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研師と園丁

〔冒頭原稿数枚なし〕

「へい、もうこゝがいちばん結構です。水は私が持って参りませう。」

「さうですか。そこのすもものかきねをすこし右へついておいでな さい。」

「へい。それぢゃ、さうしてお研ぎいたします。」

「ねがひます。」園丁は又唐檜の中にはいり研師は道具の箱をおろ してひき出しをあけ、罐を持って水を取りに行った。

 それから風が吹き陽が又ふっと消え風が吹いた。そして研師は罐 の水をパチャパチャこぼしながら戻って来た。

 鋼の上で金剛石がぢゃりぢゃり云ひ、チュウリップがぷらぷら揺 れ陽が又降って来て赤い花が光った。それから石の砥石に水が張ら れてスッスと払はれ秋の香魚の腹にあるやうな青い紋がもう刃物の 鋼にあらはれた。

 そこでひばりが空にいつかのぼってチーチクチーチクやり出した。 高いところで風がどんどん吹きはじめ、雲はだんだん融けて行って いつかすっかり明るくなり太陽は少しの午睡の後のやうにどこか青 くぼんやりとしてはゐるがいつかかゞやく五月のひるすぎを作った。

 青い上着の園丁がまたせわしくやって来た。

「もうできましたか、いゝ天気になりましたね。もう一つお願ひし たいんですがね。」

「なにですか。」

「これですよ。」若い園丁は少し顔を赤くしながら上着のかくしか ら角柄の西洋剃刀を取り出した。研師はそれを受け取って刃を開い た。

「これはどこでお買ひになりました。」

「貰ったんですよ。」

「とぎますか。」

「えゝ。」

「それぢゃ研いで置きませう。」

「すぐ来ますからね、もうぢきに三時のやすみですから。」園丁は 笑って輝いて又唐檜の中にはいって行った。

 太陽はいまはすっかり午睡の後の光のもやを払ったので山脈は俄 かに青くひかり、さっきまで雲にまぎれてわからなかった雪の死火 山もはっきりと青白いそらに立ちあがった。

 研師は箱から合せ砥を出して水を張って黒い平らな石でしづかに 練りはじめた。それからぱちっと石をとると研師はいつものやうに その滑らかな黒い面をすぐ目の前まで持って行ってつくづくとそれ をながめた。

 まことにそれはあやしい深い景色であった。黒い山がむくむく重 なりその向ふにはさだめない雲が翔けてゐた。そして渓の水は風よ り軽く、幾本の木はけはしい崖からからだを曲げて空に向った。

 研師は石を置いて青空につめたく光る剃刀を手に取った。剃刀は 音なく砥石をすべり陽の光が強いので研師はポタポタ汗を落した。 今は全く五月のまひるである。

 畑の黒土はかすかに吐息し、風が吹いて花は強くゆらぎ唐檜もう ごいた。

 研師は剃刀をていねいに調べそれから道具箱の上に出来あがった 仕事をみんな載せてほっと息して立ちあがった。そして一足チュウ リップの方に近づいた。

 青い上着の園丁は顔をまっかに熱らして子供のやうに飛んで来た。

「もう出来ましたか。」

「えゝ。」「それでは代を持って来ました。そっち三十三銭ですね。 お取り下さい。それから私の分はいくらですか。」研師は帽子をと って銀貨と銅貨とを受けな〔数文字不明〕

「ありがたうございます。あなたの方は要りません。」「なぜです か。」「私は〔数文字不明〕いゝからです。」「まあ取って下さい。」 「いゝえ、〔数文字不明〕ぢゃありません。」「さうですか。〔数 文字不明〕ございました。そんなら一寸向ふにおいで下さい。」 「いゝえ、もう失礼します。」「それではあんまりです。一寸お待 ちなさい。そんならまあ私の作った花を見て行って下さい。」「え ゝ、ありがたう拝見しませう。」

「さうですか。ね、その黄と橙の大きな斑はアメリカから直かに取 りました。こちらの黄色はうっとうしいでせう。」「えゝ。」「こ の赤と白の斑は私はいつでも昔の海賊のチョッキの様な気がするの ですよ。ね。それからこれはまっ赤な羽二重のコップでせう。ずゐ ぶんこの球はみんなほしがりますよ。」

「えゝ、全く立派です。赤い花は風で動いてゐる時よりもじっとし てゐる時の方がいゝやうですね。」「さうです、そうです、そして 一寸、あいつをごらん下さい。ね。そらその黄色の隣りのあいつで す。」

「あの小さな白いのですか。」「さうです、あれはこの中では一番 大切なんですよ。まあしばらくじっと見詰めてごらんなさい。どう です、形のいゝことは一等でせう。」

 研師はじっとその花を見た。そして黙ってしまった。

「ね、靱やかな静かな緑の花の柄でせう。風にゆらいで静かに光っ てゐるやうでせう。けれども実は少しも動きません。それにあの白 い小さな花はその不思議な合図を空に送ってゐるやうにあなたには 思はれませんか。」

 研師はいきなり叫んだ。「あゝさうです。さうです。見えました。 けれども何だかひばりの羽の動かしやうが、いや、鳴きやうがさっ きと調子をちがへて来たではありませんか。」「さうでせうとも。 それですからごらんなさい。あの花の盃の中からぎらぎら光ってす きとほる蒸気が丁度氷砂糖を溶したときのやうにユラユラユラユラ 立ち昇ってゐるでせう。」

「えい、えい。さうです。」「そしてね光が湧いてゐるでせう。お ゝ湧きあがる湧きあがる、花の盃をあふれてひろがり湧きあがりひ ろがりひろがりもう青ぞらも光の波で一ぱいです。山の雪も光の中 でやさしくこっちへ笑ってゐます。湧きます湧きます。ふう、チュ ウリップの光の酒。どうです。チュウリップの光の酒。匂をどうか ほめて下さい。」

「えい、このエステルはとても合成できません。」「おや、エステ ルですって、これはありがたう。ありがたう。あゝ湧きあがる湧き あがる。明るい気圏を一杯つゝんであふれ漲ぎり波立ってゐる。」 「それはとにかくぜんたいこれでいゝのですか。あんまり光が過ぎ はしませんか。」

「いゝえ、心配ありません。酒があんなに湧きあがり波立ちみなぎ り花辨をあふれて流れてもあのしづかな緑の花の柄は一寸もゆらぎ はいたしません。さあどうです。おあがりなさい。光のお酒チュウ リップ酒、いゝ酒ですよ。さあ飲みませんか。おあがりなさい。貧 乏な私のお酒は又一層光っておまけに軽いのです。よう。あなたの 健康を祝します。」

「ようご健康を祝します。どうです。奇麗な空ぢゃありませんか。 どうか沢山やって下さい。」「あなたもどうです。」

「えゝやりますとも、おっと沢山、沢山。けれどもいくらこぼれた 所でそこら一面チュウリップ酒の波ですもの。ハッハッハ。」「ア ッハッハ。一面どころぢゃありません。そらのはてから地面の底ま ですっかり光の領分です。たしかにいまは光のお酒が地面の腹の底 までしみました。」

「えゝえゝ。おやごらんなさい、向ふの畑。ね、光の酒に漬っては 花椰菜でもアスパラガスでも実に立派なものではありませんか。」

「おや、ひばりはどこまで逃げたでせう。どこ迄逃げて行ったのか しら。自分で斯んな光の流れを起して置いてあとはどこかへ逃げる とはすこし気取ってゐるやうですね。」

「まったくさうです。こらひばりめ、降りて来い。ははあ、やつ、 溶けたな。こんなに雲もない空にかくれるなんて出来ません。溶け たのですよ。」「いゝえ、ひばりの歌のふるひはさっきから光の中 に溶けてゐましたがひばりはまさか溶けません。」「さうですね。 まあひばりなどどうでもいゝではありませんか。全体ひばりといふ ものは小さなもんで空をチーチクチーチク飛ぶだけのもんです。」

「まあさうですね。おやおや、これでもいゝんですか。向ふの唐檜 やすもゝのかきねがふらりふらりと踊ってますよ。」

「なあに心配ありません。どうせ光のチュウリップ酒のなかの景色 です。いくら踊ってもいゝぢゃありませんか。」

「それは全くさうですね。大目に見ないといけません。」

「アアッハッハ、大目に見て置きませう。ところがまあ、あの梨の 木をごらんなさい。枝が剪られてゐますので身体が一向釣り合ひま せん。まるで蛹の踊りぢゃありませんか。」

「蛹踊りとはあんまり可哀さうですよ。すっかりしょげて化石して しまったやうぢゃありませんか。」

 〔三字不明〕なるとは。そいつはあんまりひどすぎる。おおい。 梨の木。〔二字不明〕まんまでいゝんだよ。けれども仲々人の意見 をすなほに〔二字不明〕るやつぢゃないんです。」

「それより向ふのくだものの木の踊りの環を見ませんか。まん中 〔二字不明〕て調子をとるのがあれが桜桃の木ですか。」

「どれですか。あゝあれですか。いゝえ、あいつは油桃ずばいもゝ です。やっぱり巴丹杏やまるめろの歌は上手なもんですね。ど うです。行って仲間にはいりませうか。行きませう。」

「行きませう。おゝい。おいらも入れて呉れ。あ痛っ。」

「どうなさったのですか。」

「眼のふちをどやつかにひどく引っ掻かれましたよ。」

「さうですか。駄目ですよ。どやつも満足の手のあるやつはありま せん。みんながりがり骨ばかり。おやおや〔二字不明〕、大へん踊 りが崩れて泣いたりわめいたり、むしりあったりなぐったり一体あ んまり冗談が過ぎたのです。」

「えゝ、斯う世の中が乱れては全くどうも仕方ありません。」

「おや。火です。火です、火がつきました。チュウリップ酒に火が つきました。」「さうです。はたけも空もけむりです。しろけむり です。パチパチパチパチやってます。どうも素敵に強い酒だと思ひ ましたよ。」

「おや、さうさう。あの白いチュウリップですね。」

「さうです。これが一番こゝで大事な花なんです。」

「あゝ、もうよほど経ったでせう。もう私は行きませう。さような ら。」〔以下原稿なし〕