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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第911号--2016.08.06------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(47)1926年-1」「〔日本球根商会が〕」

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-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(47)1926年-1」
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 今回から1926年です。この年は「大正十五年、昭和元年」とされ
る年ですが、実際に「昭和」になったのは12月のことなので、実
質的には「大正十五年」です。

 1926年から賢治の「羅須地人教会時代」が始まるわけですが、3
月までは花巻農学校教諭の職にありましたから、今回掲載の1〜3
月ではまだ教諭のままです。

 この時期に特筆すべきは、「国民高等学校」です。岩手ではこの
年だけでしたが、奇跡的に賢治の個人史にこういうものが登場して
きています。

 元々は勤労青年に対する教育という趣旨だったようですが、岩手
では当然ながら農民青年が対象でした。

 賢治はこの「学校」で11回の「講義」をしています。このとき
の資料が有名な「農民芸術概論綱要」です。

 賢治の残した原稿は主に童話と詩で、賢治の考えを具体的に書い
たものは少なく、賢治研究の初期のころから賢治の思想というとよ
く引用されてきた資料です。

 私もそれを否定するものではありませんが、賢治の「思想」を代
表するものではなく、あくまでこの時期の講義ためのメモだと割り
切った方がよいと考えています。

 また、この時期には「オツベルと象」「ざしき童子のはなし」と
いう重要な作品を雑誌で公表しています。遂に未発表に終った晩年
の大作も、このころすでに姿を現していたのだと思います。童話作
家宮沢賢治としても充実した時期だったのでしょう。

 国民高等学校の講義も終り、農学校の卒業式も終って、いよいよ
3月末で退職します。このときの最後の給与が130円とのことで
す。

 これより10年以上後の話ですが、朝ドラで主人公の給与が25
円とか30円とか言っていました。それと比べてもずいぶん高給だ
ったのだなと改めて思います。

 こういう境遇を捨てて、いったいどこに行こうと言うのか、つい
考えてしまいますね。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

国民高等学校における賢治
http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/7b802a3629ff8f417fdae884ef1825f8

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 また同じく前掲したように、伊藤清一によれば

 「日課の皇国運動(やまとばたらき)は、後に六原道場などに持ち
込まれた。目的は皇国精神を発揚することにあり、県当局にとって
は国策に沿った主要な訓練であったろう。」

ということであったが、たしかに六原道場の日課の中に「日本体操」
というものがあり、それは、石黒英彦の恩師でもあった先の筧克彦
の創案にかかわるもので、皇国運動からとり入れたものだったとい
うことだから、この国民高等学校の流れは皇国運動のみならずその
精神も少なからず「六原青年道場」や「岩手県立青年学校教員養成
所」に受け継がれていったに違いない。そして実は、戦時中この六
原道場は先の内原訓練所と併せて「南の内原、北の六原」と並び称
せられて、あどけない多くの少年達を「満蒙開拓青少年義勇軍」と
して満蒙に送り出していたのだった。

 さて、賢治はこの国民高等学校の講師として、

 「この学校の開設時期は真冬であり、手足が冷たくて困ったこと
を覚えているが、宮澤賢治は寒い中厳しい行事を率先して生徒と共
に実行した」

ということのようだが、菊池忠二氏も前掲書の中で、やはり伊藤清
一の

 「宮沢先生は、その頃大変ご健康でした。朝の行事の大和働きな
ど、上衣をぬいで気合いをかけながら、生徒と共に真剣におやりに
なり、駆け足の時なども、途中で中止されるような事はありません
でした。」

という回想を紹介している。

 また、国民高等学校と賢治に関して森荘已池は『ふれあいの人々』
の中で次のようなことを述べている。

 「六原道場が、まだ開かれていない時代だったので、学校の教室
を使って、夜は講演会や座談会、朝早く起きて「かけあし」をさせ
た。

 賢治も招かれて「芸術概論」や、詩や短歌を教えた。これが後の
六原道場の芽生えになったのである。…(以下略)」

 さらには、堀籠文之進は次のように語っていたと佐藤成は伝えて
いる。

 「朝六時に起きてまず駈足からはじまる。駈足とかやまとばたら
き(体操)はつらいので私は時にすっぽかしましたが宮沢さんは頑健
そのもので、朝の行事のみそぎ≠ニかやまとばたらき≠ニか一
度もかかさず、上衣をぬいで気合いをかけながら、生徒たちと一緒
に真剣にやりました。駈足の時なども、途中で中止したり落伍した
りしませんでしたので生徒も感銘していました。」

 したがてこれらのことからは、賢治の生真面目さと責任感の強さ
が窺えるが、賢治でさえも大和働(=皇国運動)等を率先垂範して行
ったということにその時代の抗いがたい流れを私はそこに見てしま
う。そして、「日本国民高等学校」「岩手国民高等学校」「六原青
年道場」「内原訓練所」は皆加藤完治で串刺しにされていたという
見方もできそうだ。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

日本における農民高等学校(フォルケ・ホイスコーレ)の歴史
http://www.phoenix-c.or.jp/~m-ecofar/167.html

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 ホルマンの「国民高等学校と農村文明」を翻訳した那須皓らが呼
びかけて国民高等学校協会が結成され、1926年、茨城県宍戸町
(現支部町)に「日本国民高等学校」が設立された。山形自治講習
所の所長だった加藤完治が校長、農業報国連盟理事長や全国農業会
会長も務めた石黒忠篤が理事長となった。皇道主義的農本主義に基
づいており、後に水戸市に移転し「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所」
というものものしい名称に改変され、満州へ数万人の青少年を送り
込んだ。加藤完治は戦犯になることを免れ、戦後46年に白河報徳
開拓農業組合長となり、53年に「日本高等国民学校」と改名して
国民高等学校を再開し、これは現在も「日本農業実践学校」として
継続している。

 国民高等学校協会により、他にも全国でいくつかの国民高等学校
が設立され、宮澤賢治も1926年に花巻農学校内に設置された
「岩手国民高等学校」の教師に採用され、農民芸術論などを教えた。
宮沢賢治は、ここでトルストイや、モリス、ラスキンなどのキリス
ト教社会主義的=自由主義的アナキズムと言える思想も紹介してい
るのだが、一方では当時満州開拓を推進する思想的母体ともなった
皇道主義日蓮系の田中智学が主宰する国柱会の熱心な会員でもあっ
た。理想的に語られ過ぎている宮澤賢治の思想について、この点に
ついてはもっと検証する必要があるだろう。しかし、この学校を辞
して宮澤賢治が自ら農民となり創設した「羅須地人協会」では、農
民対象に生物学や音楽なども講義しており、こちらは本物のフォル
ケ・ホイスコーレであったと言えるかも知れない。しかし、これは
2年間しか続かなかった。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

--〔1926年-1〕----------------------------------------------
30歳(大正十五年、昭和元年)
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1月
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1日、本日付発行の「月曜」1号に童話「オツベルと象」を発表。

 本日付発行「銅鑼」6号に「心象スケッチ」として、「昇羃銀盤」
「秋と負債」を発表。

10日、樺太大泊港、王子製紙会社山林課、杉山芳松へ返書(書簡
217)。杉山は1924年3月卒業後、王子製紙に勤めている。

 本日付発行の「貌」1巻4号に「心象スケッチ2篇」として、
「雲(幻聴)」「孤独と風童」を発表。

14日、「四〇二 国道」

15日、「岩手国民高等学校」開校式。

 八重樫倉蔵、民三の兄弟大工をつれて、下根子桜の別宅の改造を
はじめる。独居生活の準備開始。

17日、「四〇三 岩手軽便鉄道の一月」

28日、本日付「中央新聞」夕刊4面「学芸」欄で加藤四郎が「オ
ツベルと象」を「全くすばらしい読物だ」と激賞。

30日、岩手国民高等学校での賢治の講義「農民芸術」開始。この
日より3月23日まで11回にわたる。「トルストイの芸術批評」

1月末または二月初、国柱会職員選挙に際して決定された「国柱会
職員被選挙人資格認定簿」のうち「理事被選資格者の部」98名の
中に、「岩手県 宮沢賢治(31)農学校教諭」として賢治の名が
ある。

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2月
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1日、本日付発行の「月曜」2号に、「ざしき童子のはなし」を発
表。

 本日付発行の「虚無思想研究」に「心象スケッチ朝餐」を発表。

 本日付発行の「日本詩人」2月号に発表した「本年詩壇への一票
言」で中西悟堂が「新彗星諸君」の一人に賢治を数える。

9日、国民高等学校第二回講義。「われらの詩歌」

18日、国民高等学校第三回講義。「水稲作に関する詩歌」

19日、国民高等学校第四回講義。「稲の露」

24日、国民高等学校第五回講義。「宅地設計」

27日、国民高等学校第六回講義。「農民(地人)芸術概論(1)」

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3月
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1日、国民高等学校第七回講義。「農民(地人)芸術概論(2)」

 本日付発行の「月曜」3号よ「寓話 猫の事務所」を発表。

5日、国民高等学校第八回講義。「農民(地人)芸術概論(3)」

20日、国民高等学校第九回講義。「農民(地人)芸術概論(4)」

 一年生沢里(当時は高橋)武治へ写真を贈る。沢里は1928年花巻
農学校を卒業。賢治に教わったのは一年だが、生涯薫陶をうける。

22日、国民高等学校第十回講義。「農民(地人)芸術概論(5)」

23日、国民高等学校第十一回講義。「農民(地人)芸術概論(6)」

24日、花巻農学校第五回生卒業式。終了後農学校にて「ベートー
ベン100年祭レコードコンサート」開催。賢治は開会の辞を述べ
る。

27日、岩手国民高等学校終了式が午後一時より挙行された。修了
者35名。修了証書は「修養鑑」と題され「右者本校ノ課程ヲ修了
セリ自今益全人タルノ修養ニ努力スベシ」と「岩手県内務部長従五
位坂本暢」の名で渡された。この学校はこのときだけで終った。以
後勤労青年は「青年訓練所令」によって兵式訓練を課せられるよう
になったため。

31日、花巻農学校を依願退職する。三級俸(130円)を支給さ
れた。同時に白藤慈秀も退職した。

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3月、労働農民党結成
8月、日本放送協会創立
10月、新交響楽団(後のNHK交響楽団)結成゛
  明治神宮外苑完成
  労働農民党盛岡支部創立
12月、大正天皇崩御。
  摂政裕仁親王が即位。元号は「昭和」となる

県下旱害、水害多し

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川端康成「伊豆の踊り子」
尾形亀之助編集「月曜」創刊
中野重治・堀辰雄ら「驢馬」創刊
尾崎放哉句集「大空」
ヘミングウェイ「日はまた昇る」
吉田一穂「海の聖母」
伊藤整「雪明りの森」
佐藤惣之助「情艶詩集」
村上鬼城「鬼城句集」

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政次郎 52歳 4月1日、花巻町町会議員当選、同じく花巻町学
務委員に委嘱される。11月3日、方面委員として高松宮殿下より
表彰される。

イチ 49歳 

シゲ 25歳

清六 22歳 3月31日、除隊。5月、従来の古着、質商をやめ、
店の北半分をこわし南の店半分を移し宮沢商会を開業。鉄材、セメ
ント、釘、針金など建築材料の卸し小売、またモーターやラジオを
扱う。後に自動車部品、タイヤなども販売し、1942年まで17年間経
営。この年花巻在郷軍人会理事。後に副分会長。

クニ 18歳

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     農民芸術概論綱要
序論

……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……

 おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい
 もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
 われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
 近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直感の一致に於い
て論じたい
 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
 自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
 この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
 新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
 正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて
行くことである
 われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

農民芸術の興隆

……何故われらの芸術がいま起こらねばならないか……

 曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
 そこには芸術も宗教もあった
 いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
 宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
 芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
 いま宗教家芸術家とは真善若しくは美を独占し販るものである
 われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
 いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねば
ならぬ
 芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
 ここにはわれら不断の潔い楽しい創造がある
 都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ

農民芸術の本質

……何がわれらの芸術の心臓をなすものであるか……

 もとより農民芸術も美を本質とするであらう
 われらは新たな美を創る 美学は絶えず移動する
 「美」の語さへ滅するまでに それは果てなく拡がるであらう
 岐路と邪道とをわれらは警めねばならぬ
 農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現
である
 そは直感と情緒との内体験を素材としたる無意識或は有意の創造
である
 そは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとする
 そは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし
 巨大な演劇舞踊として観照享受することを教へる
 そは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究
竟地にまで導かんとする
 かくてわれらの芸術は新興文化の基礎である

農民芸術の分野

……どんな工合にそれが分類され得るか……

 声に曲節節奏あれば声楽をなし 音が然れば器楽をなす
 語まことの表現あれば散文をなし 節奏あれば詩歌となる
 行動まことの実現あれば演劇をなし 節奏あれば舞踊となる
 光象写機に表現すれば静と動との 芸術写真をつくる
 光象手描を成ずれば絵画を作り 塑材によれば彫刻となる
 複合により劇と歌劇と 有声活動写真をつくる
 準志は多く香味と触を伴へり
 声語準志に基けば 演説 論文 教説をなす
 光象生活準志によりて 建築及衣服をなす
 光象各異の準志によりて 諸多の工芸美術をつくる
 光象生産準志に合し 園芸営林土地設計を産む
 香味光触生活準志に表現あれば 料理と生産とを生ず
 行動準志と結合すれば 労働競技体操となる

農民芸術の(諸)主義

……それらのなかにどんな主張が可能であるか……

 芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する
 人生のための芸術は青年期にあり 青年以後に潜在する
 芸術としての人生は老年期中に完成する
 その遷移にはその深さと個性が関係する
 リアリズムとロマンティシズムは個性に関して併存する
 形式主義は正態により標題主義は続感度による
 四次感覚は静芸術に流動を容る
 神秘主義は絶えず新たに起るであらう
 表現法のいかなる主張も個性の限り可能である

農民芸術の製作

……いかに着手しいかに進んで行ったらいいか……

 世界に対する大なる希願をまづ起せ
 強く正しく生活せよ 苦難を避けず直進せよ
 感受の後に模倣理想化冷く鋭き解析と熱あり力ある綜合と
 諸作無意識中に潜入するほど美的の深と創造力はかはる
 機により興会し胚胎すれば製作心象中にあり
 練意了って表現し 定案成れば完成せらる
 無意識即から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である
 髪を長くしコーヒーを呑み空虚に待てる顔つきを見よ
 なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ
 風とゆききし 雲からエネルギーをとれ

農民芸術の産者

……われらのなかで芸術家とはどういふことを意味するか……

 職業芸術家は一度亡びねばならぬ
 誰人もみな芸術家たる感受をなせ
 個性の優れる方向に於て各々止むなき表現をなせ
 然もめいめいそのときどきの芸術家である
 創作自ら湧き起り止むなきときは行為自づと集中される
 そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう
 創作止めば彼はふたたび土に起つ
 ここに多くの解放された天才がある
 個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる

農民芸術の批評

……正しい評価や鑑賞はまづいかにしてなされるか……

 批評は当然社会意識以上に於てなされねばならぬ
 誤れる批評は自らの内芸術で他の外芸術を律するに因る
 産者は不断に内的批評を有たねばならぬ
 批評の立場に破壊的創造的及観照的の三がある
 破壊的批評は産者を奮ひ起たしめる
 創造的批評は産者を暗示し指導する
 創造的批評家には産者に均しい資格が要る
 観照的批評は完成された芸術に対して行はれる
 批評に対する産者は同じく社会意識以上を以て応へねばならぬ
 斯ても生ずる争議ならばそは新なる建設に至る

農民芸術の綜合

……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての
田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術を創り
あげようではないか……

 まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばら

 しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
 ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
 青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て
 「つめくさ灯油ともす宵のひろば たがひのラルゴをうたひかは

 雲をもどよもし夜風にわすれて とりいれまぢかに歳よ熟れぬ」
 詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
 われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
 巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
 おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう

結論

……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱であ
る……

 われらの前途は輝きながら険峻である
 険峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さを加へる
 詩人は苦痛をも享楽する
 永久の未完成これ完成である

 理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる
 畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである

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四〇二
     国道
                    一九二六、一、一四、

風の向ふでぼりぼり音をたてるのは
並樹の松から薪をとってゐるとこらしい
いまやめたのは向ふもこっちのけはひをきいてゐるのだらう
行き過ぎるうちわざと呆けて立ってゐる
弟は頬も円くてまるでこどもだ
いかにもぼんやりおれを見る
いきなり兄が竿をかまへて上を見る
鳥でもねらふ身構へだ
竿のさきには小さな鎌がついてゐる
そらは寒いし
やまはにょきにょき
この街道の巨きな松も
盛岡に建つ公会堂の経費のたしに
請負どもがぢき伐るからな

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四〇三
     岩手軽便鉄道の一月
                    一九二六、一、一七、

ぴかぴかぴかぴか田圃の雪がひかってくる
河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる
うしろは河がうららかな火や氷を載せて
ぼんやり南へすべってゐる
よう くるみの木 ジュグランダー 鏡を吊し
よう かはやなぎ サリックスランダー 鏡を吊し
はんのき アルヌスランダー 鏡鏡鏡鏡をつるし
からまつ ラリクスランダー 鏡をつるし
グランド電柱 フサランダー 鏡をつるし
さはぐるみ ジュグランダー 鏡を吊し
桑の木 モルスランダー 鏡を…
ははは汽車こっちがたうたうなゝめに列をよこぎったので
桑の氷華はふさふさ風にひかって落ちる

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[217] 1926年1月10日 杉山芳松あて 封書

(表)樺太大泊港 王子製紙会社山林課内 杉山芳松様
(裏)大正十五年一月十日 岩手県花巻農学校 宮沢賢治(封
印)〆

ご返事が遅れてまことに済みませんでした。置き場所を忘れて困っ
てゐたのです。今年は寒さはどうですか。どうか折角からだに気を
付けてご奮闘ください。

   一月十日

--〔文語詩稿一百編(92)〕----------------------------------
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(本文)
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     〔日本球根商会が〕

日本球根商会が、      よきものなりと販りこせば、
いたつきびとは窓ごとに、  春きたらばとねがひけり。

夜すがら温き春雨に、    風信子華の十六は、
黒き葡萄と噴きいでて、   雫かゞやきむらがりぬ。

さもまがつびのすがたして、 あまりにくらきいろなれば、
朝焼けうつすいちいちの、  窓はむなしくとざされつ。

七面鳥はさまよひて、    ゴブルゴブルとあげつらひ、
小き看護は窓に来て、    あなやなにぞといぶかりぬ。

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(下書稿2推敲後)
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     病院の花壇

日本球根商会が
よきものなりと販りこせば
いたつきびとは窓ごとに
春きたらばとねがひけり

よすがらぬるき春雨に
風信子華の十六は
黒き葡萄を噴きいでて
雫ひかりてむらがりぬ

さもまがつみのすがたして
あまりにくらきいろなれば
朝焼けうつすいちいちの
窓はむなしくとざされつ

七面鳥はさまよひて
ゴブルゴブルとあげつらひ
小き看護は窓に来て
あなやなにぞといぶかりぬ

------------------------------------------------------------
(下書稿2推敲前)
------------------------------------------------------------

     病院の花壇

日本球根商会が
よきものなりと販りてける
風信子華のひといろは
黒き葡萄を噴きいでて
よすがらぬるき春雨に
雫ひかりてむらがれば
七面鳥はさまよひて
ゴブルゴブルとあげつらひ
いたつきびとは窓に来て
あなやなにぞといぶかりぬ

------------------------------------------------------------
(下書稿1推敲後)
------------------------------------------------------------

石灰岩のモザイクに
濃き空碧と紅色の
ヒヤシンスもて二つらの
折線をこそおもひけり

さもあらばあれ東京の
日本球根商会は
たゞひといろの黒紫色
春の吊旗を送りけり

夜もすがらなる春雨に
色さへあせず香もたかみ
しずくひかりてさながらに
黒き葡萄のすがたなり

七面鳥はさまよひて
ゴブルゴブルとあげつらひ
いたつきびとは窓にして
あなやなにぞといぶかれり

方にへりどる大理石の
モザイクゆゑにヒアシント
藍とはなだをもとめしは
はや雪ちかき朝なりし

日本球根商会が
ときおくれぬと送り来し
花はこのごろひといろの
春の吊旗と咲ききでぬ

------------------------------------------------------------
(下書稿1推敲前)
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水いろと
石灰岩のモザイクの
まことに方に白ければ
濃き空碧と紅色と

求めしものをこれやこの
日本球根商会は
たゞひといろの黒紫色
春の吊旗を送りけり

夜もすがらなる春雨に
色もひかりもあせずして
かほりいよいよ高ければ
そのしずくひからしめ
むらがればにはかに惜しきすがたかな

辛くもおきしいたつきびとは
あなやなにぞといぶかりつ
医師はかほりをいやしみぬ

濃き空碧を織りぬべき
藍とはなだを編まん
ヒアシンスをぞもとめしか
そのときすでに十月の冬なりき

ときおくれぬと東京の
日本球根商会は
たゞひといろの花の族
春の吊旗を送りきぬ

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(下書稿1断片)
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夜の雨の温きによりて
その暗紫いよよに深く
芬芬峻烈とも云ひつべき
風信子草ヒヤシンス花茎十六

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(先駆形口語詩「病院の花壇」)
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     病院の花壇

夜どほしの温い雨にも色あせず
あんまり暗く薫りも高い
この十六のヒアシンス

まっ白な石灰岩の方形のなかへ
水いろと濃い空碧で
すっきりとした折線を
二つ組まうとおもったのに
東京農産商会は
このまっ黒な春の吊旗を送ってよこし
みんなはむしろいぶかしさうにながめてゐる
今朝は截って
春の水を湛えたコップにさし
各科と事務所へ三つづつ
院長室へ一本配り
こゝへは白いキャンデタフトを播きつけやう
つめくさの芽もいちめんそろってのびだしたし
廊下の向ふで七面鳥は
もいちどゴブルゴブルといふ
女学校ではピアノの音
にはかにかっと陽がさしてくる

鍬とコップをとりに行かう

--〔後記〕--------------------------------------------------

 8月の「国際大会」はパスして、9月の「定期大会」に参加する
つもりです。9月21日、22日は花巻市内のホテルはなかなか予
約できなかったので、21日は鉛温泉の「藤三旅館」を予約しまし
た。有名な「白猿の湯」のあるところです。温泉に一人で行くのも
何ですが、楽しみにしています。22日は市内の「ホテル通天閣」
です。

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