目次へ  縦書き

〔フランドン農学校の豚〕

(冒頭部原稿1枚?なし)

以外の物質は、みなすべて、よくこれを摂取して、脂肪若くは蛋白 質となし、その体内に蓄積す。」

 とかう書いてあったから、農学校の畜産の、助手や又小使などは 金石でないものならばどんなものでも片っ端から、持って来てはふ り出したのだ。

 尤もこれは豚の方では、それが生れつきなのだし、充分によくな れてゐたから、けしていやだとも思はなかった。却ってある夕方な どは、殊に豚は自分の幸福を、感じて、天上に向いて感謝してゐた。 といふわけはその晩方、化学を習った一年生の、生徒が、自分の前 に来ていかにも不思議さうにして、豚のからだを眺めて居た。豚の 方でも時々は、あの小さなそら豆形の怒ったやうな眼をあげて、そ ちらをちらちら見てゐたのだ。その生徒が云った。

「ずゐぶん豚といふものは、奇体なことになってゐる。水やスリッ パや藁をたべて、それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらえる。 豚のからだはまあたとへば生きた一つの触媒だ。白金と同じことな のだ。無機体では白金だし有機態では豚なのだ。考へれば考へる位、 これは変になることだ。」

 豚はもちろん自分の名が、白金と並べられたのを聞いた。それか ら豚は、白金が、一匁三十円することを、よく知ってゐたものだか ら、自分のからだが二十貫で、いくらになるといふことも勘定がす ぐ出来たのだ。豚はぴたっと耳を伏せ、眼を半分だけ閉ぢて、前肢 をきくっと曲げながらその勘定をやったのだ。

 20×1000×30=600000 実に六十万円だ。六十万円といったなら そのころのフランダンあたりでは、まあ第一流の紳士なのだ。いま だってさうかも知れない。さあ第一流の紳士だもの、豚がすっかり 幸福を感じ、あの頭のかげの方の鮫によく似た大きな口を、にやに や曲げてよろこんだのも、けして無理とは云はれない。

 ところが豚の幸福も、あまり永くは続かなかった。

 それから二三日たって、そのフランドンの豚は、どさりと上から 落ちて来た一かたまりのたべ物から、(大学生諸君、意志を鞏固に もち給へ。いゝかな。)たべ物の中から、一寸細長い白いもので、 さきにみぢかい毛を植えた、ごく卒直に云ふならば、ラクダ印の歯 磨楊子、それを見たのだ。どうもいやな説教で、折角洗礼を受けた、 大学生諸君にすまないが少しこらえてくれ給へ。

 豚は実にぎょっとした。一体、その楊子の毛を見ると、自分のか らだ中の毛が、風に吹かれた草のやう、ザラッザラッと鳴ったのだ。 豚は実に永い間、変な顔して、眺めてゐたが、たうたう頭がくらく らして、いやないやな気分になった。いきなり向ふの敷藁に頭を埋 めてくるっと寝てしまったのだ。

 晩方になり少し気分がよくなって、豚はしづかに起きあがる。気 分がいゝと云ったって、結局豚の気分だから、苹果のやうにさくさ くし、青ぞらのやうに光るわけではもちろんない。これ灰色の気分 である。灰色にしてやゝつめたく、透明なるところの気分である。 さればまことに豚の心もちをわかるには、豚になって見るより致し 方ない。

 外来ヨークシャイヤでも又黒いバアクシャイヤでも豚は決して自 分が魯鈍だとか、怠惰だとかは考へない。最も想像に困難なのは、 豚が自分の平らなせなかを、棒でどしゃっとやられたとき何と感ず るかといふことだ。さあ、日本語だらうか伊太利亜語だらうか独乙 語だらうか英語だらうか。さあどう表現したらいゝか。さりながら、 結局は、叫び声以外わからない。カント博士と同様に全く不可知な のである。

 さて豚はずんずん肥り、なんべんも寝たり起きたりした。フラン ダン農学校の畜産学の先生は、毎日来ては鋭い眼で、ぢっとその生 体量を、計算しては帰って行った。

「も少しきちんと窓をしめて、室中暗くしなくては、脂がうまくか ゝらんぢゃないか。それにもうそろそろと肥育をやってもよからう な、毎日阿麻仁を少しづつやって置いて呉れないか。」教師は若い 水色の、上着の助手に斯う云った。豚はこれをすっかり聴いた。そ して又大へんいやになった。楊子のときと同じだ。折角のその阿麻 仁も、どうもうまく咽喉を通らなかった。これらはみんな畜産の、 その教師の語気について、豚が直覚したのである。(とにかくあい つら二人は、おれにたべものはよこすが、時々まるで北極の、空の やうな眼をして、おれのからだをぢっと見る、実に何ともたまらな い、とりつきばもないやうなきびしいこゝろで、おれのことを考へ てゐる、そのことは恐い、ああ、恐い。)豚は心に思ひながら、も うたまらなくなり前の柵を、むちゃくちゃに鼻で突っ突いた。

 ところが、丁度その豚の、殺される前の月になって、一つの布告 がその国の、王から発令されてゐた。

 それは家畜撲殺同意調印法といひ、誰でも、家畜を殺さうといふ ものは、その家畜から死亡承諾書を受け取ること、又その承諾証書 には家畜の調印を要すると、こう云ふ布告だったのだ。

   

 さあそこでその頃は、牛でも馬でも、もうみんな、殺される前の 日には、主人から無理に強ひられて、証文にペタリと印を押したも んだ。ごくとしよりの馬などは、わざわざ蹄鉄をはづされて、ぼろ ぼろなみだをこぼしながら、その大きな判をぱたっと証書に押した のだ。

 フランダンのヨークシャイヤも又活版刷りに出来てゐるその死亡 証書を見た。見たといふのは、或る日のこと、フランドン農学校の 校長が、大きな黄色の紙を持ち、豚のところにやって来た。豚は語 学も余程進んでゐたのだし、又実際豚の舌は柔らかで素質も充分あ ったのでごく流暢な人間語でしづかに校長に挨拶した。

「校長さん、いゝお天気でございます。」

 校長はその黄色な証書をだまって小わきにはさんだまゝ、ポケッ トに手を入れて、にがわらひして斯う云った。

「うんまあ、天気はいゝね。」

 豚は何だか、この語が、耳にはいって、それから咽喉につかえた のだ。おまけに校長がぢろぢろと豚のからだを見ることは全くあの 畜産の、教師とおんなじことなのだ。

 豚はかなしく耳を伏せた。そしてこわごわ斯う云った。

「私はどうも、このごろは、気がふさいで仕方ありません。」校長 は又にがわらひを、しながら豚に斯う云った。

「ふん。気がふさぐ。さうかい。もう世の中がいやになったかい。 さういうわけでもないのかい。」豚があんまり陰気な顔をしたもの だから校長は急いで取り消しました。

 それから農学校長と、豚とはしばらくしいんとしてにらみ合った まま立ってゐた。たゞ一言も云はないでじいっと立って居ったのだ。 そのうちにたうたう校長は今日は証書はあきらめて、
「とにかくよくやすんでおいで。あんまり動きまはらんでね。」例 の黄いろな大きな証書を小わきにかいこんだまゝ、向ふの方へ行っ てしまふ。

 豚はそのあとで、何べんも、校長の今の苦笑やいかにも底意のあ る語を、繰り返し繰り返しして見て、身ぶるひしながらひとりごと した。

『とにかくよくやすんでおいで。あんまり動きまはらんでね。』一 体これはどう云ふ事か。あゝつらいつらい。豚は斯う考へて、まる であの梯形の、頭も割れるやうに思った。おまけにその晩は強いふ ゞきで、外では風がすさまじく、乾いたカサカサした雪のかけらが、 小屋のすきまから吹きこんで豚のたべものの余りも、雪でまっ白に なったのだ。

 ところが次の日のこと、畜産学の教師が又やって来て例の、水色 の上着を着た、顔の赤い助手といつものするどい眼付して、ぢっと 豚の頭から、耳から背中から尻尾まで、まるでまるで食ひ込むやう に眺めてから、尖った指を一本立てゝ、

「毎日阿麻仁をやってあるかね。」

「やってあります。」

「さうだらう。もう明日だって明後日だって、いいんだから。早く 承諾書をとれぁいゝんだ。どうしたんだらう、昨日校長は、たしか に証書をわきに挟んでこっちの方へ来たんだが。」

「はい、お入りのやうでした。」

「それではもうできてるかしら。出来ればすぐよこす筈だがね。」

「はあ。」

「も少し室をくらくして、置いたらどうだらうか。それからやる前 の日には、なんにも飼料をやらんでくれ。」

「はあ、きっとさう致します。」

 畜産の教師は鋭い目で、もう一遍ぢいっと豚を見てから、それか ら室を出て行った。

 そのあとの豚の煩悶さ、(承諾書というのは、何の承諾書だらう 何を一体しろと云ふのだ、やる前の日には、なんにも飼料をやっち ゃいけない、やる前の日って何だらう。一体何をされるんだらう。 どこか遠くへ売られるのか。あゝこれはつらいつらい。)豚の頭の 割れさうな、ことはこの日も同じだ。その晩豚はあんまりに神経が 興奮し過ぎてよく睡ることができなかった。ところが次の朝になっ て、やっと太陽が登った頃、寄宿舎の生徒が三人、げたげた笑って 小屋へ来た。そして一晩睡らないで、頭のしんしん痛む豚に、又も や厭な会話を聞かせたのだ。

「いつだらうなあ、早く見たいなあ。」

「僕は見たくないよ。」

「早いといゝなあ、囲って置いた葱だって、あんまり永いと凍っち まふ。」

「馬鈴薯もしまってあるだらう。」

「しまってあるよ。三斗しまってある。とても僕たちだけで食べら れるもんか。」

「今朝はずゐぶん冷たいねえ。」一人が白い息を手に吹きかけなが ら斯う云ひました。

「豚のやつは暖かさうだ。」一人が斯う答へたら三人共どっとふき 出しました。

「豚のやつは脂肪でできた、厚さ一寸の外套を着てるんだもの、暖 かいさ。」

「暖かさうだよ。どうだ。湯気さへほやほやと立ってゐるよ。」

 豚はあんまり悲しくて、辛くてよろよろしてしまふ。

「早くやっちまえばいゝな。」

 三人はつぶやきながら小屋を出た。そのあとの豚の苦しさ、(見 たい、見たくない、早いといゝ、葱が凍る、馬鈴薯二斗、食いきれ ない。厚さ一寸の脂肪の外套、おゝ恐い、ひとのからだをまるで観 透してるおゝ恐い。恐い。けれども一体おれと葱と、何の関係があ るだらう。あゝつらいなあ。)その煩悶の最中に校長が又やって来 た。入口でばたばた雪を落して、それから例のあいまいな苦笑をし ながら前に立つ。

「どうだい。今日は気分がいゝかい。」

「はい、ありがたうございます。」

「いゝのかい。大へん結構だ。たべ物は美味しいかい。」

「ありがたうございます。大へんに結構でございます。」

「さうかい。それはいゝね、ところで実は今日はお前と、内内相談 に来たのだがね、どうだ頭ははっきりかい。」

「はあ。」豚は声がかすれてしまふ。

「実はね、この世界に生きてるものは、みんな死ななけぁいかんの だ。実際もうどんなもんでも死ぬんだよ。人間の中の貴族でも、金 持でも、又私のやうな、中産階級でも、それからごくつまらない乞 食でもね。」

「はあ、」豚は声が咽喉につまって、はっきり返事ができなかった。

「また人間でない動物でもね、たとへば馬でも、牛でも、鶏でも、 なまずでも、バクテリヤでも、みんな死ななけぁいかんのだ。蜉蝣 のごときはあしたに生れ、夕に死する、たゞ一日の命なのだ。みん な死ななけぁならないのだ。だからお前も私もいつか、きっと死ぬ のにきまってる。」

「はあ。」豚は声がかすれて、返事もなにもできなかった。

「そこで実は相談だがね、私たちの学校では、お前を今日まで養っ て来た、大したこともなかったが、学校としては出来るだけ、ずゐ ぶん大事にしたはづだ。お前たちの仲間もあちこちに、ずゐぶんあ るし又私も、まあよく知ってゐるのだが、でさう云っちゃ可笑しい が、まあ私の処ぐらゐ、待遇のよい処はない。」

「はあ。」豚は返事しやうと思ったが、その前にたべたものが、み んな咽喉へつかへててどうしても声が出て来なかった。

「でね、実は相談だがね、お前がもしも少しでも、そんなやうなこ とが、ありがたいと云ふ気がしたら、ほんの小さなたのみだが承知 をして貰へまいか。」

「はあ。」豚は声がかすれて、返事がどうしてもできなかった。

「それはほんの小さなことだ。ここに斯う云ふ紙がある、この紙に 斯う書いてある。死亡承諾書、私儀永々御恩顧の次第に有之候儘、 御都合により、何時にても死亡仕るべく候 年月日フランドン畜舎 内、ヨークシャイヤ、フランドン農学校長殿 とこれだけのことだ がね、」校長はもう云ひ出したので、一瀉千里にまくしかけた。 「つまりお前はどうせ死ななけぁいかないからその死ぬときはもう 潔く、いつでも死にますと斯う云ふことで、一向何でもないことさ。 死ななくてもいゝうちは、一向死ぬことも要らないよ。こゝの処へ たゞちょっとお前の前肢の爪印を、一つ押しておいて貰ひたい。そ れだけのことだ。」

 豚は眉を寄せて、つきつけられた証書を、ぢっとしばらく眺めて ゐた。校長の云ふ通りなら、何でもないがつくづくと証書の文句を 読んで見ると、まったく大へんに恐かった。たうたう豚はこらえか ねてまるで泣声でかう云った。

「何時にてもといふことは、今日でもといふことですか。」校長は ぎくっとしたが気をとりなほしてかう云った。

「まあさうだ。けれども今日だなんて、そんなことは決してないよ。」

「でも明日でもといふんでせう。」

「さあ、明日なんていふやうそんな急でもないだらう。いつでも、 いつかといふやうなごくあいまいなことなんだ。」

「死亡をするといふことは私が一人で死ぬのですか。」豚は又金切 声で斯うきいた。

「うん、すっかりさうでもないな。」

「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」 豚は泣いて叫んだ。

「いやかい。それでは仕方ない。お前もあんまり恩知らずだ。犬猫 にさへ劣ったやつだ。」校長はぷんぷん怒り、顔をまっ赤にしてし まひ証書をポケットに手早くしまひ、大股に小屋を出て行った。

「どうせ犬猫なんかには、はじめから劣ってゐますやう。わあ」豚 はあんまり口惜しさや、悲しさが一時にこみあげて、もうあらんか ぎり泣きだした。けれども半日ほど泣いたら、二晩も眠らなかった 疲れが、一ぺんにどっと出て来たのでつい泣きながら寝込んでしま ふ。その睡りの中でも豚は、何べんも何べんもおびえ、手足をぶる っと動かした。

 ところがその次の日のことだ。あの畜産の担任が、助手を連れて 又やって来た。そして例のたまらない、目付きで豚をながめてから、 大へん機嫌の悪い顔で助手に向ってこう云った。

「どうしたんだい。すてきに肉が落ちたぢゃないか。これぢゃまる きり話にならん。百姓のうちで飼ったってこれ位にはできるんだ。 一体どうしたてんだらう。心当りがつかないかい。頬肉なんかあん まり減った。おまけにショウルダアだって、こんなに薄くちゃなっ てない。品評会へも出せぁしない。一体どうしたてんだらう。」

 助手は唇へ指をあて、しばらくぢっと考へて、それからぼんやり 返事した。

「さあ、昨日の午后に校長が、おいでになっただけでした。それだ けだったと思ひます。」

 畜産の教師は飛び上る。

「校長? さうかい。校長だ。きっと承諾書を取らうとして、すて きなぶまをやったんだ。おぢけさせちゃったんだな。それでこいつ はぐるぐるして昨夜一晩寝ないんだな。まづいことになったなあ。 おまけにきっと承諾書も、取り損ねたにちがひない。まづいことに なったなあ。」

 教師は実に口惜しさうに、しばらくキリキリ歯を鳴らし腕を組ん でから又云った。

「えい、仕方ない。窓をすっかり明けて呉れ。それから外へ連れ出 して、少し運動させるんだ。む茶くちゃにたゝいたり走らしたりし ちゃいけないぞ。日の照らない処を、廐舎の陰のあたりの、雪のな い草はらを、そろそろ連れて歩いて呉れ。一回十五分位、それから 飼料をやらないで少し腹を空かせてやれ。すっかり気分が直ったら キャベヂのいゝ処を少しやれ。それからだんだん直ったら今まで通 りにすればいゝ。まるで一ヶ月の肥育を、一晩で台なしにしちまっ た。いゝかい。」

「承知いたしました。」

 教師は教員室へ帰り豚はもうすっかり気落ちして、ぼんやりと向 ふの壁を見る、動きも叫びもしたくない。ところへ助手が細い鞭を 持って笑って入って来た。助手は囲ひの出口をあけごく叮寧に云っ たのだ。

「少しご散歩はいかゞです。今日は大へんよく晴れて、風もしづか でございます。それではお供いたしませう、」ピシッと鞭がせなか に来る、全くこいつはたまらない、ヨウクシャイヤは仕方なくのそ のそ畜舎を出たけれど胸は悲しさでいっぱいで、歩けば裂けるやう だった。助手はのんきにうしろから、チッペラリーの口笛を吹いて ゆっくりやって来る。鞭もぶらぶらふってゐる。

 全体何がチッペラリーだ。こんなにわたしはかなしいのにと豚は 度々口をまげる。時々は
「えゝもう少し左の方を、お歩きなさいましては、いかゞでござい ますか。」なんて、口ばかりうまいことを云ひながら、ピシッと鞭 を呉れたのだ。

(この世はほんとうにつらいつらい、本統に苦の世界なのだ。)こ てっとぶたれて散歩しながら豚はつくづく考へた。

「さあいかゞです。そろそろお休みなさいませ。」助手は又一つピ シッとやる。ウルトラ大学生諸君、こんな散歩が何で面白いだらう。 からだの為も何もあったもんぢゃない。

 豚は仕方なく又畜舎に戻りごろっと藁に横になる。キャベヂの青 いいゝ所を助手はわづか持って来た。豚は喰べたくなかったが助手 が向ふに直立して何とも云へない恐い眼で上からぢっと待ってゐる、 ほんたうにもう仕方なく、少しそれを噛ぢるふりをしたら助手はや っと安心して一つ「ふん。」と笑ってからチッペラリーの口笛を又 吹きながら出て行った。いつか窓がすっかり明け放してあったので 豚は寒くて耐らなかった。

 こんな工合にヨークシャイヤは一日思ひに沈みながら三日を夢の やうに送る。

 四日目に又畜産の、教師が助手とやって来た。ちらっと豚を一眼 見て、手を振りながら助手に云ふ。

「いけないいけない。君はなぜ、僕の云った通りしなかった。」

「いゝえ、窓もすっかり明けましたし、キャベヂのいいのもやりま した。運動も毎日叮寧に、十五分づつやらしてゐます。」

「さうかね、そんなにまでもしてやって、やっぱりうまくいかない かね、ぢゃもうこいつは瘠せる一方なんだ。神経性営養不良なんだ。 わきからどうも出来やしない。あんまり骨と皮だけに、ならないう ちにきめなくちゃ、どこまで行くかわからない。おい。窓をみなし めて呉れ。そして肥育器を使ふとせう、飼料をどしどし押し込んで 呉れ。麦のふすまを二升とね、阿麻仁を二合、それから玉蜀黍の粉 を、五合を水でこねて、団子をこさえて一日に、二度か三度ぐらゐ に分けて、肥育器にかけて呉れ給へ。肥育器はあったらう。」

「はい、ございます。」

「こいつは縛って置き給へ。いや縛る前に早く承諾書をとらなくち ゃ。校長もさっぱり拙いなぁ。」

 畜産の教師は大急ぎで、教舎の方へ走って行き 助手もあとから 出て行った。

 間もなく農学校長が、大へんあわててやって来た。豚は身体の置 き場もなく鼻で敷藁を堀ったのだ。

「おおい、いよいよ急がなきゃならないよ。先頃の死亡承諾書ね、 あいつへ今日はどうしても、爪判を押して貰ひたい。別に大した事 ぢゃない。押して呉れ。」

「いやですいやです。」豚は泣く。

「厭だ? おい。あんまり勝手を云ふんぢゃない、その身体は全体 みんな、学校のお陰で出来たんだ。これからだって毎日麦のふすま 二升阿麻仁二合と玉蜀黍の、粉五合づつやるんだぞ、さあいゝ加減 に判をつけ、さあつかないか。」

 なるほど斯う怒り出して見ると、校長なんといふものは、実際恐 いものなんだ。豚はすっかりおびえて了ひ、

「つきます。つきます。」とかすれた声で云ったのだ。

「よろしい、では。」と校長は、やっとのことに機嫌を直し、手早 くあの死亡承諾書の、黄いろな紙をとり出して、豚の眼の前にひろ げたのだ。

「どこへつけばいゝんですか。」豚は泣きながら尋ねた。

「こゝへ。おまえの名前の下へ。」校長はぢっと眼鏡越しに、豚の 小さな眼を見て云った。豚は口をびくびく横に曲げ、短い前の右肢 を、きくっと挙げてそれからピタリと印をおす。

「うはん。よろしい。これでいゝ。」校長は紙を引っぱって、よく その判を調べてから、機嫌を直してこう云った。戸口で持ってゐた らしくあの意地わるい畜産の教師がいきなりやって来た。

「いかゞです。うまく行きましたか。」

「うん。まあできた。ではこれは、あなたにあげて置きますから。 えゝ、肥育は何日ぐらゐかね、」

「さあいづれ模様を見まして、鶏やあひるなどですと、きっと間違 ひなく肥りますが、斯う云ふ神経過敏な豚は、或は強制肥育では甘 く行かないかも知れません。」

「さうか。なるほど。とにかくしっかりやり給へ。」

 そして校長は帰って行った。今度は助手が変てこな、ねぢのつい たズックの管と、何かのバケツを持って来た。畜産の教師は云ひな がら、そのバケツの中のものを、一寸つまんで調べて見た。

「そいぢゃ豚を縛って呉れ。」助手はマニラロープを持って、囲ひ の中に飛び込んだ。豚はばたばた暴れたがたうたう囲ひの隅にある、 二つの鉄の環に右側の、足を二本共縛られた。

「よろしい、それではこの端を、咽喉へ入れてやって呉れ。」畜産 の教師は云ひながら、ズックの管を助手に渡す。

「さあ口をお開〔ひら〕きなさい。さあ口を。」助手はしづかに云 ったのだが、豚は堅く歯を食ひしばり、どうしても口をあかなかっ た。

「仕方ない。こいつを噛ましてやって呉れ。」短い鋼の管を出す。

 助手はぎしぎしその管を豚の歯の間にねじ込んだ。豚はもうあら んかぎり、怒鳴ったり泣いたりしたが、たうたう管をはめられて、 咽喉の底だけで泣いてゐた。助手はその鋼の管の間から、ズックの 管を豚の喉咽まで押し込んだ。

「それでよろしい。ではやらう。」教師はバケツの中のものを、ズ ック管の端の漏斗に移して、それから変な螺旋を使い食物を豚の胃 に送る。豚はいくら呑むまいとしても、どうしても咽喉で負けてし まひ、その練ったものが胃の中に、入って腹が重くなる。これが強 制肥育だった。

 豚の気持ちの悪いこと、まるで夢中で一日泣いた。

 次の日教師が又来て見た。

「うまい、肥った。効果がある。これから毎日小使と、二人で二度 づつやって呉れ。」

 こんな工合でそれから七日といふものは、豚はまるきり外で日が 照ってゐるやら、風が吹いてるやら見当もつかず、たゞ胃が無暗に 重苦しくそれからいやに頬や肩が、ふくらんで来ておしまひは息を するのもつらいくらゐ、

 生徒も代る代る来て、何かいろいろ云ってゐた。

 あるときは生徒が十人ほどやって来てがやがや斯う云った。

「ずゐぶん大きくなったなあ、何貫ぐらゐあるだらう。」

「さあ先生なら一目見て、何百目まで云ふんだが、おれたちぢゃち ょっとわからない。」

「比重がわからないからな。」

「比重はわかるさ比重なら、大低水と同じだらう。」

「どうしてそれがわかるんだい。」

「だって大低さうだらう。もしもこいつを水に入れたらきっと沈み も浮びもしない。」

「いゝやたしかに沈まない、きっと浮ぶにきまってる。」

「それは脂肪のためだらう、けれど豚にも骨はある。それから肉も あるんだから、たぶん比重は一ぐらゐだ。」

「比重をそんなら一としてこいつは何斗あるだらう。」

「五斗五升はあるだらう。」

「いいや五斗五升などぢゃない。少く見ても八斗ある。」

「八斗なんかぢゃきかないよ。たしかに九斗はあるだらう。」

「まあ、七斗とせう。七斗なら水一斗が五貫だから、こいつは丁 度三十五貫。」

「三十五貫はあるな。」

 こんなはなしを聞きながら、どんなに豚は泣いたらう。なんでも これはあんまりひどい。ひとのからだを枡ではかる。七斗だの八斗 だのといふ。

 さうして丁度七日目に又あの教師が助手と二人、並んで豚の前に 立つ。

「もういゝやうだ。丁度いゝ。この位まで肥ったらまあ極度だらう。 この辺だ。あんまり肥育をやり過ぎて、一度病気にかゝってもまた あとまはりになるだけだ。丁度あしたがいゝだらう。今日はもう飼 をやらんでくれ。それから小使と二人してからだをすっかり洗って 呉れ。敷藁も新らしくしてね。いゝか。」

「承知いたしました。」

 豚はこれらの問答を、もう全身の勢力で耳をすまして聴いて居た。 (いよいよ明日だ、それがあの、証書の死亡といふことか。いよい よ明日だ、明日なんだ。一体どんな事だらう、つらいつらい。)あ んまり豚はつらいので、頭をゴツゴツ板へぶっつけた。

 そのひるすぎに又助手が、小使と二人やって来た。そしてあの二 つの鉄環から、豚の足を解いて助手が云ふ。

「いかゞです、今日は一つ、お風呂をお召しなさいませ。すっかり お仕度ができて居ます。」

 豚がまだ承知とも、何とも云はないうちに、鞭がピシッとやって 来た。豚は仕方なく歩き出したが、あんまり肥ってしまったので、 もううごくことの大儀なこと、三足で息がはあはあした。

 そこへ鞭がピシッと来た。豚はまるで潰れさうになりそれでもや うやう畜舎の外まで出たら、そこに大きな木の鉢に湯が入ったのが 置いてあった。

「さあ、この中にお入りなさい。」助手が又一つパチッとやる。豚 はもうやっとのことで、ころげ込むやうにしてその高い縁を越えて、 鉢の中へ入ったのだ。

 小使が大きなブラッシをかけて、豚のからだをきれいに洗う。そ のブラッシをチラッと見て、豚は馬鹿のやうに叫んだ。といふわけ はそのブラッシが、やっぱり豚の毛でできた。豚がわめいてゐるう ちにからだがすっかり白くなる。「さあ参りませう。」助手が又、 一つピシッと豚をやる。

 豚は仕方なく外に出る。寒さがぞくぞくからだに浸みる。豚はた うたうくしゃみをする。

「風邪を引きますぜ、こいつは。」小使が眼を大きくして云った。

「いゝだらうさ腐りがたくて。」助手が苦笑して云った。

 豚が又畜舎へ入ったら、敷藁がきれいに代へてあった。寒さはか らだを刺すやうだ。それに今朝からまだ何も食べないので、胃もも うからになったらしく、あらしのやうにゴウゴウ鳴った。

 豚はもう眼もあけず頭がしんしん鳴り出した。ヨウクシャイヤの 一生の間のいろいろな恐ろしい記憶が、まるきり廻り燈籠のやうに、 明るくなったり暗くなったり、頭の中を過ぎて行く。さまざまな恐 ろしい物音を聞く。それは豚の外で鳴ってるのか、あるいは豚の中 で鳴ってるのか、それさへわからなくなった。そのうちもういつか 朝になり教舎の方で鐘が鳴る。間もなくがやがや声がして、生徒が 沢山やって来た。助手もやっぱりやって来た。

「外でやらうか。外の方がやはりいゝやうだ。連れ出して呉れ。お い。連れ出してあんまりギーギー云はせないやうにね。まづくなる から。」

 畜産の教師がいつの間にか、ふだんとちがった茶いろなガウンの やうなものを着て入口の戸に立ってゐた。

 助手がまじめに入って来る。

「いかゞですか。天気も大変いゝやうです。今日少しご散歩なすっ ては。」又一つ鞭をピチッとあてた。豚は全く異議もなく、はあは あ頬をふくらせて、ぐたっぐたっと歩き出す。前や横を生徒たちの、 二本づつ黒い足が夢のやうに動いてゐた。

 俄かにカッと明るくなった。外では雪に日は照って豚はまぶしさ に眼を細くし、やっぱりぐたぐた歩いて行った。

 全体どこへ行くのやら、向ふに一本の杉がある、ちらっと頭をあ げたとき、俄かに豚はピカッといふ、はげしい白光のやうなものが 花火のやうに眼の前でちらばるのを見た。そいつから億百千の赤い 火が水のやうに横に流れ出した。天上の方ではキーンといふ鋭い音 が鳴ってゐる。横の方ではごうごう水が湧いてゐる。さあそれから あとのことならば、もう私は知らないのだ。とにかく豚のすぐよこ にあの畜産の、教師が、大きな鉄槌を持ち、息をはあはあ吐きなが ら、少し青ざめて立ってゐる。又豚はその足もとで、たしかにクン クンと二つだけ、鼻を鳴らしてぢっとうごかなくなってゐた。

 生徒らはもう大活動、豚の身体を洗った桶に、も一度新らしく湯 がくまれ、生徒らはみな上着の袖を、高くまくって待ってゐた。

 助手が大きな小刀で豚の咽喉をザクッと刺しました。

 一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ。もうこのあとはやめ にしやう。とにかく豚はすぐあとで、からだを八つに分解されて、 廏舎のうしろに積みあげられた。雪の中に一晩漬けられた。

 さて大学生諸君その晩空はよく晴れて金牛宮もきらめき出し二十 四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そ こらの雲にそゝぎかけ、そのつめたい白い雪の中、戦場の墓地のや うに積みあげられた雪の底に豚はきれいに洗はれて八きれになって 埋まった。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴えたのだ。