「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」

新しく <感想の広場> がオープンしました。
<科学相談室> いつか大博士は玩具のような小さな飛行船に乗って、じぶんでハンドルをとりながら、もううす青いもやのこめた町の上を、まっすぐに向うへ飛んでいるのでした。
担当:クーボー大博士
<生活相談室> 用事これありに付き、明日出頭すべし 山ねこ 拝
担当:山猫裁判長
「おや、つめくさのあかりがついたよ。」ファゼーロが叫びました。
 なるほど向うの黒い草むらのなかに小さな円いぼんぼりのような白いつめくさの花があっちにもこっちにもならびそこらはむっとした蜂蜜のかおりでいっぱいでした。
「あのあかりはねえ、そばでよく見るとまるで小さな蛾の形の青じろいあかりの集りだよ。」
「そうかねえ、わたしはたった一つのあかしだと思っていた。」
「そら、ね、ごらん、そうだろう、それに番号がついてるんだよ。」



<感想の広場>


<イーハトーブ
観光案内>



担当:かま猫添乗員てんじょういん
四番書記のかま猫は、もう大原簿のトバスキーとゲンゾスキーとのところに、みじかい手を一本ずつ入れて待っていました
 ポラーノの広場のうた
   つめくさ灯ともす 夜のひろば
   むかしのラルゴを うたいかわし
   雲をもどよもし  夜風にわすれて
   とりいれまぢかに 年ようれぬ

   まさしきねがいに いさかうとも
   銀河のかなたに  ともにわらい
   なべてのなやみを たきぎともしつつ、
   はえある世界を  ともにつくらん
<科学相談室>
宇宙のなぞ、地球のなぞ、生命のなぞ、なんでもクーボー大博士が教えてくれます。
 
<生活相談室>
学校のこと、家のこと、ともだちのこと、なんでも山猫裁判長さいばんちょうが判決してしまいます。
 
<イーハトーブ観光案内>
不思議ふしぎに満ちたイーハトーブの世界を、かま猫添乗員てんじょういんがご案内します。
 
<感想の広場>
みなさんからいただいた感想を載せていきます。あなたも書き込んでください。
 

宮沢賢治という人


「銀河鉄道の夜」などでおなじみの宮沢賢治という人は、今から百 年ほど前、岩手県花巻市で生まれた人です。以下はその生涯です。 今年は2001年ですから、今から何年前か考えながら読んでくだ さい。

1896年(0歳)8月27日、今の岩手いわて花巻はなまき市に生まれる。
1903年(7歳)小学校入学。
1909年(13歳)県立盛岡もりおか中学校(現県立盛岡第一高等学校) 入学。
1910年(15歳)短歌の創作そうさく開始。花巻に電灯つく。
1911年(16歳)中学4年生。5月、仙台方面へ修学旅行。初めて海を見る。花巻に電話開通。
1914年(18歳)盛岡中学卒業。岩手軽便鉄道けいべんてつどう(現JR釜石かまいし線)開通。このころから法華経ほけきょうを信仰するようになる。
1915年(19歳)盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)農学科第2部に首席で入学。寄宿舎きしゅくしゃ自啓寮じけいりょうに入る。
1917年(21歳)小菅健吉、保阪嘉内らと同人誌『アザリア』を創刊。短歌「みふゆのひのき」、短編「『旅人のはなし』から」 などを発表。
1918年(22歳)童話の制作を始める。『アザリア』に短編 「峯や谷は」を発表。童話「蜘蛛となめくじと狸」、「双子の星」 を家族に読んで聞かせる。
1920年(24歳)盛岡高等農林学校研究生終了。関教授からの助教授推薦すいせんの話を辞退じたい
1921年(25歳)無断で上京(家出)。法華経の信者団体である国柱会こくちゅうかい本部に行く。8月、妹トシの病気の報に帰郷ききょう。12月、稗貫ひえぬき郡稗貫農学校(のち県立花巻農学校)教諭きょうゆ就任しゅうにん
1922年(26歳)1月、心象スケッチ「屈折率」、「くらかけ の雪」を書き、「春と修羅」収録詩編制作開始。11月27日、妹トシ死亡。「永訣の朝」、「松の針」、「無声慟哭」が生まれる。
1924年(28歳)4月、心象スケッチ『春と修羅』(関根書店)を自費じひ出版。12月、イーハトーヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。「銀河鉄道の夜」このころ書き始められる。
1926年(30歳)3月、花巻農学校を退職たいしょく。4月より独居どくきょ生活を開始。5月、開墾かいこんや音楽の練習、レコードコンサートを始める。この頃より町内や近郊きんこうに肥料設計事務所を設け、肥料相談や設計を始める。8月、羅須地人協会らすちじんきょうかいを設立し、11月頃から定期的に集会をもつ。
1928年(32歳)12月、急性肺炎になる。
1930年(34歳)病状やや回復し、園芸に熱中。
1931年(35歳)2月、東北砕石さいせき工場技師となり、肥料用石灰せっかい宣伝せんでん販売を受持つ。9月20日、石灰宣伝で上京じょうきょう中に発熱、遺書いしょを 書く。28日帰郷ききょう、自宅で病臥びょうが
1933年(37歳)9月21日、法華経1千部を印刷して知人に配布はいふするよう父に遺言ゆいごんして、午後1時半死去しきょ

 ちょうど電燈がつき、電話や鉄道などもできてきた時代に生まれ てきたことがわかります。そして死んだ年には、すでに日本は戦争 の時代に入りつつあったのです。

 宮沢賢治の残した作品としては童話・詩などがたくさんあります。 でも、その大半は原稿として残されていたもので、本になって出版 されたのは、「春と修羅」「注文の多い料理店」の2冊しかありま せん。

 死後、賢治の作品を惜しむ人たちが中心になって、「宮沢賢治全 集」が発行され、宮沢賢治の作品は作者の死後、ようやく人々の知 るところとなりました。

 有名な「雨ニモマケズ」は戦争に行く兵士にも親しまれたという ことですし、「風の又三郎」は早くから映画化され、大ヒットとな っています。

 宮沢賢治の作品としては、童話では「銀河鉄道の夜」「風の又三 郎」「セロ弾きのゴーシュ」などがたいへん有名です。また詩では、 「雨ニモマケズ」の他、「春と修羅」「小岩井農場」「永訣の朝」 などが名詩として名高いものです。

 宮沢賢治の残した原稿は戦争による火災から何とか逃れて、今に 伝えられています。その原稿は専門家の手によって、詳しく研究さ れ、今ではその手入れ(書き直し)がどのようにされていったかも ほぼ明らかにされ、全集に収められています。

 「宮沢賢治童話館」には童話作品のすべてが掲載されています。 また「宮沢賢治全詩篇」には、まだ作成中ですが、詩のすべてを掲 載していく予定です。どうぞご自由にご覧ください。


宮沢賢治の作品


 宮沢賢治の作品から、代表的なものをここに引用します。リンク をクリックすると、全体が読めますので、興味を持った部分から、 読んでみてください。

短歌

 
父よ父よなどて舎監の前にして大なる銀の時計を捲きし
 
短歌


うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり
 
春と修羅・序


わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

春と修羅


      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ

無声慟哭むせいどうこく

  
わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ
ああそんなに
かなしく眼をそらしてはいけない

薤露青かいろせい


みをつくしの列をなつかしくうかべ
薤露青の聖らかな空明のなかを
たえずさびしく湧き鳴りながら
よもすがら南十字へながれる水よ

眼にて云ふ


だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです

どんぐりと山猫


 おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。

   かねた一郎さま 九月十九日
   あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
   あした、めんどなさいばんしますから、おいで
   んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
                   山ねこ 拝

貝の火


 するとお父さんはびっくりしてしまいました。貝の火が今日位美 しいことはまだありませんでした。それはまるで赤や緑や青や様々 の火が烈しく戦争をして、地雷火をかけたり、のろしを上げたり、 又いなずまが閃いたり、光の血が流れたり、そうかと思うと水色の 焔が玉の全体をパッと占領して、今度はひなげしの花や、黄色のチ ュウリップ、薔薇やほたるかづらなどが、一面風にゆらいだりして いるように見えるのです。

  

風の又三郎


  九月一日

 どっどどどどうど どどうど どどう、
 青いくるみも吹きとばせ
 すっぱいかりんもふきとばせ
 どっどどどどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな学校がありました。

 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけであとは一年 から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいで したがすぐうしろは栗の木のあるきれいな草の山でしたし運動場の 隅にはごぼごぼつめたい水を噴く岩穴もあったのです。

 

銀河鉄道の夜


 河原の礫は、みんなすきとおって、たしかに水晶や黄玉や、また くしゃくしゃの皺曲をあらわしたのや、また稜から霧のような青白 い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚に行って、 水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よ りももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流れていた ことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮い たように見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐 光をあげて、ちらちらと燃えるように見えたのでもわかりました。