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山男の四月 〔初期形〕


 金色のめだま、あかつらの山男は、森の中を半日かけまはって、 山鳥を二羽と兎を一羽とりました。そして、森から出て、日あたり のいゝ南向きのかれ芝の上に、獲物を投げ出して、ばさばさの髪の 毛を指でかきまはしながら、肩を円くしてごろりとねころびました。

 かれ草の中の、ところどころに、やさしい紫のかたくりの花が咲 いてゐました。そのうすくひかるみどりの葉には、秋の鮭の腹にあ るけむりのやうなまだらが、消えたりまたあらはれたりしてをりま した。

 山男は、仰向けになって、碧い碧い空をながめました。お日さま は、まことにあかるく、かれ草はかんばしく、すぐうしろの山脈で は、雪がぱっと後光を出しました。その碧いそらを、白くうるんだ 一きれの雲が、ふわふわ飛んで行きました。

 山男は、のどの遠くの方をごろごろ鳴らしながら考へました。
(ぜんたい、雲というものは、風の工合で、行ったり来たり、無く なってみたり又出てきたりするもんだ。そこで、雲助とかう云ふの だ。)

 それから山男は、何だかからだのつりあひがとれなく変になった やうに思ひながらむにゃむにゃ、立ちあがりました。もう山男こそ 雲助のやうに、東の方へ、どこといふあてもなく、歩いてゐるので した。

 山男は野原を渡って、次の七つ森の麓まで来ました。山男は其処 で大急ぎで形をすっかりなみの人に変へました。

 そして、のそのそ、町へはいって行きました。

 町の入口の魚屋には、まっ赤なゆで章魚が、五つまでぶらさがっ てゐました。山男は、全体、章魚が大好きでしたから、しばらくそ の脚のまがり工合や何か感服したやうに、見とれて居りました。

 すると丁度そこを、荷物をしょった、きたない浅黄服の支那人が 通りかかって、いきなり山男の肩をたゝいて云ひました。

「あなた、支那反ものよろしいか。」

 山男はびっくりして、ふりむいて、

「よろしい。」とどなりましたが、あまり自分の声が高かったため に、鈎をもった魚屋の主人やけらを着た村の人やみんながこっちを 見てゐるのに気がついて、すっかり気がをびへてしまひました。そ して、急いで小声で云ひ直しました。

「いや、さうだない。買ふ、買ふ。」

 すると支那人は変に笑って、

「買はない、かまはない、ちょっと見るよろし。」と云ひながら、 せ中の荷物を道のまん中におろしました。山男はどうもその支那人 のぐちゃぐちゃした赤い眼が、とかげのやうでへんに怖くていけま せんでした。

 そのうちに支那人は、手ばやく、荷物へかけたさなだ帯を解いて、 風呂敷を開き、行李の蓋をとって、反物の中から、小さな黄色の薬 瓶のやうなものをつかみ出しました。

 それから、まるで小指位のガラスのコップを二つ出して、ひとつ を山男に渡しました。

「あなた、この薬のむよろしい。毒ない。毒ない。わたしさきのむ。 心配ない。わたしビールのむ、お茶のむ、毒のまない。これ、なが いきのくすりある。のむよろしい。」支那人は、もう、カブッと呑 んでしまひました。

 山男はふと気がついて見ると、自分はもう町の中でなく、空のや うに碧い野原のまんなかに、眼のふちの赤い支那人とたった二人、 立ってゐるのでした。二人のかげが、黒く草の上に落ちました。

「さあ、のむよろしい。ながいきのくすりある。毒ない。のむよろ しい。」

 山男はあんまりうるさくなったので、プイッとその薬をのみまし た。すると、全くどうも不思議なことは、山男はだんだんからだの でこぼこがなくなって、ちゞまって、たひらになって、小さくなっ て、まあかあいさうに、たうたう、たゞ一反の支那反ものになって、 草の上によこたはりました。

 支那人は、ひょいひょいと両脚をあげてとび、両手でかはるがは る足のうらをたゝきました。その音はポンポンとつゞみのやうに野 原の遠くの方までひゞきました。

 それから支那人は大急ぎで、山男の支那反物を荷物の中に投げ込 んで、上からパタッと行李の蓋をしました。お日さまが、行李の目 から、美しくすきとほって見えます。すると、今度は、急にもっと うすくらくなりました。

「ははあ、風呂敷をかけたな。」と山男の支那反物はつぶやきまし た。すると驚いたことには〔以下原稿一枚なし〕


れ、あまり同情ない。」

 山男も、なんだかかあいさうになって、かう云ひました。

「支那人さん、もういゝよ。そんなに泣かなくてもいゝよ。おれは、 町にはいったら、あまり声を出さないやうにしやう。安心しな。」

 外では支那人は、やっと安心したと見えて、又ポンポンと足を叩 いてゐるのが聞こえます。

 それから支那人は、荷物をしょったらしく、反物は互にがたがた ぶっつかりました。

 山男はしづかに斯う云ひました。

「おい、誰だい。さっき、おれに、物を云ひかけたのは。」

 すると、すぐ下で、返事がありました。

「わしだよ。そこで、さっきのはなしのつゞきだがね、お前は魚屋 の前から来たとすると、今すゞきが一匹いくらするか、またほした ふかのひれが、十テールに何片くるか知ってるだらうね。」

「さあ、そんなものは、あの魚屋には居なかったようだぜ。もっと も、章魚はあったがなあ。あの章魚の足つきはよかったなあ。」

「へい。そんなにいゝ足つきの章魚だったのかい。わしも章魚は大 すきでな。」

「うん、誰だって章魚の嫌ひな人はない。あれを嫌ひな位なやつは どうせろくなもんぢゃないさ。」

 その時、もっと下の方から、歯の浮くやうな細い高い声がしまし た。

「へいへい、全くさうでございます。章魚位立派なものは、世界中 にございません。」

 山男はそれでも機嫌よく返事しました。

「さうだ。一体お前はどこから来た。そして誰だ。」

「へいへい、私は長崎で薬をのみました斉藤甲吉と申すもんでござ います。」

「ふん、さまざまなもんだ。そしてとなりのお方。お前さんはどこ の人ですね。」

「わしは清国フーヘ村のクェンと云ふものですがね。家はさいさう を業とし、西周武王の子孫です。」

「さうか。それは偉い人だね。よっぽど偉い人だ。それはいゝ反物 だ。なるほど、みんなもっともないはれがある。さすがだな。とこ ろで、どうも、ずいぶん暑いね。」

「へい、陳めが蓋をとっけ呉れるとよろしうございますがなあ。」

「陳といふのは誰だ。」「私共を反物にしてしょってゐるやつでご ざいます。」

「ふん、ふん、さうか。あいつは陳と云ふのかい。おい、陳さん。 どうもむし暑くていかんね。すこし風を入れて貰ひたいな。」

「も少し待つよろしい。」陳が外で云ひました。

「暑いな。早く風を入れないと、おれたちはみんなむれてしまふよ。 損害になるよ。」

 陳が外でおろおろ声で云ひました。

「それ大へんこまる、がまんして呉れることよろしい。」

「がまんも何もないよ、おれたちがすきでむれるんぢゃないんだ。 ひとりでに、むれてしまふんだ。早く蓋をあけろ。」

「も二十分、待ちよろしい。」陳が、外で云ひました。

「えい、仕方ない。そんなら、も少し、急いであるきな。」

 その時行李のずうっと底の方でおいおい泣く声がしました。

「誰だい。泣いてるやつは。」すると、しぶしぶ、斯う答へるので した。

「私でございます。」

「お前は誰だい。」

「私は都のかたほとり、がまの陵下のうまれでせいと申しま す。」

「さうか。いくつの時、支那反物になったのだ。」

「六年前の春、十一の時でございます。」

「さうか。お前のうちは何の商売だ。」

「糸屋でございます。」

「ははあ、糸屋のむすめか。かあいさうだ。しかしかあいさうなこ とは、おいらもみんなもおんなじだ。何とかもう一ぺん、もとの形 にかへりたいもんだな。」

「それでございます。あなたはまだ、骨まですっかり反物になって ゐませんから、丸薬さへのめば、又、もとへ戻ります。あなたのす ぐ横に、その黒い丸薬がございます。その薬おあがりなさい。」

「さうか。それはいゝことを聞いた。それではさっそく呑んで見や う。しかし、お前さんたちは、もう、のんでもだめなのかね。」

「もうだめでございます。どうか、あなたがもとのやうにおなりに なったなら、私共を水に漬けて、よく揉んでやって下さいませ。さ うしてから、丸薬をのめば、きっとみんな、もとへ戻ります。」

「そうか。丸薬というのはこれだね。そしてこっちの瓶は人間が、 たものになる方だね。陳も、さっき、おれと一諸に、この水薬をの んだがね、どうしてたものにならなかったらう。」

「それは、一諸に丸薬をのんだからでございます。」

「ふう、ふう、そうかね。もしこの丸薬だけのんだら、どうなるだ らう。変らない人間がまたもとの人間に変ると、どうも変だな。」

 その時おもてで陳が、

「支那たものはよろしいか。あなた、支那たもの買ふよろしい。」 と云ひました。

「ははあ、はじめたね。これは面白い。」

 間もなく、蓋があいたので、山男はまぶしくてたまりませんでし た。

 それでも無理やりそっちを見ると、一人の子供が、ポカンと陳の 前に立ってゐました。

 陳はもう丸薬を一つぶつまんで、口のそばへ持って行きながら、 水薬とコップを出して、

「さあ、呑むよろしい。これながいきの薬ある。さあ呑むよろしい。」
とやっています。

「はじめたね。いよいよ、はじめたね。」と下の支那たものが云っ てゐます。

「わたしビール呑む、お茶のむ、毒のまない。さあ、呑むよろしい。 わたし、のむ。」

 その時、山男は、丸薬を一つぶそっとのみました。すると、メリ メリ、メリッ。

 山男は、すっかり、もとのやうに立派なからだになりました。

 支那人は、丁度、丸薬を水薬と一諸にのむところでしたが、あま りびっくりして、水薬はこぼして、丸薬だけのみました。

 さあ、大変。みるみる支那人の頭がめらあっとのびて、今までの 倍になり、せいがめきめきっと高くなりました。そして「わあ。」 と云ひながら山男につかみかゝりました。山男はまん丸になって、 一生けん命逃げました。いくら逃げやうとしても、足が、「からは しり」といふことをやって、少しも進みませんでした。追って来る 支那人もそんなに早いわけではありませんでしたが、たうたう、せ なかをつかまれさうになりました。

「助けて呉れ、うわぁ。」と山男が叫びました。

 そして目をひらきました。〔以下原稿一枚なし?〕