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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第527号--2009.03.28------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------

「MEMO印手帳」「疲労」

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ブログ毎日?更新中
http://www.kenji.ne.jp/blog/
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--〔話題〕--------------------------------------------------
「MEMO印手帳」
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 「雨ニモマケズ手帳」「兄妹像手帳」の次は「MEMO印手帳」
なんですが、この手帳には残念ながら「作品」として掲載できるも
のはありません。

 パスしようかとも思ったのですが、やはり一応紹介しておきます。

 この手帳のメインは、「風の又三郎」の構想を書こうとしていた
ところです。手帳については、校本全集ではこう解説しています。

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 この「Memorandam」の文字から、本手帳の仮称「MEMO印手帳」
を定めたものである。

 次に本手帳の使用時期について推定する。推定の手がかりになる
ものとして、一〜二頁および六二頁がある。まず一〜二頁は当時の
国鉄三等旅客運賃である。記入の時期は、賢治が東北砕石工場の技
師となった昭和六年二月十七日以降、県庁訪問や販売先拡張の活動
を始めた時期か、九月上旬上京の時期のいずれかと考えられる。し
かし、「東京/名古屋/大阪」の記入は、かならずしも九月上旬上
京の時期と見なくてもよいであろう。書簡306(昭和六年三月十四
日付)によると、名古屋へ見本を送っており、おそらく鈴木東蔵と
の間に、いずれは東京・名古屋・大阪方面へ出張すべき話がとりか
わされていたのかも知れない。このことから、記入の時期は前者と
見たい。

 また六二頁の記入は、石灰肥料宣伝の下書と見られる。肥料宣伝
文にめれている書簡は、昭和六年では294(一月十二日付)が最初
であるが、これは前年の書簡268(六月三十日付)に照応するもの
と考えられるので、六二頁の記入がなされたのはこの一月以降と推
定される。

 要するに本手帳は、昭和六年一月以降から同年三月上旬前後にか
けて記入されたものであろう。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

 したがって、前の「兄妹像手帳」より少し前のものということに
なります。

 風の又三郎の構想は「兄妹像手帳」にもありました。かなり長期
にわたって構想を練っていたことがわかります。

 でも、残念ながら各頁に大きく日付だけを書いて、後で書き込む
つもりだったと思われるその内容はほとんどありません。

 仕事が多忙を極めた時期でもあります。いったん仕切り直して、
夏ごろから本格的にかかわったらしいことは、以前紹介した書簡で
もわかります。

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

[379](1931年8月18日)澤里武治あて 封書

 仙人峠の方は今月或は蓋ろ学校が始まってからの方が好都合な点
もあります。それはこの頃「童話文学」といふクォータリー版の雑
誌から再三寄稿を乞ふて来たので既に二回出してあり、次は「風野
又三郎」といふある谷川の岸の小学校を題材とした百枚ぐらゐのも
のを書いてゐますのでちやうど八月の末から九月上旬へかけての学
校やこどもらの空気にもふれたいのです。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

 それから、この手帳には、ところどころ絵が書かれています。賢
治の絵は素人としては割と上手な方ですので、ときどきこうした絵
を落書きしたりしていたようです。

--〔BookMark〕----------------------------------------------

昭和初期の上野青森間の鉄道について教えて
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3849895.html

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 全て蒸気機関車牽引で、昭和10年ごろで一番速い急行列車でも12
時間以上を要していました。もっとも、大正時代には15〜6時間以
上かかっていたので、随分便利になったなあ、というのが当時の人
の印象かもしれません。

 長距離の主役は急行列車、準急列車(料金無料で戦後の快速列車
に相当)、そして通し運転の普通列車も走っていました。夜行列車
でも寝台車は一般的ではなく、もっとも立派な夜行急行でも、イメ
ージとしては、2等(A寝台)と3等(B寝台)の寝台車が1〜2両
ずつ連結されているだけでした。3等の寝台車にはカーテンもなか
ったそうですが、車両自体は昭和5年登場、当時最新式の鋼製車両
で、当時の人には羨望の眼差しでみられていたかもしれません。

 当時の上野〜青森間の運賃は、正確には覚えていないのですが、
当時のお金で7円〜10円位です。米価換算なら1万数千円という
ところですが、当時は所得格差が極めて大きかったので、これは低
賃金労働者にとっては5万〜10万円に相当し、利用しにくい乗り
物でした。逆に、裕福な階層の人は割高な二等車、二等寝台車を利
用し結構あちこち外出しています。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

風の又三郎・作品の成り立ち・創作メモ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~accent/kazeno/naritati.html

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

童話 風野又三郎 梗概

九月一日 登校、授業前、見知らぬ子
       足をふむ。子ら喧嘩してさわぐ間に居なくなる
       招介、モリブデン稼行するとて社の命に父来り住す
       職員室より教師とともに出で来る
       教師訓示する間に背広にシシャツ着て黒のハンケチ
       を巻ける男窓外より扇子を持ちてうかがふ。
       あだ名  いまだ恐れて近づかず別れ去る。
八月二日 子らはじめて近づく
       又三郎風の歌をうたふ
       ぼくに風のうたうたへっていふのか
       又三郎歩き来れる地方のことを語る
八月三日 アセチレン燈にて火ぶりす
       剣舞の練習后
八月五日 風の効用に就て子らと争ふ

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風野又三郎

九月一日 木 小学校 転校
九月二日 金 消炭にて書く 鉛筆を貰った子 湧水を教へる み
       んな又三郎の挙動ばかり見てゐる
九月三日 土 又三郎語る 草山の下を通る 風の歌、又三郎の前
       の学校のはなし あしたの相談
九月四日 日 草刈を見に行く
九月五日 月
九月六日 火 雨 消炭はやる
九月七日 水 雨、葡葡とりに行く 又三郎効害論
九月八日 木 情勢険悪
九月九日 金 神楽
九月十日 土 又三郎云はず
九月十一日 日 
九月十二日 月 嵐 転校

 どっどど、どどうど、どどうど、どう
 どっ――
 (1)あまいざくろも吹きとばせ すっぱいざくろも吹きとばせ
 (2)青いりんごも吹きおとせ まっ赤いりんごも吹きおとせ
 (3) アモイ、東京、タスカロラ、上海、青森、オホーツク、

 六年 孝一
 五年 嘉助 又三郎 さの
 四年 佐太郎 喜蔵 甲助 辰治 この    きのよ
 三年 ぺ吉‥‥かよ

 画習算国体全部一諸

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

宮沢賢治とエスペラント地名
http://www.kenji.gr.jp/kaiho/kaiho25/kaiho25.html#F

--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------

 宮沢賢治がエスペラントに大きな関心を抱いていたことは、広く
知られている。賢治がつくったイーハトーブということばは、岩手
の旧かな表記イハテから発想したもので、エスペラントをもじった
ことばだ。

 一九二六年一一月、旧交を温めようと訪ねてきた盛岡中学校時代
の友人・小菅健吉に対し、賢治は「世界の人に解ってもらうようエ
スペラントで発表するため、その勉強をしている」と語ったとされ
ている。(『校本宮沢賢治全集』第十四巻「年譜」、一九七七年、
筑摩書房)。

 世界の人々を読者にしよう。そのためにエスペラントの勉強が必
要だということで、エスペラントに関心をもつ明確な動機が語られ
ている。このころ、いや現在でも世界を相手にしようと考えた日本
人作家はほとんどいない。

 この年の十二月二日、七度目の上京をした賢治はエスペラントの
講習を受けた。花巻にはエスペラントを教えてくれる人がなく、専
ら独習していたが、その限界を感じ取っていたのかもしれない。フ
ィンランド公使でエスペランチストのラムステットと出会ったのも
この時期のことで、講演後個別に尋ねた賢治に対し、ラムステット
は、「やっぱり著述はエスペラントによるのが一番だ」と語った
(十二月十二日付、父・政次郎宛の手紙)。

 このできごとでエスペラント学習熱に弾みがついたに違いないが、
現実には残されたエスペラント作品は「エスペラント詩稿」と呼ば
れる詩八編のみ。いくら学習が容易な人工国際語エスペラントとは
いえ、習熟するには相応の時間と根気が必要だ。身近に先生がいな
いため、独習に頼らざるを得なかった賢治は、エスペラントで作品
を発表するまでに至らなかった。

 だが、エスペラントを学習した成果を作品に生かそうとはしてい
る。「ポラーノの広場」では、モリーオ(盛岡)、センダード(仙
台)、トキーオ(東京)、シオーモ(塩釜)といった地名が使用さ
れているが、これは明らかに地名をエス化しようという意図が動い
ている。

 岡本好次というエスペランチストが「エス化した日本その他の地
名」という論文を一九三六年に書いているが(『エスペラント言語
学序説』)、一九九二年、日本エスペラント図書刊行会が第二版発
行)、その中で東京はトキーオ(Tokio)、京都はキオート(Kioto)、
とすでにエス化されていると紹介されている。つまり、世界のエス
ペランチストが公認の上そう表記しているということだ。さらに、
大阪をオサーコ(Osako)、横浜をヨコハーモ(Jokohamo)、長崎
をナガサーコ(Nagasako)とする動きがあるとしている。

 もちろん、賢治はこの論文を見ていないが、エスペラントを学習
する過程で地名をエス化する事例に触れたのかもしれない。名詞は
oで終わり、後ろから二番目の母音にアクセントがあるというエス
ペラントの規則に従った結果、モーリオなどの表記が生まれたに違
いない。ちなみに、当初の「ポランの広場」から「ポラーノの広場」
への表記の変更もエスペラントに対する習熟がその背景にあると推
測される。

 なお、仙台は当初エスペランチストの間ではセンダーヨ(Sendajo)
とエス化されていたが、賢治がセンダード(Sendado)と表記した
のが一般化した結果、センダードと表記されるようになった。賢治
のつくったことばがひとり歩きした例である。

 おそらくは賢治は、物語の舞台を日本に限定したくなかった。地
名をエス化することで、世界にも通じる物語を書こうとしたのだ。
私には、この「ポラーノの広場」という作品から「世界の人々に読
んでもらいたい」という賢治の思いが垣間みれる。

--〔↑引用おわり〕------------------------------------------

--〔手帳より〕----------------------------------------------
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■【MEMO印手帳】
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□1〜2頁

藤 根
横川目
横 手
大 曲
秋 田

東 京  5.54
名古屋  8.18
大 阪  9.38

黒沢尻   21
金ヶ崎   36
水 沢   47
前 沢   63
平 泉   75
一ノ関   86
松 川  121
小牛田  158
仙 台  214
石 巻  195

石鳥谷   19
日 詰   27
矢 幅   41
盛 岡   57

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 当時の国鉄運賃です。東京、名古屋、大阪は円単位、それ以外は
銭単位で、正確に記入されているそうです。時刻表か何かで調べた
のでしょう。

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□3〜4頁

風野又三郎  木

九月一日   晴
九月二日金 ─ 転校
  三日土 ─ 消シ炭、話シ、
  四日日 ─ 原、馬
  五日月 ─ 水泳
  六日火 ─
  七日水 ─ 雨
  八日木 ─ 葡萄とり
  九日金 ─ 夜 神楽
  十日土 ─ 又三郎平然
  十一日 ─ 記事ナシ
  十二日 ─ 風雨 ─ 終リノ日

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 「風野又三郎」とありますが、異稿としての「風野又三郎」(風
の神様の子が出てくるやつ)ではなく、よく知られた「風の又三郎」
のことです。書簡にもありましたが、賢治は一貫して「風野又三郎」
と呼んでいたようです。ここでは日付の羅列した見出し風の書き方
です。

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□5〜26頁

九月二日 金

鉛筆ニ就テノ紛争
又三郎消シ炭ニテ書ク

九月三日 土

九月四日 日

九月五日 月

九月六日 火

九月七日 水

九月八日 木

九月九日 金

九月十日 土

九月十一日

   曇日

九月十二日 月

   風雨

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 見出しに引き続いて内容を、というわけでしょうが、見開き2頁
の最初に日付を書いた頁がずっと続きます。各日付は2頁間隔で一
行だけ書かれているわけです。残念ながら、内容の書き込みはあり
ません。

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□27〜28頁

ポラーノの広場

 最終幕

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 前の「風野又三郎」の日付の続きに、同じような感じに書かれて
います。風野又三郎の次には「ポラーノの広場」の構想も書くつも
りだったのでしょう。

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□29頁

郊宴  北上山地
    大正年間

 村ノ祭リニテ

  柚六人山ヲ下リテ清水ノ辺ニテ憩フ
  姥石ノ茶屋ニ酒ヲツケタル馬来ル
  柚コレヲ売レトイフ Aコレヲ止ム
  馬子キカズ、

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 「郊宴」という字だけが大きく書かれています。どこかの作品に
使う材料のメモなのでしょうか。この後ずっと空白が続き、47、
48、58、59、60、61頁に落書きらしい絵があります。

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□62頁

分解されて
与へらるやうに工夫することが
肝要であることは本県では担江分場昭和二年
迄の成績でも明であります。
之に対して窒素ではまづ速効の
もの硫安人糞尿の如きからこれと重なり
亦はやゝ送れるアムモホス次では血粉
魚粕、次でダイズ粕最后に厩肥並

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 解説にも出ていた、広告の原稿らしい書き込みです。この後、裏
見返しにフクロウの絵があって、この手帳はおしまいです。

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--〔作品〕--------------------------------------------------

七一四
     疲労
                    一九二六、六、一八、

南の風も酸っぱいし
穂麦も青くひかって痛い
それだのに
崖の上には
わざわざ今日の晴天を、
西の山根から出て来たといふ
黒い巨きな立像が
眉間にルビーか何かをはめて
三っつも立って待ってゐる
あの雲にでも手をあてゝ
疲れを知らないあゝいふ風な三人と
せいいっぱいのせりふをやりとりするために
電気をとってやらうかな

【七一四 疲労 下書稿(一)】

(『明滅する春と修羅』より「春と修羅」第三集 1931年構想)
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--〔後記〕--------------------------------------------------

 月曜日に中国から帰って来て、ようやく落ち着いたところです。
中国にいる間もずっと元気に過ごせました。しかし中国はどこに行
っても人が多いですね。

 この五月には花巻でセミナーがあります。妻がこの春に退職する
ので、ようやく一緒に行けるかも知れません。

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