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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第912号--2016.08.13------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(48)1926年-2」「庚申」

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-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(48)1926年-2」
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 3月末で農学校教諭を退職し、いよいよ「羅須地人教会時代」の
始まりです。

 「下根子桜の家」は今「賢治詩碑」の建っている場所にありまし
た。以前、妹トシが療養していた場所でもあります。

 賢治はここに一人で住むのですが、その前に改築などを行ってい
ます。

 「羅須地人教会」では仲間を集めて音楽をやったり、賢治が講義
をしたりしていたようですが、ほとんどが「下根子桜」の近所の若
者です。自家用車が当たり前の今と違って、農民の行動範囲はごく
小さかったのだと思います。賢治のように大きな行動範囲を持つ人
少数派で、このあたりの違いもこの後賢治を苦しめることになりま
す。

 また、6月には「一時恩給」520円をもらっています。退職時
に月給130円とありましたので、4カ月分です。「一時恩給」と
いうのは勤続年数が短く、「普通恩給」をもらう資格のない退職官
吏に一時金として支給されるもので、退職金のようなものと考えて
よいと思います。

 こうして「独居自炊」の生活に入るのですが、まもなく30歳に
なる賢治にとって、残された時間はあと7年、この時代の粗食や肉
体的な無理が賢治の寿命を縮めたことは間違いありません。

 「ぎちぎちと鳴る 汚い掌を、/おれはこれからもつことになる」
と言って、農民となることを目指した賢治です。両親も心配しなが
らも、息子の好きにさせるしかありませんでした。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

宮沢賢治の家・羅須地人協会@花巻市 [旅行先]
http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2011-07-21-3

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------
(羅須地人教会の建物の写真などがある)

 羅須地人協会と賢治のことを書いておきます。

 1896年(明治29年)生まれの宮沢賢治は、盛岡高等農林学校(現
岩手大学農学部)を1918年(大正7年)3月に卒業した。

 しばらくして1921年(大正10年)11月から稗貫農学校(現花巻農
業高等学校)教師となった。しかし1926年(大正15年)3月に、農
学校を退職してしまう。

 そして4月から、ここを改造して自給自足の生活を始めました。
それがこの「賢治先生の家」です。

 賢治はその5月から、周囲の人々を集めてレコードの鑑賞会や子
ども向けの童話の朗読会を始めたそうです。

 そしてその夏、周囲の若い農民と「羅須地人協会」を設立しまし
た。設立日は、旧盆の8月16日ということになっているとか。

 その「協会」は実質的には賢治1人による私塾だったようです。
賢治は、昼間は周囲の田畑で農作業をし(自給自足の生活ですから)、
夜には青年や篤農家を集めて、稲作法などの科学やエスペラント、
農業技術や自らが唱える「農民芸術」の講義をしました。

 この間に、賢治はチェロを購入して練習したそうです。

 しかし1927年(昭和2年)3月に羅須地人協会の活動に関して花巻
警察署長の聴取を受けたため、その3月で協会の活動を停止しまし
た。

 その後も賢治はこの別宅で独居生活をしながら農業指導を続けた
そうです。

 しかし1928年(昭和3年)夏に過労から病臥し、秋からは実家で
療養生活を送ることになった。

 そして1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去しました。享
年37という短い人生でした。

 ということなので、1926年4月から1928年秋までの2年半の間、
この別宅で独居生活していました。

 宮沢賢治記念館とは違った、賢治の1つの思いがこもった場です
ね。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

羅須地人協会
http://homepage2.nifty.com/K-Ohno/a-map/Iwate/3652-RK-association/02-RK.htm

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 「風の又三郎」や「セロ弾きのゴーシュ」など子どもの頃からの
イメージが時間の中で肉体化してしまっていたようで、賢治が暮ら
したその建物を目にした途端、胸が熱くなってしまった。

 実際に現地に行くとこういう思いもかけない感動があるので、今
という時間と場所の価値を信じたくなる。

 羅須地人協会は母方(この地の塩や油を一手に商う商家)の祖父
の隠居所だった所で何回かの移転の後にこの建物が今この地、花巻
農業高校に在る経緯なども賢治の夢見たイーハトーブだからなのか
も知れない。

 高校前庭の芝生に現れたその姿はなりよりも建物の印象が清らか
で慎ましく、四面それぞれが違った表情を持ち軽やかで明るい。

 賢治先生は何時ものように下の畑にいるらしい。中に入ると地人
(自分の住むこの地の人)に酸性土壌の改良方法を指導したり、近
くの農民達とオルガンの音色に耳を傾けたりした教室があり、その
教室に火鉢を囲んで輪になって置かれた丸椅子がある。

 ここを訪れてこの場所で、賢治と賢治がスケッチした心象を垣間
見ることが出来た人達がきっとたくさんいるに違いない。

建物名 羅須地人協会
設計者
所在地 岩手県花巻市葛1-68
花巻農業高校校庭内
着竣工

新築:1904年(明治37年)・隠居所として
譲渡移転:1936年(昭和11年)
移転復元:1969年(昭和44年)
再移転:1978年(昭和53年)
移転完:1979年(昭和54年)

用途 元:隠居所
   現在:賢治先生の家
概要 木造2階建
建坪 約18.7坪 述床 約23.7坪
最寄駅 JR花巻駅下車徒歩25分

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

--〔1926年-2〕----------------------------------------------
30歳(大正十五年、昭和元年)
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4月
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1日、豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊の生活に入る。

 協会の場所は、現在花巻市桜町と呼ばれているが、以前は稗貫郡
根子村で、1923年花巻川口町に編入、1929年花巻町と花巻川口町が
合併して花巻町となってからは旧根子村を南城と称した。南城は下
根子、西一二丁目、外台の三大字に分かれ、下根子は松原、向小路、
桜、諏訪、大谷地の五つの小字に分かれる。

 協会は桜の一部で最南端の崖上に位置し、ここを八景と呼んだ。
この付近は昔から河童沢といわれるほど、深い堰、古い沼、雑木林、
高い崖があり、キツネやフクロウが棲んだ。

 崖上から展望すると、眼下には古い沖積層の砂地の畑や不規則な
桑畑が点々とし、北上川がゆるやかに流れ、獅子鼻や二子の山、そ
の向こうには早池峰山が起伏なだらかな北上山地の最高峰として清
浄な姿を見せる。

 この日付の「岩手日報」三面に次の記事がある。

「新しい農村の/建設に努力する/花巻農学校を/辞した宮沢先生

 花巻川口町宮沢政次郎氏長男賢治氏は今回県立花巻農学校の教諭
を辞職し花巻川口町下根子に同士二十余名と新しき農村の建設に努
力することになった。きのふ宮沢氏を訪ねると

 現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまってゐるやうに考
へられます。そこで少し東京と仙台の大学あたりで自分の不足であ
つた「農村経済」について少し研究したいと思ってゐます。そして
半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち芸術の生涯を送り
たいものです。そこで幻燈会の如きは毎週のやうに開催するし、レ
コードコンサートも月一回位もよほしたいとおもっています。幸同
志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせしした努力
でつくりあげた農作物の物々交換をおこない、しづかな生活をつづ
けて行く考えです。

と語ってゐた。氏は盛中卒業後盛岡高等農林に入学し同校を優等で
卒業したまじめな人格者である」

4日、東京の森佐一あて手紙(書簡218)

「。学校をやめて今日で四日木を伐ったり木を植えたり病院の花壇
をつくったりしてゐました。もう厭でもなんでも村で働かなければ
ならなくなりました。」

 病院は佐藤隆房の花巻共立病院。短編「花壇工作」に描かれてい
る。

 なお、伊藤忠一の談話によると、下根子桜の家の改装のため、測
量をし地形をとったのがこの日であるという。

 下根子桜の家は1912年に祖父喜助が建てた家なのでかなり手入れ
が必要であったことと目的による改装もあり、大工の手を離れた後
は「多く自分一人でやった」という。

23日、詩の話を伊藤忠一にする。これが羅須地人教会としての会
合であったかどうかは不明。協会としての設立日も不明だが、賢治
の考えていた農村での活動の一部として伊藤に話をしたことは確か
であろう。

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5月
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2日、「七〇六 村娘」「七〇九 春」

15日、「七一一 水汲み」

 午後、斎藤宗次郎が訪ねてくる。その記述。「一風変った住宅や
怪しげな料理場深き井戸宏樹苗床など賢治さんの案内で見て廻って
後、応接間兼何々といったような室に導かれ、卓を囲んで四方山の
話に時折無邪気な哄笑を林間の鳥語に和せしめて喜び帰った。」

 伊藤忠一の談話によると、下根子桜の家でレコードコンサートを
はじめた第一回がこの日であったという。三、四人あつまり、その
後十数人になったという。

 伊藤克己によると一回目はベートーヴェンの交響曲やバッハのオ
ルガン曲などであったという。

 伊藤克己の「先生と私達」によると、「毎週火曜日の夜集まって
練習を続けた」とあり、そのメンバーは、

第一バイオリン  伊藤克己
第二バイオリン  伊藤 浩
〃        高橋慶吉
フリュート    伊藤忠一
クラリネット   伊藤与蔵
オルガン・チェロ 宮沢賢治

で、楽器は賢治の調達したものである。しかし音楽をやる者はほか
にマンドリン平来作、木琴渡辺要一がおり、時により増えたり減っ
たりしたようである。

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6月
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3日、本日付で、県知事あての「一時恩給請求書」が提出される。
申請書に履歴書二通が添付され、退職理由として「農民芸術研究ノ
為メ」と記す。申請を受けて県は6月7日に一時恩給520円を支
給した。

18日、「七一四 疲労」

20日、「七一五 〔道べの粗朶に〕」「七一八 蛇踊」

末ごろ、教え子菊地信一が、送られた地図を頼りに石鳥谷から下根
子の家を訪ねてくる。このとき賢治は机によってぐっすり眠ってい
た。陽にやけた顔、あみシャツを透してからわに見える黒い肩、蚊
にさされて黒点いっぱいの腕、破れたかかとの穴を反対に上にはい
た靴下、その穴からはヨードをぬった大きな切傷が見られた。菊地
の来訪を喜んだ賢治は、「最初の日はやっと二坪ばかり、その次の
日も二坪ちょっとばかり、何せ竹藪でね、夕方には腕はジンジン痛
む、然し今では十坪位は楽ですよ。体もなれてもうなんともない。」
と開墾のもようを語り、冷たいご飯に汁をかけ、たくあんをかじり
あった。そして、羅須地人教会を旧盆の16日に設立し、この日を
「農民祭日」とすること、「羅須」は花巻町を「花巻」というよう
なもので格別の意味はないと語った。

 開墾地は北上川の岸近い沖積土のいわゆる砂畑二反四畝歩ほどで、
家から二、三分で行けた。読書・執筆・訪問者の合間を見ては下の
畑へ降りて耕し、結球白菜、トウモロコシ、ジャガイモ、トマトな
どを育て、チューリップを咲かせ、畑のふちはアスパラガスで緑の
煙のように巻いた。

 花壇は家の空地につくられ、花の種はイギリスのサットン商会の
ものを横浜の店から取り寄せた。

 このころ、「農民芸術概論綱要」を書く。

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3月、労働農民党結成
8月、日本放送協会創立
10月、新交響楽団(後のNHK交響楽団)結成゛
  明治神宮外苑完成
  労働農民党盛岡支部創立
12月、大正天皇崩御。
  摂政裕仁親王が即位。元号は「昭和」となる

県下旱害、水害多し

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川端康成「伊豆の踊り子」
尾形亀之助編集「月曜」創刊
中野重治・堀辰雄ら「驢馬」創刊
尾崎放哉句集「大空」
ヘミングウェイ「日はまた昇る」
吉田一穂「海の聖母」
伊藤整「雪明りの森」
佐藤惣之助「情艶詩集」
村上鬼城「鬼城句集」

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政次郎 52歳 4月1日、花巻町町会議員当選、同じく花巻町学
務委員に委嘱される。11月3日、方面委員として高松宮殿下より
表彰される。

イチ 49歳 

シゲ 25歳

清六 22歳 3月31日、除隊。5月、従来の古着、質商をやめ、
店の北半分をこわし南の店半分を移し宮沢商会を開業。鉄材、セメ
ント、釘、針金など建築材料の卸し小売、またモーターやラジオを
扱う。後に自動車部品、タイヤなども販売し、1942年まで17年間経
営。この年花巻在郷軍人会理事。後に副分会長。

クニ 18歳

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七〇九
     春
                     一九二六、五、二、

陽が照って鳥が啼き
あちこちの楢の林も、
けむるとき
ぎちぎちと鳴る 汚い掌を、
おれはこれからもつことになる

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七一一
     水汲み
                    一九二六、五、一五、

ぎっしり生えたち萱の芽だ
紅くひかって
仲間同志に影をおとし
上をあるけば距離のしれない敷物のやうに
うるうるひろがるち萱の芽だ
   ……水を汲んで砂へかけて……
つめたい風の海蛇が
もう幾脈も幾脈も
野ばらの藪をすり抜けて
川をななめに遡って行く
   ……水を汲んで砂へかけて……
向ふ岸には
蒼い衣のヨハネが下りて
すぎなの胞子たねをあつめてゐる
   ……水を汲んで砂へかけて……
岸までくれば
またあたらしいサーペント
   ……水を汲んで水を汲んで……
遠くの雲が幾ローフかの
麺麭にかはって売られるころだ

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七一四
     疲労
                    一九二六、六、一八、

南の風も酸っぱいし
穂麦も青くひかって痛い
それだのに
崖の上には
わざわざ今日の晴天を、
西の山根から出て来たといふ
黒い巨きな立像が
眉間にルビーか何かをはめて
三っつも立って待ってゐる
疲れを知らないあゝいふ風な三人と
せいいっぱいのせりふをやりとりするために
あの雲にでも手をあてゝ
電気をとってやらうかな

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[218] 1926年4月4日 森佐一あて 封書

(表)東京府下淀橋柏木九九 有田順次様方 森佐一様
(裏)四月四日 花巻川口町 宮沢賢治(封印)〆

お手紙ありがたうございました。学校をやめて今日で四日木を伐っ
たり木を植えたり病院の花壇をつくったりしてゐました。もう厭で
もなんでも村で働かなければならなくなりました。東京へその前ち
ょっとでも出たいのですがどうなりますか。百たびあなたのご健勝
を祈ります。

--〔文語詩稿一百編(93)〕----------------------------------
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(本文)
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     庚申

歳に七度はた五つ、   庚の申を重ぬれば、
稔らぬ秋をかしこみて、   家長ら塚をおさめにき。

汗に蝕むまなこゆゑ、  ぼうの鎖の火の数を、
七つと五つあるはたゞ、 一つの雲と仰ぎ見き。

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(下書稿推敲後)
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     庚申

歳に七度はた五つ
庚の申を重ぬれば
稔らぬ秋をかしこみて
家長ら塚を理にき

汗に蝕むまなこゆゑ
昴の鎖の火の数を
七つと五つあるはたゞ
あるひは一つの雲と仰ぎ見き

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(下書稿推敲前)
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     庚申

歳に七度はた五度
庚は申と重なれば
もろびと巨き石とりて
稔らぬ秋をかしこみぬ

汗に蝕むまなこゆゑ
昴の鎖の火の数を
あるひは七や五と数へ
あるひは一つの雲と見る

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(先駆形口語詩「〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕」)
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五〇六
     〔そのとき嫁いだ妹に云ふ〕
                     一九二五、四、二、

そのとき嫁いだ妹に云ふ
十三もある昴の星を
汗に眼を蝕まれ
あるひは五つや七つと数へ
或ひは一つの雲と見る
老いた野原の師父たちのため
老いと病ひになげいては
その子と孫にあざけられ
死にの床では誰ひとり
たゞ安らかにその道を
行けと云はれぬ嫗のために
  ……水音とホップのかほり
    青ぐらい峡の月光……
おまへのいまだに頑是なく
赤い毛糸のはっぴを着せた
まなこつぶらな童子をば
舞台の雪と青いあかりにしばらく貸せと
  ……ほのかにしろい並列は
    達曾部川の鉄橋の脚……
そこではしづかにこの国の
古い和讃の海が鳴り
地蔵菩薩はそのかみの、
母の死による発心を、
眉やはらかに物がたり
孝子は誨へられたるやうに
無心に両手を合すであらう
     (菩薩威霊を仮したまへ)
ぎざぎざの黒い崖から
雪融の水が崩れ落ち
種山あたり雲の蛍光
雪か風かの変質が
その高原のしづかな頂部で行はれる
  ……まなこつぶらな童子をば
    しばらくわれに貸せといふ……
いまシグナルの暗い青燈

--〔後記〕--------------------------------------------------

 花巻あたりでは「石碑」をあちこちで見かけます。「湯殿山」や
「雷神」「庚申」なんかが多いです。「庚申」の日は60日に一回
廻ってきますので、だいたい年に6回なのですが、ときたま5回の
年や7回の年があります。今の暦では一年365日固定ですから、
5回ということはあり得ませんが、旧暦では一年は12カ月なので、
一年が10日ほど短く、5回の年もありました。短い分は数年に一
度、「閏月」を置いて調整する仕組みです。この「五庚申」「七庚
申」の年に庚申碑を建てたというわけです。

 航空券も「早割」が確保できて、9月21日〜23日の花巻行き
は確定です。その前に8月23日〜26日に久しぶりに大連に行き
ます。こちらはそろそろ引退の時期が来ているので、もうあまり行
かなくなる予定です。

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