目次へ  縦書き

葡萄水〔初期形〕

 清作は、をとなの癖に、今日は朝から口笛なんぞ吹いてゐます。

 畑の方の手があいて、二三日野原へ葡萄採りに出られるやうにな ったからです。

 そこで清作は、兵隊の上着をまっ黒戸棚の中から引っぱり出しま す。一等卒の上着です。

 いつでも野原へ出るときは、きっとこいつを着ることになってゐ ます。

 空の青い時、兵隊の服を着て、大手をふって野原を行くのは、誰 だっていゝ気持ちです。清作も全くその通り、大きげんでのっしの っしと、野原を歩いて参ります。

 草はもう大分硬くなって、穂を出したり、実をつけたり、或ひは いそがしさうに今年の終りの花が咲いたりしてゐます。

 空などは、あんまり青くて、光って、うるんで、却って気の毒な くらゐです。

 その気の毒な空か、すきとほる風か、それともうしろの畑のへり に立った小さなはだしの子どもか、誰かゞとにかく斯う歌ひました。

「馬こは、みんな、居なぐなた。 子っこもみんないでた。 いまでぁ野原もさぁみしんぢゃ、 草ぱどひでりあめばがり。」

 実は清作も、この歌を聞きました。聞きましたから、却って手を 大きく振って、
「ふん、一向さっぱりさみしぐなぃんぢゃ。」と云ったのです。

 野葡萄はよく熟しています。草の中でまっ黒に光ってゐます。

 そこで清作は、それをとりはじめました。もう一遍とりはじめた ら、仲々やめはしません。構はないで置いても、もう大丈夫です。 晩方また来て見ませう。みなさんもお忙がしいでせうから。

       ※  

 夕日は落ちて、山は群青のしづかな海鼠なまこのやうによこ になり、清作はせなか一杯荷物をしょって向ふの向ふの方から帰っ て来ます。みんな野葡萄の実にちがひありません。もう来ました。 お早う、清作。お早う。

「清作は 一等卒の服を着て 野原に行って 葡萄を一杯とって来た。」

「ふん。あだりまぃさ、あだりまぃのごとだぢゃ。」と清作が云ひ ます。さうですとも、清作にはあたり前のことです。一日一杯葡萄 ばかり見て、葡萄ばかりとって、葡萄ばかり袋へつめこみながら、 それで葡萄がめづらしいと云ふのなら、却って清作の方が悪いので す。

       ※  

 夜になりました。清作はご飯を沢山喰べて、嬉しがって、赤くな って、ふうふう云ひながら大きな木の鉢の中へ葡萄のつぶをパチャ パチャむしってゐます。清作のおかみさんは、ポツンポツンとむし ってゐます。清作の子供は、葡萄のぶらぶらと房を振り廻したり、 パチャンと投げたりするだけです。何べん叱られても又やります。

「おお、あゑ あゑい、 る。」 なんて云ってゐます。黒光りの房の中に、ほんの一粒か二粒、小さな 青い粒がまじってゐるのです。それが半分すきとほってしづかに光 って、緑色の宝石より奇麗です。これは失礼、青ぶだうさん、ごめ んなさい。まだこんなこと私は云ってゐるのです。みなさん、私が いけなかったのです。宝石は宝石です。青い葡萄は青い葡萄です。 「それにあなたは蛙よりせいが高いですね、」と云ったらどんなけ だものでも怒ってしまふでせう。全くどうも私が悪かったのです。 いや、清作さん。早く葡萄の粒を、みんな桶に入れて軽く蓋をして おやすみなさい。さよなら。

       ※  

 あれから丁度、今夜で三日です。

 清作のおかみさんが、葡萄のはいった桶を、板の間のまん中にひ っぱり出しました。子供は板の間をぴょんぴょん跳びます。清作は 今夜も赤く熱ってフウフウ云ひながら、立って見てゐます。おかみ さんが例の漆塗りの鉢の上に笊を置いて、桶の中から半分潰れた葡 萄の粒を両手に掬って、お握りを作るやうな工合にしぼりはじめま した。葡萄のまっ黒な果汁は見る見る鉢にたまります。清作も手伝 いながら云ひました。

「ぢゃ、今年ぁ、こいつさ砂糖入れるべな。」

「罰金取らへらんすぢゃ。」

「うんにゃ。っけらへれば、 罰金取らへる。見っけらへなぃばすっこすっこど葡ん萄酒呑める。」

「なじょしてかぐさぁんす?」

「うん。砂糖入れで、すぐに、瓶さ詰めでしむべ。そして落しの中 さ置ぐべ。瓶、去年なのな、あったたべぢゃ。」

「瓶、は、あるんとも砂糖ぁ無ぃもす。」

「黒砂糖ぁ、有けぁぢゃい。」

「黒砂糖でぁ、わがなぃがべぁんすぢゃい。」

「砂糖だらでも酒になべ。瓶の中で酒になる。税務署ぁ来 ても大丈夫だ。」

「黒砂糖で、酒こしゃだはなし、おら聞だごと無ぁあす。」

「いはんてが早ぐ砂糖持って来。瓶も洗ってよごせ。」

 清作の考へた通りです。生の葡萄汁へ、砂糖を入れて置けば、き っと葡萄酒になるのです。ことへ黒砂糖でも。

 砂糖が来ました。清作はそれを鉢の汁の中に投げ込んで掻きまは し、その汁を今度は布の袋にあけました。袋はぴんと張り切ってま っ赤なので、
「ほう、こいづはまるで牛の胆のよだな。」と清作が云ひました。

そのうちにおかみさんは、瓶を洗って来ました。それから二人はせ っせと汁を瓶につめて栓をしました。麦酒瓶四十本ばかりが出来あ がりました。

「特製御葡萄水」という、去年のはり紙のあるのもあります。さよ う、去年も四十本ばかり葡萄の汁を詰めて、六本ばかりは外の家の やうに売りましたが、残りは毎晩清作が、
「うう、渋い。うう、すっぱい。」なんて云ひながらみんなのんで しまひました。

 さて瓶がずらりならんで黒光りです。

 そこで二人は、それを床下の落しに運びました。

「清作は潰し葡萄を絞りあげ、 砂糖を加へ、 瓶にたくさんつめこんだ。」

と斯う云ふわけです。

       ※  

 五六日たちました。山はなかごろまで雪でまっ白です。野原の草 枯れ、二三日前でしたか、みぞれさへ一寸降りました。

 清作とおかみさんとは家の前で豆を叩いて居りました。

 丁度午后の三時頃、西の方に白い縮れた雲がひどく光って、どう も何かあぶない事が起りさうでした。そこで「ボッ」といふ爆発の やうな音が、どこからか聞えて来ました。清作は豆を叩く手をやめ ました。

「ぢゃ、今の音聞だが。」

「何だべぁんす。」

「きっとどの山が噴火ンしたな。秋田の鳥海山だべが。よっぽど遠 ぐの方だ。」

「ボッ。」音が又聞えます。

「はぁでな、又やった。きたいだな。」

「ボッ。」「おぉがしな。」「どごだべぁんす。」

「どごでもいがべぢゃ。此処まで来なぃがべ。」

 しばらくたって、又音がしました。

 それからしばらくしばらくたって、又聞えます。

 その西の空の、目の痛いほど光る雲か、すきとほる風か、或ひは 向ふの柏の木の中にはいった小さな黒い影法師か、とにかく誰かが 斯う歌ひました。

一昨日おどでな、みぃぞれ降ったれば、 すずらんのみい、みんな赤ぐなた、ホウ、それがら、 ゆぎ支度したぐのしろうさぎぁ、 きぃらりきいらど歯ぁむいだ。」

 ところが
「ボッ。」
 音はまだやみません。

 清作はしばらくその方角を聴いてゐましたが、俄かに飛びあがり ました。

「ぢゃっ。ぢゃっ。ぢゃ、ぢゃ、ぢゃあ、葡ン萄酒はじけでる。葡 ン萄酒はじけでる。」

 二人はそこで家の中へ飛び込んで、落しの蓋をとって見ました。  たしかに四十本の葡萄酒は、大低はじけて、落しの底に流れてゐ ました。

 清作は怒って、半分赤く染まった大根を引きずり出して、板の間 に投げつけました。

 そこで、

「清作の、落しの中の葡萄瓶、 十日もたゝず、 みんなはじけてなくなった。」

と斯う云ふわけです。今度は清作は、
「ふん、一向さっぱり当り前だぢゃ。」と云いはしません。うでを 組んで考へてゐます。