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銀河鉄道の夜(初期形一)

 そして青い橄欖の森が見えない天の川の向ふにさめざめと光りな がらだんだんうしろの方へ行ってしまひそこから流れて来るあやし い楽器の音ももう汽車のひびきや風の音にすり耗らされて聞こえな いやうになりました。

「あの森ライラ の宿でせう。あたしきっとあの森の中に立派 なお姫さまが竪琴を鳴らしてゐらっしゃると思ふわ、お附きの腰元 や何かが立って青い孔雀の羽でうしろからあをいであげてゐるわ。」

 カムパネルラのとなりに居た女の子が云ひました。

 それが不思議に誰にもそんな気持ちがするのでした。第一その小 さく小さくなっていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのやうに見え る森の上にさっさっと青じろく時々光ってゐるのはきっとその孔雀 のはねの反射だらうかと思ひました。けれどもカムパネルラがやは りそっちをうっとり見てゐるの気がつきましたらジョバンニは何と も云へずかなしい気がして思はず「カムパネルラ、こゝからはねお りて遊んで行かうよ。」と云はうとしたくらゐでした。ところがそ のときジョバンニは川の遠くの方に不思議なものを見ました。それ はたしかになにか黒いつるつるした細長いものであの見えない天の 川の水の上に飛び出してちょっと弓のやうなかたちに進んでまた水 の中にかくれたやうでした。おかしいと思ってまたよく気を付けて ゐましたらこんどはずっと近くでまたそんなことがあったらしいの でした。そのうちもうあっちでもこっちでもその黒いつるつるした 変なものが水から飛び出して円く飛んでまた頭から水へくぐるのが たくさん見えて来ました。みんな魚のやうに川上へのぼるらしいの でした。「まあ何でせう。タアちぁん。ごらんなさい。まあ沢山だ わね。何でせうあれ。」睡さうに眼をこすってゐた男の子はびっく りしたやうに立ちあがりました。「何だらう。」青年も立ちあがり ました。「まあ、おかしな魚だわ、何でせうあれ。」

「海豚です。」カムパネルラがそっちを見ながら答へました。「海 豚だなんてあたしはじめてだわ。けどこゝ海ぢゃないんでせう。」 「いるかは海に居るときまってゐない。」あの不思議な声がまたど こからかしました。ほんたうにそのいるかのかたちの のおかしいこと二つのひれを丁度両手をさげて不動の姿勢をとった やうな風にして水の中から飛び出して来てやうやくし頭を下にして 不動の姿勢のまゝまた水の中へくぐって行くのでした。見えない天 の川の水もそのときはゆらゆらと青い焔のやうに波をあげるのでし た。「いるかお魚でせうか。」女の子がカムパネルラにはなしかけ ました。男の子はぐったりつかれたやうにまた席にもたれて睡って ゐました。「いるか魚ぢゃありません。くぢらと同じやうなけだも のです。」カムパネルラが答へました。「あなたくぢら見たことあ って。」「僕あります。くぢら、頭と黒いしっぽだけ見えます。」 「くぢらなら大きいわねえ。」「くぢら大きいです。子供だってい るかぐらゐあります。」「さうよあたしアラビアンナイトで見たわ。」 姉は細い銀のいろの指環をいぢりながらおもしろさうに向ふでその はなしをきいてゐました。

(カムパネルラ、僕もう行っちまうぞ。僕なんか鯨だって見たこと ないや)ジョバンニはまるでたまらないほどいらいらしながらそれ でも堅く唇を噛んでこらえて窓の外を見てゐました。その窓の外に は海豚の形ももう見えなくなって川は二つにわかれました。そのま っくらな島のまん中に高い高いやぐらが一つ組まれてその上に一人 の寛い服を着て赤い帽子をかぶった男が立ってゐました。そして両 手に赤と青の旗をもってそらを見上げて信号してゐるのでした。ジ ョバンニが見てゐる間その人はしきりに赤い旗をふっていましたが 俄かに赤旗をおろしてうしろにかくすやうにし青い旗を高く高くあ げてまるでオーケストラの指揮者のやうに烈しく振りました。する と空中にざあっと雨のやうな音がして何かまっくらなものがいくか たまりもいくかたまりも鉄砲丸のやうに川の向ふの方へ飛んで行く のでした。ジョバンニは思はず窓からからだを半分出してそっちを 見あげました。美しい美しい桔梗いろのがらんとした空の下を実に 何万といふ小さな鳥どもが幾組も幾組もめいめいせわしくせわしく 鳴いて通って行くのでした。「鳥が飛んで行くな。」ジョバンニが窓 の外で云ひました。「どら、」カムパネルラもそらを見ました。そ のときあのやぐらの上のゆるい服の男は俄かに赤い旗をあげて狂気 のやうにふりうごかしました。するとぴたっと鳥の群は通らなくな りそれと同時にぴしゃぁんといふ潰れたやうな音が川下の方で起っ てそれからしばらくしいんとしました。と思ったらあの赤帽の信号 手がまた青い旗をふって叫んでゐたのです。「いまこそわたれわた り鳥、いまこそわたれわたり鳥。」その声もはっきり聞えました。 それといっしょにまた幾万といふ鳥の群がそらをまっすぐにかけた のです。二人の顔を出してゐるまん中の窓からあの女の子が顔を出 して美しい頬をかゞやかせながらそらを仰ぎました。「まあ、この 鳥、ずいぶんだわねえ、あらまあそらのきれいなこと。」女の子は ジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニは生意気ないや だいと思ひながらだまって口をむすんでそらを見あげてゐました。 女の子は小さくほっと息をしてだまって席へ戻りました。カムパネ ルラが気の毒さうに窓から顔を引っ込めて地図を見てゐました。

「あの人鳥へ教へてるんでせうか。」女の子がそっとカムパネルラ にたづねました。「わたり鳥へ信号してるんです。きっと射手のと こからのろしがあがるためでせう。」カムパネルラが少しおぼつか なさうに答えました。そして車の中はしぃんとなりました。ジョバ ンニはもう頭を引っ込めたかったのですけれども明るいとこへ顔を 出すのがつらかったのでだまってこらえてそのまゝ立って口笛を吹 いてゐました。

(どうして僕はこんなにかなしいのだらう。僕はもっとこゝろもち をきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向 ふにまるでけむりのやうな小さな青い火が見える。あれはほんたう にしづかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしづめるん だ。)ジョバンニは熱って痛いあたまを両手で押へるやうにしてそ っちの方を見ました。(ああほんたうにどこまでもどこまでも僕と いっしょに行くひとはないだらうか。カムパネルラだってあんな女 の子とおもしろさうに談してゐるし 僕はほんたうにつらいなあ。)ジョバンニはなぜかまた泪がいっぱ いになりました。

 そのとき汽車はだんだん川から一つの崖をへだてゝ高いところを 通るやうになりました。向ふ岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流 に下るにしたがってだんだん高くなって行くのでした。そしてちら っと大きなたうもろこしの木を見ました。その葉はぐるぐるに縮れ 葉の下にはもう美しい緑いろの大きな苞が赤い毛を吐いて真珠のや うな実もちらっと見えたのでした。たうもろこしはだんだん数を増 してもういまは列のやうに崖と線路との間にならび思わずジョバン ニが窓から顔を引っ込めて向ふ側の窓を見ましたときは美しいそら の野原の地平線のはてまでその大きなたうもろこしの木がほとんど いちめんに植えられてさやさや風にゆらぎその立派なちゞれた葉の さきからはまるでひるの間にいっぱい日光を吸った金剛石のやうに 露がいっぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光ってゐるのでした。 カムパネルラが「あれたうもろこしだねえ」とジョバンニに云ひま したけれどもジョバンニはどうしても気持がなほりませんでしたか らたゞぶっきり棒に野原を見たまま「さうだらう。」と答へました。 そのとき汽車はだんだんしづかになっていくつかのシグナルとてん てつ器の灯を過ぎ小さな停車場にとまりました。

 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示しその振子は風も なくなり汽車もうごかずしづかなしづかな野原のなかにカチッカチ ッと正しく時を刻んで行くのでした。

 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてか らかすかなかすかな音楽が糸のやうに流れて来るのでした。「新世 界交響楽だわ。」向ふの席の姉がひとりごとのやうにこっちを見な がらそっと云ひました。全くもう車の中ではあの黒服の丈高い青年 も誰もみんなやさしい夢を見てゐるのでした。(こんなしづかない ゝとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだらう。どうしてこん なにひとりさびしいのだらう。けれどもカムパネルラなんかあんま りひどい、僕といっしょに汽車に乗ってゐながらまるであんな女の 子とばかり談してゐるんだもの。僕はほんたうにつらい なあ 。) ジョバンニはまた両手で顔を半 分かくすやうにしてぢっと向ふの窓のそとを見ながら次から次と痛 い頭で考へてゐました。すきとほった硝子のやうな笛が鳴って汽車 はしづかに動き出しカムパネルラもさびしさうに星めぐりの口笛を いてゐました。

「えゝ、えゝ、もうこの辺はひどい高原ですから。」うしろの方で 誰か老人らしい人のいま眼がさめたといふ風で半分夢の中ではきは き談してゐる声がしました。「たうもろこしだって棒で二尺も孔を あけておいてそこへ播かないと生えないんです。」

「さうですか。川まではよほどありませうかねえ、」「えゝえゝ河 までは二千尺から六千尺あります。もうまるでひどい峡谷になって ゐるんです。」さうそさうこゝはコロラドの高原ぢゃなかったらう か、ジョバンニは思はずさう思ひました。向ふでは何を考へてゐま のかあの一ばんの姉が小さな妹を自分の胸によりかゝらせて睡らせ ながら黒い瞳をうっとりと投げて何を見るでもなしに考へ込んでゐ るのでしたしカムパネルラはまださびしさうにひとり口笛を吹き二 番目の女の子はまるで絹で包んだ苹果のやうな顔いろをしてジョバ ンニの見る方を見てゐるのでした。突然たうもろこしがなくなって 巨きな黒い野原がいっぱいにひらけました。新世界交響楽は地平線 のはてから湧き一人のインデアンが白い鳥の羽根を頭につけたくさ んの石を腕と胸にかざり小さな弓に矢を番えて一目散に汽車を追っ て来るのでした。「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。 おねえさまごらんなさい。」黒服の青年も眼をさましました。ジョ バンニもカムパネルラも立ちあがりました。「走って来るわねえ、 あら、走って来るわ。追ひかけてゐるんでせう。」「いゝえ、汽車 を追ってるんぢゃないんですよ。猟をするか踊るかしてるんですよ。」 青年はいまどこに居るか忘れたといふ風にポケットに手を入れて立 ちながら云ひました。

 まったくインデアンは半分は踊ってゐるやうでした。第一かける にしても足のふみやうがもっと経済もとれ本気にもなれさうでした。 にはかにくっきり白いその羽根は前の方へ倒れるやうになりインデ アンはぴたっと立ちどまってすばやく弓を空に射ました。そこから 一羽の鶴がまた走り出した インデアンの大きくひろげた両手に落ちこみました。インデアンは うれしさうに立ってわらひました。そしてもうどんどんその影は小 さくなり電しんばしらの碍子がきらっきらっと続いて二つばかり光 りこっち側の窓を見ますと汽車はほんたうに高い高い崖の上を走っ てゐてその谷の底には川がやっぱり幅ひろく明るく流れてゐたので す。

「えゝ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面 までおりて行くんですから容易ぢゃありません。この傾斜があるも んですから汽車は決して向ふからこっちへは来ないんです。そら、 もうだんだん早くなったでせう。」さっきの老人らしい声が云ひま した。

 どんどんどんどん汽車は降りて行きました。崖のはじに鉄道がか ゝるときは川が明るく下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだん こゝろもちが明るくなって来ました。汽車が小さな小屋の前を通っ てその前にしょんぼりひとりの子供が立ってこっちを見てゐるとき などは思わずほうと叫び出したいと思ったほどでした。

 どんどんどんどん汽車は走って行きました。室中のひとたちは半 分うしろの方へ倒れるやうになりながらしっかりしがみついてゐた のです。ジョバンニは思はずカムパネルラと顔を見合せてわらひま した。もうそして天の川は汽車のすぐ横手をゆっくりと前のやうに 光ってながれてゐるのでした。うすあかい河原なでしこの花があち こち咲いてゐました。汽車はやうやく落ち着いたやうにゆっくりと 走ってゐました。

 向ふとこっちの岸に星のかたちとつるはしを書いた旄がたってゐ ました。

「あれ何の旗だらうね。」ジョバンニがカムパネルラにたづねまし た。「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄の舟がお いてあるねえ。」「あゝ。」「橋を架けるとこぢゃないんでせうか。」 女の子が云ひました。「あゝあれ工兵の旗だねえ。架橋演習をして るんだ。けれど兵隊のかたちが見えないねえ。」

 その時向ふ岸ちかくの少し下流の方で見えない天の川の水がぎら っと光って柱のやうに高くはねあがりどぉと烈しい音がしました。

「発破だよ、発破だよ。」カムパネルラはこおどりしました。

 その柱のやうになった水は見えなくなり大きな鮭や鱒がきらっき らっと白く腹を光らせて空中に抛り出されて円い輪を描いてまた水 に落ちました。ジョバンニはもう 踊り出し はねあがり たいくら ゐ愉快になって云ひました。

「空の工兵大隊だ。どうだ、鱒やなんかゞまるでこんなになっては ねあげられたねえ。僕こんな愉快な旅はしたことない。いゝねえ。」 「あの鱒なら近くで見たらこれくらゐあるねえ、たくさんさかな居 るんだな、この水の中に。」

「小さなお魚もゐるんでせうか。」女の子が談につり込まれて云ひ ました。

「居るんでせう。大きなのが居るんだから小さいのもゐるんでせう。 けれど遠くだからいま小さいの見えなかったねえ。」ジョバンニは もうすっかり機嫌が直って面白さうにわらって女の子に答へました。

 そのとき川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもま っ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のや うに赤く光りました。まったく向ふ岸の野原に大きなまっ赤な火が 燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がし さうでした。ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくし く酔ったやうになってその火は燃えてゐるのでした。「あれは何の 火だらう。あんな赤く光る火を僕はいままで見たことない。」ジョ バンニが云ひました。「蝎の火だな。」カムパネルラが又地図と首 っ引きして答へました。「あら、蝎の火のことならあたし知ってる わ。」

「蝎の火って何だい。」ジョバンニがききました。「蝎がやけて死 んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さん から聴いたわ。」「蝎って、虫だらう。」「ええ、蝎は虫よ。だけ どいゝ虫だわ。」「蝎いゝ虫ぢゃないよ。僕博物館でアルコールに つけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫されると死ぬ って先生が云ったよ。」「さうよ。だけどいゝ虫だわ、お父さん斯 う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がゐて小さな 虫やなんか殺してたべて生きてゐたんですって。するとある日いた ちに見附かって食べられさうになったんですって。さそりは一生け ん命遁げて遁げたけどたうたういたちに押へられさうになったわ、 そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、も うどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのとき さそりは斯う云ってお祈りしたといふの、

 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、 そしてその私がこんどいたちにとられやう としたときはあんなに一生けん命にげた。それでもたうたうこんな になってしまった。あゝなんにもあてにならない。どうしてわたし はわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そ したらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心をご らん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまこと のみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったとい ふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火 になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。いまでも 燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんたうにあの火それだわ。」

「さうだ。見たまへ。そこらの三角標はちゃうどさそりの形になら んでゐるよ。」

 ジョバンニはまったくその大きな火の向ふに三つの三角標がちゃ うどさそりの腕のやうにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎ のやうにならんでゐるのを見ました。そして実にそのまっ赤なうつ くしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。

 その火がだんだんうしろの方になるにつれてみんなは何とも云へずにぎやかなさまざまの楽の音や草花の匂の やうなもの口笛や人々のざわざわ云ふ声やらを聞きました。それは もうぢきちかくに町か何かゞあってそこにお祭でもあるといふやう な気がするのでした。

「ケンタウル露をふらせ。」いきなりいままで睡ってゐたジョバン ニのとなりの男の子が向うの窓を見ながら叫んでゐました。

 あゝそこにはクリスマストリイのやうにまっ青な唐檜かもみの木 がたってその中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の蛍で も集ったやうについていました。

「あゝ、さうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。」「あゝ、こゝはケン タウルの村だよ。」カムパネルラがすぐ云ひました。

(以下原稿一枚?なし)

「ボール投げなら僕決してはづさない。」

 男の子が大威張りで云ひました。

「もうぢきサウザンクロスです。おりる支度をして下さい。」青年 がみんなに云ひました。

「僕も少し汽車へ乗ってるんだよ。」男の子が云ひました。カムパ ネルラのとなりの女の子はそはそは立って支度をはじめましたけれ どもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないやうなやうすでした。

「おっかさんが待ってゐらっしゃいますよ。」青年はきちっと口を 結んで男の子を見おろしながら云ひました。「厭だい。僕もう少し 汽車へ乗ってから行くんだい。」ジョバンニがこらえ兼ねて云ひま した。「僕たちと一諸に乗って行かう。僕たちどこまでだって行け る切符持ってるんだ。」「だけどあたしたちもうこゝで降りなけぁ いけないのよ。こゝ天上へ行くとこなんだから。」

「天上へなんか行かなくたっていゝぢゃないか。もっといゝとこへ 行く切符を僕ら持ってるんだ。天上なら行きっきりでないって誰か 云ったよ。」「だっていけないわよ。お母さんも行ってゐらっしゃ るんだし。」女の子はほんたうに別れが惜しさうでその顔も少し青 ざめて見えました。

「さあもう仕度はいゝんですか。ぢきサウザンクロスですから。」  あゝそのときでした。見えない天の川のまん中に青や橙や 綺麗 にかざられた十字架がまるで一本の木といふ風に川の中から立って かゞやきその上には青じろい雲がまるい環になってかかってゐまし た。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のと きのやうにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこ っちにもまるで子供が瓜に飛びついたときのやうなよろこびの声や 何とも云ひやうない深いつゝましいためいきの音ばかりきこえまし た。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉のやうな 青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞ってゐるのが見えました。

「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひゞき みんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとほった 何とも云へずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさん のシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになりたう たう十字架のちゃうどま向ひに行ってすっかりとまりました。「さ あ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひき姉妹たちは互にえ りや肩を直してやってだんだん向うの出口の方へ歩き出しました。 「ぢゃさよなら。」女の子がふりかへって二人に云ひました。「さ よなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらへて怒ったや うにぶっきり棒に云ひました。女の子はいかにもつらさうに眼を大 きくしても一度こっちをふりかへってそれからあとはもうだまって 出て行ってしまひました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまひ 俄かにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。

 そして見てゐるとみんなはつつましく列を組んであの十字架の前 の天の川のなぎさにひざまづいてゐました。そしてその見えない天 の川の水をわたってひとりの神々しい白いきものの人が手をのばし てこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子 の呼子は鳴らされ汽車はうごき出しと思ふうちに銀いろの霧が川下 の方からすうっと流れて来てもうそっちは何も見えなくなりました。 たゞたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に 立ち黄金の円光をもった電気栗鼠が可愛い顔をその中からちらちら のぞいてゐるだけでした。

 そのときすうっと霧がはれかゝりました。どこかへ行く街道らし く小さな電燈の一列についた通りがありました。それはしばらく線 路に沿って進んでゐました。そして二人がそのあかしの前を通って 行くときはその小さな豆いろの火はちゃうど挨拶でもするやうにぽ かっと消え二人が通って行くときまた点くのでした。ふりかへって 見るとさっきの十字架はもうまるでまるで小さくなってほんたうに もうそのまゝ胸にも吊されさうになり、さっきの女の子や青年たち がその前の白い渚にまだひざまづいてゐるのかそれともどこか方角 もわからないその天上へ行ったのかもうぼんやりしてわかりません でした。

 ジョバンニはあゝと深く息しました。「カムパネルラ、また僕た ち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕 はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそし ておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いても かまはない。」

「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がう かんでゐました。「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」 ジョバンニが云ひました。「僕わからない。」カムパネルラはさう は云ってゐましたがそれでも胸いっぱい新らしい力が湧くやうにふ うと息をしました。

「僕たちしっかりやらうねえ。」ジョバンニが 云ひました。

「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそ っちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指さしました。ジ ョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひました。天の川 の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいてゐるのです。その 底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞい てもなんにも見えずたゞ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニ が云ひました。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほ んたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一 諸に進んで行かう。」「あゝきっと行くよ。」カムパネルラはさう は云ってゐまし たけれどもジョバンニはどうしてもそれがほんたうに強い気持から 出てゐないやうな気がして何とも云へずさびしいのでした。

 そしてジョバンニが窓の外を見ましたら向ふの河岸に二本の電信 ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立って ゐました。「カムパネルラ、僕たち一諸に行かうねえ。」ジョバン ニが何とも云へずさびしい気がしてふりかへって見ましたらそのい ままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見え ずたゞ黒いびらうどばかりひかってゐました。ジョバンニはまるで 鉄砲丸のやうに立ちあがりました。そしてはげしく胸をうって叫び ました。

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんた うの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」そのときまっくらな地 平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげら れ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそら にかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあも うきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラの ためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」ジ ョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。 天の川を数知れない氷がうつくしい燐光をはなちながらお互ぶっつ かり合ってまるで花火のやうにパチパチ云ひながら流れて来向ふに は大犬座のまばゆい三角標がかゞやきました。

「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中で なしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて 行かなければいけない。天の川のなか でたった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはい けない。」あのセロのやうな声がしたと思ふとジョバンニはあの天 の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹き自分はまっすぐに草の丘 に立ってゐるのを見また遠くからあのブルカニロ博士の足おとの近 づいて来るのをききました。

「ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。私はこんなしづかな場 所で遠くから私の考を伝へる実験をしたいとさっき考へてゐた。お 前の云った語はみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。 お前は夢の中で決心したとほりまっすぐに進んで行くがいゝ。そし てこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」

「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」 「あゝではさよなら。」博士はちょっとジョバンニの胸のあたりに さわったと思ふともうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくな ってゐました。ジョバンニはまっすぐに走って丘をおりました。そ してポケットが大へん重くカチカチ鳴るのに気がつきました。林の 中でとまってそれをしらべて見ましたらそれは大きな二枚の金貨で した。

「博士ありがたう、おっかさん。すぐ乳をもって行きますよ。」ジ ョバンニは叫んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一 ぺんにジョバンニの胸に集って何とも云えずかなしいやう な新らしいやうな気がするのでした。

 琴の星がずうっと西の方へ移ってそしてまた蕈のやうに足をのば してゐました。