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--宮沢賢治---Kenji-Review-----------------------------------
-----------------------------------第442号--2007.08.11------
--〔今週の内容〕--------------------------------------------
「書簡(1917年)」「岩手山」
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--〔話題〕--------------------------------------------------
「書簡(1917年)」
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1917年、宮沢賢治は盛岡高等農林の三年生になります。その年の
正月には父の所用を頼まれて、東京に出ています。東京では芝居見
物などもしていたようです。
--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------
1917年1月5日(金)
浜町の明治座一幕見。一番目「平相国」二幕(山崎紫虹作)、中
幕「阿波の鳴門どんどろ大師門前」「鳥辺山心中」(岡本綺堂作)、
二番目「名工柿右衛門」三幕、大切り「身替り聟」。出演者 五代
目市川小団次、三代目中村歌六、初代片岡仁左衛門、二代目市川左
団次一座。一幕見なので中幕の阿波の鳴門を見たか。巡礼おつるの
ご詠歌が童話「蜘蛛となめくぢと狸」を思わせる。
(『宮沢賢治年譜』より)
--〔↑引用おわり〕------------------------------------------
さて、三年生になった賢治たちは、同人誌「アザリア」を創刊し
ます。今までも短歌を書いていた賢治ですが、いよいよ人に読ませ
るための創作活動が始まります。
1917年7月に「アザリア」第一号ができました。批評などをしあ
った夜、みんなで夜を徹して秋田街道を歩いたことは初期短編「秋
田街道」に書かれているとおりです。
また、一年下で同年齢の保阪嘉内と二人で、岩手山登山をしたり
もしています。
7月の末には三年生の修学旅行があり、級友たちは北海道に出発
しましたが、賢治は何故か参加せず、花巻の有志による「東海岸視
察団」に加わり、釜石から宮古まで旅行しています。
書簡にあるそのときの短歌に、「蕩児たち」という表現があるよ
うに、このときのメンバーはすでに実業についている人たちで、夜
は宴会を開いて飲んでいたのでしょう。生真面目な学生である賢治
には、あまりおもしろくない旅行だったようです。
8月から9月にかけて、「江刺郡地質調査」で水沢から種山ヶ原
一帯を歩いています。このときの夏の夜、伊出の村で剣舞を見て感
激したことが書簡の短歌に見えます。
後に詩集『春と修羅』に収められる「原体剣舞連」という詩の原
型も、おそらくこのときにあったのだと思います。
このときは高橋秀松も同行していますので、葉書は保阪嘉内あて
に送っています。そのうち9月2日の[39]の葉書は本文がなく、絵
はがきになっています。
下の欄に画像と解説のあるページを紹介しておきます。
以下は「歌稿A」に収められた、この旅行中の短歌です。1917年、
宮沢賢治21歳の作品です。
--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------
(以下江刺地質調査中)
上伊手剣舞連 四首
593
うす月にかゞやきいでし踊り子の異形のすがた見れば泣かゆも
594
うす月にむらがり踊る剣
595
うす月にきらめき踊るをどり子の鳥羽もてかざる異形はかなし
596
剣舞の赤ひたゝれはきらめきてうす月しめる地にひるがへる
種山ヶ原 七首
597
白雲のはせ行くときは丈たかき草穂しづかに茎たわみつゝ
598
Opalの草につゝまれ秋草とわれとはぬるゝ種山ヶ原
599
白雲は露とむすびて立ちわぶる手帳のけいも青くながれぬ
600
白雲にすがれて立てるあざみより種山ヶ原にかなしみは湧く
601
目のあたり黒雲ありと覚えしは
てるなりけり
602
しらくもの種山ヶ原に燃ゆる火のけむりにゆらぐさびしき草穂
603
こゝはまた草穂なみだちしらくものよどみかゝれるすこしのなだら
原体剣
604
さまよへるたそがれ鳥に似たらずや青
605
若者の青
--〔↑引用おわり〕------------------------------------------
--〔BookMark〕----------------------------------------------
「剣舞の赤ひたゝれ」歌碑
http://www.ihatov.cc/monument/077_.htm
--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------
劍舞の
赤ひゝたれは
きらめきて
うす月しめる
地にひるがへる
賢 治
阿原山は、種山ヶ原から南西の方向にある標高782mの山です。こ
のあたりの準平原と呼ばれる地形独特の、平たい形をしていて、頂
上は高原のようになっています。
その頂上に、歌碑が建っています。
碑になっている短歌は、1917年9月、高等農林学校三年の時に詠
まれたものですが、この8月28日から9月8日にかけて、賢治は他の
学生とともに江刺郡の地質調査に出かけていました。この旅の途中
で、彼は原体村(当時)の剣舞に出会い、涙を流すほどの感銘を受
けたのです。
9月3日には、いくつかの短歌をつくって親友の保阪嘉内に葉書で
送っていますが、そこにこの一首の原型も含まれています。
さらにこの時の体験は、五年後に、あの名作「原体剣舞連」
(『春と修羅 〔第一集〕』)としても結実しました。
また、この地質調査旅行で賢治は種山ヶ原も訪ね、「みちのくの
/種山ヶ原に燃ゆる火の/なかばは雲にとざされにけり」など、歌
曲「種山ヶ原」の原型となる短歌も詠んでいます。
賢治にとってこの旅は、後のさまざまな創作活動の源泉の一つと
なる、重要な体験だったのだろうと思います。
--〔↑引用おわり〕------------------------------------------
鬼剣舞の由来
http://www.city.kitakami.iwate.jp/main.asp?
fl=show&id=1000010214&clc=1000007591&
cmc=1000007693&cli=1000010207&cmi=1000010211
--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------
北上市の周辺に伝わる「鬼剣舞」は正式には「念仏剣舞」の一つ
ですが、威嚇的な鬼のような面(仏の化身)をつけ勇壮に踊るとこ
ろから「鬼剣舞」と呼ばれ、親しまれています。大宝年間(701〜7
04年)に修験の祖・役の行者小角が念仏を広めるために、念仏を唱
えながら踊ったのが始まりという説や、大同年間(806〜810年)に
羽黒山の法印・善行院荒沢鬼渡大明神で悪霊退散・衆生済度の念仏
踊りとして伝えられたのが始まりともいわれています。
--〔↑引用おわり〕------------------------------------------
大正6年(1917)江刺郡地質調査で賢治に同行した人々
http://www.esashi.com/doukou.html
--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------
▼佐々木又治
明治29年(1896)3月23日〜昭和39年(1964)9月29日
西磐井郡山ノ目村赤荻(現一関市)出身。一関中学校に入学、二
年時に盛岡中学校に転校し、卒業。大正4年(1915)、盛岡高
等農林学校農学科第二部(農芸化学)に入学。賢治と同級、秀松と
同学年。
三年時大正6年(1917)の江刺郡地質調査に、賢治・秀松と
同行した。大正7年(1918)高農を卒業し、南洋拓殖工業会社
に入り、東カロリン群島クサイ島に赴任し、大正9年(1920)
帰国。
大正15年(1926)、花巻農学校を退職した賢治の後任として
教諭となり、物理・化学・土壌・肥料等を担当、昭和7年(193
2)まで勤めた。のち、広島県庄原実業学校から深安実業学校校長
を経て、昭和19年(1944)、下閉伊郡宮古町(現宮古市)のラ
サ工業に入社、煙害調査係主任として自社精錬所の公害研究にあた
った。
……………………………………
▼高橋秀松
明治29年(1896)5月7日〜昭和50年(1975)12月17日
宮城県名取郡増田町(現名取市)出身。生家は大正頃まで旅館業。
大正4年(1915)、宮城県立農学校卒業、同年盛岡高等農林学
校農学科第一部(農学全般)に入学。賢治、又治と同学年。
一年生の時寄宿舎で賢治と同室になって親交を結び、たびたび山
野行を共にした。大正6年(1917)三年時の江刺郡地質調査に、
賢治・又治と同行した。
大正7年(1918)高農を卒業し、茨城県立農業教育養成所兼
農学校教諭。大正9年(1920)京都帝大経済学部選科に入学、
大正12年(1923)卒業。安田保善社勤務後、昭和19年(194
4)帰郷、農協役員、名取町長を経て、昭和33年(1958)初代
名取市長になった。
--〔↑引用おわり〕------------------------------------------
賢治と種山ヶ原1
http://www.esashi.com/miyazawa_1.html
--〔↓引用はじめ〕------------------------------------------
9月2日、伊手から保阪宛のはがきには、伊手附近の岩石の分布
図等を示している。左上には「拡散系(溶媒は空気・溶質は水)」
の意の英単語が書かれ、これは空の部分に記した点々が霧であるこ
とを表している。以下、下部の中央には「山崩れ」、その下には
「すぐに御想像のつく通り、これらは松の木立であります。」とあ
る。右には「かなしめるうま」「蛇紋岩ノ露出」の文字が見える。
中央の山は伊手西方の銚子山とされている。
--〔↑引用おわり〕------------------------------------------
--〔書簡〕--------------------------------------------------
[25](1917年1月1日) 保阪嘉内あて 葉書
(表)山梨県北巨摩郡駒井村 保阪嘉内様
岩手県花巻川口町 宮沢賢治
去年中はいろいろ御世話になりましてありがたう存じます。
扨又首尾よく本年となりまして御互に誠に慶賀の至りでございます。
遥にあなたの御壮健を祈り又雪の中に立ち出でましてニコライの司
教のやうに手をひろげる人をおもひます。
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[26](1917年1月4日) 保阪嘉内あて 葉書
(表)山梨県北巨摩郡駒井村 保阪嘉内様
東京へ宅の用で出ました。
神保町本石町両国橋とさまよひ果て労れ果て今小さな宿屋の室に叔
父の来るのを待つてゐます。
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[27](1917年1月4日)高橋秀松あて 葉書
(表)宮城県増田町 高橋秀松様
うちの用でこちらに参りました。私は今日はじめて不思議なゲルド
の経験を得ました。
神保町、本石町、両国とあてなくまたあてあつてさまよひ労れ果て
ゝ今両国の橋の袂の宿に叔父と一諸になりました。
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[28](1917年1月6日) 保阪嘉内あて 葉書
(表)山梨県北巨摩郡駒井村 保阪嘉内様
両国ニテ 賢治
昨夜ふと明治座を一幕だけのぞきました 東京へ来ると神経が鋭く
なつて何を見てもはつとなみだぐみます。弱いことは申しません。
今日YOKOHAMAに参りましてこれで用事終り。今夜首尾よく
ふるさとの岩手けんに帰りまする。さよなら。
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[29](1917年1月9日)高橋秀松あて 葉書
(表)盛岡高等農林学校寄宿舎内 高橋秀松様
御葉書有り難うございました
東京から七日に帰りました
十日若くは十一日朝に出盛致します 詳しく事は御拝顔の上申し上
げます 草々
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[30] 1917年1月16日 宮澤トシあて 封緘葉書
(表)東京市小石川区目白 日本女子大学責善寮 宮澤敏様
(裏)盛高農 賢治(封印)〆
御手紙拝見致しました この間休みの終り頃私があなたの東京へ出
るのの延びた訳も知らずに何だか宅から追ひ出した様な事を云つた
ので今でも大分申し訳けなく思つて居ります。
あなたは去年あたり迄は宅でも大分考へながら外に出して置いた様
ですけれども今はそんな心配もしない様ですし当然学校はおしまい
までやらなければいけないのですから決して急に学校をやめる様な
事は思はないでゆつくり勉強して居つて下さい。私もまあ、大低学
校を出てからの仕事の見当もつきました──即ち木材の乾溜、製油、
製薬の様な就れと云へば工業の様な仕事で充分自信もあり又趣味も
あることですからこれから私の学校の如何に係らず決して心配させ
る様な事はありません。
あまり勉強し過ぎない様にして下さい。私にも経験はありますけれ
ども余り力一杯の事をするとその時は何ともなくても後で何か急に
病気に罹る様な事があるし又そうでなくてもどことなく身体が弱っ
て少しばかりづゝ工合の悪い所があちこちにできて非常にいけない
ものです。
この間太郎さん達の宿へも行つて見ました。磯さんも先づ折角勉強
して居る様であります。先づは 以上。
大正六年一月十六日
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[31](1917年2月5日)宮澤トシあて 葉書
(表)東京市小石川区目白 日本女子大学責善寮 宮澤トシ様
五日 盛高農寄宿 賢治
変りありませんか こちらはみんな丈夫でゐます。雪が沢山降りま
したのでスキーが毎日できます。近ごろはもう大分上手になつて大
低の小山や丘はびくともいたしませぬ。そんならばと申して崖をす
つと飛び下りる程ではありません 風邪などを引かない様に御注意
なさい。
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[32](1917年3月19日)宮澤トシあて 葉書
(表)東京市小石川区目白 日本女子大学責善寮内 宮澤敏様
岩手県花巻川口町 宅ヨリ
無事デ勉強ノ由誠ニ喜バシク思ヒマス。父上ハ只今安着ナサレマシ
タカラ御安心ナサル様ニ。コチラモ最早余程暖クナリマシタ。一寸
デモ帰ラレルノヲ待ツテ居マス。 先ヅハ。
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[33](1917年4月2日)保阪嘉内あて 葉書
(表)山梨県北巨摩郡駒井村 保阪嘉内様
岩手県花巻川口町 宮沢賢治
旅からの御便りありがたうございます 新らしい学期になりました
岩手県の山も茶色に静にけぶつてゐます 学校へ出たら又愉快に霧
山岳だの姫神山だのへ行かうではありませんか 萩原君はまだ退院
しない様でなんとも御気の毒であります 私は今度は大沢河原へ外
泊致します先づは
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[34](1917年7月27日)宮澤政次郎あて 葉書
(表)花巻川口町 宮澤政次郎様
二十七日朝 宮古ニテ 賢治拝
拝啓 昨夕当地着仕り侯 小生は本日午后又は明日より小国を経て
三十日夜迄に帰り申す予定に御座侯 一日遅れ侯も充分の視察致し
たく存じ居り侯 一同元事 先づは 草々
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[35](1917年7月29日)保阪嘉内あて 葉書
(表)甲斐国北巨摩郡駒井村 保阪嘉内様
陸中国小国峠麓ニテ 賢治
・釜石の夜のそら高み熾熱の鉱炉にふるふ鉄液のうた。
・この群(東海岸実業視察団)と釜石山田いまはまた宮古と酒の旅を
つゞけぬ。
・やうやくに湾に入りたる蕩児らの群には暮れの水の明減。(宮古
湾)
・蕩児らと宮古にきたり夜のそらのいとゞふかみに友をおもへり。
(こゝにて群をはなる)
・うるはしの海のビロード昆布らは寂光のはまに敷かれひかりぬ。
−(浄土ヶ浜)
・青山の肩をすべりて夕草の谷にそゝげる青き日光。
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[36] 1917年8月15日 高橋秀松あて 葉書
(表)盛岡市仁王小路 小笠原敬三様方 高橋秀松様
八月十五日 花巻川口町 宮澤賢治
御旅行中は度々御便り孟きまして誠に有り難う存じます 御无事で
御帰りになり先づは御めでたうございます。
只今は農場の実習で随分御労れでせう。私の方も御陰でまめしくて
居ります 先月の末四五日の間東海岸を見て参りました。
あなたの方にも沢山面白い話があるでせうが就れゆっくりうかゞひ
ませう。これで失礼致します。級のみなさんも揃つて御出でゞすか。
末筆ながら先生へどうかよろしく御伝へを願ひます。さよなら。
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[37](1917年8月28日)保阪嘉内あて 葉書
(表)盛岡市茅町 鎌田様方 保阪嘉内様
二十八日 岩谷堂町ニテ 賢治拝
今日当地へ来ました。あしたから十日ぱかり歩きます。
これから暫らく毎日御便り致します。今日はまだあまり気が進みま
せんからこれで失敬します。
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[38](1917年8月31日)保阪嘉内あて 葉書
(表)盛岡市茅町 鎌田様方 保阪嘉内様
三十一日 田茂山 賢治
アヲイ山ノナミ、(ユ(行)ケドモユケドモ)雲ハシハ(ワ)ヲツ
クリ山ヲツクリ、人ハマナコヲトヂテアラハレル木立水ヲ「マコト
ノ世界トヒトシカラズヤ」トカナシンデ行キマス。世界ノAモ、世
界ノA´モ均シク寂カナ秋ニナリマシタ。
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[39](1917年9月2日)保阪嘉内あて 葉書
(表)盛岡市茅町 鎌田様方 保阪嘉内様
伊手ニテ 賢治
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[40](1917年9月3日)保阪嘉内あて 葉書
(表)盛岡市茅町 鎌田様方 保阪嘉内様
人首ニテ 賢治拝
うす月にかゞやきいでし踊り子の異形のすがた見れぱ泣かゆも。
剣まひの
へる。
月更けて井手に入りたる剣まひの異形のすがたこゝろみだるゝ。
うす月の天をも仰ぎ大鼓うつ井手の剣まひわれ見てなかゆ。
--〔作品〕--------------------------------------------------
岩手山
そらの
古ぼけて黒くえぐるもの
ひかりの
きたなくしろく
(校本全集2 「心象スケッチ 『春と修羅』」より)
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--〔後記〕--------------------------------------------------
1917年の書簡は25から40までとたくさんありますが、いずれも短
いものですので、一挙掲載しました。[39]の葉書は絵のみですので、
このメールマガジンをホームページにアップするとき、画像をつけ
ておきます。
今週はお盆休み。わが家は「初盆」なのでいろいろと忙しいです。
そういえば剣舞などの踊り念仏では、初盆の家に行ったりするので
した。
16日からは香港旅行に行ってきます。次回は香港からの配信?に
なります。
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