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〔フランドン農学校の豚〕(初期形)

〔冒頭部原稿数枚なし〕

以外の物質はみなよくこれを採りて脂肪若くは蛋白質となし体内に 蓄積す。」

 とかう書いてありましたので金石でないものは片っ端から何でも 持って来てはふり出すのでした。

 尤も豚の方では生れつきさう云ふ工合でしたからよくなれてゐま したしいやだとも思ひませんでした。ある日などは、殊に豚は自分 の幸福を感じたのでした。といふのは夕方でしたが化学を習った一 年生の生徒が豚の前にやって来ました。そして実に不思議さうに豚 を眺めて居りました。豚の方でも時々は小さな鈍い眼をあげて一寸 そちらを見ました。けれども別に珍らしい考があったのでもありま せんでした。その生徒が云ひました。

「ずゐぶん豚といふものは奇体なもんだ。水やスリッパや藁をたべ てそれを上等な脂肪や蛋白質に合成するんだ。豚のからだは生きた 一つの触媒だ。白金と同じことだ。無機体の白金有機態の豚考へれ ば考へる位変になる。」

 豚は自分の名前が白金と並べられたのを微かに聞きました。そし て豚は白金が一匁三十円することをよく知ってゐましたから自分の からだが二十貫でいくらになるといふ勘定もすぐ出来たのでした。 豚は耳を伏せて眼を半分閉ぢて前肢を曲げてその勘定をやりました。

 20×1000×30=600000 六十万円です。六十万円といったらその ころのフランダンあたりでは第一流の紳士です。いまだってさうか も知れません。さあ第一流の紳士ですもの豚が幸福を感じてあのか げの方にある鮫に似た口をにやにや曲げてよろこんだのも無理はな いではありませんか。

 ところがその幸福もあまり永く続きませんでした。

 それから二三日たってフランドンの豚はどさりと上の方から落ち て来た一かたまりのたべ物の中から(大学生諸君、意志を鞏固にも って下さい。いゝですか。)たべ物の中から一寸細長い白いもので さきに剛いみぢかい銀いろの毛のならんで植ゑてあるもの卒直に云 へば歯磨楊子です。それを見ました。どうもいやなお話で折角洗礼 を受けた大学生諸君に大へんお気の毒ですがこれは明なる歴史上の 事実でありますから致し方ありません。

 豚は実にぎょっとしました。そのわけはその楊子の毛を見ると自 分のからだ中の毛がまるで風に吹かれた草のやうにザラザラと鳴る のでした。豚は実に永い間変な顔してその歯磨楊子を眺めて居りま したがたうたう頭がくらくらしていやないやな気分になりましたの でいきなり向ふの敷藁に中に頭を埋めてくるっと寝てしまひました。  そして少し気分がよくなって起きあがりました。気分がいゝと云 ひましても結局豚の気分でありますから苹果のやうにさくさくして 青ぞらのやうに光るわけではないのであります。実にこれ灰色の気 分であります。灰色にしてつめたくやゝ透明なるところの気分であ ります。さればまことに豚の心もちをわかるには豚になって見るよ り致し方ないのであります。豚は決して自分が魯鈍だとか怠惰だと か考へて居りませぬ。最想像に困難なる所は豚がせなかを棒で烈し く叩かれました際に何と感ずるかであります。何と感じますか、さ あ、日本語ですか伊太利亜語ですか独乙語ですか。さあどう表現し たらいゝですか。さりながら結局は豚の叫び声以外何もわからない のであります。不可知であります。

 さて豚はずんずん肥りなんべんも寝たり起きたりしました。フラ ンダン農学校の畜産学の先生は毎日来て見ては鋭い眼でぢっとその 生体量を計算しては帰って行くのでした。

「も少し窓をしめて暗くしなくちゃ脂がうまくかゝらんぢゃないか。 それにもうそろそろ肥育をやってもよからうな、阿麻仁を少しずつ やって置いて呉れ。」教師は若い水色の上着を着た助手に斯う云ひ ました。豚はこれをすっかり聴きました。そして何だか大へんいや な気分がしました。丁度あの歯磨楊子のときと同じであります。折 角のその阿麻仁もどうもうまく咽喉を通りませんでした。これらは みんなその畜産の教師の語気について豚が直覚したのであります。 (とにかくあいつら二人はおれにたべものはよこすけれども時々ま るで北極の空のやうな眼をしておれを見る、実に何とも形容の難い、 とりつきばもないやうなきびしいこゝろでおれのことを考へてゐる、 そのことは恐い、恐い。)と豚は思ひながらたまらなくなって柵を むちゃくちゃに鼻で突いたりしました。

 ところが丁度その豚の殺される前の月に一つの布告がその国の王 から出て居りました。

 それは家畜撲殺同意調印法といふのでありまして総て誰でも家畜 を殺さうといふものはその家畜から死亡承諾書を受け取る必要があ り且つその証書には家畜の調印を要するとかう云ふのでありました。  そこでその頃は牛でも馬でもみんな殺される頃には主人から強ひ られて証文にペタリと爪印を押したものであります。としよりの馬 などはわざわざ蹄鉄をはづされぼろぼろなみだをこぼしながらその 大きな判を証書に押したのであります。

 この哀史の主人公も又活版刷りになったその証書を見ました。見 たといふのは或る日フランダン農学校の校長が大きな黄色の紙を小 わきに掻いこんで豚のところにやって参りました。豚はもう語学も 余程進んでゐましたからしづかに校長に挨拶しました。

「校長さんいゝお天気でございます。」

 校長は黄色な証書を小わきにはさんだまゝポケットに手を入れて にがわらひしながら云ひました。

「まあ、天気はいゝね。」

 豚は何だかこの語が耳にはいってそれから咽喉につかえるやうに 思ひました。おまけに校長はぢろぢろ豚のからだを見てゐることは 全くあの畜産の教師とおんなじであります。

 豚は耳を伏せました。そして悲しさうに云ひました。「私はどう もこのごろ気がふさいで仕方ありません。」校長は又にがわらいを して申しました。「ふん。気がふさぐ。さうかい。もう世の中がい やになったかい。さういうわけでもないのかい。」豚があんまり陰 気な顔をしましたので校長は急いで取り消しました。

 それから校長と豚とはしばらくしいんとして立って居りました。 一言も云はないで立って居りました。そのうちにたうたう校長はあ きらめて今日は証書のことは云ひ出し兼ねて「とにかくよくやすん でおいで。あんまり動きまはらんでね。」と云ひながら例の黄いろ な大きな証書を小わきはさんで向ふへ行ってしまひました。

 豚はあとで何べんも校長の今の苦笑の顔やそのいかにも底意のあ る語を繰り返して見て身ぶるひをしたのであります。

『とにかくよくやすんでおいで。あんまり動きまはらんでね。』一 体これはどう云ふ事なのか。あゝつらいつらい。豚は斯う考へてま るであの梯形の頭も割れさうに思ひました。おまけにその晩は強い ふゞきで外では風の音がすさまじく乾いたカサカサした雪のかけら が小屋のすきまから吹きこみ豚のたべものの余りも雪でまっ白にな りました。

 ところが次の日又畜産学の教師がやって参りました。例の水色の 上着を着た顔の赤い助手と二人です。教師はいつもの鋭い目でぢっ と豚の耳から頭から脊中から尻尾までまるで食ひ込むやうにみ詰め て眺めてから尖った指を一本立てゝ助手に云ひました。

「毎日阿麻仁をやってあるだらうね。」

「やってあります。」

「さうだろう。もう明日だって明後日だっていゝよ。早く承諾書だ けとれぁいゝんだ。どうしたんだらう、昨日校長はたしかに証書を わきに挟んでこっちの方へ来たんだが。」

「はい、この小屋へお入りのやうでございました。」

「そいぢゃ承諾書はもうできてるのかしら。しかし出来ればすぐよ こす筈だね。」

「はあ。」

「も少し室をくらくして置いたらどうかね。それからやる前の日に はなんにも飼料をやっちゃいけないよ。」

「はあ、さう致します。」

 畜産の教師は鋭い目でもう一遍ぢいっと豚のからだ中をねめ廻し てから室を出て行きました。そのあとで豚の煩悶といったらありま せん。(承諾書といふのは何の承諾書だらうどんなことを一体しろ と云ふのだらう、やる前の日にはなんにも飼料をやっちゃいけない と云った。やる前の日って何を一体されるんだらう。どこか遠くへ でも売られるのかも知れない。あゝつらいつらい。)豚の頭の割れ さうなことはこの日だって全く前の日と同じでした。その晩も豚は あんまりに神経が興奮してよく睡れませんでした。ところが次の朝 まだやっと日が登ったばかりの頃 寄宿舎の生徒が三人げたげた笑 ひながら小屋へ入って来ました。そして昨夜よく睡らないで頭のし んしん痛む豚の前に来て厭な会話を始めたのです。

「いつだらうなあ、早く見たいなあ。」

「僕は見たくないよ。」

「早いといゝなあ、囲って置いた葱だって、あんまり永くなると凍 るぜ。」

「馬鈴薯もしまってあるだらう。」

「しまってあるよ。三斗しまってあるよ。とても僕たちだけで食べ られるもんか。」

「今朝はずゐぶん冷たいねえ。」一人が白い息を手に吹きかけなが ら云ひました。

「豚のやつは暖かさうだね。」一人が答へましたら三人共どっとふ き出しました。

「豚のやつは脂肪の厚さ一寸もある外套を着てるんだもの暖かいわ けさ。」

「暖かさうだよ。どうだ。湯気なんかほやほや立ててるよ。」

 豚はあんまり悲しくて辛くてよろよろ倒れてしまひました。

「早くやっちまへばいゝな。」三人はつぶやきながら小屋を出て行 きました。そのあとの豚の苦しさ、(見たい、見たくない、早いと いゝ、葱が凍る、馬鈴薯二斗、食ひきれない。厚さ一寸の脂肪の外 套、おゝ恐い、ひとのからだをまるで観透して居やがるおゝ恐い。 恐い。けれども一体おれと葱と何の関係があるだらう。あゝつらい なあ。)その煩悶の最中に校長が又入って来ました。入口でばたば た雪を払ひ落してそれから例のわけのわからない苦笑をしながら豚 の前に立ちました。

「どうだい。今日は気分がいゝかい。」

「はい、ありがたうございます。」

「いゝのかい。大へん結構だね。たべ物は美味しいかい。」

「ありがたうございます。大へんに結構でございます。」

「さうかい。それはいゝね、ところで実は今日はお前と内内で相談 に来たがね、どうだ頭の工合ははっきりしてるかい。」

「はあ。」豚は声がかすれました。校長は又云ひました。

「実はね、この世界に生きてるものはみんな死ななけぁいかんのだ よ。実際もうどんなもんでも死ぬんだよ。人間の中の貴族でも金持 でも又私のような中産階級でもそれからごくつまらない乞食でもね。」

「はあ、」豚は声が咽喉につまってはっきり返事ができませんでし た。

「また人間でない動物でもね、たとえば馬でも牛でも鶏でもなまず でもバクテリヤでもみんな死ななけぁいかんのだ。蜉蝣のごときは あしたに生れて夕に死するたゞ一日の命のもんだ。みんな死ななけ ぁならないのだ。だからお前も私もいつかはきっと死ぬのだよ。」 「はあ。」豚は声がかすれて返事ができませんでした。

「そこで実は相談だがね、私たちの学校ではお前を今日まで養って 来た。大したこともできなかったが学校としては出来るだけはずゐ ぶん大事にしたつもりだ。お前たちの仲間もあちこちに沢山あって 私もよく知ってるけれどもさう云っちゃ可笑しいがまあ私の処ぐら ゐ待遇のよかった処は一寸無かったやうだ。」

「はあ。」豚は返事しやうと思ひましたがその前にたべたものがみ んな咽喉へつかへるやうな気がして声が出ませんでした。

「でね、実は一寸相談だがね、お前にもし少しでもそんなやうなこ とがありがたいと云ふやうな気があったらほんの小さなたのみだが 承知して貰へまへか。」

「はあ。」豚は声がかすれて返事ができませんでした。

「それはほんの小さなことなのだがここに斯う云ふ紙があるがね、 この紙に斯う書いてある。死亡承諾書、私儀永々御恩顧の次第に有 之候儘御都合により何時にても死亡仕るべく候 年月日フランドン 畜舎内、ヨークシャイヤ フランドン農学校長殿 とかう云ふんだ がね、」校長はもう云ひ出したので、一瀉千里にまくしかけました。

「つまりお前はどうせ死ななけぁいけないんだからその死ぬときは もう潔くいつでも死にますと斯う云ふことで一向何でもないことさ。 死ななくてもいゝ間は一向死ぬことも要らないよ。こゝの処へお前 の前肢で爪印を一つ押して貰ひたい。それだけのことだ。」

 豚は眉を寄せて、つきつけられた証書をぢっと眺めました。校長 の云ふ通りなら何でもないやうですが又証書の文句を読んで見ます と大へんに恐いのでした。たうたう豚はこらえかねてまるで泣声で 叫びました。

「何時にてもといふことは今日でもといふことですか。」校長はぎ くっとしたやうでしたが気をしづめて答へました。

「まあさうだ。けれども今日なんてそんなことは決してないよ。」

「でも明日でもといふんでせう。」

「さあ、明日なんてそんな急なこってもないだらう。まあ、いつで も、いつかといふことだよ。」

「死亡をするといふのは私が一人で死ぬといふことなんですか。」 豚は又金切声でたづねました。

「うん、さうでもないな。」

「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」 豚は泣いて叫びました。

「いやかい。では仕方ない。お前も余程な恩知らずだ。犬猫にも劣 ったやつだ。」校長はぷんぷんして顔をまっ赤にしながら証書をポ ケットに手早くしまひ大股に小屋を出ました。

「どうせ犬猫なんかには劣っていますよ。わあ」豚はあとで口惜し さや悲しさが一時にこみあげてもうあらんかぎり泣きました。けれ ども半日ばかり泣きましたら二晩も眠らなかった疲れが一時に出て 参りましのでついぐっすりと泣きながら寝込んでしまひました。そ の睡りの中でも豚は何べんも何べんもおびえて手足をぶるっと動か しました。

 ところがその次の日のことです。あの畜産の教師が助手を連れて 又やって来たのです。そして例のたまらない目付きで豚をながめて から大へん機嫌の悪い顔をして助手に申しました。

「どうしたんだい。ひどく肉が落ちたよ。こんなこっちゃまるで話 にならない。あたりまへの商売屋で養ったってこれ位にはなるぢゃ ないか。一体どうしたんだらう。何か心当りがないかい。頬肉なん かひどく減ったよ。おまけにショウルダアだってこんなぢゃ品評会 へも出せないぢゃないか。どうしたんだらう。」

 助手は唇へ指をあててしばらく考へてゐましたがぼんやり答へま した。

「さあ、昨日校長がおいでになったきりで別段のことはございませ んでした。」

 畜産の教師は飛び上りました。

「校長が? そうかい。校長だ校長だ。きっと承諾書を取らうとし てぶまをやったんだ。まるっきりおぢけさせちゃったんだな。こい つは昨夜一晩寝ないんだな。まづいことになったなあ。そしてきっ と承諾書も取り損ったんだ。まづいことになったなあ。」畜産の教 師は実に口惜しさうに歯をキリキリ云はせて腕を組んでから又云ひ ました。

「仕方ない。窓をすっかり明けて呉れ。それから外へ出して少し運 動させるんだ。走らしたりたゝいたりしちゃいかんよ。日の照らな い処をあの廐舎の陰のあたりの、雪のない草はらをそろそろ連れて 歩いて呉れ。十五分位な。それから少し飼料をやらないで腹を空か せろ。そしてすっかり気分が直っていきがすうすう鳴るやうになっ たらキャベヂのいゝ処を少しやって呉れ。それから気分さへ直った やうなら今まで通りにすればいゝ。まるで一ヶ月の肥育を一晩で台 なしにしちまった。いゝかい。」

「承知いたしました。」助手はしづかに答へました。畜産の教師は 教員室の方へ帰って行きました。豚はそれからもうすっかり気落ち してたゞぼんやりと向ふの壁を眺めたっきり 動かうともしなけれ ば叫ばうともしませんでした。そこへ助手が細い鞭を持って入って 来ました。助手はそれから囲ひの出口をあけてごく叮寧に言ひまし た。

「少しご散歩はいかゞですか。今日は大へんよく晴れて風もござい ません。お供いたしませう、」と云ひながらピシリと一つ豚のせな かを叩きました。豚は仕方なくのそのそ畜舎を出ましたがその胸は いろいろ悲しい想ひに一杯で張り裂けるやうでした。助手はのんき に口笛を吹いて時々ピシッとやりながら〔一字不明〕てあとからつ いて参りました。時々は
「も少し左の方をお歩きになりましてはいかゞでございますか。」 なんて口ばかりうまいことを云ひながらピシッと鞭を呉れるのでし た。(あゝこの世はつらいつらい、本統に苦の世界だ。)豚は仕方 なく散歩しながら思ひました。

「さあいかゞです。そろそろお休みなさいませ。」助手は又一つピ シリとやりました。大学生諸君、こんな散歩が何で面白いでせう。 からだの為も何もあったもんぢゃありません。

 豚は仕方なく又畜舎に戻ってごろりと横になりました。すぐ助手 がキャベヂの青いいゝ所を持って参りました。豚は喰べたくなかっ たのですが助手が何とも云へず恐い眼をして上からぢっと豚の喰べ るのを待ってゐるものですから豚は仕方なく少しそれを噛ぢるふり をしましたら助手はやっと安心したと見えて一つ「ふん。」と笑っ て口笛を吹いて出て行きました。窓がすっかり明け放してありまし たので豚は実際寒くて耐りませんでした。

 こんな工合に豚は物思ひに沈みながら一週間ばかり立ちました。  畜産の教師が又やって来て一眼豚を見てすぐ云ひました。

「いけないいけない。君は僕の云った通りしなかったね。」

 助手が答へました。

「いゝえ、窓もすっかり明けましたしキャベヂのいゝ所も少しやり ました。運動は毎日ごく叮寧に十五分ぐらゐやらしてあります。」

「さうかね、そんなにしてやってもいけないかね、そいぢゃもうこ いつは瘠せる一方なんだ。神経性営養不良だ。横からどうも出来や しない。あんまり骨と皮だけにならないうちにきめちまはなくちゃ だめだ。おい。窓をしめろ。肥育器を使って毎日飼料を押し込んで 呉れ。麦のふすまを二升とね、阿麻仁油を二合、それから玉蜀黍の 粉を五合をね水でよくこねて団子にして一日に三度か四度に分けて 肥育器にかけて呉れ。肥育器はあったらう。」

「はい、ございます。」助手は答へました。 「それからこいつは縛って置き給へ。いや縛る前に早く承諾書をと らなくちゃ。校長もさっぱり拙いなぁ。」

 畜産の教師は急いで、教舎の方へ行きました。

 助手も出て行きました。

 間もなく校長が大へんあわてた風でやって参りました。豚はまる で身体の置き場がないやうに思ひました。

「おい、いよいよ急がなきゃならないことになったよ。先頃の死亡 承諾書ね、あいつへ今日はどうしても判を押して呉れないと困るよ。 別に大した事ぢゃないんだ。押して呉れ。」

「いやですいやです。」豚は泣きました。

「厭だ? おい、あんまり勝手を云ふんぢゃないよ、その身体は全 体みんな、学校のお陰で出来たんだよ。これからだって毎日麦のふ すま二升阿麻仁油二合玉蜀黍の粉五合づつもやらうといふんだ。い ゝ加減に判をつけ、つかないか。」

 なるほど斯う怒り出して見ると校長なんといふものは実に実に恐 ろしいものでした。もう豚はすっかりおびえて了って
「つきます。つきます。」とかすれた声で云ったのです。

「よろしい、では。」校長はやっと機嫌を直して手早くあの死亡承 諾書の黄いろな紙をポケットから出して豚の前にひろげました。

「どこへつけばいゝんですか。」豚は泣きながら尋ねました。

「こゝへ。お前の名前の下へ。」校長はぢっと眼鏡ごしに豚の眼を 見ながら云ひました。豚はわあわあ泣いて口を横に曲げながらあの 短い前肢を片っ方ちょんと挙げてそれからピタリと爪印をおしたの です。

「うん。よろしい。これでよろしい。」校長は紙を引っぱってよく その判を調べてから云ひました。すると戸口で持ってゐたと見えて あの畜産の教師がいきなり入って参りました。

「いかゞです。うまく参りましたか。」

「うん。うまくいったよ。ではあなたに渡して置きます。肥育は何 日ぐらゐやるね、」

「さあ模様を見まして、鶏や何かですときっと間違ひなく肥ります が斯う云ふ神経質の豚では或は強制肥育は甘く参らないかも知れま せんので。」

「さうか。なるほど。とにかくやって見給へ。」校長は帰って行き ました。代りに助手が変なねぢのついたズックの管とバケツ一杯何 かこねたものとをを持って入って来ました。

「あゝ肥育器があったかね。」畜産の教師は云ひながらそのバケツ の中のものを一寸つまんで調べて見たのです。それから又云ひまし た。

「ぢゃ豚を縛ってお呉れ。」助手は綱を持って囲ひの中に飛び込み ました。豚はあらんかぎり暴れたのでしたがたうたう囲ひの隅の鉄 の環に右側の足を二本縛りつけられてしまひました。

「よろしい、ぢゃ、この端を咽喉へ入れてやって呉れ。」教師は云 ひながらそのズックの管を助手に渡しました。

「口をお開きなさい。口を。」助手はしづかに云ひましたが豚は歯 を食ひしばってどうしても口をあかうとしませんでした。

「仕方ない。こいつを噛まして呉れ。」短い鋼の管を助手に渡しま した。

 助手はその鋼の管を豚の口にねぢ込みましだ。豚はあらんかぎり 怒鳴ったり泣いたりしましたが仕方なかったのです。それからその 管の中からズックの管を豚の喉咽まで入れました。

「それでよろしい。ではやって見やう。」教師はバケツの中のもの をズック管の端の漏斗に移してそれから螺旋を使ってだんだん食物 を豚の胃に送りました。豚はいくら呑むまいとしてもどうしても負 けてしまってその練ったものが胃の中に入って胃が重くなるのです。 これが強制肥育だったのです。豚の気持ちの悪くした事と云ったら ありません。まるで夢中で一日泣いてゐたのです。次の朝教師が又 来て見ました。

「うまい、肥った。充分効果がある。これから小使と二人で毎日三 度づつやって呉れ。」

 こんな工合で七日といふものはまるでまるで日が照ってゐるやら 風が吹いてゐるやら一向見当もつかずにたゞ胃袋の重い感じと毎日 毎日いやに頬や肩がふくれて来て息をするのもつらくなるだけに過 ぎました。

 生徒も代る代る来て見てはいろいろ物を云ってゐたやうでしたが 豚はぼんやりその黒い形とがやがや云ふ声を聞くばかり何が何だか わかりませんでした。

 すると七日目でした。又あの教師と助手とが並んで豚の前に立っ たのです。

「もういゝやうだ。この位肥ったら極度だらう。あんまり肥育し過 ぎて又病気になっても困る。丁度あしたがいいだろう。今日はもう 飼をやらないで呉れ。それから小使と二人でからだをすっかり洗っ て呉れ。敷藁も新らしくしてね。いゝかい。」

「承知いたしました。」

 豚はこの語をもう全身のエネルギーを集めて聴いて居りました。 (いよいよ明日だ、それがあの証書にあった死亡といふことなのだ らうかいよいよ明日だ、あゝどんな事だらう、つらいつらい。)豚 は頭をゴツゴツ板へぶっつけました。そのひるすぎに助手と小使が やって来ました。そしてあの鉄の環から豚の足を解いて助手が云ひ ました。

「いかゞです、今日は一つお風呂をお召しなさい。すっかりお仕度 ができて居ります。」

 豚がまだ承知とも何とも云はないうちに鞭がピシッとやって来ま した。豚は仕方なく歩き出しましたがこの七日の間にあんまり肥っ てしまったのでその大儀なこと、もう二足で息がはあはあしてしま ひました。

 すると又鞭でたゝかれましたので仕方なく歩きました。まるで潰 れさうにもなったのです。それでもたうたう畜舎の外に出ましたら そこに大きな四角な鉢がありました。中には湯が入ってゐました。 「この中にお浸りなさい。」助手が又一つパチッとやりました。豚 はやっとのことでころげ込むやうにその高い縁を越へて中に入りま した。

 すぐ小使が大きなブラッシをかけて豚のからだを洗ひました。そ のブラッシを豚はチラッと横眼で見て途方もない声で叫びました。 といふのはそのブラッシもやっぱり豚の毛でできてゐたのです。豚 が泣いたりわめいたりしているにも係らず間もなくからだがまっ白 に綺麗になりました。「さあ参りませう。」助手が又一つピシッと やりました。

 豚は仕方なく出ました。寒さがぞくぞくからだに浸みます。豚は たうたう大きなくしゃみを二つしました。

「風邪を引きますぜ、こいつは。」小使が云ひました。 「構はないさ。どうせ却っていゝだらう。」助手が苦笑して云ひま した。

 豚は又畜舎へ入りました。敷藁がきれいに代へてあります。寒さ は刺すやう、それに今朝はまだ何も食べないので胃もからになった らしくゴウゴウ鳴りました。

 豚はもう眼もあけない位頭が痛み出しました。いろいろな恐ろし い記憶が廻り燈籠のやうに明るくなったり暗くなったり頭の中を過 ぎました。いろいろな恐ろしい物音を聞きました。それは豚の外で 鳴ってゐるのか豚の中で鳴ってゐるのかもわからなくなったのです。 そのうちもういつか朝になってゐたやうでした。教舎の方で鐘が鳴 りました。間もなくガヤガヤ云ふ声がして生徒が沢山出て来ました。 助手もやって来ました。

「外でやらう。連れ出して呉れ。あんまりギーギー云はせないやう にね。まづくなるから。」

 畜産の教師も入口で云ってゐるやうでした。助手が入って来て、 「いかゞです。今日は天気も大変よろしいやうですが、少しご散歩 なすっては。」と云ひながら一つピチッとやりました。豚は全く異 議もなく昨日と同様はあはあ頬をふくらせて一足づつぐたっぐたっ と歩きました。豚のまはりを生徒の黒い足が夢のやうに動いてゐま した。

 それから俄かにカッと明るくなりました。外では雪に日が照って いるのです。豚はまぶしさに眼を細くしてぐたぐた歩いてゐました。 全体どこへ連れて行かれるのか、頭をあげて向ふの方を一寸見やう としましたらその時豚はピカッといふ強い白光が花火のやうに眼の 前にちらばるのを見ました。それからキーンといふ鋭い音ゴーゴー と水の流れる音を聞きました。それからあとは私はもう豚が何と思 ったか知りません。とにかくあの畜産の教師が大きな鉄槌を持って 息をはあはあ吐き少し顔色青ざめて立ち豚はその足もとにたしかに クンクンと二つだけ鼻を鳴らしたきりぢっとうごかなくなって倒れ てゐたのです。生徒らはもう大活動です。昨日豚の身体を洗った桶 にもう一度湯がくまれ生徒らはみな上着の袖をまくって待ってゐま した。助手が大きな小刀を持って豚の咽喉を刺しました。風紀上よ ろしくありませんからここらは詳しく書きません。

 とにかく豚はまもなく八つに分解されて便宜上雪の中に漬けられ たのであります。