12日はエスペラントの日です。今ではあまり聞かれな
いエスペラント語ですが、ご存知でしょうか。
    
 1880年代にユダヤ系ポーランド人のラザロ・ルドヴィコ・ザメン
ホフという人が、世界共通の国際語をつくろうと提唱したことより
始まりました。日本でも1906年に日本エスペラント協会が設立され
ます。6月12日はその設立記念日なんですね。

 共通語というと「英語」を国際共通語として当然視してしまいが
ちですが、それへの反発が国際補助語としてこのエスペラントを持
ち出しています。

 日本では、ちょうど2つの世界大戦の間での平和主義や反差別思
想を掲げるこの国際共通語というエスペラントに共鳴する著名人や
団体の支持もあり、多いに流行りました。

 有名なのは宮沢賢治で、その童話でよくエスペラント語が出てき
ます。

 主に東北地方の地名をエスペラント風にした架空地名を作中に登
場させていました。

 例えば
「イーハトーヴォ」→岩手県
「シオーモ」→ 塩竈市
「センダード」→ 仙台市
「ハームキア」→花巻市
「モリーオ」→盛岡市 など

 劇場用アニメ映画「銀河鉄道の夜」では、劇中に登場する文字は
全てエスペラントでだそうです。

 また、当時、日本最大の宗教団体の大本教の出口王仁三郎という
教祖も、このエスペラントの思想に共鳴し海外から講師を呼び寄せ、
信者たちにも学ばさせたといいます。

 エスペラントの長所は人工言語であることから、文法は論理的で
規則的がしっかりしているので学びやすいということがあります。
また、単語の語幹の8割はラテン語やロマンス語から取り入れられ
ていますが、そのほかにもギリシャ語、ロシア語、ドイツ語、英語
の単語をもとにしていますので、他の言語も学びやすいという特徴
があります。もちろん日本語が基になったエスペラント語もありま
す。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

--〔1926年-4〕----------------------------------------------
30歳(大正十五年、昭和元年)
------------------------------------------------------------
10月
------------------------------------------------------------

1日、本日付発行の「銅鑼」8号に「ワルツ第CZ号列車」を発表。
さの作品は前年9月「貌」1巻3号に発表したものである。

 また、本日付発行の「日本詩人」10月号に掲載の通信「岩手詩
界」で賢治に言及。

9日、「七四一 煙」「七四一 白菜畑」

10日、「七四二 圃道」

11日、高村光太郎より水野葉舟にあてた葉書に「宮沢氏からの本
先日女中さんに託しましたが、此前の「注文の多い料理店」は黄瀛
君に返却しなければなりませんから、お手許へ出して置いて下さい。」
とある。「女中さんに託し」たのは、水野葉舟の「希望であらため
て賢治から贈られた『注文の多い料理店』の署名本」で、賢治が依
頼に応じて光太郎あてに送ったのである。また光太郎が先に水野に
貸していた『注文の多い料理店』は黄瀛からの借用本であったこと
がわかる。

13日、「七四三 盗まれた白菜の根へ〕」

14日、岩手軽便鉄道に勤め、同人雑誌「自画像」による安藤忠喜
が訪ねてくる。このとき安藤に「今の農村は貴君方を要求していま
す。会社をやめられて真剣に農業をおやりなさい」といい、開墾地
に植えた白菜(安藤の記述では「玉菜」)をぬすまれたことを「中
に大きいのが二つあったのでフランスの宮殿の柱にたとえていまし
たところ、私の気持ちを知らない者が昨夜盗んで行ってしまいまし
たが、その泣声が聞こえるようです」と語る。

31日、この日花巻朝日座に於いて労農党稗和支部が30余名で結
成された。高橋慶吾もそのひとりであった。後、党事務所が賢治の
世話で仲小路(現仲町)にあった通称宮沢町の宮右の長屋にでき、
肥料設計をたのむ農民たちは賢治が上町(かみちょう)に開いた相
談所が近かったので両方に出入りした、という。

------------------------------------------------------------
11月
------------------------------------------------------------

1日、本日付発行の「詩神」11月号に発表した「雑感一束」で秋
葉淑が「宮沢賢治! 彼は真に驚異すべき詩人だ。」と評する。

4日、「七四四 病院」

15日、「七四五 〔霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ〕」の中に、
「おれの病気の間の幾つもの夜と昼とを/よくもあんなに光ってな
がれつゞけたものだ」という一節があり、4日以降数日間入院した
と推察。

22日、この日付の謄写版刷り案内状を発送。また夕刻、近くの伊
藤忠一方へ持参し、配るように依頼。内容は次のとおり。

------------------------------------------------------------

一、今年は作柄も悪く、お互ひ思ふやうに仕事も進みませんでした
が、いづれ、明暗は交替し、新らしいいゝ年も来ませうから、農業
全体に巨きな希望を載せて、次の支度にかかりませう。

二、就て,定期の集りを、12月1日の午後1時から4時まで、協
会で開きます。日も短しどなたもまだ忙しいのですから、お出なら
ば必ず1時までにねがひます。弁当をもってきて、こっちでたべる
もいいでせう。

三、その節次のことをやります。予めご準備ください。

 冬間製作品分担の協議
 製作品、種苗等交換売買の予約
 新入会員に就ての協議
 持寄販売…本、絵葉書、楽器、レコード、農具、不要のもの何で
も出してください安かったら引っ込ませるだけでせう、…

四、今年は設備が何もなくて、学校らしいことはできません。けれ
ども希望の方もありますので、まづ次のことをやってみます。

 11月29日午前9時から

 われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのもの
にできるのか  一時間
 われわれに必須な化学の骨組み  二時間

 働いてゐる人ならば、誰でも教へてよこしてください。

五、それでは御健闘を祈ります。          宮沢賢治

------------------------------------------------------------

29日、22日付案内状による羅須地人教会講義、午前9時より3
時間。このとき「肥培原理習得上必須ナ物質の名称」の謄写版刷り
を配布。

11月、盛岡高等農林学校の同期生、同人誌「アザリア」の仲間で
もあった小菅健吉が来る、小菅は1918年渡米し、土壌細菌学を
専攻、各地大学で勉強しこの10月帰朝した。盛岡の母校へ帰国報
告に赴き、帰途旧交を温めるべく立ち寄り一泊した。小菅の文章に
よると、「容姿、風采など実に無頓着、そのあたりの百姓男とかわ
りない様子をしていた。秋の終りだと云うのに麦わら帽子をかぶっ
ていた。花売りに行っても西洋草花などあまり売れない様であった。」
とあり、世界の人に解ってもらうようエスペラントで発表するため、
その勉強をしている、と言ったという。

 帰るとき一席設け、後任の農学校教諭工藤又治(旧姓佐々木、盛
岡高農同期生)を呼び、三人で語りあった。

11月末、賢治の寄稿をえた「反情」の発行者梅野啓吉の弟梅野建
造が「降り続いた小雪もやみ、よく晴れた午さがり」賢治をたずね、
『春と修羅』をめぐって対話。刊行開始直後の雑誌「無名作家」へ
の寄稿を依頼する。

------------------------------------------------------------
12月
------------------------------------------------------------

1日、本日付発行の「銅鑼」9号に「永訣の朝」発表。既刊の『春
と修羅』に発表済なので転載されたものかと思われる。なお「銅鑼」
のこの号は編集者草野心平、発行者手塚武となっている。また「後
記」で『春と修羅』を「特別値引きし一円五拾銭とし」て取次ぐと
している。

 この日、11月22日付案内による定期の集りが開催されたと見
られる。

 伊藤克己「物々交換会のような持寄競売をやった事がある。その
時の司会者は菊地信一さんであの人にしては珍しく躁いで、皆を笑
わしたものである。主として先生が多く出して色彩の濃い絵葉書や
浮世絵、本、草花の種子が多かったようである。」

 高橋慶吉「大正15年12月1日の会合に私も来ていいかと聞い
たら、百姓本位の会だから町の人はただ参観してくれといわれた。」

2日、セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日
で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。

 「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる、君もヴァイオ
リンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからも
う帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れ
がたく冷たい腰かけによりそっていた。

3日、着京し、神田錦町3丁目19番地、上州屋の二階六畳に下宿
をきめ、勉強の手筈もととのえる。夕刻日本橋区本石町の小林六太
郎家を訪い、香水・粉石鹸のことをきき、夕食のもてなしをうけ、
ふとんを貸してもらうことにした。(書簡220)

4日、前日の報告を父へ書き送る。(書簡220)

12日、午後、神田のYMCAタイピスト学校で知り合ったシーナ
というインド人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出席する。フィン
ランド公使で言語学者のラムステットの日本語講演があり、その後
公使に農業問題、とくにことばの問題について意見をきき、エスペ
ラントで著述するのが一番だといわれる。この人に自分の本を贈る
ためにもう一度公使館へ訪ねたい、ついては土蔵から童話と詩の本
各4冊ずつ送ってほしい旨を父へ依頼する。(書簡221)

 なお上京以来の情況は、上野の帝国図書館で午後2時頃まで勉強、
そのあと神田美土代町のYMCAタイピスト学校、ついで数寄屋橋
そばの新交響楽団練習所でオルガンの練習、つぎに丸ビル8階の旭
光社でエスペラントを教わり、夜は下宿で復習、予習をする、とい
うのが決めたコースであるが、もちろん予定外の行動もあった。観
劇やセロの特訓がそうである。

 上京20日間のうちに築地小劇場を二度見た。歌舞伎座の立見も
した。

15日、父あてに状況報告し、小林六太郎方に費用200円預けて
ほしいと依頼。(書簡222)

20日前後、父へ返信(書簡223)。重ねて200円を小林六太郎
が花巻へ行った節、預けてほしいこと、既に90円立替えてもらっ
ていること、農学校へ画の複製57葉額縁大小2個を寄贈したこと
を知らせる。

23日、父あて報告(書簡224)。調べもだんだん片付き重荷もお
りたような気のすること、21日小林家から20円だけ受けとった
こと、29日の夜発つことをしらせる。

 賢治不在中の羅須地人教会には伊藤克己らが自由に集まって、日
当たりのよい二階部屋で本棚から本をひきだし、読書や雑談にすご
していた。

12月、滞京中に本郷の高村光太郎を訪問したと推定。なおまた、
川崎の佐藤惣之助のもとも訪れたか。

------------------------------------------------------------

3月、労働農民党結成
8月、日本放送協会創立
10月、新交響楽団(後のNHK交響楽団)結成゛
  明治神宮外苑完成
  労働農民党盛岡支部創立
12月、大正天皇崩御。
  摂政裕仁親王が即位。元号は「昭和」となる

県下旱害、水害多し

------------------------------------------------------------

川端康成「伊豆の踊り子」
尾形亀之助編集「月曜」創刊
中野重治・堀辰雄ら「驢馬」創刊
尾崎放哉句集「大空」
ヘミングウェイ「日はまた昇る」
吉田一穂「海の聖母」
伊藤整「雪明りの森」
佐藤惣之助「情艶詩集」
村上鬼城「鬼城句集」

------------------------------------------------------------

政次郎 52歳 4月1日、花巻町町会議員当選、同じく花巻町学
務委員に委嘱される。11月3日、方面委員として高松宮殿下より
表彰される。

イチ 49歳 

シゲ 25歳

清六 22歳 3月31日、除隊。5月、従来の古着、質商をやめ、
店の北半分をこわし南の店半分を移し宮沢商会を開業。鉄材、セメ
ント、釘、針金など建築材料の卸し小売、またモーターやラジオを
扱う。後に自動車部品、タイヤなども販売し、1942年まで17年間経
営。この年花巻在郷軍人会理事。後に副分会長。

クニ 18歳

------------------------------------------------------------
七四〇
     秋
                    一九二六、九、二三、

江釣子森の脚から半里
荒んで甘い乱積雲の風の底
稔った稲や赤い萱穂の波のなか
そこに鍋倉上組合の
けらを装った年よりたちが
けさあつまって待ってゐる
 
恐れた歳のとりいれ近く
わたりの鳥はつぎつぎ渡り
野ばらの藪のガラスの実から
風が刻んだりんだうの花
  ……里道は白く一すじわたる……
やがて幾重の林のはてに
赤い鳥居やスバルの塚や
おのおのの田の熟した稲に
異なる百の因子を数へ
われわれは今日一日をめぐる
 
青じろいそばの花から
蜂が終りの蜜を運べば
まるめろの香とめぐるい風に
江釣子森の脚から半里
雨つぶ落ちる萱野の岸で
上鍋倉組合の年よりたちが
けさあつまって待ってゐる

------------------------------------------------------------
七四一
     白菜畑

霜がはたけの砂いっぱいで
エンタシスある柱の列は
みな水いろの影をひく
十いくつかのよるとひる
病んでもだえてゐた間
こんなにつめたい空気のなかで
千の芝罘白菜は
はぢけるまでの砲弾になり
砲頭連の七百は
立派なパンの形になった
こゝは船場を渡った人が
みんな通って行くところだし
川に沿ってどっちへも抜けられ
崖の方へも出られるので
どうもこゝへ野菜をつくっては
盗られるだらうとみんなで云った
けれども誰も盗まない
季節にはひとりでかういふに熟して
朝はまっ白な霜をかぶってゐるし
早池峰薬師ももう雪でまっしろ
川は爆発するやうな
不定な湯気をときどきあげ
燃えたり消えたりしつづけながら
どんどん針をながしてゐる
病んでゐても
あるひは死んでしまっても
残りのみんなに対しては
やっぱり川はつづけて流れるし
なんといふいゝことだらう
あゝひっそりとしたこのはたけ
けれどもわたくしが
レアカーをひいて
この砂つちにはいってから
まだひとつの音もきいてゐないのは
それとも聞こえないのだらうか、
巨きな湯気のかたまりが
いま日の面を通るので
柱列の青い影も消え
砂もくらくはなったけれども

-----------------------------------------------------------
七四三
     〔盗まれた白菜の根へ〕
                   一九二六、一〇、一三、

盗まれた白菜の根へ
一つに一つ萱穂を挿して
それが日本主義なのか

水いろをして
エンタシスある柱の列の
その残された推古時代の礎に
一つに一つ萱穂が立てば
盗人ぬすびとがここを通るたび
初冬の風になびき日にひかって
たしかにそれを嘲弄する
さうしてそれが日本思想
彌栄いやさか思想の勝利なのか


------------------------------------------------------------
七四二
     圃道
                    一九二六、一〇、一〇、
 

水霜が
みちの草穂にいっぱいで
車輪もきれいに洗はれた
 
ざんざんざんざん木も藪も鳴ってゐるのは
その重いつめたい雫が
いま落ちてゐる最中なのだ
 
霧が巨きなこゞりになって
太陽面を流れてゐる
さっき川から炎のやうにあがってゐた
あのすさまじい湯気のあとだ
 
気管がひどくぜいぜい云ふ
かういふぜいぜい鳴る胸へ
焼酎をすこし呑みたいと思ひ
ふかした芋をたべたいと思ひ
町に心を残しながら
野菜を売った年老りたちが
みなこの坂を帰ったのだ

------------------------------------------------------------
[220](1926年12月4日)宮澤政次郎あて 封緘葉書

(表)岩手県花巻川口町 宮沢政次郎様
(裏)神田錦町三丁目十九番地 上州屋内 宮沢賢治

お蔭で出京もいたし覚えたいものの手筈も整へました。表記二階の
六畳に間借りして当分はまづ図書館と講習へ通ひます。小林様へも
夕刻参り香水のこと粉石鹸のこといろいろ伺ひました。夕食をご馳
走になり明日布団も届けて貸して下さるとのことまことにいろいろ
お世話になりました。

じつにお蔭で生き生きと語から風物から往来や新らしい本を読むや
うに吸収いたして居ります。

------------------------------------------------------------
[221] 1926年12月12日 宮沢政次郎あて 封書

(表)岩手県花巻川口町 宮沢政次郎様
(裏)東京市神田錦町三ノ十九 上州屋内 宮沢賢治拝(封印)


今日は午後からタイピスト学校で友達になったシーナといふ印度人
の紹介で東京国際倶楽部の集会に出て見ました。あらゆる人種やそ
の混血児が集まって話したり音楽をやったり汎太平洋会のフォード
氏が幻燈で講演したり実にわだかまりない愉快な会でした。殊に私
は少し倶楽部の性質を見くびってこちらで買った木綿の仕事着を着
て行ったのでしたが行って見ると室もみな上等の敷物がありみんな
礼装をしてゐましたので初めは少々面くらひましたが退くにも退か
れず仕方なく臆面もなくやってゐましたら、そのうちフィンランド
公使が日本語で講演しました。それが尽く物質文明を排して新しい
農民の文化を建てるといふ風の話で耳の痛くないのは私一人、講演
が済んでしまふと公使はひとりあきらめたやうに椅子に掛けてしま
ひみんなはしばらく水をさされたといふ風でしたが、この人は名高
い博言博士で十箇国の言語を自由に話す人なので私は実に天の助け
を得たつもり、早速出掛けて行って農村の問題特にも方言を如何に
するかの問題を尋ねましたら、向かふも椅子から立っていろいろ話
して呉れました。やっぱり著述はエスペラントによるのが一番だと
も云ひました。私はこの日本語をわかる外人に本を贈りもう一度公
使館に訪ねて行かうと思ひます。どうか土蔵から童話と詩の本を四
冊ずつ小包でお送りを願ひます。

いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオル
ガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を
見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。新交響楽協会へ
私はそれらのことを習ひに行きました。先生はわたくしに弾けと云
ひわたくしは恐る恐る弾きました。十六頁たうたう弾きました。先
生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました。もうこれで
詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです。どうか遊び仕事だ
と思はないでください。遊び仕事に終るかどうかはこれからの正し
い動機の固執と、あらゆる慾情の転向と、倦まない努力とが伴ふか
どうかによって決まります。生意気だと思はないでどうかこの向い
た方へ向かせて進ませてください。実にこの十日はそちらで一ヶ年
の努力に相当した効果を与へました。エスペラントとタイプライタ
ーとオルガンと図書館と言語の記録と築地小劇場も二度見ましたし
歌舞技座の立見もしました。これらから得た材料を私は決して無効
にはいたしません、みんな新しく構造し建築して小さいながらみん
なといっしょに無上菩提に至る橋梁を架し、みなさまの御恩に報ひ
やうと思ひます。どうかご了解をねがひます。

   十二月十二日
------------------------------------------------------------
[222](1926年12月15日)宮澤政次郎あて 封書

(表)岩手県花巻川口町宮沢政次郎様
(裏)東京ニテ 賢治拝(封印)〆

御葉書拝見いたしました。小林様は十七日あたり花巻へ行かれるか
と存じます。わたくしの方はどうか廿九日までこちらに居るやうお
ねがひいたします。

図書館の調べものもあちこちの個人授業も訪問もみなその積りで日
程を組み間代授業料回数券などみなさうなって居りましていま帰っ
てはみな半端で大へんな損でありますから今年だけはどうか最初の
予定の通りお許しをねがひます。それでもずゐぶん焦って習ってゐ
るのであります。毎日図書館に午後二時まで居てそれから神田へ帰
ってタイピスト学校数寄屋橋の交響楽協会とまはって教はり午後五
時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生から
エスペラントを教はり、夜は帰って来て次の日の分をさらひます。
一時間も無効にしては居りません。音楽まで余計な苦労をするとお
考へではありませうがこれが文学殊に詩や童話劇の詞の根底になる
ものでありまして、どうしても要るのであります。もうお叱りを受
けなくてもどうしてこんなに一生けん命やらなければならないのか
とじつに情なくさへ思ひます。

今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目に
かけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもあ
りました。申しあげればわたくしの弱点が見えすいて情けなくお怒
りになるとも思ひますが第一に靴が来る途中から泥がはいってゐま
して修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを
買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころ
びて新らしいのを買ひました。授業料も一流の先生たちを頼んだの
で殊に一人で習ふので決して廉くはありませんでしたし布団を借り
るよりは得と思って毛布を二枚買ったり心理学や科学の廉い本を見
ては飛びついて買ってしまひおまけに芝居もいくつか見ましたした
うたうやっぱり最初お願ひしたくらゐかゝるやうになりました。ど
うか今年だけでも小林様に二百円おあづけをねがひます。けれども
いくらわたくしでも今日の時代に恒産のなく定収のないことがどん
なに辛くひどいことか、むしろ巨きな不徳であるやうのことは一日
一日身にしみて判って参りますから、いつまでもうちにご迷惑をか
けたりあとあとまで累を清六や誰かに及ぼしたりするやうなことは
決していたしません。わたくしは決して意思が弱いのではありませ
ん。あまり生活の他の一面に強い意思を用ひてゐる関係から斯うい
ふ方にまで力が及ばないのであります。そしてみなさまのご心配に
なるのはじつにこのわたくしのいちばんすきまのある弱い部分につ
いてなのですから考へるとじっさいぐるぐるして居ても立ってもゐ
られなくさへなります。どうか農具でも何でもよろしうございます
からわたくしにも余力を用ひて多少の定収を得られるやう清六にで
も手伝ふやうにできるならばお計ひをねがひます。それはまづ今月
末までにでもご相談くださればできなくても仕方ありません。まづ
は。

--〔文語詩稿一百編(95)〕----------------------------------
------------------------------------------------------------
(本文)
------------------------------------------------------------

     〔商人ら やみていぶせきわれをあざみ〕

商人ら やみていぶせきわれをあざみ、
川ははるかの峡に鳴る。

ましろきそらの蔓むらに、 雨をいとなむみそさゞい、
黒き砂糖の樽かげを、   ひそかにわたる昼の猫。

病みに恥つむこの郷を、
つめたくすぐる春の風かな。

------------------------------------------------------------
(定稿推敲前)
------------------------------------------------------------

商人ら やみていぶせきわれをあざけり、
川ははるかの峡に鳴る。

ましろきそらの蔓むらに、 雨をいとなむみそさゞい、
黒き砂糖の樽かげを、   ひそかにわたる昼の猫。

病みに恥つむこの郷を、
つめたくすぐる春の風かな。

------------------------------------------------------------
(「〔打身の床をいできたり〕」下書稿4)
------------------------------------------------------------

     米穀肥料商

打身のとこをいできたり
箱の火鉢にうちゐする

粉のたばこをひねりつゝ
見あぐるそらの雨もよひ

黒き砂糖の樽かげを
ひそかにわたるひるの猫

人なき店の春寒み
川ははるかの峡に鳴る

------------------------------------------------------------

※本稿は「〔打身の床をいできたり〕」の途中段階、下書稿4から、
定稿用紙に清書されたものである。

--〔後記〕--------------------------------------------------

 東日本はこのところ台風続きで大変ですね。今年は不思議なこと
に、恒例の「沖縄−九州」ルートには来ないです。おかげで大変暑
い…と言いたいところですが、今週は大連に行っていて、あちらは
もう涼しくて秋の気配濃厚でした。

------------------------------------------------------------
-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=--=/=-=/=-=/
--通巻--914号---------- e-mail why@kenji.ne.jp--------------
--発行--渡辺--宏------- URL http://why.kenji.ne.jp/
------------------------------------------------------------
 購読者数970名です。ご購読ありがとうございます。
------------------------------------------------------------
私あてのメールのあて先は、
why@kenji.ne.jp
私のホームページ(宮沢賢治童話館、全詩篇など)は
http://why.kenji.ne.jp/ です。
バックナンバーもすべて、このページで読めます。
【まぐまぐ】
このメールマガジンは、インターネットの本屋さん「まぐまぐ」を
利用して発行しています。( http://www.mag2.com/ )
マガジンIDは10987です。
このメールマガジンの登録や解除は
http://why.kenji.ne.jp/ です。
=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=-=/=--=/=-=/=-=/