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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第910号--2016.07.30------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(46)1925年-4」「〔小きメリヤス塩の魚〕」

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-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(46)1925年-4」
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 今回で1925年も終りです。ここで、注目は「告別」という詩がこ
の時期に書かれていることです。

 高踏的、難解なものが多い賢治の詩の中では、珍しく世俗的な
「意味」がはっきり書かれた詩です。どちらかというと、巷に出て
いる「偽賢治」に近いかもしれません。

 もちろん、賢治の真作ですので、格調高いものなのですが、わか
りやすすぎるという点で違和感を持つ人もあると思います。

 ともかく「おれは四月はもう学校に居ないのだ」ということは事
実となりました。

 その背景には、賢治が慕っていた畠山校長が転職してしまったと
いうことがあります。どうも賢治は校長と共に退職する気でしたが、
慰留されて年度末までは在職することになったようなのです。

 実際の話として、賢治のように有能だがコミュニケーション力に
欠ける社員は、それを使いこなせる上司抜きでは活躍の場はないだ
ろうな、と思います。

 賢治の自由にやらせていただけというわけではなく、賢治は校長
が怖いから、言うまでもなく校長の意向にしたがっていたはずです。

 片方では、サラリーマンであることを嫌悪する理想主義的な気持
ちもあったのでしょうが、片方では畠山校長のいない学校にいるの
はいやだった、ということもあるようです。

 ともあれ、『春と修羅』の熱狂も徐々に冷め、29歳になった賢
治には、つらい季節がはじまろうとしていました。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

高橋さおりへ吉岡美佐子から / 沢里武治へ宮澤賢治から
http://tamaishiology.hatenablog.com/entry/2015/03/20/154517

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 吉岡先生の手紙が「高橋さおり」という個人に宛てられたように、
詩「告別」で語りかけられる「おまへ」もある特定の生徒であった
と推定されています。

 それは「沢里武治」(当時は旧姓の高橋)という、賢治が大変に
目をかけていた一年生です。

 上に引用した冒頭にもあるように、賢治は沢里に、本人も気づい
ていないであろう音楽の才能を認めました。そして楽譜の読み方を
個人指導し、オルガンやヴァイオリン、セロなどを習得させようと
しました。

 農学校時代の賢治の教え子として知られている人物はたくさんい
ますが、このような関わり方をしたのは後にも先にも沢里だけです。
教え子というよりは愛する「弟子」であったことがうかがえます。

 辞職に先立ち、賢治は沢里にヴァイオリンや自身の写真などを贈
ったといいます。

 さて、詩「告別」のその後についてです。

 一旦は別れを告げることとなったものの、賢治が沢里を気にかけ、
沢里が賢治を慕った結果、二人の交流はその後もつづくこととなり
ました。

 『新校本全集』には賢治が沢里に宛てた手紙が17通収録されてい
ますが(最後の手紙は賢治の死のひと月前の日付をもちます)、そ
れらに目を通すと、その師弟関係は「告別」を経てもすこしも揺ら
がなかったということがわかります。

 それらのなかで賢治は、仕事の合間にオルガンをつづけることが
できているかを尋ね、オルガン演奏法の本を贈る旨を伝え、病気が
よくなればセロでも合奏したいと綴っています(肺を患っていた賢
治は、万が一にも沢里に結核が伝染せぬように消毒をしたうえで本
を送りました)。

 また、近くまで寄った際には顔をみせるようにと頻りに訴え、わ
るい風邪が流行っているから「わかもと」という薬を呑みなさいと
忠告するなどもしています。

 沢里が賢治との憶い出を回想した文章は多くないのですが、なか
に一つ、全集の年譜篇にも採られている興味深いエピソードがあり
ます。

 あるとき沢里は賢治から、のちに自身の代表作の一つとなる童話
「風野〔の〕又三郎」の劇中歌の作曲を依頼されたといいます
(「どっどど どどうど どどうど どどう」の歌です)。

 期待の分だけ怖れながらも夢中で取り組んだ沢里ですが、結局は
それを完成させることができませんでした。お詫びの報告を受けて
大変にがっかりした賢治は、もはや他の者に依頼をすることはなく、
曲をつけるという構想自体を諦めたとのことです。

 これについては沢里本人以外の証言がないために真偽のほどは定
かではありません。

 ただ付言しておくと、それ以前に賢治は沢里が作曲をしたものに
自分が作詞をしたいという旨を手紙で述べていました。「風野〔の〕
又三郎」の舞台である山村の原イメージが沢里の住む上郷村であっ
たこともまた、賢治の手紙から知ることができます。

 こうしたことを踏まえると沢里の回想は信の置けるものであるだ
ろうとおもわれます。そして、沢里であればそれだけの期待をかけ
られていたとしてもおかしくはないようにおもわれます。

 以上、その後の交流を辿ることで、宮澤賢治が沢里武治という
「弟子」をいかに大切におもっていたかを知ることができます。だ
からこそ辞職を決めた当時の賢治にとって沢里を置いて去ることが
いかに心残りであったかが推し量れます。

 愛弟子と別れることになっても選んだ道を自分は自分で一人で歩
まなければならない、という断固たる決意が賢治に一篇の詩を書か
せました。そしてそれに「告別」という題をつけさせました。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

--〔1925年-4〕----------------------------------------------
29歳(大正十四年)
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10月
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8日、北海道修学旅行から帰花した一行30名を迎える。生徒佐藤
・川村・小原の「北海道修学旅行 第五信」によると、「駅には夜
遅くにも係らず宮沢先生高橋書記さん並びに寄宿舎生一同の出迎へ
を受けて駅前に於て解散した。三々五々月の光を浴び乍ら帰途に着
いたのであった。」という

18日、「三八三 鬼言(幻聴)」

 本日付「岩手日報」四面「文芸」欄、及川涙果は「県下同人雑誌
一瞥」中で「貌」についてふれる。

20日、穀物検査所勤務の千葉恭(20歳)を自宅に呼び、肥料、
水稲栽培、花造り、地理の話をし、レコードを聞かせる。宿直の時
に呼んだが家へ招待したのはこの日がはじめてである。千葉は後に
羅須地人教会に一時同居することになる。

下旬、弘前歩兵第31聯隊は秋の大演習に参加するため、18日に
山形県の新庄市から奥羽山脈をこえ宮城県の岩出山まで、休みなし
の一日行軍をしたが、清六はこの行軍および演習に参加。疲れはて
た清六を見舞い、演習後、仙台の阿部写真館にて二人で記念写真を
とる。清六は伍長に昇進。

25日、「三八四 告別」

27日、本日付発行の「銅鑼」5号に詩2篇を発表。誌上では「心
象スケッチ 農事 三篇」となっている。詩は「休息」「丘陵地」

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11月
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10日、東京神楽坂の「川鉄」で尾形亀之助「色ガラスの街」の出
版記念会が開かれ、尾形は草野心平を知り『注文の多い料理店』を
すすめられる。これにより賢治に対し発行計画中の雑誌「月曜」へ
原稿を依頼。

中旬、校長畠山栄一郎が福島県立東白河農蚕学校長へ転ずる。校長
は、講習所から郡立稗貫農学校、県立花巻農学校へ昇格していく草
創期の基礎づくりに努力したが、その性豪放磊落で、校風の自由明
朗も一にこの性格のもたらすところであった。よく太っていたので
ピッグのニックネームがあり、収納祭の会食用に校長ピッグが学校
飼育のピッグに一撃を加えたときは、生徒一同大爆笑したという。

 校長自身もニックネームはよく承知しており、たまたま一生徒が
呼び捨てにするのを聞いて運動場を追いかけまわしたことがある。
肥満体なのでどうにもならず、賢治がとりおさえて生徒を誤らせた。
そうなると自分から噴き出してしまうという闊達で愉快な人で、賢
治を高く買っていた。この転出は賢治にも生徒にも大きなショック
であった。

 校長が急に思いついて学校に居合わせた職員と生徒を集めた記念
写真がある。

13日、畠山栄一郎と入れ替わりに福島県立東白河農蚕学校長中野
新佐久が着任した。修身・林学・法制・経済を担当。中野校長は畠
山校長と対照的な几帳面な人でさっそく校長室を作って職員と一線
を画した。堅苦しいが口やかましい人ではない。しかしピッグ先生
とは大違いである。

 新校長は前校長から引き継いだ、修業期間を延長し3年とする件
を実現すべく奔走、翌1926年3月31年文部省告示により甲種農業学
校へ昇格を見る。

18日、午後5時より花巻川口町公会堂で畠山校長の「送別会」が
開催される(9時まで)。参会者町議員教育者80余名。賢治も参
加したと見られる。

23日、前夜10時来花の東北大学地質古生物学教室の早坂一郎教
授を案内、北上川小船戸でバタグルミの化石を採集した。

 このクルミの化石は、もともと賢治が岩手師範(盛岡)の博物学
者鳥羽源蔵の依頼により採集し、それが早坂教授へ転送されていま
だ学界に発表されていない貴重なものと判った。早坂教授はこれに
よって実地踏査の必要を感じ、調査にきたのである。

 賢治は花巻周辺の土壌図その他の参考資料をそろえ、説明案内を
つとめた。早坂教授は午後5時12分発東北本線下りの発車前に駅
で鳥羽教諭とあい、仙台へ帰る。

 この調査報告は翌1926年2月の「地学雑誌」に「岩手県花巻町化
石胡桃に就いて」として発表され、抜き刷りが賢治にも送られた。
その末尾に「伊藤博士並びに化石採集に便宜を与えて下さった盛岡
の鳥羽源蔵氏、花巻の宮沢賢治氏に感謝の意を表する。」とある。

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12月
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1日、本日付発行の「虚無思想研究」12月号に「冬(幻聴)」を
発表。

 本日付発行「日本詩人」6巻12号のアンケート「14年度作品
批評」で高木斐瑳雄が「既に定評のある詩人」の中に賢治を数える。

 弘前歩兵第31聯隊の清六に返書。(書簡214)「この頃畠山校
長が転任して新らしい校長が来たりわたくしも義理でやめなければ
ならなくなったりいろいろごたごたがあったものですから」といい、
清六が除隊後の自家営業についての構想に賛成する。

2日、午後6時より花巻川口町公会堂にて花巻両町青年の懇談会が
開催され「両町青年団長 幹部」約50名が集う。賢治もこれに参
加したか。

10日、来年1月15日より開設される国民高等学校準備のため事
務機関が花巻農学校に設けられる。

20日、『春と修羅』の名義上の発行所で販売を依頼した形の関根
書店よりとり戻した200部を生かす一案として、岩波書店主岩波
茂雄にあてて、自著を80銭とし、先方出版の哲学や心理学書と交
換できまいかと問い合わせ(書簡214a)。これに対する返書はなか
ったものと見られる。当時無名詩人だった賢治のこの書は関根の手
でダンピングされ、50銭で古本屋に並んでいた。書簡214aは半世
紀後発見。

下旬、石川善助、森佐一の訪問をうける。ひどい雪の道で脚のわる
い石川はたびたびころんだ。座敷童子の怪異を語りあう。石川を賢
治を尊敬し、その態度は師に仕える如くであったといわれている。

23日、森佐一あての返書(書簡215)で、学校をやめて1月から
東京へ出る筈が延びたこと、夏には村に居ること、謄写版で次のス
ケッチをこしらえて森にも、石川善助にも進呈梳く、いまはほかの
ことで頭がいっぱいなのでしばらく(詩稿を)ゆるしてくれという。

ある土曜日の深夜寄宿性に非常呼集をかけ、花巻温泉まで雪上行進
をさせる。一年生阿部嘉右ヱ門の談話を要約。

「途中、川があろうと、たんぼがあろうと直進あるのみだといい、
先頭に立ってズカズカ歩きだす。20人ほど(土曜で帰省中の者を
はぶき)の制服ゲートル巻きの生徒を引き連れ、途中瀬川という幅
5米、深さ1米ぐらいの小川もかまわず入り、くつもズボンもコチ
コチに凍ってしまった。温泉についても夜は明けず、近くの滝壺へ
来ると服をぬいで水の中へ入り、続いて来いという。私がまっ先に
続くと先生は阿部君のようにやれとほめてくれた。ふしぎと寒くな
く誰も風邪をひかぬし不平も文句も出なかった。夜が明けると花盛
館へ入って温泉に入り丹前に着替えて朝食をとった。代金は先生が
はらってくれたらいくたいしたごちそうでした。帰りは電車にのり
ました。」

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1月、東京放送局ラジオ試験放送開始
3月、盛岡中学校寄宿舎焼失
4月、治安維持法施行
7月、東京放送局本放送開始
7月、大船渡線、一関−摺沢間開通
11月、花巻温泉電気鉄道全線開通(西花巻−花巻温泉)
12月、農民労働党(書記長浅沼稲次郎)結成、即日禁止

この年県下豊作

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梶井基次郎「檸檬」
岩手歌人協会の「郷土歌人」創刊
草野心平、中国広州で同人雑誌「銅鑼」創刊
「家の光」創刊
八木重吉「秋の瞳」
萩原朔太郎「純情小曲集」
堀口大学訳詩集「月下の一群」
柳田国男「民族」創刊
尾形亀之助「色ガラスの街」
映画「黄金狂時代」(チャップリン)
映画「戦艦ポチョムキン」(エイゼンシュテイン)

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政次郎 51歳
イチ 48歳 
シゲ 24歳
清六 21歳 ひきつづき弘前歩兵第31連隊第7中隊第1班勤務。
12月1日、見習士官任官。
クニ 18歳

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三八四
     告別
                    一九二五、一〇、二五、

おまへのバスの三連音が
どんなぐあいに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくったくわんとをとった
けれどもちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮らしたり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

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[214] 1925年12月1日 宮沢清六あて 封書

(表)弘前歩兵第卅一聯隊第七中隊第一班 宮沢清六様
(裏)大正十四年十二月一日 岩手県花巻農学校 宮沢賢治
(封印)〆

お手紙見ました。すぐ返事するのでしたがこの頃畠山校長が転任し
て新らしい校長が来たりわたくしも義理でやめなければならなくな
ったりいろいろごたごたがあったものですからつい遅くなったので
す。お変りはありませんか。四月まで残ることに決ったのですか。
うちでも待っていますからすぐお報せください。

仕事の計画はいかにも実務的ではっきりしてゐてひじやうに賛成で
す。

わたくしも多少検討の付く方面ですから精いっぱいお手伝ひします。
お父さんも大へんよろこんでゐます。

恐らくきみはその新鮮な熱情と透明な企画とでわれわれのしばらく
寂れた家(わたくしの勝手から起った)をはなばしく楽しくしてく
れるだらうとおもひます。まづは。

   関彰司さんが行ったでせう。どうかよく世話をしてやってく
ださい。

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[214a] 1925年12月20日 岩波茂雄あて 封書

(表)東京市神田区南神保町十六 岩波茂雄様
(裏)大正十四年十二月廿日 岩手県花巻農学校 宮沢賢治
(封印)〆

とつぜん手紙などをさしあげてまことに失礼ではございますがどう
かご一読をねがひます。わたくしは岩手県の農学校の教師をして居
りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほか
の空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてた
まりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの
稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強する
ときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置
きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたの
です。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自
費で出しました。友人の先生尾山といふ人が詩集と銘をうちました。
詩といふことはわたくしも知らないわけではありませんでしたが厳
密に事実のとほり記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたも
のと混ぜられたのは不満でした。辻潤氏佐藤惣之助氏は全く未知の
人たちでしたが新聞や雑誌でほめてくれました。そして本は四百ば
かり売れたのかどうなったのかよくわかりません。二百ばかりはた
のんで返してもらひました。それは手許に全部あります。

わたくしは渇いたやうに勉強したいのです。貪るやうに読みたいの
です。もしもあの田舎くさい売れないわたくしの本とあなたがお出
しになる哲学や心理学の立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下さい
ますならわたくしの感謝は申しあげられません。わたくしの方は二
・四円の定価ですが一冊八十銭で沢山です。あなたの方のは勿論定
価でかまひません。

粗雑なこのわたくしの手紙で気持ちを悪くなさいましたらご返事は
下さらなくてもようございます。こんどは別紙のやうな謄写版で自
分で一冊こさえます。いゝ紙をつかってじぶんですきなやうに綴ぢ
たらそれでもやっぱり読んでくれる人もあるかと考へます。

   ご清福を祈ります。

大正十四年十二月廿日              宮沢賢治

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[215] 1925年12月23日 森佐一あて 封書

(表)盛岡市新穀町十四 森佐一様
(裏)十二月廿三日 花巻川口町 宮沢賢治(封印)〆

お手紙ありがたうございました。

ご親切はまことに辱けないのですがいまほかのことで頭がいっぱい
ですからどうかしばらくゆるして下さいませんか。学校をやめて一
月から東京へ出る筈だったのです。延びました。夏には村に居ます
からそれから夏には騰写版で次のスケッチを拵えますからそしてそ
れをあなたにも石川さんにも上げますからどうかしぱらくゆるして
置いてください。

 今月も金はありません。

 雑誌にも出せませんしあそびにも行けません。

さよならさよなら。

森佐一様

                        宮沢賢治

--〔文語詩稿一百編(91)〕----------------------------------
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(本文)
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     〔小きメリヤス塩の魚〕

小きメリヤス塩の魚、  藻草花菓子烏賊の脳、
雲の縮れの重りきて、  風すざまじく歳暮るゝ。

はかなきなれや夕さりを、  なほほかぶかと物おもひ、
街をうづめて行きまどふ、  みのらぬ村の家長たち。

------------------------------------------------------------
(定稿推敲前)
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小きメリヤス塩の魚、  藻草花菓子烏賊の脳、
雲の縮れの重りきて、  風すざまじく歳暮るゝ。

はかなきなれや暮れそめて  なほほかぶかと物おもひ、
街をうづめて行きまどふ、  みのらぬ村の家長たち。

------------------------------------------------------------
(下書稿4推敲後)
------------------------------------------------------------

     戸主

歪める陶器烏賊の脳
小きシャツや赤き足袋
露店はならぶ雪の雲

楽隊の音がたぴしに
はるかの町の角行きて
おもむろに来る青のバス

みのれる村のをのこらは
魚こもづつみ一つきの
酒にほこりてみな去りぬ

ひでりつゞける村人は
いくたび町を行きかへて
罪あるもののすがたなり

さびしきかなやたそがれて
こらのすがたを胸にして
なほ行きまどふ戸主の群

------------------------------------------------------------
(下書稿4推敲前)
------------------------------------------------------------

     戸主

歪める陶器烏賊の脳
小きシャツや赤き足袋
露店はならぶ雪の雲

楽隊の音がたぴしに
はるかの町の角行きて
おもむろに来る青のバス

みのれる村のをのこらは
魚こもづつみ一つきの
(五、六字分空白)みな去りにけり

ひでりつゞける村人は
いくたび町を行きかへて
罪あるもののすがたなり

さびしきかなやたそがれて
こらのすがたを胸にして
なほ行きまどふ戸主の群

------------------------------------------------------------
(下書稿3推敲後)
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ちゞれたる雲のま下に
塩鮭や歪める陶器
烏賊の脳ゴム沓とシャツ
はるばると露店はならぶ

こもづつむ魚をになひ
つきの酒に熱りて
たゞ気負ひ人分けくるは
みなかみの田を植えしひと

活動の楽隊の音
がたぴしに雲にひゞけと
この峡の野に生きぬべき
そのみちをいまは知らずも

雪しろき街をうずめて
ひでりゆゑ稔らぬ村の
家長たちさびしく惑ひ
たそがれはせまりきたりぬ

------------------------------------------------------------
(下書稿3推敲前)
------------------------------------------------------------

ちゞれたる雲のま下に
塩鮭や歪める陶器
烏賊の脳茶絣とシャツ
はるばると露店はならぶ

けらと縄藁沓をつけ
ひでりゆゑ得ざりし村の
家長らのかなしく惑ひ
しみじみとたそがれとなる

------------------------------------------------------------
(下書稿2推敲後)
------------------------------------------------------------

ちゞれたる雲のま下に
塩鮭や 歪める陶器
はるばると露店はならぶ

みのらぬ村の家長たち
雲あえかなる臘月の
まちをうづめて行きまどふ

小きメリヤス塩の魚
藻草花菓子烏賊の脳
露店ははるにならびたり

雲の縮れの重りきて
風すさまじく歳くるゝ
裏町あたりめぐるらし

あはれはかなし暮れそめて
なほふかぶかと行きまどふ
みのらぬ村の家長たち

------------------------------------------------------------
(下書稿2推敲前)
------------------------------------------------------------

ちゞれたる雲のま下に
塩鮭や 歪める陶器
はるばると露店はならぶ

みのらぬ村の家長たち
ふかぶかおもひ旧臘の
まちをうづめて行きまどふ

歪める陶器烏賊の脳
小きメリヤス塩の魚
露店はならび客はなき

雲の縮れの重りきて
楽隊の音がたぴしに
はるかのまちをめぐるらし

はかなきかなや暮れそめて
なほ物おもひ行きまどふ
みのらぬ村の家長たち

-----------------------------------------------------------
(下書稿1推敲後)
------------------------------------------------------------

ちゞれたる雲のま下に
塩鮭や 歪める陶器
烏賊の脳シャツと茶絣
はるばると露店はならぶ
けらと縄藁沓をつけ
家長らのかなしく行ける
そがなかを行きなづめるは
店店の古き自転車
活動の遠き楽隊
がたぴしに雲にひゞけば
太き剣さげし巡査や
開空の家長の会は
しみじみと夕暮れに入る

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(下書稿1推敲前)
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はるばると露店はならび
烏賊の脳 歪める陶器
塩鮭や 数の子ふのり
茶絣とメリヤスのシャツ
ちゞれたる雲のま下を
魚類の 包みをになひ
うちきほひ人押し分けて
米とれる農夫は急ぎ
けらや縄藁沓を吐き
かなしげに行きかふものは
堰下の旱地の農夫
活動の遠き楽隊は
がたぴしに雲にひゞけば
太き剣さげし巡査や
開空の家長の会は
しみじみと夕暮れに入る

--〔後記〕--------------------------------------------------

 今年は西日本では暑い日が続いていますが、関東以北は梅雨あけ
も遅れ、東北北海道は冷害の年の様相になってきています。私が宮
沢賢治学会に入るため、花巻に行った1993年は大変な冷害で、「稔
らぬ秋」を迎えましたが、今年はどうなるのでしょうか。

 翌1994年は梅雨がなくて、6月から猛暑が始まった暑い年でした。
当時私は仕事が終ってから毎日のように契約栽培の野菜を引き取り
にトラックで走っていました。そのときラジオで聞いていたのが、
その年から出てきたイチロー選手の活躍でした。それから22年、未
だに現役とは恐れ入ります。

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