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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第907号--2016.07.09------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「宮沢賢治年譜(43)1925年-1」「中尊寺〔一〕」

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-〔話題〕---------------------------------------------------
「宮沢賢治年譜(43)1925年-1」
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 前回間違って1925年と書いてしまいましたが、今回から本当の19
25年です。

 大正14年ということで、翌年から昭和が始まりますので、実質
的には大正最後の年です。

 翌年に花巻農学校を退職する賢治にとっては、最後の教師生活を
送り、まずは無難な日々だったと思いますが、年始早々に海岸地方
への旅行に出ています。

 詩「異途への出発」で知られるこの旅は、「みんなに義理をかい
てまで」行ったものですが、そのあたりの事情については、よくわ
からないようです。

 この旅の途中に、旅行そのものを叙述した詩をたくさん書いてい
て、あちこちにその詩碑がありました。それらが東日本大震災で被
災した様子が、下の蘭の記事でまとめられています。

 私も震災前に、宮古−釜石間は何度かレンタカーで走り、それら
の詩碑も見ています。

 それから、当時盛岡中学校の生徒だった森佐一との交流がこの時
期に始まっています。賢治の後輩になりますが、賢治とは比較にな
らないくらい早熟な人でした。

 しばらくなかった「書簡」も、森佐一あてのものから復活してい
ます。

 『春と修羅』に対する批評や、森佐一との交流を経て、詩人宮沢
賢治がようやく社会的な認知を得ようとしていた時期ですが、ご本
人はあまりそういう意識はなかったようで、こんなことを言ってい
ます。

「前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで
書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私
がこれから、何とか完成したいと思って居ります、或る心理学的な
仕事の支度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会
のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬
な心象のスケッチでしかありません。」

 どうして「詩人」ではいけなかったのか?と思いますが、本人に
とっては譲れないところだったようです。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

三陸と「賢治の碑」
http://www.j-cast.com/2015/01/06224677.html

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 岩手県花巻市出身の宮沢賢治の作品にちなんだ碑が三陸沿岸に9
基あり、震災で4基が流失したり、傷ついたりしました。明治三陸
津波の年に生まれ、昭和三陸津波の年に37歳で亡くなった賢治。そ
の文学の碑は、震災の試練に耐えながら、「平成三陸津波」を後世
に伝える役割を担うことになりました。

 賢治にとって三陸沿岸は身近な場所でした。叔父が住んでいた岩
手県釜石市をしばしば訪れていますし、三陸を2度、旅してもいま
す。賢治は童話「ポラーノの広場」で、三陸海岸を「イーハトーヴ
ォ海岸」と呼んで海岸の光景や地元の人たちの姿を描写し、「たび
たびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました」と記してい
ます。

 碑は、詩碑が6基、歌碑が1基、童話などの文章を刻んだ碑が2
基あり、宮城県塩釜市から岩手県普代村までの間に点在していまし
た。

 宮城県石巻市の「われらひとしく丘に立ち」詩碑、宮城県気仙沼
市の「雨ニモマケズ」詩碑、岩手県田野畑村の「発動機船 三」詩
碑はそれぞれ高台にあって無事で、岩手県宮古市の「寂光のはま」
歌碑、岩手県普代村の「敗れし少年の歌へる」詩碑は、それぞれ津
波に襲われながら残りました。

 その一方で、岩手県陸前高田市にあった「農民芸術概論綱要」の
一節を刻んだ銅板の碑面は、流出して行方不明になりました。また、
岩手県田野畑村の「発動機船 一」詩碑は流され、約3か月後に発
見されました。宮城県塩釜市の「ポラーノの広場」碑と岩手県田野
畑村の「発動機船 第二」詩碑は、傷ついて残りました。

 それぞれの碑には、それぞれのドラマがありました。陸前高田市
で流出した碑面には、哲学者の故谷川徹三氏が揮毫した「まづもろ
ともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」との一
節が刻まれていました。碑は、津波で全壊した岩手県立高田高校の
敷地内に建立され、朝な夕な、生徒たちの登下校を見守っていまし
た。

 田野畑村の「発動機船 第二」詩碑は、設計のこだわりから流失
を免れました。「船長は一人の手下を従へて/手を腰にあて/たう
たうたうたう尖ったくらいラッパを吹く」で始まる詩が刻まれた碑
は、三陸鉄道北リアス線島越駅前に建てられました。制作したのは
東京都三鷹市の建築設計士大村一彦さん。大村さんは碑の向きにこ
だわりました。船が港から出港するイメージで、海岸線に対し直角
の向きに建てたい。計画が変更されました。襲ってきた津波は駅舎
を全壊させましたが、碑は、向きを変えたことで津波の衝撃を交わ
すことができたのです。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

第8回文化サロン 「森荘已池と宮沢賢治」
http://iwate-isn.sakura.ne.jp/bunkasalon/8kai.htm

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 森三紗さんは森荘已池(そういち)さんの四女で詩人です。

 20代の1年間、宮沢家にお世話になり宮沢家の宗教心が篤く、
堅い暮らしぶりを知ったそうです。

 三沙さんのご実家は惣門で野菜、果物を販売している森商店です。
元は江戸時代初期に近江から来て、竹雑貨屋を営んでいたそうです。
加工販売や卸を行い、現在地から明治橋際までが店舗という盛岡で
も有数の大きな店だったそうです。

 明治初期に店が倒産し、莫大な借財を抱え、当時の当主は松前に
逃げ、残った夫人が土地を売り払い借金を返済。残ったのはわずか
な土地、そこで八百屋を開店して現在に至るとのことです。

 森三沙さんのお父様、森佐一(本名)さんは盛中4年生の頃、北
小路幻や青木凶次、畑幻人など様々なペンネームで小田島孤舟主宰
の「曠野」に詩、短歌を投稿したり、新聞に文芸評論などを出して
いたそうです。

 また岩手詩人協会を設立し、同人誌「貌」への投稿依頼の手紙を
賢治に出し、それに応え惣門の八百屋の店頭に賢治が訪ねてきたそ
うです。昭和16年芥川賞の候補にもあがった小説「店頭(みせさ
き)」にもその様子が書かれています。

 賢治は森佐一に「あなたが北小路幻なら尊敬します・・・・」と
いう手紙をよこしています。

 この時から二人の親交が始まりました。当時賢治は花巻農学校教
諭で佐一とは10歳も離れていて、歯に衣着せぬ鋭敏な批評を岩手
日報においてしていた佐一の年齢を不審に感じたようだったとのこ
と。

 賢治は佐一を岩手山麓の散策に連れ出し、心象スケッチの様子を
実際に見せ(「春谷暁臥」春と修羅第二集作品336、佐一という
名が入っ詩になった)たり、洋食やどんぶり物などをご馳走したり、
また森家に泊まったりとかなり親しく交流したそうです。

 三沙さんは、二人の交流が死ぬまで続いたのは、お互いに長所も
短所も認め合い尊敬しあっていたことと二人とも商家の跡とりであ
ったことで分かり合えることがあったからではないかと語られまし
た。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

--〔1925年-1〕----------------------------------------------
29歳(大正十四年)
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1月
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1日、本日付発行児童文芸誌「赤い鳥」1月号に『注文の多い料理
店』の1頁広告。深沢省三、菊地武雄を通じ鈴木三重吉の厚意によ
り無料掲載。同じく本日付雑誌「岩手教育」1月号に『注文の多い
料理店』及び『春と修羅』の1頁広告。

5日、「三三八 異途への出発」

 この日、北陸中へ向けて旅立つ。

6日、「三四三 暁穹への嫉妬」

7日、「三四八 〔水平線と夕陽を浴びた雲〕(断片)」

8日、「三五一 発動機船(断片)」「発動機船一、二、三」「三
五六 旅程幻想」

9日、「三五八 峠」

以下はこの旅行の推定日程

5日 夜、陸中種市から久慈へ向かう
6日 夜、安家に宿泊
7日 普代を経て羅賀へ出、ここより発動機船に乗り宮古港着。宿
泊したか夜、三陸汽船にて釜石に向かったか。
8日 天神町の叔父宮沢磯吉の家に宿泊
9日 釜石を出発、仙人峠より釜石湾を見る。岩手軽便鉄道にて花
巻に帰る。(12:35発16:30着、または15:55発19:45着)

15日、富永太郎が正岡忠三郎あて書簡で「近頃発見した面白い詩」
として「蠕虫舞手」を示して『春と修羅』を推奨する。

18日、「四〇一 氷質の冗談」

25日、「四〇七 森林軌道」「四〇八 〔寅吉山の北のなだらで〕」
「四〇九 〔今日もまたしやうがないな〕」

30日、農学校職員生徒一同矢沢方面へ雪中行軍。

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2月
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5日、「四〇九 冬」

9日、盛岡市の森佐一あて書簡(書簡200)。森佐一が編集発行人
となった詩誌「貌」(本年7月に創刊された)の寄稿依頼に答え、
自分の書いたものは詩や文芸とはいえぬ心象スケッチにすぎない旨
をいい、寄稿を辞退する。森佐一との最初の交渉である。

12日、森佐一の再度の要請に応え、「スケッチ2篇」(「鳥」
「過労呪禁」を送る。(書簡201)

13日、「九〇 風と反感」

15日、「四一〇 車中」「四一一 未来圏からの影」「四一五 
〔暮れちかい 吹雪の底の店さきに〕」「四一九 奏鳴的説明」

 本日付「岩手日報」四面「文芸消息」蘭に「牧草」4巻1号予告
として関徳弥「宮沢さんの『春と修羅』について」その他の内容紹
介が出る。

19日、森佐一にあて、尊敬の意を伝え、しかもMisantropyが氷の
ように自分を襲ってくるという。(書簡202)

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3月
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24日、農学校卒業式。

28日、農学校入学試験。

 この日、生徒平来作、菊地信一を自宅に呼び卒業を祝ってご馳走
した。このとき「おまえたちは女学校を卒業した人をお嫁に迎えて
はだめだぞ。必ず農家に生れた、農業にしたしむ体の丈夫な人を嫁
にするんだよ」と注意し、自分の写真に署名し、それと『春と修羅』
『注文の多い料理店』を与えた。

 ある牡丹雪の夕方、盛岡市の森佐一を訪ねる。家は八百屋で森は
盛岡中学校4年生、校友会雑誌の編集をし、北小路幻の筆名(ほか
にもいろいろあった)で詩を批評を新聞に発表していた。賢治は相
手が中学生なのに驚いたが、森を外に誘って、盛岡劇場となりのレ
ストラン大洋軒でご馳走した。科学や宗教の話をし、自作の歌
(「ポラーノの広場の歌」など)を堂々と歌って、芝居の幕間で休
憩中の盛岡劇場のお客やレストランの女給をおどろかせた。ハトロ
ン紙の封筒から10銭銅貨をざらざらと出し、山盛りにして支払い
をすませる。

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1月、東京放送局ラジオ試験放送開始
3月、盛岡中学校寄宿舎焼失
4月、治安維持法施行
7月、東京放送局本放送開始
7月、大船渡線、一関−摺沢間開通
11月、花巻温泉電気鉄道全線開通(西花巻−花巻温泉)
12月、農民労働党(書記長浅沼稲次郎)結成、即日禁止

この年県下豊作

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梶井基次郎「檸檬」
岩手歌人協会の「郷土歌人」創刊
草野心平、中国広州で同人雑誌「銅鑼」創刊
「家の光」創刊
八木重吉「秋の瞳」
萩原朔太郎「純情小曲集」
堀口大学訳詩集「月下の一群」
柳田国男「民族」創刊
尾形亀之助「色ガラスの街」
映画「黄金狂時代」(チャップリン)
映画「戦艦ポチョムキン」(エイゼンシュテイン)

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政次郎 51歳
イチ 48歳 
シゲ 24歳
清六 21歳 ひきつづき弘前歩兵第31連隊第7中隊第1班勤務。
12月1日、見習士官任官。
クニ 18歳

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三三八
     異途への出発
                     一九二五、一、五、

月の惑みと
巨きな雪の盤とのなかに
あてなくひとり下り立てば
あしもとは軋り
寒冷でまっくろな空虚は
がらんと額に臨んでゐる
   ……楽手たちは蒼ざめて死に
     嬰児は水いろのもやにうまれた……
尖った青い燐光が
いちめんそこいらの雪を縫って
せはしく浮いたり沈んだり
しんしんと風を集積する
   ……ああアカシヤの黒い列……
みんなに義理をかいてまで
こんや旅だつこのみちも
じつはたゞしいものでなく
誰のためにもならないのだと
いままでにしろわかってゐて
それでどうにもならないのだ
   ……底びかりする水晶天の
     一ひら白い裂罅ひゞのあと……
雪が一さうまたたいて
そこらを海よりさびしくする

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四〇九
     冬
                      一九二五、二、五、

がらにもない商略なんぞたてやうとしたから
そんな嫌人症ミザンスロピーにとっつかまったんだ
  ……とんとん叩いてゐやがるな……
なんだい あんな 二つぽつんと赤い火は
  ……山地はしづかに収斂し
    凍えてくらい月のあかりや雲……
八時の電車がきれいなあかりをいっぱいのせて
防雪林のてまへの橋をわたってくる
  ……あゝあ風のなかへ消えてしまひたい……
蒼ざめた冬の層積雲が
ひがしへひがしへ畳んで行く
  ……とんとん叩いてゐやがるな……
世紀末風のぼんやり青い氷霧だの
こんもり暗い松山だのか
  ……ベルが鳴っているよう……
向日葵の花のかはりに
電燈が三つ咲いてみたり
灌漑水
や肥料の不足な分で
温泉町ができてみたりだ
  ……ムーンディーアサンディーアだい……
巨きな雲の欠刻
  ……いっぱいにあかりを載せて電車がくる……

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四一一
     未来圏からの影
                     一九二五、二、一五、

吹雪フキはひどいし
けふもすさまじい落磐
  ……どうしてあんなにひっきりなし
    凍った汽笛フエを鳴らすのか……
影や恐ろしいけむりのなかから
蒼ざめてひとがよろよろあらはれる
それは氷の未来圏からなげられた
戦慄すべきおれの影だ

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[200] 1925年2月9日 森佐一あて 封書

(表)盛岡市新穀町十四番地 森佐一様
(裏)二月九日 花巻農学校 宮沢賢治(封印)〆

お手紙拝誦いたしました。

詩の雑誌御発行に就て、私などまで問題にして下すったのは、寔に
辱けなく存じますが、前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦そ
れからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩
ではありません。私がこれから、何とか完成したいと思って居りま
す、或る心理学的な仕事の支度に、正統な勉強の許されない間、境
遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取っ
て置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。私はあの
無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置
を全く変換しようと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発
表して、誰かに見てもらひたいと、愚かにも考へたのです。あの篇
々かいゝも悪いもあったものでないのです。私はあれを宗教家やい
ろいろの人たちに贈りました。その人たちはどこも見てくれません
でした。「春と修養」をありがたうといふ葉書も来てゐます。出版
者はその体裁からバックに詩集と書きました。私はびくびくもので
した。亦恥かしかったためにブロンヅの粉で、その二字をごまかし
て消したのが沢山あります。辻潤氏、尾山氏、佐藤惣之助氏が批評
して呉れましたが、私はまだ挨拶も礼状も書けないほど、恐れ入っ
てゐます。私はとても文芸だなんといふことはできません。そして
決して私はこんなことを皮肉で云ってゐるのではないことは、お会
ひ下されば、またよく調べて下されば判ります。そのスケッチの二
三編、どうせ碌でもないものですが、差し上げやうかと思ひました。
そしたらこんどはどれを出さうかと云ふことが、大へんわたくしの
頭を痛くしました。これならひとがどう思ふか、ほかの人たちのと
比較してどうだらうかなどといふ厭な考がわたくしを苦しめます。
わたくしは本統にそんなに弱いのですから、笑ってもようございま
す。どうかしばらく私などは構はないでこゝらにそっと置いて下さ
い。どうせ家を飛び出したからだですから、どこへ行ってもいゝ訳
ですがいろいろの事情がもうしばらく、或は永久に、私をこゝに縛
りつけます。梅野さんにもお会ひして申し上げて置きます。又あな
たのお手紙からあなたにお会ひしたいと思ひます。

  大正十四年二月九日
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[201] 1925年2月12日 森佐一あて 封書

(表)盛岡市新穀町十四番戸 森佐一様
(裏)二月十二日 花巻農学校 宮沢賢治 (封印)〆

お手紙拝見いたしました。

スケッチ二篇お送りいたします。后の方だけ出して下さるならなほ
結構です。幻聴や何かのはいらないすなほなものを撰びまし
た。お金のことも承知しました。

まづはご返事まで申し上げます。

   大正十四年二月十二日

森 佐一様

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[202] 1925年2月19日 森佐一あて 封書

(表)盛岡市新穀町十四 森佐一様
(裏)二月十九日 花巻農学校 宮沢賢治(封印)〆

あなたがもし北小路幻氏であればわたくしは前からあなたを尊敬し
てゐます

しかもいま Misanthropy が氷のやうにわたくしを襲ってゐます

   この頃にあのぱぷりしゃあに会ひますからすこし待ってくだ
さい

--〔文語詩稿一百編(88)〕----------------------------------
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(本文)
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     中尊寺

七重の舎利の小塔に、  蓋なすや緑の燐光。

大盗は銀のかたびら、  おろがむとまづ膝だてば、
赭のまなこたゞつぶらにて、  もろの肱映えかゞやけり。

手触れ得ず十字燐光、  大盗は礼してゆる。

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(下書稿3)
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     中尊寺

じゅうの舎利の小塔ことう
がいなすや緑の燐光

大盗は銀のかたびら
おろがむとまづ膝だてば
しゃのまなこたゞつぶらにて
もろの肱えかゞやけり

手触たふれ得ね舎利の宝塔
大盗はれいしてゆる。

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(下書稿2推敲後)
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山上の堂のくらやみ
七重の舎利塔を
ほのに浮く青の燐光

大盗は銀の帷子
隠身の黒に装ひつ
双の手を胸に結べば
そのまなこつぶらの黄にて
その肱は照りかゞやけり

手触れ得ず青の燐光
大盗はまたおろがみつ
きとばかり歯軋り消ゆる

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(下書稿2推敲前)
------------------------------------------------------------

七重の舎利の小塔を
うち繞る青き燐光

大盗は銀の帷子
隠身の黒に装ひつ
双の手を胸に結びつ
そのまなこつぶらに黄にて
その肱は照りかゞやけり

手触れ得ず青の燐光
大盗は退りて消ゆる

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(下書稿1「冬のスケッチ」第6葉第1章)
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ぬすまんとして立ち膝し、
その膝、光りかゞやけり

ぬすみ得ず 十字燐光
やがていのりて消えにけり。

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※この葉の第1行に本稿の1行が書かれており、本稿が下書稿とし
ての完全形でなく、前半の書かれている紙葉が喪失している可能性
が強い。現存「冬のスケッチ」のどの紙葉も、本稿前半に当たる詩
句を持つものはない。
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--〔後記〕--------------------------------------------------

 何だか急に暑くなりました。もう本格的な夏ですね。

 今日は昨年なくなった義母の一周忌をする予定です。早いもので
す。

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