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ひのきとひなげし(初期形)
ひなげしはみんなまっかに燃えあがり、ゆらいで乱れてひらめいて、まるであらしの海の中の沢山の赤い帆船のやうです。
その向ふに一本の黒いひのきが立ちました。
夕日はひのきの梢で、みがきたてのあかがねの楯のように光ってゐます。それもあかがねのいきもののやうです。そしてもうサッサッとさわやかな呼吸を五六ぺんして、すうと西の山に落ちて行きました。
南のうす蒼い空から、風がザアッと吹いて来て、ひのきに何かさゝやきました。
ひのきはたゞ一言、「はらぎゃあてい。」と答へました。
それから風がひなげしへ来て、何かさゝやいたとき、ひなげしの群はまるで狂乱の火のやうに、はげしくゆらぎました。
そしてみんな熱病のうはごとのやうに、風に何か云ひました。風は相手にもしないで、向ふへ行ってしまひました。
ひなげしは仕方なく少ししづまり、東には大きな立派な雲の峰が四つ立ちました。
小さいひなげしの花が、さびしく燃えながらひとりごとを云ひました。
「わたしなんか、まるでつまらないわね、美しくさへなれたら、もうあしたの晩死んだっていいんだけれど。」
となりの花が云ひました。
「わたしだってさうよ。だって美しいことのほかに、わたしらの命なんてないんでせう。」
「あら、あなたの位立派だったら沢山だわ。あなた、本当にお立派よ。まるでお日さまのやうよ、あなたの位になれたら、あたし悪魔のうちへだって下女奉公にでも何でも行くわ。」
「うそよ。わたしなんか本当につまらないのよ。そりゃあなたよりいくらか美しいわね。わたしもさう思ってよ。けれどテクラさんなんかには、まるで及びもつかないわ。ほんたうにわたし悲しくなってしまうわ。」
テクラと呼ばれたひなげしは、この一むらの中では、いちばんかゞやいて一番大きく、そしていちばんかしこかったのです。テクラにくらべては、ひなげしのどの花もまるで暗いやうに見えました。あゝ、けれどもそのすぐれた花とても、たゞその花だけの美しさ、その花だけのかしこさは、一体どれほどのものだったでせう。
悪魔が小さな蛙にばけて、まるで新月のやうにけだかいばらの娘に仕立てた自分の弟子の手を引いて、大変あわてた風をしてやって参りました。
「や、道をまちがへたかな。これはいかん。失敗。失敗。はてな、一寸聞いて見やう。もしもし、ひなげしさん、変容術のうちはどっちでしたかね。」
ひなげしはあんまり立派なばらの娘を見、又変容術と聞いたので、みんなドキッとしましたが、誰もはづかしがって返事をしませんでした。悪魔の蛙が娘のばらに云ひました。
「ははあ、この辺のひなげしはみんなつんぼだな。それで変容術のことも知らないのだな。どうせそんなもんだらう。どれもこれも、まづいつらだ。」ばらの娘にばけた悪魔の弟子はいかにもすなほにうなづきました。
ひなげしのテクラが、こらえかねて云ひました。「もしもし、何かお尋ねでいらっしゃいますか。」
「あ、これは。失礼。えゝ、一寸おたづねいたしますが変容術のうちはどう参ったらよろしうございませうか。」
「さあ、あひにく存じませんでございますが一体そんなうちがこの近所にございますかしら。」
「ありますとも。私のむすめなんか、前はまるで三角なへんな子供でしたがね。たゞ今はまああなた方ともご交際も願へるやうになりました。もう三べん通へば、もう卒業なさうですがそしたらさあどれ位のものになりますかしらん。いや失礼。ごめんなさい。」
「あ、一寸。一寸お待ち下さいませ。その変容術の先生はご出張なさいますかしら。」
「しますとも。何かご用ですか。」
「それでは誠に申し兼ねますが、お序での節、私共の所へもお立ち寄りをねがへませうか。」
「さう。私はあの先生の書生ではありませんから、どうもそこらはよくわかりません。が、なによろしうございます。さう申しあげませう。いや、さよなら。」
悪魔はばらの娘の手をひいて、向ふのどてのかげに行って云ひました。
「お前もう帰れ。おれは今度は医者だ。」といひながらすっかり小さな白い鬚の医者にばけました。
東の雲のみねはだんだん高く、だんだん白くなって、いまは空の頂上まで届くほどです。
悪魔は急いでひなげしの所へやって参りました。
「えゝと、この辺ぢゃと云はれたが、どうも門へ標札も出してないといふうやうなあんばいだ。一寸たづねますが、ひなげしさんたちのおすまひはどの辺ですかな。」
賢いテクラがドキドキしながら云ひました。
「あの、ひなげしは手前どもでございます。どなたでいらっしゃいますか。」
「ははあ、なるほど。これは大変変容の必要がある。いや。わしはさっきお言伝にあづかった医者ですがね。」
「まあ、それは失礼いたしました。どうぞこちらへ。そして私共は立派になれませうか。」
「それはなります。薬は一服で新月の位、二服で十五日の月のくらゐ、三服で夕日のくらゐ、四服で卒業ですが、まひるの太陽のくらゐといふわけでな。しかし仲々薬は高いから。」
ひなげしはみんな顔色を変へてためいきをつきました。テクラがたづねました。
「一体どれ位でございませう。」
「左様。お一人が二百万両です。」
ひなげしはしいんとしてしまひました。お医者の悪魔もあごのひげをひねったまゝ空をみあげてゐます。雲のみねは淡い黄金色にかゞやき、しづかにしづかに、北の方へ流れます。
その時一番小さいひなげしが、思ひ切ったやうに云ひました。
「お医者さん。わたくしはたった二日ほどお日さまのやうに美しくなれば沢山でございます。そのあとは何百万年でもお邸でご奉公いたしますから、どうかお薬をいたゞけませんでせうか。」
「ふん。あんまり引き合はないがこれも慈善のためぢゃ。よからう。いかにも承知した。証文を書きなさい。」するとみんながほとんど一ぺんに云ひました。
「私もどうかさうお願ひいたします。どうか私もさうお願い致します。」
お医者はまるで困ったやうに額に皺をよせて考へてゐましたが、
「えい,仕方ない。みんなよからう。承知した。証文を書きなさい。これも慈善のためぢゃ。」
その時風がザァッとやって参りました。
ひのきは高く
「はらぎゃあてい。」と叫びました。
すると医者はたいへんあわてゝ、急に立ちあがって、途方なく大きく黒くなって、途方もない方へ飛んで行ってしまひました。
ひなげしはみんなわっとなき出しました。するとひのきがしづかに云ひました。
「みなさんはあぶないところでした。みなさんはもうすこしで、永久につちぐりのやうな花にされる所でした。みなさんはそれでもいゝと思ってゐます。けれども現にみなさんは、むかしある時は太陽のやうにかゞやいた時もあったのです。どなたかそれをおぼえてゐますか。そして今幸福ですか。こゝろをしづめてほんのしばらく私のことばをお聞きなさい。
私は沢山の美しかった人たちを知ってゐます。あの去年『暁』と名づけられ、もろもろの花の中の王とたゝへられ、欧字の新聞や雑誌にまでその肖像をかゝげられた黄薔薇のことをみなさんはお聞きでせう。私はあの花がどうしてあんなに立派になったかをこゝでちゃんと見てゐました。あの花の魂が、まだ、ばらにならなかった前は、それはそれはあはれな小さなげんのしゃうこだったのです。けれどもその小さな白い花は、決してほかの花をそねんだことがありませんでした。十五日ほどのみぢかな一生を、ほかの大きな葉や花のかげでしづかにつゝましく送ったのです。そのしづけさつゝましさ、安らかさけだかさこそはあの美しい黄ばらに咲いたのです。どんなあらしもあの花を傷けることはできなかったでせう。たとへ主人があんなに大切にしなくても、あの花には火の中でしほれないほどの徳があったのです。又私は名高い印度のカニシカ王が四つの海の水を金の浄瓶から頭濯がれる日、王によって手づから善逝に奉られた二茎の青蓮華のことを聞いてゐます。このけだかい二人は、前は海の向ふの青い野原のまん中に沢山の沢山の仲間と一所に咲いた二つのつめくさの花でした。ある夜、そらが黒く、地面も黒く、剽悍な旅人が道を失ひ、野牛が淋しさに荒れ狂ふとき、小さな二人はあらん限りの力を出して、微かな青白い花の灯をともしたのでした。あゝそれこそは、瓔珞をかざり霜のうすものをつけたあの国の貴人たちに、うらやまれ尊ばれた二茎の青蓮華になったのでした。
これらの花はみな幸福でした。そんなに尊ばれても、その美しさをほこることをしませんでした。今は恐らくみなかゞやく天上の花でせう。
けれども私は又美しい花のあわれな物語も知ってゐます。
ある花は美しいといふことが、何か自分にくっついて、いつまでも離れないもののやうに考へました。ある花は美しいといふことがすなはち自分なのだと思ったりしました。
これらの花は、もうその時から、美しさの小さな泉をからしてゐたのです。
おろかなものは、それを美しいとたゝへましたが、賢人たちはその美しさのすぐ裏側
に、縦横に刻まれた悪い皺や、あやしいねたみのしろびかりを見るにたえずまなこをそむけてゐたのです。
あゝ、すべてうつくしといふことは善逝に至り善逝からだけ来ます。善逝に叶ひ善逝に至るについてへ美しさは起こるのです。」
ひなげては、みな、しいんとして居りました。
ひのきは、まただまって、たそがれのそらを仰ぎました。
西のそらは今はかゞやきを納め、東の雲の峯はだんだん崩れて、そこから波羅蜜と云ふ銀の一つ星がまたゝき出しました。