<生活相談室>

わたしは山猫裁判長です。皆さん楽しく毎日過ごしていますか?学校のこと、家庭のこと、何でもわたしが相談にのります。わたしは人間ではないので、人間の大人とは意見が違うかも知れませんが、そこのところはよろしく。 どしどし質問を寄せてください。
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下の畑に居ります。ってなに?

 宮沢賢治が今の「賢治詩碑」のある場所で、一人で暮らしていたときの話です。「羅須地人協会」という会を作っていて、そこのメンバーが訪ねてきたりしました。

 家は北上川を見下ろす崖の上にあり、賢治の耕している畑はその崖の下にありました。

 畑で仕事をするとき、家の壁にかけてある黒板に、宮沢賢治は「下の畑に居ります」と書いていきました。留守と思って帰ってしまわないように考えたのでしょうね。

陽が照って鳥が啼き
あちこちの楢の林も、
けむるとき
ぎちぎちと鳴る 汚い掌を、
おれはこれからもつことになる

「七〇九 春」より

==2006.11.11==

宮沢賢治の妹・トシの死因は、どんな病気なんですか?

 宮沢賢治自身と同じ、肺結核です。当時の日本人の間では、肺結核のために若くて死ぬ人がたくさんいたのです。結核は不治の病気でした。

 宮沢賢治も、妹トシも、今なら助かっていたのにと思うと、ちょっと残念ですね。

とし子とし子
野原へ来れば
また風の中に立てば
きっとおまへをおもひだす

「風林」より

==2006.11.11==

「自分に誇れることがないのに師にはなれない」っていう意味の賢治の言葉を教えてください。

 ちょっと思い当たらないので、下の書簡を書いておきます。この書簡は宮沢賢治が死の直前に書いたものです。少し難しいですが、よく読んでみてください。

八月廿九日附お手紙ありがたく拝誦いたしました。あなたはいよいよご元気なやうで実に何よりです。私もお蔭で大分癒っては居りますが、どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず、咳がはじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり、或は夜中胸がぴうぴう鳴って眠られなかったり、仲々もう全い健康は得られさうもありません。けれども咳のないときはとにかく人並に机に座って切れ切れながら七八時間は何かしてゐられるやうなりました。あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんがそれに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりゐるやうな訳です。私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。あなたは賢いしかういふ過りはなさらないでせうが、しかし何といっても時代が時代ですから充分にご戒心下さい。風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間でも話ができるとか、自分の兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。そんなことはもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。どうか今のご生活を大切にお護り下さい。上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。いろいろ生意気なことを書きました。病苦に免じて赦して下さい。それでも今年は心配したやうでなしに作もよくて実にお互心強いではありませんか。また書きます。

「[488]1933年9月11日 柳原昌悦あて 封書」より

==2006.11.11==

最近ギターをやりはじめたいと思っています。でも、親があまり真剣に話をきいてくれません。どうしたらいいですかね?

 急に言われても本当かな?と思ってしまうのでしょうね。子供がやりたいことは次から次へと出てきますから。

 親に本当にやりたいのだとわかってもらうまで、その気が続くかどうかでしょう。一年ほどして、まだやりたいと思い、親にもそう話続けていれば、きっと気持ちは通じると思います。

もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ

「告別」より

==2006.09.09==

宮沢賢治の名の由来を教えて下さい。調べてみてもどうしても分からないんです。

 普通の人の名前に、別に由来なんかないですよ。親に聞けばもっともらしい由来があるように言ったりしますが、まあこじつけのようなものです。

 賢治の「賢」はかしこいという意味です。「治」はおさめると読みますが、「○治」という名前は多いですから、別に意味があるというわけではないと思います。

 それより、弟さんは「清六」というのですが、この名前をどうして考えたのか、本当に不思議です。それに比べれば、「賢治」というのは普通ですよね。

 ポーセはチュンセの小さな妹ですが、チュンセはいつもいじ悪ばかりしました。

「手紙四」より

==2006.08.26==

宮沢賢治の妹のトシの顔を知りたいです。

 トシさんの写真は現存しています。小さな写真ですが、以下のページに掲載されていますので、ごらんください。
http://i-hatov.com/kenji/datakenji.html

 なかなかかわいいですね。お父さんやお母さんの写真もあります。お母さんはとても優しそうな人です。

どなたか、ポーセがほんとうにどうなったか、知っているかたはありませんか。チュンセがさっぱりごはんもたべないで毎日考えてばかりいるのです。

「手紙四」より

==2006.08.26==

告白した子に「友達としてやっていこう」といわれたのですが.あきらめきれません。どうしたらいいでしょう。

 これは要するに「フラれた」わけで、相手にその気がなかったということです。別に嫌われているわけではありませんから、あきらめて普通の友達でいるしかないですね。

 あきらめられない気持ちはわかりますが、好きな人の迷惑になるのではいけません。ここはすっぱりあきらめてください。

 まだまだこれから、人生は長いです。しばらくはショックでも、いずれは立ち直れますので、心配ありません。

チュンセがもしもポーセをほんとうにかあいそうにおもうなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんとうの幸福をさがさなければいけない。

「手紙四」より

==2006.08.26==

親友が転校するんです。今のクラスにはあまり気の合う人がいません。これからはどうすればいいのですか?

 親友と言っても友達の一種です。友達はあればよいものですが、別になくても困りません。自然にしていれば、また新しい友達ができてきます。

 一緒にいられる間は友達は大切にしましょう。でも、長い人生に別れはつきものです。

 友達を大切にするのと、友達であることにこだわるのとは違います。昔の人は「君子の交わりは水のごとし」とか言いました。出会いも別れも、自然にまかすのが一番です。

チュンセはポーセをたずねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいているひとでも、汽車の中で苹果をたべているひとでも、また歌う鳥や歌わない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがいのきょうだいなのだから。

「手紙四」より

==2006.08.26==

宮沢賢治のお父さんは何と読みますか?

 宮沢賢治の父親は宮沢政次郎さんで、「まさじろう」と読みます。1874年に生まれ、1957年まで生きていますので、1933年に死んだ賢治よりかなり後まで生きていました。弟の清六(せいろく)さんも90歳を越える長生きでしたし、結核という病気さえしなければ賢治の家系は長生きの人が多かったようです。

この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。

「宮澤政次郎・イチあて 封書」より

==2006.07.15==

今年の初め頃まで、とっても仲良かった友達が、最近では学校で、「おはよ」ぐらいしか言ってくれないんです。どうすればその子と今以上に仲良くなれるのでしょうか?

 その子と仲良くならないとダメですか?

 人と人のつきあいには、運のようなものがあります。ある人と、どうしても仲良くいつづけないといけないということはないのです。

 会ったとき挨拶するだけの関係も、悪くはないと思います。友だちはいずれ他にもできますし、なければ困るということもないでしょう。今以上を無理して求めるのはかえってよくないと思いますよ。

青ぞらのはてのはて
水素さへあまりに希薄な気圏の上に
「わたくしは世界一切である
世界は移らう青い夢の影である」
などこのやうなことすらも
あまりに重くて考へられぬ
永久で透明な生物の群が棲む

「〔青ぞらのはてのはて〕」より

==2005.12.30==

私は、今図書委員会で宮沢賢治の家族についてしらべてます。それで、家族の事を詳しくしりたいのですが・・・良い本などや情報などがありませんか?

 宮沢賢治の家族というと、父政次郎、母イチ、妹トシ、シゲ,クニ、弟清六の7人家族でした。それぞれの話はこのサイトにある「宮沢賢治 Kenji Review」の273号から284号で紹介しています。トップのページの一番下から、「251〜300号はこちらへ(フレーム版)」をクリックすると、これらのページを見ることができます。

 今のところ、家族についてはこの紹介が一番詳しいと思います。その他にもいろんなページがありますから、調べてみてください。特に清六さんやトシさんについてはいろいろな情報があります。「宮沢清六」や「宮沢トシ」で検索してみるとよいですね。

たうたう一生何ひとつお役に立てずご心配ご迷惑ばかり掛けてしまひました。 どうかこの我儘者をお赦しください。

  清六様                      賢治
  しげ様
  主計様
  くに様

「[394]1931年9月21日 宮澤清六・岩田シゲ・宮澤主計・クニあて 封書」より

==2005.12.03==

最近、死にたくなるんです。でも自殺する勇気がでなくて・・・「誰にも必要とされてない」とか、「生まれて来たくなかった」と思います。 私は、これからどうやって生きていけばいいのですか?

 人は生まれてきたくて生まれてきたのとは違いますね。何か他のものから、生まれるように運命づけられているから生まれてきたのだと思います。理由はきっとあるのでしょうが、自分の生まれてきた理由を知ることはできません。

 あなたのことを必要としている人は本当にいないのでしょうか。そんなことはないと思います。あなたは誰か他の人を必要としていませんか?あなたが必要だと思う人から見ると、こんどはあなたが必要な人です。

 生きていくのに難しい考えは別にいりません。小さいうちは普通に勉強して、普通に遊んでいるのがよいのです。そのうちきっと自分の運命に出会えると思います。それが向うからやってくるものなのか、自分の中で育ってくるものなのかは、まだわかりません。わからなくてよいのです。

ぼくはさっきからこゝらのつめたく濃い霧のジェリーを
のどをならしてのんだり食ったりしてるのだ
ぼくはじっさい悪魔のやうに
きれいなものなら岩でもなんでもたべるのだ

「山の晨明に関する童話風の構想」より

==2005.12.03==

学校でのことなんですが、私はいつも仲良しの友達、私を入れて3人で仲良くしているんです。でも、その中の1人が1週間にだいたい1回ぐらいに私がもう1人の友達のところへ行こうととするとそれを見ていて用もないのにその子の手を引っ張ってどこかへ逃げるようにつれていってしまうんです。しょうがないので、ついていくとこっちをにらむように見るんです。それが、1週間に1回づつ私になったりするので、とてもいやです。それをやめさせるには、どうすればいいですか

 困っているのはわかりますが、どうしてよいのかはわかりません。3人で仲良くしているとありますが、クラスには他にも友だちがいるのでしょう?3人の中でだけ考えない方がよいと思います。

 同じ友だちとばかりいたら、楽しいこともあるでしょうが、こんな困ったこともおこってしまいます。そういうことはイヤだと、わかってもらうにはどうしたらよいのでしょうか。もう一度よく考えてください。

土も掘るだらう
ときどきは食はないこともあるだらう
それだからといって
やっぱりおまへらはおまへらだし、
われわれはわれわれだと

「〔土も掘るだらう〕」より

==2005.12.03==

私は、そんなに真面目ではないんですけど、クラスの男子が、授業中うるさくて・・・もう少し、しっかりしてくれよーと思います。それが、毎日毎日続いて、もう限界なんです。そのせいで、イライラしちゃって・・・どーすればいいんですか?

 困りましたね。でも、こういうのは本当は先生が考えることだと思います。うるさくて迷惑だと、みんなにわかるようにするのはむずかしいでしょうね。

 どういう先生なのかわかりませんが、先生と相談してみるのがよいです。子供どうしで言い合って、ケンカになってもつまらないですから。

「お前たちは、又わなをこしらえたな。そんなことをして、折角おいでになったお客さまに、もしものことがあったらどうする。学校の名誉に関するよ。今日はもうお前たちみんな罰しなければならない。」

「茨海小学校」より

==2005.11.19==

私と仲の良い友達と友達が6月頃からケンカをしています。仲直りはしたけど、ケンカは続いています・・・ どうしたらケンカをやめくれるのですか?卒業するまでにケンカをやめさせたいです。

 これは私からはアドバイスできないですね。なぜなら、ケンカするのも、仲直りするのも、あなたたちの心の中次第だからです。

 仲直りしたいと本当に思っていたら、自然と仲直りすると思います。

 自分だけがそう思っていて、相手が思わなかったら?そのときはあきらめるしかないですね。私たちは他の人の心を自由にすることはできません。できるのはただ祈ることだけです。

「みなさん。ながながお世話でした。苔さん。さよなら。さっきの歌を、あとで一ぺんでも、うたって下さい。私の行くところは、ここのように明るい楽しいところではありません。けれども、私共は、みんな、自分でできることをしなければなりません。さよなら。みなさん。」

「気のいい火山弾」より

==2005.11.05==

私のクラスには、知能がおくれた、女の子がいます。私は初め、仲良くしようとしたのですが、一緒にいると、イライラすることもあり、心の中で、悪態をついたりしてしまいます。それに、本音では、そのこを、キモいと思う時もある。これは偽善?

 偽善というのとは違いますね。誰でも、自分と違う人とつきあうときは、やはりイライラしたりするものです。そういうことの少ない人と自然とつきあうようになったり、またつきあっていくうちにあまり感じなくなったりします。

 無理に仲良くしようとすると、どうしてもそうなります。少し離れて、見守っているくらいの方がつらくないと思います。

 つきあいは自然と生まれてきますし、あなたはやさしい人だから、見守っているだけでも充分相手には伝わるのではないでしょうか。

ぎっしり生えたち萱の芽だ
紅くひかって
仲間同志に影をおとし
上をあるけば距離のしれない敷物のやうに
うるうるひろがるち萱の芽だ
   ……水を汲んで砂へかけて……

「七一一 水汲み」より

==2005.10.29==

宮沢清六ってなんて読むんですか?

 「みやざわ せいろく」です。次男で4番目の子(上から賢治、トシ、シゲ、清六、クニの5人きょうだいです)なのに「六」とつくのはどうしてなのかわかりません。

 兄賢治が若く死んだこともあり、商店をしていた宮沢家を継いでいます。いまは清六さんの孫の時代です。宮沢賢治の書いたたくさんの原稿は、弟の清六さんが守り、全集の出版などにも努力されました。

 非常に長生きされ、2001年に97歳で亡くなっています。

 若しも君が、夕方岩手公園のグランドの上の、高い石垣に立って、 アークライトの光の下で、青く暮れて行く山々や、若葉でかざられ た中津川の方をながめたなら、ほんたうの盛岡の美しい早春がわか るだらう。」

宮沢賢治から弟清六あての手紙より

==2005.10.15==

私は漫画が大好きです。でもお母さんとお父さんが漫画捨てなさいって言うんです。

 漫画はおもしろいですよね。私も大好きです。でも、どうして親は漫画を嫌がるのでしょうか。漫画ばかり読んでいて、勉強やお手伝いをしないからではないでしょうか。

 それとも部屋が漫画でいっぱいになってしまったのかな?置くところがなくなったら、捨てるしかないですね。悲しいような気がしますが、思い出にはきっと残ります。

 すべてを持っていることはできません。また、人生はこれからですから、これから読む本の分もあけておかないといけないですね。だから多くなりすぎた漫画を捨てるのも、悪いことではないと思います。

 本当に大切なものはもちろん残しておきましょう。でもよく考えたら、そういうものは少ないのではないでしょうか。

「ここが町になってからみんなで売れ売れと申したそうですが年よりの方がここは虔十のただ一つのかたみだからいくら困っても、これをなくすることはどうしてもできないと答えるそうです。」

「虔十公園林」より

==2005.10.01==

自分に自信がもてません。。でも、周りの人や先生から期待されているようです。それ自体はうれしいのですが、期待されていることがプレッシャーになり、何故かよけいに自信をなくしてしまいます。。

 自信を持つことはよいことなんでしょうが、みんなが持たないといけないわけではありません。自信なんかなくても、大丈夫やっていけます。

 自信のある人は、その自信のためにつまずいたりするものです。自信のない人の方が、何事にも慎重で、かえってよい結果になったりします。

 自信満々の人はそばの人から見ると、単にゴウマンなだけですから、自信のない人の方がつきあいやすいと思いませんか?

おれはこの愉快な創造の数時間をめちゃめちゃに壊した窓のたくさんの顔をできるだけ強い表情でにらみまはした。ところが誰もおれを見てゐなかった。次におれはその憐れむべき弱い精神の学士を見た。それからあんまり過鋭な感応体おれを撲ってやりたいと思った。

「花壇工作」より

==2005.07.30==

わたしは1度体調を崩すと、なかなか治りません。。そのせいで、学校へ行ってもぐったりしていることが、よくあります。先生や友達はこのことを知らないのでしんどそうにしているのを「ウソ」だと思っているみたいなんです。私は完璧に体調が良くなるまで、学校へ行かない方が良いのでしょうか??

 別にぐったりしていてもいいのではないですか?元気な人ももちろんいますが、別に病気でなくてもおとなしい人はおとなしくじっとして過ごしているものです。

 まわりの人もウソとか本当とかではなく、あなたのふだんの過ごしかたを、そのとおりに見てくれていると思います。体がつらいときは無理することはありません。学校に出て行けるのなら、休まないほうがよいと思います。

あゝ大梵天王こよひはしたなくも
こゝろみだれてあなたに訴へ奉ります
あの子は三つではございますが
直立して合掌し
法華の首題も唱へました
如何なる前世の非にもあれ
たゞかの病かの痛苦をば私にうつし賜はらんこと

「〔この夜半おどろきさめ〕」より

==2005.06.25==

賢治が死んだ時の病名は何ですか?

 宮沢賢治自身は手紙の中でこう書いています。

「病質はよく知りませんが、肺尖、全胸の気管支炎、肋膜の古傷、昨秋 は肺炎、結核も当然あるのでせう。」

 今で言う「結核」ですが、当時は結核だけですませたのでなく、 具体的な症状を言っていたようです。昔は若いうちに結核で死ぬ人が多かったのです。

 今ではよほど少なくなりましたが、やはり怖い病気には違いありません。 賢治の家族は若いうちに結核で死んだ賢治とトシ子以外はみな長生きしています。

だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです

「眼にて云ふ」より

==2005.01.22==

私は小さい頃に大けがをして右足が麻痺しています。 私自身あまり足のことは気にしていませんが, 友達や周りの人に,迷惑をかけているような気がします。 相手はどう思っていると思いますか?

 まわりのみんなもあまり気にしていないのではないですか?

 初対面では気をつかったりするものですが、慣れてくると相手がどんな人かわかってきて、 それなりにつきあうようになります。

 みんな、どんなことでもできるわけではありません。できないことが人と違うのは、 それほど変ったことではないですから。

 舞台が俄かにすきとおるような黄金色になりました。立派なひまわりの花がうしろの方にぞろりとならんで光っています。それから青や紺や黄やいろいろの色硝子でこしらえた羽虫が波になったり渦巻になったりきらきらきらきら飛びめぐりました。

 うしろのまっ黒なびろうどの幕が両方にさっと開いて顔の紺色な髪の火のようなきれいな女の子がまっ白なひらひらしたきものに宝石を一杯につけてまるで青や黄色のほのおのように踊って飛び出しました。見物はもうみんなきちがい鯨のような声で 「ケテン! ケテン!」とどなりました。

 女の子は笑ってうなずいてみんなに挨拶を返しながら舞台の前の方へ出て来ました。

「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」より

==2004.05.15==

めがねをかけているだけで,メガネザルって言われるんです。ちょっと傷つきました。

 下に引用しているのは、「銀河鉄道の夜」のなかでジョバンニが活版所にアルバイトに行っている場面です。ここでは 「虫めがね君」ですね。「メガネザル」よりはましですか。

 でも私は「冷たく笑われる」よりはましだと思いますよ。

 ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。 その人はしばらく棚をさがしてから、
「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。 ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、 たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。 青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、
「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。
 ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。

「銀河鉄道の夜」より

==2004.04.17==

世の中では幸せの絶対量が決まっているのでしょうか。ある人のためにと思ってやった行いが、別の人を傷つけてしまいました。誰かが幸せを手にした分だけ、誰かが不幸になってしまうんでしょうか。みんなが幸せになることは出来ないんでしょうか。

 確かにそんな気がしますね。こちらが増えるとあちらが減る…。でも、実は幸せには実体がないのです。 幸せは私たち一人一人の中にはなくて、その一人一人の間にあります。

 幸せな人間というのは実は存在しなくて、幸せな関係があるだけだと思います。幸せな関係があれば、 不幸せの関係もあるわけで、そういう意味では増えたり減ったりします。

 でも、実体がない分、いくらでも増やせるものなのではないでしょうか?

「何というざまをしてあるくんだ。まるで這うようなあんばいだ。鼠のようだ。どうだ、辯解のことばがあるか。」
 清作はもちろん辯解のことばなどはありませんでしたし、面倒臭くなったら喧嘩してやろうとおもって、いきなり空を向いて咽喉いっぱい、
「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン。」とどなりました。

「かしわばやしの夜」より

==2004.03.13==

世の中、一番大切なのは何でしょうか。 「勉強」ですか?「お金」?「友達」?「親」?

 いろいろと大事なものはありますが、やっぱり一番大事なのは「自分」だと思います。 どうか自分を大切にして、失望したり、ヤケになったりしないようにしてください。

風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間でも話ができるとか、自分の兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。そんなことはもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。どうか今のご生活を大切にお護り下さい。上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。

「〔488〕1933年9月11日 柳原昌悦あて 封書」より

==2004.01.31==

宮沢賢治が、失敗した事は?

 これはいろいろあったでしょうね。だいたい、人の人生は失敗の連続ですから。

 農学校の先生をやめて、「羅須地人協会」を作ったのも、賢治はのちに失敗だったと思っていたそうです。

僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。

「〔488〕1933年9月11日 柳原昌悦あて 封書」より

==2004.01.31==

賢治が、死ぬ前に言った、言葉

 以下は「宮沢賢治年譜」という本の、賢治臨終の場面です。 だいたいこんなことだったそうです。

「賢治、なにか言っておくことはないか」

「おねがいがあります」

「そうか、ちょっと待て。いま書くから」

 政次郎は筆をとった。

「国訳の妙法蓮華経を一,〇〇〇部つくってください」

「うむ、それは自戒偈だけでよいのか」

「どうか全品をおねがいします。表紙は朱色で校正は北向さんにお ねがいしてください。それから、私の一生の仕事はこのお経をあな たの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一 番よい、正しい道に入られますようにということを書いておいてく ださい」

「よし、わかった」
と政次郎は書いたものを読みあげ、
「これでよいか」
と念を押すと賢治は、
「それでけっこうです」
と答えた。

「たしかに承知した。おまえもなかなかえらい。そのほかにないか」

「いずれあとで起きて書きます」

政次郎がうなずいて下へ下りていくと、賢治は弟を見て、
「おれもとうとうおとうさんにほめられたもな」
と微笑した。

 みな下に降りて母一人が残った。

「おかあさん、すまないけど水コ」

 母が水をさし出すと、熱のある体をさわやかにするのか、うれし そうにのみ、
「ああ、いいきもちだ」
と、オキシフルをつけた消毒綿で手をふき、首をふき、からだをふ いた。そしてまた、
「ああ、いいきもちだ」
と繰り返した。母はふとんをなおしながら、
「ゆっくりやすんでんじゃい」
といい、そっと立って部屋を出ようとすると、眠りに入ったと思わ れる賢治の呼吸がいつもとちがい、潮がひいていくようである。

「賢さん、賢さん」

 思わず強く呼んで枕もとへよった。

 ぽろりと手からオキシフル綿が落ちた。午後一時三〇分である。

「宮沢賢治年譜」より

==2004.01.31==

人は何のために産まれてきたのでしょう。。。? 悲しく辛い思いをするためにうまれたのだとしたら、神はそこに何を見出したかったのでしょうか?

 人はどこから来てどこへ行くのか?考えると気が遠くなるようです。

 生れてきたからには意味があるはずです。それを見つけるのが人生というものだと思います。 神さまとかいうのではなく、自分自身のなかに答えはあるはずです。

「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」

「学者アラムハラドの見た着物」より

==2003.12.06==

私は学校で同じクラスのY.M君に、いやなことを言われるんです「おまえ同じクラスやったっけ?」とか「忘れとった!存在を」などと言われるんです。他にもT.O君には「死ね!!」や「俺の前からきえうせろ」とか言われます。私はすごくきずつきました。どうしたらいいですか?

 困りましたね。がまんしたりしていると大変なことになりそうです。

 先生や家庭の人に相談してみましたか?

 こんなことを言う人が悪いのです。ぜひまわりの人に助けてもらってください。

「お前たちは何をしているか。そんなことで地理も歴史も要ったはなしでない。やめてしまえ。えい。解散を命ずる」

「寓話 猫の事務所」より

==2003.08.30==

宮沢賢治さんの親の名前はなんですか?

 お父さんは宮沢政次郎、お母さんは宮沢イチです。

 賢治は長男で、トシ、シゲ、清六、クニという3人の妹と1人の弟がありました。

 家庭は花巻の街で質屋などを営む、裕福な商家だったそうです。

この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。

「書簡393」より

==2003.08.30==

家族に隠し事をしちゃいけないのでしょうか。

 隠し事をせずにいられたら、とてもよいでしょうね。

 でも大人になっていくということは、自分の中に一つずつ秘密が増えていく ことでもあります。

 隠し事はあっても仕方ないですから、親に心配をかけないように してやってください。

「ひとりで浜へ行ってもいいけれど、あそこにはくらげがたくさん落ちている。寒天みたいなすきとおしてそらも見えるようなものがたくさん落ちているからそれをひろってはいけないよ。それからそれで物をすかして見てはいけないよ。おまえの眼は悪いものを見ないようにすっかりはらってあるんだから。くらげはそれを消すから。おまえの兄さんもいつかひどい眼にあったから。」

「サガレンと八月」より

==2003.08.30==

注文の多い料理店はいつごろどのような考えでつくられたんですか?

 童話集「注文の多い料理店」は1924年に発行されています。今から80年ほど前ですね。

 中の童話は1921年に東京へ出たときから、農学校の先生をしている間に書いたものです。

 賢治は「こどもをつくる代りに書いた」と言っていたそうです。

わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いていた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行われていた鹿踊りの、ほんとうの精神を語りました。

「鹿踊りのはじまり」より

==2003.07.26==

宮沢賢治の兄弟の名前を教えてください。

 宮沢賢治は5人兄弟で、賢治は一番上のこどもです。5人の名前はつぎのとおりです。

宮沢賢治(長男) 1896年8月生まれ
宮沢トシ(長女) 1898年11月生まれ
宮沢シゲ(二女) 1901年6月生まれ
宮沢清六(二男) 1904年4月生まれ
宮沢クニ(三女) 1907年3月生まれ
 ペムペルという子は全くいい子だったのにかあいそうなことをした。
 ネリという子は全くかあいらしい女の子だったのにかあいそうなことをした。

「黄いろのトマト」より

==2003.07.05==

「セロ弾きのゴーシュ」のゴーシュは大体何歳くらいなんですか??教えてください

 お話のなかに書かれていないので、何歳だったか本当のことはわかりません。

 楽団で働いているのですから、大人です。でも、あまり歳をとっていたようではありません。

 学校を卒業してまだ間もない、25歳〜30歳くらいという感じではないでしょうか。

 ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。上手でないどころではなく実は仲間の楽手のなかではいちばん下手でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。

「セロ弾きのゴーシュ」より

==2003.07.05==

「あすこの田はねえ」で男の子の冬講習とは何をやったんですか?

 宮沢賢治は1926年、29歳のときに農学校の先生をやめて、「羅須地人協会」を作りました。 今、花巻市の「賢治詩碑」のある場所に一人住んで、近所の農家の若い人を集めて、 肥料や作物についての講義などをしています。

 この詩でうたわれている少年も、冬の間賢治さんのところに勉強に来ていたのだと思います。

これからの本統の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から
義理で教はることでないんだ
きみのやうにさ
吹雪やわづかの仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない
それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ

「〔あすこの田はねえ〕」より

==2003.02.01==

全てが嫌になってしまいました。点数が全てみたいに学校では扱われ、私は引け目を感じつらいです。

生きてさえいれば、またよいこともありますよ。私たちは 「フランドン農学校の豚」とは違いますから。

 豚はそのあとで、何べんも、校長の今の苦笑やいかにも底意のある語を、繰り返し繰り返しして見て、身ぶるいしながらひとりごとした。
『とにかくよくやすんでおいで。あんまり動きまわらんでね。』一体これはどう云う事か。ああつらいつらい。豚は斯う考えて、まるであの梯形の、頭も割れるように思った。おまけにその晩は強いふぶきで、外では風がすさまじく、乾いたカサカサした雪のかけらが、小屋のすきまから吹きこんで豚のたべものの余りも、雪でまっ白になったのだ。

「フランドン農学校の豚」より

==2003.01.25==

昨日友達が病気で亡くなりました。とても悲しい事なのに、涙がでてこないんです。私にとってはジョバンニがカムパネルラを思う気持ちのように、その友達を愛していました・・・。

 このようなときは銀が鉄道にのって、どこまでも行ってみたいとおもいますよね。 どこまでも一緒に行ければ、どんなによいことでしょう。

 でも、幻想第四次の銀河鉄道では生き残った私たちはむなしく帰ってくるしか ありません。思い出を抱いて、強く生きることを考えなければいけないのでしょうね。

けれどもとし子の死んだことならば
いまわたくしがそれを夢でないと考へて
あたらしくぎくっとしなければならないほどの
あんまりひどいげんじつなのだ
感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつでもまもってばかりゐてはいけない

「青森挽歌 」より

==2002.06.27==

銀河鉄道の夜には、ザネリがカムパネルラに助けられた後どうなったか書いてありません。ザネリは命について、深く考えたのでしょうか??そしてジョヴァン二と、仲良くなれたのでしょうか??

 銀河鉄道の夜は不思議な話で、ジョバンニの心から遠くにあるものは、 だんだんぼやけて、よるの闇の中に消えていきます。

 だからザネリの心の中は私たちにはのぞけません。ジョバンニはすべての ものの幸を願っているのですから、きっとザネリとも仲良くしていったと 思いますけれど。

「ザネリ、 どこへ行ったの。 」ジョバンニが 半分云ひかけたときは、もうまるでだしぬけに、うしろの坂のさっきの檜の方から、その子が投げつけるやうに叫んでゐました。
「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」
 ジョバンニは、ばっと胸がつめたくなり、そこら中きぃんと鳴るやうに思ひました。

「銀河鉄道の夜」より

==2002.06.26==

カムパネルラは自分の命と友達の命、どちらが大切だと思ったのですか??

 カムパネルラは友だちを助けようとして自分が死んでしまいました。 でも「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか。」といっています。 自分の命を大切にできなかったからです。

 だから、もちろん自分の命の方が大切です。しかしときどき間違って 自分の命を投げ出してしまうこともあるのですね。

 お母さんは最後には許してくれると思いますが、そのお母さんの悲しみを 考えてやってください。

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか。」
 いきなり、カムパネルラが、思ひ切ったといふやうに、少しどもりながら、急きこんで云ひました。

 ジョバンニは、
(ああ、さうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのやうに見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考へてゐるんだった。)と思ひながら、ぼんやりしてだまっていました。

「銀河鉄道の夜」より

==2002.06.25==

宮沢賢治の、妹が、亡くなったとき、賢治はどんな物語を、書いたのですか??

 いろんな作品にその影がさしていますが、直後に配ったと思われる 「手紙四」がいちばんはっきりと書いています。

 ワープロなどない時代ですから、活字で印刷して、みんなに配った のだそうです。

「チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいていゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。チユンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの 幸福こうふくをさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである。チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向って進まないか。」

「〔手紙 四〕」より

==2002.05.04==

勉強で、先生にはほめられるけれど、自分では、満足できません。どうすれば、いいのですか??

 勉強は自分のためにするものではありません。 いずれ大人になって、みんなのために役に立つ力を身につけるためにするものです。

 宮沢賢治はこんなことを言っています。
「実にこの十日はそちらで一ヶ年の努力に相当した効果を与へました。 エスペラントとタイプライターとオルガンと図書館と言語の記録と 築地小劇場も二度見ましたし歌舞技座の立見もしました。 これらから得た材料を私は決して無効にはいたしません、 みんな新しく構造し建築して小さいながらみんなといっしょに無上菩提に至る橋梁を架し、 みなさまの御恩に報ひやうと思ひます。」

 大人になっても、勉強を続けていくために、今の勉強は大切です。 がんばってください。

 ところが大博士は、うまそうにこくっと一つ息をして、「よろしい。この図は非常に正しくできている。そのほかのところは、何だ、ははあ、沼ばたけのこやしのことに、馬のたべ物のことかね。では問題を答えなさい。工場の煙突から出るけむりには、どういう色の種類があるか。」
 ブドリは思わず大声に答えました。
「黒、褐、黄、灰、白、無色。それからこれらの混合です。」
 大博士はわらいました。
「無色のけむりは大へんいい。形について云いたまえ。」
「無風で煙が相当あれば、たての棒にもなりますが、さきはだんだんひろがります。雲の非常に低い日は、棒は雲まで昇って行って、そこから横にひろがります。風のある日は、棒は斜めになりますが、その傾きは風の程度に従います。波や幾つもきれになるのは、風のためにもよりますが、一つはけむりや煙突のもつ癖のためです。あまり煙の少ないときは、コルク抜きの形にもなり、煙も重い瓦斯がまじれば、煙突の口から房になって、一方乃至四方に落ちることもあります。」大博士はまたわらいました。

「グスコーブドリの伝記」より

==2002.05.02==

人にそんけいされるのは、何ですか。

人に尊敬されるのは、その人がそれまでの生き方で、作ってきたものなのでしょうね。

宮沢賢治は次のようなものが尊敬されるのだ、と言っているようです。

正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向うの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでしょうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじようにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。

「マリヴロンと少女」より

==2001.12.29==

彼氏がほしいんだけどどうすれば・・・

ううっ、困りましたね。賢治さんも私も、そういうのは苦手なんですよね。

まだ6年生とのこと、もう少し大人になれば、自然とできるんじゃないですか?

でも、男の子って勝手なもんですから、もうしばらくはのびのびと、 子供時代を楽しんだ方がよろしいかと…。

われらにひとしい幾万人が
いままで冬と戦って来た情熱を
うらがなしくもなつかしいおもひに変へ
なにかほのかなのぞみに変へれば
やり場所のないその瞳を
みなあの雲に投げてゐる
それだけでない
あのどんよりと暗いもの
温んだ水の懸垂体
あれこそ恋愛そのものなのだ
炭酸瓦斯の交流や
いかさまな春の感応
あれこそ恋愛そのものなのだ

「春の雲に関するあいまいなる議論」より

==2001.11.29==

宮沢賢治に言いたかったことはありますか?

 宮沢賢治が何を言いたかったということかな? それは私にはよくわかりません。

 世界が平和で豊かになるように、 人間があらゆる苦しみから救われるように、 願っていたとは思います。

 普通の意味で言いたかったこと(主義や主張)は なかなか理解しにくいです。 直接たずねたら、答は法華経に書いてある、といわれそうですが。

 ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたない ということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、 ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、 そのみわけがよくつきません。なんのことだか、 わけのわからないところもあるでしょうが、 そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、 おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、 どんなにねがうかわかりません。

「注文の多い料理店・序」より

==2001.10.24==

宮沢賢治は何で「銀河鉄道の夜」を書こうと思ったんですか。 

「銀河鉄道の夜」というのは死後の世界へ旅立つ汽車の話です。 汽車は銀河を旅し、ふたたび帰ってくることはありません。

 賢治の身近の人の死というと、やっぱり妹トシの早すぎる死があります。 1922年11月27日、トシは24歳で結核のため、なくなっています。賢治は このとき、26歳でした。

トシは死んだ後、どこへ行ったのか、これが賢治にとっての難問でした。 これが「銀河鉄道の夜」の主題の一つだと思います。

 さう云ひながら博士はまた川下の銀河のいっぱいにうつった方へ じっと眼を送りました。ジョバンニはもういろいろなことで 胸がいっぱいでなんにも云へずに博士の前をはなれて早く お母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知ら せやうと思ふともう一目散に河原を街の方へ走りました。

「銀河鉄道の夜」より

==2001.10.09==

私は今、いじめに悩まされています。どうしたらいいんでしょうか。

 お気の毒です。いじめているのは友だちなんですか?

 友だちと仲良くしたいのに、いじめられている、というのなら、 友だちがいなければ良いということも考えられます。

 実際、友だちがいなくても、一人で生くことはできます。 あなたたちはもう友だちじゃないんだから、相手にしないで、 と言うのはどうですか。

 もし、友だちじゃない人がいじめにきたのなら、これは敵ですから、 親や先生や警察に言って、やっつけてもらってください。

土も掘るだらう
ときどきは食はないこともあるだらう
それだからといって
やっぱりおまへらはおまへらだし、
われわれはわれわれだと
  ……山は吹雪のうす明り……
なんべんもきき
いまもきゝ
やがてはまったくその通り
まったくさうしかできないと
  ……林は淡い吹雪のコロナ……
あらゆる失意や病気の底で
わたくしもまたうなづくことだ

「〔土も掘るだらう〕」

==2001.10.09==

どうすれば勉強に集中できますか? 目標が見つからないのでやりがいがないです。 だけど進学コースなので勉強はしなくてはいけません。

 どんぐりたちのように気楽に暮らせないのがつらいですね。

 人より良い成績をとって、良い大学に入って、などということが 目標では、勉強をする気があまり起きないのも無理はないです。

 昔の人のように、世のため、人のために努力しなければ・・、と 思えたら、どんなに良いことでしょう。

 でも、やっぱり昔も今も、勉強は自分のためにするものではありません。 「一切衆生を救はんがため」などと思わなくても良いですから、 少しでも世の中のためになって、平和で豊かな世界にするんだ、 そのための勉強だ、と考えてほしいと思います。

これからの本統の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から
義理で教はることでないんだ
きみのやうにさ
吹雪やわづかの仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない
それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ

「〔あすこの田はねえ〕」

==2001.09.27==

悲しい気分のときに一番ふさわしいのは、なにかを学ぶことだろう。と思いこの広場にやってきました。悲しい気分のときはどうしたらいいですか?

 かなしい気分ですか。何も原因がなくても、悲しい気分になることもあります。 そんなとき、どうしたら良いか、私にもわかりません。宮沢賢治というひとは、 こう歌っています。

 ちょっと強がっていますが、悲しい気分のときは、こんなくらいが ちょうど良いのではありませんか?

そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

==2001.09.08==

 どうしたらカムパネルラのように いつでも静かに微笑っいて、みんなと仲良くできるのでしょうか。人とくらべたり、うらやましがるのは恥ずかしいことだと又三郎は言っていましたが、私はカムパネルラがうらやましいし、憧れます。

 「銀河鉄道の夜」に書かれているカムパネルラは、本当のカムパネルラではなく、 ジョバンニから見たカムパネルラなのだと思います。だから、カムパネルラに憧れるあなたがジョバンニなのです。

 みんなと仲良くしたいのにできない、そんな自分と比べて、カムパネルラに憧れる、そんなジョバンニこそが、未来を開くものである、と宮沢賢治は考えていたのでしょう。

 憧れも、軽蔑も、それがあなたが進んでゆく力になるのなら、とても大切なものです。その気持ちを大事にしてください。

「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてさうなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。(以下略)」

==2001.05.25==

賢治はどんな気持ちで数々の名作を作ったのですか?

賢治は、死ぬ直前、お父さんに

この原稿はわたくしの迷いの跡ですから、適当に処分してください。
と言ったそうです。また、お母さんには
この童話は、ありがたいほとけさんの教えを、いっしけんめいに書いたものです、だからいつかは、きっと、みんなでよろこんで読むようになるでしょう。
と言いました。賢治はお父さんには、あまりほめられたことがなかったそうですので、やっぱりお母さんに言った方が、本当の気持ちだったと思います。

==2001.03.08==

宮沢さんは、どうして童話を書こうと思ったのでしょうか?

宮沢賢治が法華経の信者であったことはご存じですか?
法華経というのは仏教のお経の一つです。

この法華経の信仰を文学で広めようと、お話を書いたのだと思われます。

では何故童話だったのかというのはよく分かりません。
わたしは彼が子供のような魂を持っていたため、どうしても書いたものが 「童話」という形になったのだと思います。

 これらのわたくしのおはなしは、 みんな林や野はらや鉄道線路やらで、 虹や月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、 ひとりで通りかかったり、 十一月の山の風のなかに、 ふるえながら立ったりしますと、 もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。
 ほんとうにもう、 どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、 わたくしはそのとおり書いたまでです。
(「注文の多い料理店」序より)
 
==2001.01.28==
宮沢賢治は学校で一生懸命勉強したのですか?
しました。宮沢賢治という人は、盛岡高等農林という、今の大学の農学部で土の性質を調べたりする勉強をした人です。その知識を活かして、そのころ毎年のように不作で苦しんでいた農民の生活を救おうと、肥料設計などで努力したのです。
友達に、思った事はっきり言いまくるよね。といわれ、そのことについて、3人のともだちにせめられました。(昼休みの間延々と・・・)私は、言ってよいこと悪い事のくべつができているのでひどいことはいいません。それでもいけないのでしょうか。
あなたは悪くありません。ジョバンニという少年は、ザネリからいやなことをいわれたとき、「あんなことをいうのはザネリがばかなからだ」と思いました。でも、銀河鉄道の旅から帰ってくると、ザネリは死んでいました。ジョバンニはうれしかったでしょうか?私はこう思います。ジョバンニはザネリのためにも、本当の幸せをみつけようと思ったと。セロのような声の人はこう言っています。
みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考えとうその考えを分けてしまへばその実験の方法さえへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。

(「銀河鉄道の夜」原稿の変遷より「初期形」)