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〔ポランの広場〕

 

〔冒頭原稿数枚なし〕

 

こんどこそと思ってももう手をかけたかと思ふとひらっと山羊がま た遁げるのです。私はもうぷりぷりしてしまひました。

うにきれいな散歩だったと思ひました。

 すると私の右手から髪の赭い小さな子が急いで向ふを通って行き ます。その子は手や足ははだかで黒いチョッキだけを着て背嚢をし ょってゐました。わたくしはすぐ、あの子はファリーズ小学校の生 徒だなとおもひました。なぜならその子の行く方にはたった一つ柏 の林の中にファリーズ小学校があるだけでそこの生徒なら木沓にか れくさをつめてはいてゐたり教科書がなくてそのかはりに白樺の皮 を机の上にひろげて置いたりそれはもう野原中のいろいろな子供ら が集ってゐるのでしたから。けれどもそのときはその子は全く忙し さうにちょっと私を見上げただけどんどん向ふへ走って行きました のでわたくしはもういちどふりむいて見たときはもう野原の北の砂 糖水のやうなぎらぎらするかげらうの中にはいってしまってしばら くゆれてゐましたがまもなくそこがらのはづれだか木だか子供だか 一向わからなくなってしまひました。

 

   (二)つめくさのあかり

 

 ところがそれから丁度四十日ばかりたってある夕方でした。私が 役所から帰って両手でカフスをはづしてゐましたらいきなりその子 庭のあぜみの木のうしろから出て来ました。そして私がまだびっく りしてゐるうちに
「山羊はまだ居るかい」とぶっきら棒に云ひました。わたくしはあ んまり子供がわたくしを見下げたやうなものの言ひやうをするので 少しむっとしましたがまたあああすこの小学校の子供はみんな上着 も靴もなくて風や山猫のことばかり考へてゐる、だからこんなもの の言ひかたもするんだなと考へなほして
「山羊かい、山羊はもう百姓へやってしまったよ」と答へました。 すると子供はしばらく考へてゐましたがこんどはすこしきまり悪さ うにしながら、
「僕にも煙硝をくれるといゝな。」
と云ひました。

 私はだまって薬戸棚へ行って煙硝を一つかみ新聞紙に包んで来て その子に渡しながら
「おいこれは煙硝だよおまへは胡麻火薬をこさえるんだらう」と云 ひました。するとその子はまじめな風でうけとってちゃんとチョッ キの右のかくしにしまひました。

 そこで私は冗談に
「おい煙硝をそんな処にしまって破裂しないかい」とききましたら その子はどうだらうといふふうにしながら頭をふりました。

「さうかい。ぢゃお座り。」と云ひながら私は向ふの日向葵の下の 空箱を指しましたらその時はじめてその子はほんたうにうれすさう に笑って座りました。それから何を云ったらいゝのといふ風にしな がら考へてゐましたがやっと思ひ付いたらしく
「おいお前は昨夜野原に行ったかい。」と私に尋ねました。

「行かなかったよ。いけないさ。おれたちは忙しいときだってある んだよ。」と云ましたらその子はしばらく考へてゐましたがそれか らこんなことを云ひました。

「いまはつめくさが一杯に咲いてゐるんだよ。つめくさの花は青じ ろくて水の中に居るやうに見える。だから僕はすきだ。僕はいつだ って見に行く。それからあいつを編んで兜も慥らえる。青と白の帯 皮もできる。」

「さうかい。そいつはいゝなあ。私だって夜だって昼だってつめく さの野原は歩きたいし好きなんだ。けれども仲々忙しいらねえ。」 と云ひましたらその子はいきなり肩をゆすってひどく笑ひました。

「どうしてそんなに忙しいんだ。おかしいねえ。」

「仕方ないんだよ。仕事があるからさ。お前だって学校の仕事はあ るんだらう。」

「どうしてそんなに忙しいの。きちんとやってしまったらいゝぢゃ ないか。」

「うん、仕事をきちんとやってしまふのはいいねえ。けれどもなか なか私は忙しいからねえ。ゆふべはお月さんは出たかい。」

「出たよ。昨夜は夜中から出た。お月さんは夜中に出るときは青く て泣いてることもあるねえ。きっとどこか山の向ふの方で喧嘩した ねえ。」

「誰と喧嘩したらう。」

「山の向ふの方にはいろいろ悪いものが居るからねえ狼やなんか。 きっとお月様は狼に食ひつかれることがあるよ。」

「さうだらうか。狼に食ひつかれるってのはお月様が半分になった りまるで少しになったりすることかい。」

 その子は一寸考へてからほかのことにはなしをまぎらせました。

「お月様ゆふべだって泣いていたぜ。青くなってひどく泣いてゐた んだ。けれどもいくら泣いてもお月さんは僕すきだなあ。ほんたう にえらいんだもの。」

「さうかい。ゆうべ何かあったのかい。」

「あった。」

「何があったの。」

「あっ、僕宿題があった。もう帰らなけぁいけない。」

「宿題って算術かい。私が考へてあげやうか。むづかしいかい。」

「むづかしい。本当にむづかしい。とてもお前には出きやしないよ。」

「どんなんだい。一寸云ってごらん。」

「云ってみやうか。いゝかい。けふのはねえまっ青い空を浅木いろ にするには何ガロンの霧をつかふといふんだ。」私は全くこれには 愕きました。

「むづかしいねえ。愕いたねえ。君たちの算術はほんたうに高尚だ ねえ。」

「むづかしいだらう。けれどもあしたはぼくにはあたらない。あし たはベルの番になってるんだ。けれどもベルはきっと出来ない。」

「そんなら少しゆふべのこと話しておいで。」

「話してやらうか。」

「うん。」

「夕方になるとつめくさの花に一つづつあかりがつくだらう。」

「知ってるよ。」わたしくだってたしかにあれはあかりだと思ひな がらぼんやりと答へました。

「僕は一日の中で一番あのころがおもしろい。お日様が山へ入って それから空が青く池のやうになるだらふ。それでもだんだんくらく なるねえ。その頃いつでも僕はもう夕のごはんが済んで外に出るん だ。するとお母さんが行っておいでふくらふにだまされないように おしやって云ふんだ。」

「何て云ふって。」「なにを?」そのファリーズ小学校の生徒がわ からないといふ様に私を見あげました。

「お前が野原に出て行くときにお母さんが何んて云うんふって。」

「お母さんがね、行っておいでふくらふにだまされないようにおし やって云ふんだよ。」

「ふくらふに?」

「うん、ふくらふにさ。それはね 僕ちいさいときねそれはもうこ んなに小さいときなんだ、野原に出たろふ。すると遠くでいゝもの やろか。いゝものやろかといふものがあるんだ。それがふくらふだ ったのよ僕ばかな小ちゃいときだからずんずん行ったんだ。それか らお母さん。いつでもさう云ふんだ。本統はもう僕大きいからそん なこと云はなくてもいゝんだけれど。」

「うん。さうだね。まあけれどももっと話してごらん。」

「夕方ね。僕が野原につくとだんだんくらくなる。木がいちばん青 く見える草もほんたうに青く見える。それからだんだん黒くかはる そのときつめくさの円い花にだんだんあかりがつくんだ。あのあか りはねえ遠くから見るとまるで小さな蛾の形の青じろいあかりの集 まりなんだよ。」

「さうかね。私はたった一つのあかしだと思ってゐた。」

「ゆふべはあかしがすっかり揃ってから僕はあかしの番号を詳しく 調べてあるいたんだ。つめくさのあかしにはちゃんと番号がついて ゐるからねそれを順にうまく読んでだんだん進んで行くとしまひに はポランの広場に着く。ポランの広場へはいつか僕小さい時一辺行 ったけれどもほんたうにいゝ所なんだよ。お菓子だってオーケスト ラだっていくらでもあるんだ。僕小さいとき行ったきりそれからあ といくら番号を読んでももう目つからないんだ。

ゆふべも一生懸命しらべたけれども千二百まで行ったときはもう蝎 星がすっかり南へ来た。

けれどもたうたうだめだったい。山猫の馬車別当に邪魔されちゃっ たんだ。」

「山猫の馬車別当って何んだいそいつは。」

「山猫の馬車別当 知らないのかいあの足の曲ったぢいさんさ。」

「さうかねえ。」

「足が杓子の様なんだ。いつでも口をまげてにやにやしてるだろう。 僕が三千五十三まだあかりを読んで行ったときあの山猫別当につき あたられたんだ。するとぢいさん上着のポケットに手を入れたまゝ にやにや笑ってねポランの広場に行くのかねわしもつれてってお呉 れんかと云ひながらのどをくぴっとならすんだらう。ぢいさんつれ てってあげるからだまってついておいでとぼくは云った。そのとき 丁度お月様が登ったねえさっきさう云ったらうすっかりひしげて青 くなって昇ったんだ。けれどもお月様が登るとつめくさのあかしは にはかにぱっと青く明るくなったんだよ。びっくりしてかぶとむし や何かゞぶんぶんぶうんと頭の上を飛んだらう馬車別当がまた咽喉 を一つこきっと鳴らしてあゝ早くポランの広場に着いて上等の藁酒 を一杯やりていと云ったらう。僕はお待ち今三千五十四を見附けた やうだからと云ったら丁度そのとき一ぴきのかぶとむしがぶうんと やって来てぢいさんのひたいにぶっつかった。

 ぢいさんはあっいけねえたうたう悪魔にやられたって云ひながら よろよろするとたんに三千五十四番のあかりやなんかすっかりぐち ゃぐちゃに踏んぢゃった。僕がっかりしたねえもういくらさがして もあとの続きがわからないんだもの。何だいぢいさんだめぢゃない かって云ったねえするとその時向ふで笑ふ声がしてそれから変な声 で歌ひ出したやつがあるんだ。その歌はね歌って見やうか。

  「いのししむしゃのかぶとむし
   つきのあかりもつめくさの
   ともすあかりも眼に入らず
   めくらめっぽに飛んで来て
   山猫馬丁につきあたり
   あわてゝひょろひょろ
   落ちるをやっとふみとまり
   いそいでかぶとをしめなほし
   月のあかりもつめくさの
   ともすあかりも目に入らず
   飛んでもない方に飛んで行く。

って斯ううたったんだ。」

「誰だいそのとき歌ったのやつは。」

「又三郎さきまってらあ。あいつはいつでもいだづらなんだ。こん なやうな歌ばかり歌ふんだよ。」

「そしてそれからどうしたい。」

「それから僕もうたったよ。」

「何んてうたったの。」

「面倒臭いや上手に歌ったんだい。それから山猫の馬車別当もうた ったよ。」

「さうかい。何んて歌ったの。」

「蟹は平たい茶色の石の下に居るといふやうなことさ。」

「それから。」

「それから三人で手をつないでぐるぐるぐるぐるまはったねえ 歌 ってはねて歩いたんだ。たうたう草にすっかり露が落ちてキラキラ 光りだした。そのうち急に又三郎がホウと叫んで赤髪をふってガラ スの靴をピカッと云はしたまゝ北の方へ飛んで行ったのだ。

 僕も又三郎が行ってしまっちゃ面白くないから山猫馬丁の手をふ りはなしてホウと叫んで一目散にうちへ帰った。あとで馬車別当が ぢっとポケットに手を入れたまゝ横目で立ってお月さまを見てゐた やうだったよ。きっと又お酒が呑みたくてのどをくびくびならした ぜ。」

「さうだらうねそのポランの広場ってとこへ私もいつか連れてかな いかい。」

「連れてかう。今度はきっとポランの広場をさがさなくっちゃ ぢ ゃさよなうなら 又硝石をお呉れ。」

「うん。」

 そしてその夕方は私はそのファリーズ小学校の生徒とわかれたの でした。そしてもう一つその夕方にわたくしのわかったことはその 子がファゼロといふ名前なことでした。これはちゃんと私はその子 のチョッキに赤い糸で縫ってあるのを見たのです。

 

     三、ポランの広場

 

 それから丁度五日目の火曜日の夕方でした。その日は私は役所で 死んだ北極熊を剥製にするかどうかについてひどく仲間と議論をし て大へんむしゃくしゃしてゐましたから少し気を直すつもりで酒石 酸をつめたい水に入れて呑んでゐましたらずうっと遠くですきとほ った口笛が聞えました。その譜はたしかにいつかどこかで聞いたこ とのあるファリーズ小学校の行進の歌でしたから私はすぐこれはき っとあのファゼロといふ子がやって来るなと思ってゐました。する と全くその通りでした。まだ私が酒石酸のコップを呑みほさないう ちにもうファゼロが私の前に立ってゐる。顔をまっ赤にして忙しく 云ひました。

「おい。たうたう見付けたよ。ポランの広場へ行きたかったら僕に ついておいで。僕ゆふべ六千二十七まで見附けておいたよ。そして そこにしるしの棒を立てゝ来たんだ。七千が満点だからねもうぢき なんだ。
 今夜ならもう間違なくポランの広場へ行けるさ。」私はこの時行 きたくなりました。

「さうかい。わたしも行きたいねえ。行ってもいゝのかい どんな なりをして行ったらいゝかね何かおみやげはいらないだらうか。」

 するとその子は笑ひました。

「長靴をはいてたらいゝだらふ。お前のやうなものは向ふに沢山来 てゐるさ。」

 そこで私は大急で飛び出して長靴をはいたり仕度をしました。

 二人は野原についたのは丁度夕方の青いあかりがつめくさにぼん やり注いであの葉の爪の紋もよく見へなくなりかゝったときでした。 ファゼロは爪立てをしてしばらくあちこち見まはしてゐましたが俄 かに向ふへ走って行きました私もそのあとを随いて行きましたらフ ァゼロがしばらく経ってぴたりと止まりました。

「あこいつだ、さあ暗くならないうちに早くポランの広場を見附け なけぁ。」

 ファゼロは云ひながら一つのつめくさの花をしゃがんでしばらく 見てから又云ひました。

「早くおいで、山猫の馬車別当に見附かっちゃうるさいや。」私は ファゼロについて歩きました。

 ファゼロは忙しくかゞんで一つ一つのつめくさの花を見ては口の 中で数字を読みながらずんずん歩いて行きました。

 俄かにどこからか甲虫の鋼の翅がリインリインと空中に張るやう な音がたくさん聞えてきました。

「もう来たよ。ぢきポランの広場だぜ。」

 ファゼロは高く叫んだのです。私は全くぎくりとしました。その 辺のつめくさは全くもう明るくてまるで本統の石英ラムプでできて ゐました。そしてよく見ますと全くファゼロの云った通り一一のあ かしは小さな白い蛾のかたちのあかしから出来てそれが実に立派に かがやいて居りました。処々にはせいの高い赤いあかりもリンと灯 ってゐました。

 そのあかりの柄の所には緑色のしゃんとした葉もついてゐたので す。それらはたしかに赤つめくさの花でたくさんの白つめくさにま じって皓々と光ってゐます。

 ファゼロはその花に書いてある茶色の細かい細かい算用数字をす ばやく読みながらずんずん進んで行きました。昆虫の翅の顫ひはい よいよはっきり聞こえて参りました。

 それから俄かに私はよろよろして眼をこすりました。向ふに二三 本の榛木が立ってゐましたがそれがクリスマストゥリゥーよりもっ とまばゆく立派なのです。青い葉が一枚一牧極上等の孔雀石のやう に光ってしづかにゆれてゐました。葉はぶっつかり合って小さな鈴 のやうに鳴りました。木の下には十二三人の立派な人たちが笑ひな がらがやがややって居りました。みんなきっとしたまっくろの天蚕 絨の服を着たり白いシャッツにまるで夏の海の色をしたチョッキだ け着たりしておまけに飾の葉や帽子にはめられた宝石がチラチラ橙 や青に閃いて誰もみな第一等の貴族にちがひないと思はれました。 まっ白な多分硬い石絨で刻まれたらしい長椅子もあってそこには立 派な貴婦人たちが柔らかさうな駝鳥の毛の扇を動かしたりキラキラ わらったりしてゐました。それらはみんなつめくさのあかりに照ら されはんのきのひかりに注がれて月夜のやうに又ひるのやうに充分 日光を吸った金剛石の中のけしきのやうにはっきり見えたのです。

 私は実際気がひけてしまひました。なぜなら私と云ったら高が博 物局の十六等官でせう。
向ふに居る人たちと云ったらさっきも云った通り第一等官か貴族か 何かでせう。私のなりだってさうです。カラアは半分茶色になって ゐましたしズボンのポケットはもう底がなくなって何か入れるとす ぐばちゃんと足さきまで落ちるのでした。おまけにファゼロに云は れた通りぼろぼろの長靴まで穿いてゐたのです。全く私も気がひけ てしまひました。けれどもそのとき私は空の昆虫の羽音が変りまし たのでひょっと空を見ました。

 その空の奇麗だったこと天の川がχといふ字の形にぼんやり白く かかってゐましたがたしかに水も流れてゐた様でした。たびたびバ ッと爆発もしてゐました。

 西から東にかけてたびたび星が雨のやうに流れました。

 そのそらのこっち側を私の名も知らない甲虫や夜の蝶々がいろい ろ模様を描いてぐるぐるぐるぐる飛びめぐってゐました。

 るりいろのかみきりむしはおかしな三角のかたちを描きべっ甲い ろのはねをひろげたかぶとむしはあちこちに8の字をかいて飛びそ の中を紺や青のあげはてふがいくつもの点々になってちょっと光っ たり又見えなくなったりそれはそれは美しかったのです。

 するとファゼロが叫びました。

「僕のずぼんに黄のすぢを入れてお呉れ。」

 見るといつの間にかファゼロがちゃんと騎兵のやうな赤いズボン をはいて青い奇麗ななめし皮の上着を着て背嚢もてかてかする新ら しいのをしっかりしょって靴までキッキッ鳴らしてゐたのです。私 はしばらく呆れて見てゐましたらいつの間にか小さな蜂がファゼロ のまわりに来てくんくん云ってゐるやうでした。

 そしてよく見ますとだんだんファゼロのズボンに上の方から黄の すぢが入って行くのでした。私ははじめて気がつきました。それは 蜂がみんな花粉を持って来て描いたのです。

「肩章もつけてお呉れ。」ファゼロが又云ひました。見る見る肩章 もできてしかもたしかにダイアモンドらしいキラキラする氷のやう なものがまんなかの線に三つならびました。ファゼロはいつの間に かすっかり兵隊のやうになったのです。

「あなたはどうですな。ドンデ工合に仮装してあがませうな。」と 云ふ声がいきなり私のうしろの方でしました。見るとそれは燕尾服 を着た肥った顔の赤い男で胸に白く「ポラン広場衣装係」と書いて ありました。

 私はまっかになって云ひました。

「さあ何が何だか一向わかりませんがねいゝ加減に頼みます。」

 すると衣装係がいかにもわかったといふやうに大きくうなづいて から
「よろしうございます。承知いたしました。ローマネスクルネッサ ンスゴシックの折衷といふことにいたしますかな。ではまづこの上 着をお着なすって。」
と云ひながらまるで胸からせなかから縦の棒のやうなものの一杯に ついた上着を私によこしました。

 私はこんなものは全く冗談ぢゃないかと思ひましたがまあだまっ てそれを着ました。

 すると今度は
「さあこの帽子をおかむんなすって。」と云ひながらまるで教会の 屋根の形の帽子をよこしました。私は一寸それを冠りましたけれど も何だかすっかり馬鹿げてしまっていきなり
「よしませう。」と云ひながら帽子も上着も棄てゝしまひました。

 すると肥った衣装係は大へん怒って
「何んだい。失敬な。礼式も知らない空気鰌め。きさまのやうなや つがどうしてこの名高いポランの広場などへまぎれ込んだのだ。」 とつぶやきながら忙しさうに向ふへ行ってしまひました。

 私もたゞでさへ気が退けてゐた処ですからこれにはるっきりぎく りとしました。

 そして向ふで指をくわいて黙って私の顔を見てゐたファゼロに 「おい。私はもふ帰るよ。こゝからむちゃくちゃに走ったらうちへ 帰るだらうね。お前だけ遊んでおいで。」と云ましたらファゼロが まるで泣きだしそうにして叫びました。

「帰るんぢゃないよ。いまごろ帰らうとしたら途方もない方に行っ てしまふ。山猫の方かアフリカの方へどこへ行くかわかりやしない。」

 私ももう斯ふなったやぶれかぶれだ名高いポラン広場にこれから 何が起るのかすっかり見てやらふと覚悟をきめたときファゼロが
「それごらん。すっかり立派になったぢゃないか。」と云ひました。

 なるほど私の長靴はいつかすっかりローマ風の革の脚絆に変って てかてかしてゐましたし私の上着はすっかり黒のびろうどになって ゐました。

 たしかにびらうどこがねの要らないはねを持って来て何かの昆虫 が私にくっつけて呉れたのでした。

 おまけにいつか私はまっ白な手袋さへはめてるではありませんか。

 私も急に気分がよくなって大股に二足ばかり歩きました。そして ふとうしろを見ましたら一人の牧師らしい人がやはりあの肥った衣 装係に私の着た上着を渡されて着てゐました。私は思はずわらひま したそれから帽子もかぶってゐました。その人はすっかり形が出来 ると衣装係にちょいちょいちょい悪い所を直して貰ってゐました。

 その広場と野原のつめくさの灯と堺の所にもう実に沢山の人たち があちこちから今着いたらしく大急ぎで旅行鞄をあけて着換へをし てゐる人もあればお互でなりを直し合ってゐる人もありそれはそれ は様々でした。はんの木の下にだってもういつか三十人ぐらゐは集 ってゐたでせう。

「あ山猫博士も来てゐるよ。」とファゼロが小さな声で叫びました。

 なるほどそれは山猫によく似た眼のまん円なあごの平べったい人 で黄いろなチョッキにフロクを着て出来るだけ口を小さくして首を きくきく動かしながらあちこち歩き廻って挨拶をしてゐるのでした。

「あれかい。山猫博士てのは何だい。」

 私はそっとファゼロにききました。

「あの人は山へ行って山猫を釣って来てならして町へ売るしやうば いなんだ。こわいさうだよ。」とファゼロは答へました。

 そして私たちはそのはんの木へ行ったのです。すると一人の紳士 が山猫博士と握手しました。山猫博士は短いひげを賢こさうに三四 遍動かして
「どうです。カンヤヒャウ問題もいよいよ落着ですな。」と云ひま したら紳士は
「えゝどうも大変に不利なことになりました。」なんて云ってゐま した。

 一人の紳士の人は私たちのコップを持ってゐないのを見て向ふの テーブルへ行って二つ持って来てくれました。

「ありがたう。」と云ひながらそれを一つづつ受け取りました。

 髪をてかてかした給仕が瓶を三四本もってこわさうに博士に酒を 注いでそれから私たちのうしろに来て
「あなたには何をあげませう。」と私たちにたづねました。

「さうだね。葡萄水をお呉れ。」私はファゼロに遠慮して云ひまし た。

「さうですか。坊ちゃんも?」

「うん。」給仕は私たちにそれを注ぎました。するとほんものゝ山 猫博士がちゃうどさっきの紳士と盃をカチンと合わせてまるで山猫 のやうに尖った舌を出してお酒を嘗めてゐましたがこの時横目で私 たちの方を見ながら
「どうも水を呑むやつらが来ると広場も少ししらばっくれるね。」 と云ひました。すると一人の紳士が
「えゝ何せ子供ですからそれにそちらは多分カトリックの信者でゐ らっしゃいませう。」
と答へました。山猫博士はまた少し機嫌を悪くして
「あゝカトリックですか。私も祖父がきついカトリックでしたがね。 カトリックはおい注いで呉れ」と云って又給仕にお酒をつがせまし た。ところがこの頃はもうはんの木はぶるぶる顫へる位青白く光り モールはゆすれ甲虫の羽音はまるで工場のやうでした。

 このときオーケストラがあのゆるやかなカムニエールのマーチを はじめました。すると山猫博士はいきなり向ふを向いて
「おいおいそいつでなしにキャツホヰスカーといふやつをやっても らひたいな。」と叫びました。するとヴィオリンを持った楽長らし い男が
「冗談ぢゃない猫のダンスなんて。」と云ひますと山猫博士が
「やれやれやらんか。」と肩を怒らせて少しそっちへ詰め寄るやう にして進みました。すると指揮者が大へんあわてゝ用意を合図した うたうそのへんてこオーケストラがはじまりました。

 さっきのヴィオリン引きだけ腕をくんでだまってゐました。いま までお酒を呑んでゐた人たちはみんなコップをテーブルの上に置い て調子合せて足踏をはじめました。娘たちも列の中にまじりました。 それから踊りだしました。みんなはあんまりおもしろさうなのでつ い私も入りました。楽隊はキッホヰカーだがドッグウヰスカーだか 知りませんでしたが、ほんたうに愉快でした。

 空では昆虫がまるで夢みたいにいろいろな模様を織ってはほぐし 織ってはほぐしてゐました。はんの木はもちろん青々とひかりほん ものやにせものの宝石がカチカチひらめき草からきれいな雫もこぼ れました。それがキラッと光ったときわたくしは踊りながらははあ これは草がひるの間にあんまり吸っておいた余分な水分を夜になっ て蒸散が少なくなってからこぼしたのだなと思ひました。

 そして広場には熱帯の方の大きな赤い花の匂だの北の氷のつめた いかほりだのそれから楽隊の黄金いろの音譜は次から次と野原を飛 んで行きます。その野原ははてもなくつめくさの青じろいあかりが つき又ところどころには丈の高い赤つめくさの灯もまじりそのはて はぼうっとしてどこが堺かもわからなかったのです。私はもう嬉し くて踊りながら向ふの一人の曠原紳士に手袋をなげつけたりしてゐ ましたら俄かにオーケストラがひどい猫の声に変ったのです。

「おや」と思ってゐる中に山猫博士がはねあがって来てわたくしに ぶっつかりました。

 みんなはこわがって遁げるやうにしました。

 すると山猫博士はわらって向ふへ行って
「クワア」とうなるまねをやりました。なんだ冗談かと思ひました がどうもわたしは横柄な山猫博士の奴がしゃくにさわってたまりま せんでした。それでもまあつづけて踊ってゐましたらわたしのうし ろで多分それはどこかの葡萄園にでもでてゐる農夫らしいのでした。

「もしもし脚絆がとけましたよ」と云ひました。私はすっかりあわ てゝ列からはなれてしまひました。なぜってどう巻いていゝのか一 寸私にわからなかったのです。するとさっきの衣装係がやって来て いきなり私の足に取りつきました。どうしたのかと私はしばらく呆 れてゐましたら衣装係はぶつぶつこんなことを云ひながら私の脚絆 を巻き直しました。

「どうも困りますぜこんな工合ぢゃ えゝそれでも衣装の整はない のがあっちゃ、こっちの失態ですしね。えゝどうもこんなこっちゃ 困りますぜ。」けれどもたちまち修繕ができました。そのときオー ケストラが終ってみんなは歓声をあげてコンフェットをなげつける ものまたコップをカチカチ鳴らすもの草に座ったり椅子にかけたり 貴婦人たちはせわしく扇を使ふ又ずうっと向ふのつめくさのへりの 方まで行っておまけに向ふを向いて貴婦人たちの方へけむりの来な いやうにしながら極上等の葉巻をふかす人もありました。

 実にこの時はまっかな天狼星が南の空をしづかにめぐりながらさ まざまの色の粉をまるで香水のやうにはんのきや草地やさまざまの 楽器に注ぎました。そのうちに一人の黄ばらを胸につけた牧夫らし い男がいきなりはんの木のこっちに立ちました。そして手をひろげ て云ひました。

「レデイアンゼントルメンわたしは一つ唱ひますえゝと楽長さんフ ローゼントリーのふしを一つねがへませんかな」

 すると指揮者が
「フローゼントリーなんて古くさいもの知りませんな。」とこたへ ましたら楽手たちもてんでに
「そんなものは古くさいな。」と云ふのです。するとその羊飼風の 紳士は少し顔を赤くして
「困ったなあ。」と云ひましたらオーケストラの中のベルをやる人 が
「わたしは知っていますがねどうもベルだけぢゃしかたないでせう。」 と云ひました。

「あゝ沢山です。ではどうか鼓でリヅムだけとって下さいませんか。」 とたのみますとその人は笑って
「リヅムといってもたゞかうですよ。」と云ひながら鼓をカンカン カンカンカカンカンとならしましたのでみんなは大笑ひをしました。 ところが羊飼は大まじめで
「あゝそれで結構です。
では唱ひますよ。一二三」とやりながら唱ひ出しました。

  「けさの六時ころ ワルトラワラの
   峠をわたしが 越えようとしたら
   朝霧がそのときに ちょうど消へかけて
   一本の栗の木は 後光を出してゐた
   わたしはいたゞきの 石にこしかけて
   朝めしの堅ぱんを 齧りはじめたら
   その栗の木が にはかにゆすれ出して
   降りて来たのは 二疋の電気の栗鼠
   わたしは急いで……」

「おいおい間違っちゃいかんよ。」いきなり山猫博士が叫びました。

「何んだって、」羊飼はびっくりしてぼんやり云ひました。

「今朝ワルトラワラの峠に電気の栗鼠の居た筈はない、それはカマ イタチの間違ひだろう。も少し精密に観察して貰ひたいね。」山猫 博士が口をまげて冷笑しながらやり込めました。すると羊飼はすっ かり参って
「さうでしたか。」と云ひながら首をちゞめてみんなの中に入りま した。

 山猫博士は肩をそびやかして
「今度は僕がうたうよ。」云ってちらちら私とファゼロの方を横眼 で見ながら変なテノールで唱ひ出しました。

 「つめくさの花の 咲く晩に
  ポランの広場の 夏まつり
  酒を呑まずに  水を呑む
  そんなやつらが でかけて来ると
  ポランの広場も 朝になる
  ポランの広場も 白ぱくれる」

 みんなは気の毒さうにファゼロと私の方を見ました。中には「ま た癖がはじまったな。」なんてわざと私の耳もとで私を慰めるやう に云ふ人もありました。

 けれども私はもう居たたまらなくなって
「おいファゼロもう行かう。」と云ひましたがファゼロはまるで私 の声も耳に入らないくらゐ顔をまっかにして眼も燃えるばかりぷり ぷり怒ってゐましたがいきなり私の手をはらひ除けてみんなの前に 出ました。

 すると山猫が
「おやおやめづらしいことになったぞ」なんて云ひながら馬鹿にし たやうに口をまげてファゼロを見てゐました。ファゼロは半分泣く やうにしながら歌ひました。

 「つめくさのかおる夜は
  ポラン広場の夏まつり
  ポラン広場の夏まつり
  酒くせのわるい山猫が
  黄ろいシャツで出かけて来ると
  ポラン広場も雨がふる
  ポラン広場も雨落ちる」

 さあ山猫釣りのやつがまるで火のやうになって
「何だ失敬な決闘をしろ決闘を。」と叫びだしたのです。さあ私も だまって見てゐられなくなりました。

「馬鹿を言へ、貴さまがさきに悪口を言って置いてこんな子供に決 闘なんてことがあるもんか。おれが相手になってやろう。」

 山猫釣りめが私をあざわらひました。

「へんへんきさまの出る幕ぢゃない引込んでゐろ。こいつが我輩を 侮辱したから我輩はこいつへ決闘を申し込んだのだ。」

 私もなんとか理くつをつけないとファゼロが殺されてしまふと思 ひました。

「いやいや貴様がおれの悪口を言ったのだ。おれは貴様と決闘を申 し込むのだ、全体貴様がさっきから見てゐるとさもきさま一人の野 原のやうに威張り返ってゐる。さあ、ピストルか刀かどっちかを撰 べ。」

 すると山猫博士はぎょっとした風で一足あとへさがって給仕に酒 を一ぱいつがせました。そしてぐっと飲みほしてからあらんかぎり 虚勢をはってどなりました。

「黙れきさまは決闘の法式も知らんな。」私はこれを見るともうす っかり安心してしまひました。もうこんな臆病なやつならファゼロ で大丈夫だと思ったのです。(以下原稿一枚?なし)

 

 

また「おらいやだよ。」「おいてめいやれ」その男も「おいらやん だなあ」です。

 山猫博士は憤然として叫びました。

「よし介添人などいらない。さあ仕度しろ。」

「きさまも仕度しろ。」私は云ひながらファゼロの背嚢をとり上着 をぬがせました。山猫が剣かピストルかをえらべと云ひましたから どっちでもきさまのいゝ方をとれと私は云ひました。

「よし給仕剣を二本持って来い。」山猫は大へんな剣幕です。

 すると給仕が「こんな野原で剣はありません。ナイフでいけませ んか。」ときゝましたら実は山猫もほんものゝ剣ではこわかったの です。ナイフでいゝと云ったもんです。給仕はすぐ食事用のナイフ を二本もってきました。

 あゝ歯のないさきの円くなったナイフだこれなら大丈夫心配ない と私は心の中でわらひました。

「さあどっちでもいゝ方をとれ。」山猫が二本のナイフをファゼロ に渡しました。

 ファゼロはだまって一本をとって一本を山猫釣りの足もとに投げ つけました。山猫博士はびっくりして飛びあがりひらっとそれをと ると「さあ来い。」と身構へました。

「よし ファゼロさあしっかりやれ。」と私が叫びました。それか ら二人はカチカチやりました。何んべんも山猫博士がファゼロの胸 をつきましたが勿論先は円くて刃がないのです。そのうちにファゼ ロが山猫の奴の右の腕を切りました。たぶん着物が切れただけです。 すると山猫博士はまっ青になってのびあがり傷口を押へてナイフを ばったり落しました。それからまるであわてゝ
「おいおいやられたよ。誰か沃度ホルムがないか過酸化水素をもっ てこい誰かないかやられたよ。やられたよ。あゝやられたよ。」と そこらをかけまはってはたうたうばったり倒れてしまひました。

 よくいろいろの薬の名前を知ってやがるなと私は高くわらいまし た。

 羊飼が如露でしゃあしあ顔に水をかけました。すると山猫博士が むっくり起きあがって両手をひろげて空を見ながら
「あゝこゝは地獄かね、おやポラン広場へ逆戻りかいやこいつはい けない」山猫博士は遁げて向ふへと走って行って
「えゝとレデースアンヂエントメン諸君の忠告によって僕は退場し ます。さよなうなら。」と云ふや否や又向ふを向いてつめくさのあ かりの中に飛び込みそれから二三度花の番号を読んだやうでしたが 間もなくまた一目散にかけ出して見る見る遠く小さくなってそれか ら見えなくなりました。

 みんなは拍手をしたりひどく笑ったりしました。すると葡萄園の 農夫が立って演説をしました。

「諸君黄いろなシャツを着た山猫釣りの野郎は正にしっぽをまいて 遁げて行った。つめくさの花がともす小さなあかりはいよいよ数を 増してそのほか空気は一ぱいだ見たまへ天の川はおれが良く知らな いが何でもχといふ形になってしらじらと空にかゝってゐる。かぶ とむしやびろうどこがねむしは列になってぶんぶんその下をまはっ てゐる愉快な愉快な夏まつりだ。たれももう今度はくらしのことや 誰が誰よりもどうだといふやうなそんなみっともないことは考へる な。おゝおれたちはこの夜一晩東から勇しいオリオン星座ののぼる までこのつめくさのあかりに照らされ銀河の微光に洗はれながらた のしく歌ひあかさうぢゃないか。黄いろな藁の酒は尽きやうがもっ ときれいなすきとほった露は一ばんそらから降りて来る。おゝ娘た ちはひときれの白い切をかぶればあとは葡萄いろの宵やみや銀河か ら来る純い水 さまざまの木の黒い影やらがひとりでにおまへたち を飾るのだ。

 あゝ山猫の云ひぐさではないが
   ポラン広場の夏まつり
   ポラン広場の夏まつりとかうだ。」

 演説はおしまいにへんてこな歌になりました。みんなはファゼロ のうたった歌を高くうたひました。それからオーケストラがはじま りました。みんなはおどりました。ファゼロがわの中に入れられて 大よろこびで調子をとってゐました。

 黄いろのシャツなどがでて来ると
 ポラン広場に雨がかゝる
 ポラン広場に雨がかゝる

「さあ帰らう。」私はあした役所で又いろいろ面倒な仕事のあった のを思ひ出してファゼロに云ひました。

「うん、だけどまだいろいろ面白いことがあるんだよ。」ファゼロ が名残惜しさうに云ひました。

「帰らふ又いつか来やう。みんなに却って黙って帰った方がいゝね。」 ファゼロも渋々うなづきました。私たちはそっとつめくさのあかり の方へ帰りました。

 そしてファゼロが五六ぺん花の番号をよんでふりかへって見まし たら もうはんの木も何も見えませんでした。ただかすかな星のあ かりにつめくさの花ばかりがぼんやり白く浮んだのです。そのそら には天狼星もなく赤い眼玉の蝎座が南をしづかにめぐって行くので した。私たちは野原のはづれのたうひの列の所で
「さようなら」と云って別れました。私はすっかりボロボロになっ た長靴をあらんかぎりのばしてうちに帰りました。

 室の中には夕方の酒石酸のコップがそのまゝ置かれて電燈に光り 枕時計の針は、二時を指してゐました。

 

     (「四」冒頭原稿1枚?なし)

 

 それでもまあ十八日までには仕事も一段落ついていよいよ明日か らは割合ひまになって時々は役所の机でどこか遠い高山の霧を吸っ たり吐いたりしてゐる冷たい巌を考へることもできやうといふその 夕方のことでした。

 今夜あたりまたポラン広場へ出掛けて行きたいもんだがあんな小 さいつめくさの数字は近眼の私には読めないしやっぱりこの前のや うにファゼロが来ればいゝなと私はひとりでさう思って居りました。

 するといかにもうまいことは遠くでまたあの聞きおぼえのあるフ ァゼロの口笛がきこえたのです。来たなと私は考へるや大急ぎでも うすぐ長靴をはきました。そして庭のあぜみの木の下まで出て待っ てゐました。

 ところが意外にもファゼロが今夜はなんにも仕度をしてゐません でした。どうしたんだいと私がたづねやうとするうちにファゼロが ぼんやり云ひました。

「おい、硝石をおくれ。」

 私は叱るやうに申しました。

「硝石て硝石よりは今夜もポラン広場へ行かうぢゃないか。花火な んかこさえるよりいくら面白いか知れやしない。今夜なら私もあす こでなにかうまい演説でもやらうと思ふんだ。」するとファゼロが ひどく私を軽べつしたやうな顔をしましたが私は構はずつゞけまし た。

「それに今夜は山猫博士とも仲直りしやう。私はあの時の山猫博士 の遁げて行きやうが全く気に入ったからね。」と云ひますとファゼ ロがたうたう吹き出しました。それからからだを曲げて笑って笑っ たのです。

「えゝどうして。え どうして えどうして えおい。」

 と私はいくらきいてもなかなかファゼロは笑ふのをやめないので す。しまひには私も全くきまり悪くなってだまって下を向いてしま ひました。

 ファゼロはしばらくそのあぜみの木の下のうすくらい処を笑ひま はってからやっと少し落ち着いて云ひました。

「お前は大きくてもずゐぶんばかだねえ なんてとんまなんだらう。 野原に今でもつめくさのあかりがあんなそろってゐると思ふかい。」

 私ははっとしました。

「ああさうだね。もう今は夏の盛りだものねえつめくさの花も枯れ ただらう。」

 ファゼロが云ひました。

「いゝやすっかり枯れはしない。けれどももう番号やなんかまるで めちゃくちゃなんだ。とてもポランの広場に行く道なんかわかりや しない。けれどもこの前のあの羊飼ひのガルはきっと今夜も野原に 来てゐる一諸に遊びに行かうか。」

「でも今夜はきっと曇ってまっくらだよ。」さう云はれてみると私 はにはかに心細くなってにぶい銀色に光って南の方から流れて来る 雨雲を見上げながらつぶやきました。

「まっくらだってかまはないぢゃないか。 羊飼のガルはほんたうはひるま羊を追って歩くのなんだ。だけれど まっくらだってあるいてゐることもあるんだぜ。」

「あいつはひとはいゝかい。」

「いゝよおとなだって云ふものはないよ。」

「行って見やうかね そんなら。」私たちは出かけました。

 たうひの列を越えて私たちは野原に入りました。白つめくさの花 は大てい枯れて鳶いろになりそれもその夕方のぼんやりしたうすあ かりでは黒く見えたのです。たゞところどころに赤つめくさの花ば かりせいも高くりんと咲いてはゐましたが白つめくさのあかしがあ んまりわづかなものですからなんだか力を落したやうな灯がともっ てゐるとは思われませんでした。かへってその草の緑びろうどのや うに深く見え遠くでかすかにかすかに蚊がうなるばかり雲は黄ばん で鈍い銀いろに光りながらずんずん北へ流れました。

「変ったねえまるで変ってしまったねえ。この上誰も来ないなら全 く野原も寂しいねえ。」

「来るよ。羊飼ひのガルはきっと来る。あいつはほんたうは野原の ほかに行くとこがないんだ。」

 私たちはだんだん歩いて行きました。もううしろはまっくらくた うひも見えずあしもとには赤つめくさがほんの見えるか見えないく らゐのあかしをほんやりともすばかり雲さへ今は灰色なのか黒いの か動いてゐるのかよくわかりませんでした。私たちはずゐぶんしば らくだまってあるいて行きました。にはかにファゼロが立ちどまり ました。野原のすぐ向ふ黒い地面の中に小さな赤い火がチラチラゆ れてゐるのを見ました。その火はずんずん右へ行きます。

「ああれがガルだらうか。」私は思はず云ひました。ファゼロはだ まって不審さうにしばらく考へて居ましたが
「わからない ガルぢゃない。ガルはあんな火なんかを持って歩き やしない。」

「行って見やうぢゃないか。とにかく。」

「行って見やうか。そっと行くんだぜ。もし厭なやつだったらだま って逃げて帰るんだ。」

「ようさうしやう。」私たちはその火の方へ一生懸命行きました。 向ふでも歩いてゐるんですから仲々追ひ付くのは容易ではありませ んでしたがそれでも間もなく私たちはその火が一つのたいまつで一 人の子供がそれを持ちその火の前とうしろとにみんなで四人ばかり の子供らが急いで腕を振って歩いてゐるのを見ました。するとファ ゼロがいきなり「ホウ。」と咽喉一杯の様に叫びました。すると火 がぴたりとまって向ふから
「ファゼロさんかい。」「ファゼロさんかい、おいで。」とみんな こっちへ向いて叫んでいます。

 ファゼロが私に「さあ おいでみんな僕の友だちなんだ。早く。 そら」と云ひながらぐんぐんそっちへ走りました。

 私も少し笑ひながらついて行きました。四人の子供らがみんなフ ァゼロぐらゐの年ごろで一人膝を出したせいの高い子もありました がチラチラチラたいまつを高くあげて私たちの方をすかして見てゐ ました。

「どこへ行く処だったの。」ファゼロがみんなの前に黒い影になっ て立ってたづねました。

「ポラン広場へ行くとこ。」

「ひる君たちの談してゐたのそれだったの。」

「君どうして来たの。」

「僕のひとがポラン広場に行きたいと云ふから一諸に来たんだ。け れどポランの広場はもうだめだい。」

「ファゼロさんさうぢゃないよ。僕ちゃんと方角がわかってるんだ よ。」

「どうしてわかったの。」

「僕ねゆふべこゝへ来たんだ。するとチャンとオーケストラがきこ えたよ。きっとみんなはこのごろはつめくさのあかりでなしに方角 だけで行くらしいぜ。」

「さうかねえ でも迷ったら大変だよ。」

「大丈夫よ。もうきっと大丈夫よ。だめだったらもとの通りまっす ぐに帰れあいゝんだ。」

「さうかい行けるかしら。」

「行けるさ。行かう、行かう。」

「その人はだれ。」一人が少し私の来たのをいやさうに云ひました。

「うん。僕紹介しやう。みんな僕の友だちです。ベムペロン、ネリ オ、ペル、ホープ、それからこの人は硝石をたくさんもってゐる。」

 私はだまっておぢぎをしました。一番大きな子は「僕ベムペロン です。」といって挨拶しましたがほかの子供はだまってゐました。 たいまつの火の粉はばらばら草に落ちました。

 私はよほどもう帰らうと思ったのですけれどももうこゝからでさ へ一人では一寸どう帰っていゝかわからなかいのでしたしそれに実 は私は全くその晩ポラン広場へ行ってこの頃わたしの考へた天の川 のほんたうの構造を演説してみたかったのです。みんなが歩き出し たのでわたくしも一番うしろについてみんなの方へ行きました。み んなだまってだまってあるきました。たい松のさきに立って行くペ ムペロンのせなかがぼんやり赤く見えました。

 たい松からはチラチラチラ火の粉が散って、草に落ちました。草 はものすごいほど青く映し出されました。それはもうつめくさの花 ではありませんでした。いまにもりんりんと鳴り出しさうなすゞら んの花のまっ青の葉だったのです。その草にはたぶん二つぶか三つ ぶづゝ青い実がついてゐる筈でした。みんなたゞ一こともものを言 ひませんでした。私はなんべんも闇をすかして見ました。なんにも 見えませんでした。却って闇は人をほんたうのめくらにしさうでし た。私は深く息をしました。火の粉がせわしく落ちてまっ青な葉に はやさしい樹液の脈のみだれさへ見えるやうでした。

 誰も一こともものを云ひませんでした。だまってだまってあるき ました。

 いつかきみかげさうがなくなってわらびの葉がいくめんでした。 その葉は火花にうつされてまっ青にものすごく闇の中に浮きあがっ て見えました。

「だめだなあ。さっぱり来ないんだもの。」

「ベムペロンがたうたうこらへ切れなくなったらしく立ちどまりう しろを向きました。

「方角がちがってゐないだらうか。」私たちはみなうしろをふりか へりました。そしてギクッとしました。たい松のもえさしはずうっ と草に落ちてゐましたがどうしたのかそれはまっすぐでなく蛇のや うにうねうねしてゐました。

「だめだ、こんな歩きやうをして来たんだもの帰るったってもう帰 れやしないね。」

 ファゼロやみんな俄かにこわくなったらしいのでした。ペルと呼 ばれた小さな子などはたうたう声をあげて泣き出しました。あのポ ランの広場から私が帰らうとしてファゼロが怒ったときと全く同じ でした。こゝからいきなり帰らうたってもう方角もわからないので す。それに俄かに風がざあっとやって来てたいまつは消えました。 もうだめだと私は思ひました。ところがみんなはまるでよろこんで 声をあげました。

「来た来たガルが来たよ。」私もはっと気がつきました。羊飼ひの カルがやって来たのでした。

「ガルさん今晩は。」ベムペロンが叫びました。

「ガルさん今晩は。」みんなも叫びました。

 私たちの前にあのみぢかい白いずぼんをはいたこの前の羊飼が三 角な帽子をかぶって立ってゐました。それは赤髪をばさばさ風に吹 かれガラスの羊飼ひのガルはしばらくぢっとみんなを見まはしてゐ たやうですがいきなりぶっきら棒に云ひました。

「何しに来たんだい。」

 ベムペロンが答へました。

「ポランの広場へ行かうと思ってさ。」

 ガルは又怒ったやうな声を出しました。

「だめだい。つめくさのあかりも何もないぢゃないか。おまけにた いまつを点けて歩いたりしてあぶないぢゃないか。誰かいけないや つに見っつけられたらどうするんだ。こんなまっくらな晩は野原は こわいんだぜ。僕だってあんまりあちこちは歩きはしないんだぜ。」

「さうかねえ 僕たち方角をとって行かうと思ったんだ。」

「方角なんかだめだい。僕向ふで見てゐたらおまへたちふらふらま がって歩いてるんだ。山猫博士が笑ひながら急いで向ふへ行くのも 見たぜ。」

「ぢゃ僕らもうおうちへ帰らうか。」

「うん。こゝらでいまごろうろうろしてゐたら山猫釣りがどんな返 報をするかわからないぜ。」

「あいつはもう負けたんだよ。」ファゼロが云ひました。

「だからこわいんだよ。あいつのことだからきっと何か悪いことを もくろんでゐるんだ。」

 ペムペロンが云ひました。

「ガルさん済まなかったねえ。今度僕たち何かいい歌を覚えて来る からこらえておくれ。」

 ガルはすぐ機嫌を直しました。

「いゝとも。では今夜はもうさようなら。いまあすこのとこの雲が こわれてきっとカシオペイヤと大熊星が出るからそのあかりでつめ くさの番号をしらべてうちへ帰っておいで。なるべく番号の少ない 方へ行けばいゝんだ。ではさようなら。」

 ガルの白いずぼんがぼんやり向ふへ行きそしてもうその姿も見え ませんでした。しばらく私たちは空を見あげて立ってゐました。す ると全くガルの云った通りでした。

 雲がすうっと穴になってそこから桔梗いろの美しい星ぞらが見え て来ました。

 あの大きな星の三つならんだカシオペーアも青白い光りの頸骨を 長く延ばした大熊星もみんなはっきり見えました。

「いゝねえ ガルさんはえらいねえ。」ベルが叫びペムペロンは手 をかざしてぢっと四方を見てゐました。まもなくペムペロンが叫び ました。

「あゝあっちだ。つめくさの野原は。割合近(以下原稿数枚なし)

 

 

ろ私のことを談してゐるのを聞きました。そして私は家に帰ったの です。

 

 

     (五(?)章冒頭原稿数枚なし)

 

 あのイーハトーブの白い岩礁の多い奇麗な海岸へ行って今ごろあ りもしない卵を探せといふのはこれは慰労休暇のためなのだそれほ ど私の働きぶりが局長やみんなにもわかってゐたのかありがたいあ りがたいと心の中で雀躍しました。ずくと局長は私の顔は少しも見 ないでやっぱり新聞を見ながら
「明日すぐ発つやうに。」と一言だけ云ひました。

 私は丁寧に敬礼をして室を出ました。その晩すぐ支度してイーハ トブへ発ちました。その六十里の海岸を三十日の間にだんだん移っ て行っておしまひから三日目に汽車でイーハトーブ町に着き丁度九 月一日の晩きちんと家へ戻って来ました。ほんたうにその出張の面 白かったさと殊にイーハトブ町では珍らしい毒蛾の発生にあひまし たしこのことはあとで別におはなしします。

 九月二日に役所へ出て集めて来たものを目録や報告も添へて局長 に出しその日は早く帰(以下原稿なし)