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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第908号--2016.07.16------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(44)1925年-2」「嘆願隊」

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-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(44)1925年-2」
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 今回は1925年の4月から6月までの話です。

 この時期の注目は賢治がとうとうこんなことを言い出したことで
す。

「来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます」

 そして本当にこれを実行したしまったことはご承知のとおりです。

 1月の三陸海岸旅行のころには考えはじめていたのでしょうし、
生徒に「農業のできる嫁をもらえ」などと言っていることも、おそ
らく同様の考えから来ています。

 客観的に見れば、このまま教師を続けるのが最善の生き方だと思
います。自分自身のためにだけでなく、世のため人のため、最も役
に立つ生き方です。

 まあ、それが賢治という人なのでしょうが、全くやっかいな考え
を固めてしまったものです。

 今回はこのころの作品として、詩を3篇、掲載しています。その
うち、「五〇八 発電所」はその発展形である異稿「〔雪と飛白岩
の峰の脚〕」を掲載しています。この詩はさらに「詩人時代」に掲
載された「詩への愛憎」となったもので、谷川徹三編岩波文庫版で
も「詩への愛憎」として、今回掲載のものに近い形で載っていまし
た。

 私にとっては個人的に思い出深い作品です。

 また、この年は「県下豊作」ということですが、前年に引き続い
て渇水気味だったようです。農学校の田でも、水に困っていたよう
で、「二五八 渇水と座禅」という詩も書かれています。

 日照りの年はだいたい気温も高く、水さえあれば豊作になるので
すが、当時の灌漑設備ではどうしても間に合わない田も出てしまう
ようです。現在はダムなどもできて、灌漑の問題はほぼ解決したの
はめでたいことです。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

「渇水と座禅」詩碑
http://www.ihatov.cc/monument/023.html

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 「田日土井」という、昔の取水口の跡に、この碑は建てられてい
ます。周囲の田んぼを耕す人々は、ここからそれぞれの田に水を引
きました。

 作品は、農学校で水田耕作実習の担当者であった賢治が、学校の
「実習田」の水不足に悩んだ体験をもとにしていると言われていま
す。

 田植えは終えたものの日照りが続き、稲の活着を案じた農民たち
は、雨の到来を祈るように待ちながら、じっと坐っています。賢治
もそれをじっと見守り、人々の様子にある種の崇高さを感じ、また
幾分のユーモアもこめて、まるで座禅の修行をしているようだと対
象化しているのです。

 描かれているのは、まだ『第三集』のような自分自身の農耕生活
ではありません。しかし、『第二集』も後期になると、それまでの
ように農民を「他者」として見るのではなく、このように深く共感
しつつ見るようになっていることを感じさせます。

 この作品の「下書稿(一)」で作者は、「溝うめ畦はなちを罪と数
へる/わたくしは古くからの日本の農民である」とも宣言していま
す。

 農学校教師を辞めてみずから「本統の百姓」になることを宣言す
るまで、あと10ヶ月もありません。

 今もこのあたりは広大な田んぼが広がり、碑の裏側には、下写真
のように水路が通っています。水はとうとうと流れ、さすがに灌漑
技術の発達した現代では、ちょっとやそっとで渇水が起こりそうな
様子ではありません。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

--〔1925年-2〕----------------------------------------------
29歳(大正十四年)
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4月
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2日、「五〇四 〔硫黄いろした天球を〕」「五〇六 〔そのとき
嫁いだ妹に云ふ〕」「五〇八 発電所」「五一一 〔はつれて軋る
手袋と〕」

5日、「五一五 朝餐」 この日入学式、新入生には柳原昌悦、高
橋茂、秀蔵、雄次郎、また音楽の愛弟子となる高橋(のちに沢里)
武治もいて、1928年3月、第7回卒業生となる。

 なお、1924年9月の地方長官会議における岡田良平文相の訓示を
受けた10月の学校演劇禁止令もあり、新年度には情操教育上音楽を
奨励、楽器を与え、合奏を試みた。

ヴァイオリン  菊井清人
シロフォン   川村義郎
明笛      柳原昌悦
金笛・オルガン 高橋武治
セロ      高橋喜一
オルガン    大隈喜久雄
ハーモニカ   佐藤幸市

11日、弘前歩兵第31聯隊第7中隊第1班、宮沢清六あての手紙
(書簡203)で、19日の日曜日に訪ねたいが都合はどうかと訊く。

12日、「五一九 春」 森佐一あての手紙(書簡204)

13日、樺太真岡郡清水村逢坂王子事業所内、杉山芳松への返書
(書簡205)

15日、この日付で元「アザリア」同人河本義行が詩集『夢の破片』
を出版(著者名 河本緑石、序 萩原井泉水、発行所 層雲社)し、
賢治にも送られた。

18日、「五二〇 〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」

19日、弘前へ行き、兵営の弟清六に面会。

20日、「三二六 〔風が吹き風が吹き〕」

21日、「三二七 清明どきの駅長」

25日、県が盛岡市に県公会堂を建設するために、国道4号線の松
並木を伐採し、その売却金をもって資金にあてるという発表があり、
賛否両論を呼んでいた。この問題をとりあげ、美観を失うと反対す
る立場(賢治指導)と、財政乏しい県としてはやむを得ないとする
立場(白藤慈秀指導)により、生徒を1組10人に分けて講堂で討
論会を行う。互いに指導よろしく烈しく論陣を張ってゆずらず、終
りに校長は聴衆の生徒たちに対し、すべて物の見方には二つの立場
がある。即ち理想と現実であると講評。

27日、文語詩篇ノートに「照 暴力」のメモ。

 花巻川口町議選挙に父政次郎が立候補していたが、本日付「岩手
日報三面にも「町議選混乱」と報じられるほどの混戦状態で、剣道
担当の照井謙次郎は豊沢町と目と華の「裏町」に住む関係もあり、
畠山校長に政次郎への投票を依頼していた。投票は27日行われ政
次郎は18名中最高点で当選した。職員室で選挙結果が話題になっ
たが、あけすけな校長は政次郎の当選したこともあって自分は他の
人に一票を入れたことを白状した。これに激怒した照井はいきなり
校長の顔を殴りつけ椅子ごと転倒させ、白藤教諭が止めると、出て
いった照井が石ころをひろってとってかえし、おどろいた堀籠、白
藤教諭が羽交い締めにし押しとどめる騒ぎがあった。賢治の授業中
である。

 なおこのときの町長は梅津善次郎である。従来三代までの町長は
士族のため階級意識が強かったが、四代目梅津に至って町人町長と
なった。議員も納税額によって一級、二級は別れていたが、このと
きこの階級制度も撤廃され全町一様に選出されることになった。

 選挙結果は次のとおり(数字は得票数)

宮沢政次郎(82)梅津東四郎(78)佐藤金太郎(74)橋本喜
助(69)松田徳松(67)菅原重信(62)宮沢善治(62)滝
田甚助(59)高橋新太郎(58)藤山清吉(56)藤原新平(5
5)志村勢太郎(52)熊谷新八(51)四戸梅太郎(48)伊藤
弥次郎(47)阿部伊太郎(46)北山鏘一(45)沢田蔵五郎
(40)

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5月
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7日、「三三三 遠足統率」農学校生徒を引率しての小岩井農場見
学をかいたもの。

10日、「三三五 〔つめたい風はそらで吹き〕」

 盛岡中学校5年生の森佐一を訪ね、さそって岩手山に向かう。仁
王通りの小原精養堂で食パン1本を買い、汽車で小岩井駅へ。駅前
のそばやでそばを食べ、農場を抜け姥屋敷から夜の山道をのぼり松
の木の下で野宿を試みた。しかし寒さでがたがたふるえ、再び歩い
て岩手山神社柳沢社務所の小屋に仮眠をとる。

11日、「三三六 春谷暁臥」「三三七 国立公園候補地に関する
意見」

 朝パンをちぎってたべ、高原と谷間を歩き、焼走り熔岩を見、ま
た残ったパンをたべ、大更を経て汽車で好摩へ向かった。右の二つ
の詩はこのハイキングで書いている。

24日、晩春の日曜日の午前、三度めの森佐一訪問。森をともなっ
て盛岡市上田の母校盛岡高等農林学校へ行く。植物園の小屋でお茶
をのみ、花壇をふちどる桃色に小さな花をさかせた草を移植ごてで
とり、ポケットいっぱいにふくらませ「これはとてもふえるんです。
人のいないところだから、花どろぼうですね…」という。

 このあと農芸化学科の助手に世話した教え子小原忠をさそい、森
に紹介し、盛岡では一流の西洋料理店日盛軒へ案内、定食をごちそ
うする。

25日、「三四〇 〔あちこちあをじろく接骨木が咲いて〕」

31日、「三四五 〔Largoや青い雲かげやながれ〕」

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6月
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12日、「二五八 渇水と座禅」

13日、米穀肥料店八重樫次郎へ「水稲苗代期ニ於ルチランチンノ
肥効実験報告」を書く。

18日、 弘前の軍隊にいる清六へ20日土曜日10時50分発で
行くこと、夜8時駅に出迎えてほしいがだめだろうから日曜朝8時
頃隊にゆくと知らす。(書簡206)

20日、朝10時51分発東北本線下り209列車で弘前へ発つ。

24日、本日付「岩手日報」四面に「岩手詩人協会宣言」の見出し
で「今度郷土の詩人たちがあつまって岩手詩人協会をつくり、機関
雑誌「貌」を発刊することになったが編集委員は森佐一君等で創刊
号を7月中旬出す予定で左のような宣言をくばった」として「宣言」
掲載。顧問および会員35名中、3番目に名を列ねる。編集委員森
佐一、生出仁。

25日、山梨県北巨摩郡駒井村の保阪嘉内からの来書に答える(書
簡207)保阪は3月結婚し、5月勤務先の山梨日日新聞社をやめ、
農業を営みだした。

「来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます」

 この返書を以て保阪との交信は絶えたか、以後保阪への書簡は発
見されていない。

27日、和賀郡二子村の斎藤貞一に返書(書簡208)。斎藤は1922
年農学校に入学したが11月関節炎を病み1924年8月まで入退院を繰
り返し、その後静養のかたわら家の農業を手伝っていた。病気がよ
くなったので仕事を依頼してきたのに答える。ここでも来春は教師
をやめて百姓になることをいう。

28日、高日義海家で定期輪読会。

高日義海花巻高女校長を中心とする会を「輪読会」と呼んだ新聞記
事がある。(「岩手日報」1925年6月30日夕刊)

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花巻の輪読会

(花巻支局)28日午後6時30分より高日花巻高女校長宅に於て
花巻輪読会の例会を開催したが当夜の問題は花巻農学校側の提出に
係る

完全人とは如何なる人か
愛国心完本質並涵養方法
国体の精華に就て

の3題に就いて高日高女校長、羽田県属、佐藤共立病院長、宮沢、
藤原、白藤、阿部、多田、小原諸氏の意見発表があって午後11時
すぎ散会した。この輪読会は昨年花巻両町における各学校職員官公
衙其他町内篤学有志が組織したもので爾来会をかさぬること十数回
であるが会員は各自の講読した新刊本の梗概を発表し批評を加へ会
員の討論の題するのであってあるひは時事問題の批判、あるひは学
術的研究の結果について論戦反駁等ありどこまでも智識の交探と向
上をはかるを以て目的としたものである。
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30日、5級俸(110円)、当分105円支給。

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1月、東京放送局ラジオ試験放送開始
3月、盛岡中学校寄宿舎焼失
4月、治安維持法施行
7月、東京放送局本放送開始
7月、大船渡線、一関−摺沢間開通
11月、花巻温泉電気鉄道全線開通(西花巻−花巻温泉)
12月、農民労働党(書記長浅沼稲次郎)結成、即日禁止

この年県下豊作

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梶井基次郎「檸檬」
岩手歌人協会の「郷土歌人」創刊
草野心平、中国広州で同人雑誌「銅鑼」創刊
「家の光」創刊
八木重吉「秋の瞳」
萩原朔太郎「純情小曲集」
堀口大学訳詩集「月下の一群」
柳田国男「民族」創刊
尾形亀之助「色ガラスの街」
映画「黄金狂時代」(チャップリン)
映画「戦艦ポチョムキン」(エイゼンシュテイン)

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政次郎 51歳
イチ 48歳 
シゲ 24歳
清六 21歳 ひきつづき弘前歩兵第31連隊第7中隊第1班勤務。
12月1日、見習士官任官。
クニ 18歳

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     〔雪と飛白岩の峰の脚〕

雪と飛白岩ギャプロの峰の脚
二十日の月の錫のあかりに
澱んで赤い落水管と
ガラス造りの発電室と
  ……また餘水吐の青じろい滝……
黝い蝸牛水車スネールタービン
早くも春の雷気を鳴らし
鞘翅発電機ダイナモコレオプテラをもって
愴たる夜中の睡気を顫はせ
大トランスの六つから
三万ボルトのけいれんを
野原の方へ送りつけ
むら気多情の計器メーターどもを
ぽかぽか監視してますと
いつか巨大な配電盤は
交通地図の模型と変じ
小さな汽車もかけ出して
海よりねむい耳もとに
やさしい声がはいってくる
おゝ恋人の全身は
玲瓏とした氷でできて
谷の氷柱を靴にはき
淵の薄氷をマントに着れば
胸にはひかるポタシュパルヴの心臓が
耿々としてうごいてゐる
やっぱりあなたは心臓を
三つももってゐたんですねと
技手がかなしくかこって云へば
佳人はりうと胸を張る
どうして三つか四つもなくて
脚本一つ書けませう
技手は思はず憤る
なにがいったい脚本です
あなたのむら気な教養と
愚にもつかない虚名のために
そこらの野原のこどもらが
小さな赤いもゝひきや
足袋をもたずにゐるのです
旧年末に家長らが
魚や薬の市へ来て
溜息しながら夕方まで
行ったり来たりするのです
さういふ犠牲に値する
巨匠はいったい何者ですか
さういふ犠牲に対立し得る
作品こそはどれなのですか
もし芸術といふものが
蒸し返したりごまかしたり
いつまでたってもいつまで経っても
やくざ卑怯の遁げ場所なら
そんなものこそ叩きつぶせ
云ひ過ぎたなと思ったときは
令嬢フロイラインの全身は
いささかピサの斜塔のかたち
どうやらこれは重心が
脚より前へ出て来るやう
ねえご返事をききませう
なぜはなやかな機知でなり
突き刺すやうな冷笑なりで
ぴんと弾いて来ないんです
おゝ傾角の増大は
tの自乗に比例する
ぼくのいまがた云ったのは
ひるま雑誌で読んだんです
しっかりなさいと叫んだときは
ひとはあをあを昏倒して
ぢゃらんぱちゃんと壊れてしまふ
愴惶としてまなこをあけば
コンクリートのつめたい床で
工手は落した油罐オイルをひろひ
窓の外では雪やさびしい蛇紋岩サーペンテインの峯の下
まっくろなフェロシリコンの工場から
赤い傘火花の雲が舞ひあがり、
一列の清冽な電燈は、
たゞ青じろい二十日の月の、
盗賊紳士風した風のなかです。

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三三七
     国立公園候補地に関する意見
                    一九二五、五、一一、

どうですか この熔岩流は
殺風景なもんですなあ
噴き出してから何年たつかは知りませんが
かう日が照ると空気の渦がぐらぐらたって
まるで大きな鍋ですな
いたゞきの雪もあをあを煮えさうです
まあパンをおあがりなさい
いったいこゝをどういふわけで
国立公園候補地に
みんなが運動せんのですか
いや可能性
それは充分ありますよ
もちろん山ぜんたいです
うしろの方の火口湖 温泉 もちろんですな
鞍掛山もむろんです
ぜんたい鞍掛山はです
Ur-Iwateとでも申すべく
大地獄よりまだ前の
大きな火口のへりですからな
さうしてこゝは特に地獄にこしらえる
愛嬌たっぷり東洋風にやるですな
鎗のかたちの赤い柵
枯木を凄くあしらひまして
あちこち花を植えますな
花といってもなんですな
きちがひなすび まむしさう
それから黒いとりかぶとなど、
とにかく悪くやることですな
さうして置いて、
世界中から集った
猾いやつらや悪どいやつの
頭をみんな剃ってやり
あちこち石で門を組む
死出の山路のほととぎす
三途の川のかちわたし
六道の辻
えんまの庁から胎内くぐり
はだしでぐるぐるひっぱりまはし
ぞれで罪障消滅として
天国行きのにせ免状を売りつける
しまひはそこの三つ森山で
交響楽をやりますな
第一楽章 アレグロブリオははねるがごとく
第二楽章 アンダンテやゝうなるがごとく
第三楽章 なげくがごとく
第四楽章 死の気持ち
よくあるとほりはじめは大へんかなしくて
それからだんだん歓喜になって
最后は山のこっちの方へ
野砲を二門かくして置いて
電気でずどんと実弾をやる
Aワンだなと思ったときは
もうほんものの三途の川へ行ってるですな
ところがこゝで豫習をつんでゐますから
誰もすこしもまごつかない またわたくしもまごつかない
さあパンをおあがりなさい
向ふの山は七時雨
陶器に描いた藍の絵で
あいつがつまり背景ですな

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二五八
     渇水と座禅
                    一九二五、六、一二、

にごって泡だつ苗代の水に
一ぴきのぶりき色した鷺の影が
ぼんやりとして移行しながら
夜どほしの蛙の声のまゝ
ねむくわびしい朝間になった
さうして今日は雨もふらず
みんなはあっちにもこっちにも
植えたばかりの田のくろを
じっとうごかず座ってゐて
めいめい同じ公案を
ここで二昼夜商量する……
栗の木の下の青いくらがり
ころころ鳴らすドヒの上に
出羽三山の碑をしょって
水下ひと目に見渡しながら
遅れた稲の活着の日数
分けつの日数出穂の時期を
二たび三たび計算すれば
石はつめたく
わづかな雲の縞が冴えて
西の岩鐘一列くもる

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[204] 1925年4月12日 森佐一あて 封書

(表)盛岡市新穀町十四 森佐一様
(裏)四月十二日 花巻農学校 宮沢賢治(封印)〆

暗くおそろしい春の虚像がぼくをとり、あらゆる企画はみんな無効
を示します。

そしてまたそのことが何といふしづかな慰めでせう。

雲が風よりも濃く水は雲よりも稠密なつめたい四月のひるまです。

準平原の雪が消えたら外山へ行きませう。

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[205] 1925年4月13日 杉山芳松あて 封書

(表)樺太真岡郡清水村逢坂 王子事業所内 杉山芳松様
(裏)四月十三日 岩手県花巻農学校 宮沢賢治(封印)〆

お手紙寔にうれしく拝誦いたしました。いつもご無沙汰ばかりでほ
んたうに済みません。樺太は今年は未曽有の風雪であるなど新聞で
見たりしていろいろ心配して居りました。こゝらも今年は春が遅く
今日あたりやっと野原の雪が消えたばかりです。内地はいま非常な
不景気です。今年の卒業生はもちろん古い人たちや大学あたりの人
たちまでずゐぶん困る人も多いやうです。仕事もずゐぶん辛いでせ
うが、どうかお身体を大切に若いうちにしっかりした一生の基礎を
つくって下さい。わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温
いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本
統の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったり
したいと思ふのです。

もしあなたがほんたうに成功ができるなら、それはあなたの誠意と
人を信ずる正しい性質、あなたの巨きな努力によるのです。これか
らはもうわたくしが手紙を二通書いたとか、友だちに頼んだとかそ
んな安っぽいことを恩に着てゐるやうには考へずに、明るく気持ち
よく友だち付合ひをして下さい。

いつかお話だったお守りを亦二通お送りいたします。どうかどなた
かほんたうにそれのなければならない人へあげて下さい。

   四月十三日

杉山芳松様

                 宮沢賢治

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[207] 1925年6月25日 保坂嘉内あて 封書

(表)甲斐国北巨摩郡駒井村 保阪嘉内様
(裏)大正十四年六月廿五日 岩手県花巻農学校 宮沢賢治
(封印)〆

お手紙ありがたうございました。

来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます いろ
いろな辛酸の中から青い蔬菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期し
ます わたくしも盛岡の頃とはずゐぶん変ってゐます あのころは
すきとほる冷たい水精のやうな水の流ればかり考へてゐましたのに
いまは苗代や草の生えた堰のうすら濁ったあたたかなたくさんの微
生物のたのしく流れるそんな水に足をひたしたり腕をひたして水口
を繕ったりすることをねがひます

お目にもかゝりたいのですがお互ひもう容易のことでなくなりまし
た 童話の本さしあげましたでせうか

--〔文語詩稿一百編(89)〕----------------------------------
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(本文)
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     嘆願隊

やがて四時ともなりなんを、 当主いまだに放たれず、
外の面は冬のむらがらす、  山の片面のかゞやける。

二羽の烏の争ひて、     さっと落ち入る杉ばやし、
このとき大気飽和して、   霧は氷と結びけり。

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(下書稿)
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     嘆願隊

やがて四時ともなりなんを
当主いまだに放たれず
外の面は冬のむらがらす
山の片面のかゞやける

二羽の烏の争ひて
さっと落ち入る杉ばやし
このとき大気飽和して
霧は氷とむすびけり

--〔後記〕--------------------------------------------------

 前にも書きましたが、1925年生まれの私の母は、今年91歳にな
りました。翌1926年が昭和元年なので、今年は昭和90年にあたるわ
けです。大正も遠くなりました。「明治百年」などと言っていたの
は私が高校生のときでした。

 ところで、1996年の賢治生誕百年から早くも20年、今年は賢治生
誕120年ということで、8月末に「第4回国際研究大会」が開かれ
ます。私はたぶん行きませんが、興味のある方はどうぞ。

http://www.kenji.gr.jp/kokusai.html

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