目次へ  縦書き

〔若い研師〕

 〔冒頭原稿数枚なし〕

馬喰のことばを思ひ出してつぶやきました。

「やっぱりあいつらの云った通りだ。鴇の火といふものかも知れな い。」研師はそこを去りました。次の丘には栗の木があちこちやど り木のまりをつけて立ってゐました。そのまりはとんぼのはねのや うな小さい黄色の葉から出来てゐました。その葉はみんな遠くの青 いそらに飛んで行きたさうでした。研師は堅く胸を押へながら次の 窪地に来ました。そこには一面かたくりの花が咲いてゐました。研 師の目にはそのうすむらさきのやさしい花がぼんやりしてよく見え ませんでした。却ってそのつやつやした緑色の葉の上に次々せはし くあらはれて又消えて行く紫色の文字を読みました。

「はるが来た。はるが来た、はるの日が来た。」字は一つづつ生き て息をついてゐるやうに消えたり又あらはれたりしました。

「そらでもつちでもくさの上でもいちめんもゝいろの火が燃えてゐ る。」

 若い研師は烈しく鳴る胸を弾けさせま 〔二字不明〕  〔以下原稿数枚なし〕

まり熱くて吐いても吐いても吐き切れないのでした。

 その時向ふの丘の上を一疋のとりがお日さまのひかりをさへぎっ て飛んで行きました。そ 〔以下原稿数枚なし〕

ら野原の向ふがほっと明るくなってやがて桜草が足もとに見えるや うになりいつかさっきの道具ばこの所まで来てゐました。

 日はもう見えず青いそらはそろそろ暮れかゝってゐました。

二、チュウリップ酒。

 若い研師はその次の日の夕方小さな野原を通りました。路の左側 に美しい農園がありました。研師は一あし門の中に入って見ました。 チュウリップが無造作に並べて植えられ力一ぱいに咲いてゐました。

 青い上着の園丁がこてをさげて汗を拭ひながら向ふからやって参 りましたが研師の立ってゐるのを見てにはかに笑って輝いてはせ寄 りました。

「やあしばらくですね。。どうしてこっちへおいでになりました。 私がこゝに居るのはご存じでしたか。」

「ほんたうにしばらくでした。何の気もなくお寄りしたのでした。」

 〔以下原稿数枚なし〕

目にかけたいのはこっちです。」

「おや、これですか。小さいではありませんか。そして白いではあ りませんか。小さな白い花ではありませんか。」

「誰でもはじめはさう云ひますよ。小さいながら形のいゝことはほ かに較べもありません。まあ、しばらくぢっと座って見詰めてごら んなさい。どうです。何といふ靱やかな静かな緑の花の柄でせう。 風にゆらいで微かに光ってゐる様ですが実は少しも動きません。そ れにあの鈴蘭にさへも見違ひさうな小さな花は不思議な合図を閃め く空に送ってゐるのです。」

「あゝさうです。さうです。見えました。けれども何だか空のひば りの羽の動かし様がさっきと調子をちがへて来たではありませんか。」

「さうでせうとも。それですからこの花の盃の中からぎらぎら光っ てすきとほる蒸気が丁度水へ砂糖を溶かしたときの様にユラユラユ ラユラ立ち昇ってゐるでせう。おゝ光が湧き立つ、湧き立つ、花の 盃をあふれひろがり湧きあがりひろがりひろがりもう夕方がまひる になり、遠い死火山の雪も、其の光の中に包まれます。湧きます。 湧きます。まひる、かゞやくチュウリップ酒の、匂をどうかほめて 下さい。このチュウリップの光のエステルは、とても合成できませ ん。」

「それはとにかく、全体、これでいゝのですか。あんまり、光が過 ぎはしませんか。」

「いゝえ、心配ありません。酒があんなに湧きあがり、波立ち、漲 り、花瓣をあふれて、流れても、あの緑の花柄は、一寸もゆらぎま せん。さあどうです。おあがりなさい。光のお酒。チューリップ酒。 いゝ酒ですよ。さあ飲みませんか。
 貧乏な、僕のお酒は、又一層に光って、おまけに軽いのだ。さあ やり給へ。」

「いや、ありがたう。やりませう。あなたの健康を祝します。」

「よう、健康を祝します。どうか、沢山、やって下さい。」

「あなたもどうです。」 〔以下原稿なし〕