ずっと前に、私はある旅人の話を読みました。書いた人も本の名前も忘れましたが、とにかく、その旅人は永い永い間、旅を続けてゐました。今頃もきっとどこかを、どこかで買った、洋傘を引きずって歩いてゐるのでせう。今思ひ出したくらゐ、その、はなしを書きます、事によったら、いつのまにか他の本のはなしも雑ってゐるのでせう。
ある時、その旅人は一人の道づれと歩いて、ゐました、よく晴れた日で、二人の瞳の中には空や、山や、木や道やが奇麗に、さかさまに、写ってゐました。道づれの旅人が黙ってゐるので、この旅人も黙って歩いてゐました、ふと鴨が一疋、飛んで過ぎました、道づれの旅人は
「あれは何でございませうか。」ときゝました、
「鴨です」となんの気もなく旅人も答へました、
「どこへ行ったでせう。」
「飛んで行ったじゃ、ございませんか。」
道連れの旅人は手をのぱして、この旅人の鼻をギッとひねりました、旅人はびっくりするひまもなく、「ア痛ッ」とか何とか叫びました、
そしたら道連の旅人が申しました、
「飛んで行ったもんかい」旅人は、はっと気がつきました。それでも、も少し旅をしなければ、ならないと思ひました。多分そうでせう。
旅人は、それよりも前に、ある支郡の南部の町に参りました、非常に暑い日で、ございました、自分の影法師を見ながら歩いてふと空を見上げますと青空に大きな白い自分の影法師が立ってゐましたみなさんもそんな事に会ったでせう。町の真中の広い道はたゞ、この旅人一人が歩いてゐました、その時、向ふからガランガランと大きな音がします、見ますとそれは汚ない乞食坊主でした、大きな鈴を振って歩いてゐるのです、口の無暗に大きな男で眼玉はギラギラと光ってゐました、その晩旅人は宿屋で、あした町はづれの小山で面白い事があると云ふ事を、きゝました、翌日旅人はそこに行って沢山の見物人と一所に立ってゐました、そこへ昨日の乞食が例の大きな鈴を鳴らして向から来ました、みんなはがやがや云ひました、乞食は木で作った箱の様なものを持ち出して、その中へ入りました、蓋も誰かゞしたでせう、暫らくの間、みんなで、しんとして見てゐました、何もありませんでした。みんな少しがやがや云ひました、その時空中にガランガランガランと昨日の鈴の音が烈しくしてやみました。みんな初めは青くなってゐましたが、とうとうその箱の蓋を開いて見ましたが、もはや何も居ませんでした、
旅人はある時、「戦争と平和」と云ふ国へ遊びに参りました、そこで彼はナタアシアやプリンスアンドレイやに合ひました、悲しみやら喜びやらの永い芝居を見てしまって最早この国を出やうとするとき六かしい顔をしてその国の王様が逐ひかけて参りました、
「オイオイ、君は私の本当の名前を知ってゐるか。」と申しながら一層こみ入った様な顔してその王様はくるりと後を向いて行きました、
旅人は行く先々で友達を得ました、又それに、はなれました、それはそれは随分遠くへ離れてしまった人もありました、旅人は旅の忙しさに大抵は忘れてしまひましたが時々は朝の顔を洗ふときや、ぬかるみから足を引き上げる時などに、この人たちを思ひ出して泪ぐみました、
どうしたとてその友だちの居る所へ二度と行かれませうか、二つの抛物線とか云ふ様なものでせう、
旅人はあるときは、すっかりやつれて東京で買った白い帽子も服も土に染められ髪は延びはて一靴のかゝとは無くなったときもありました、それでも又イタリヤのサンタリスク先生の所へ御客になって暫らく留まり、こゝを出る時は新しい旅人の形になるのでした。
旅人は決して一年一ぱい歩いてゐるのでもありませんでした、王様のない国へ行っては王様に二年半ばかりなったり、ひどい王様の国へ行っては、王様の詩を朗読しなさるときに菓子を喰べてゐたと云ふ罪で一火あぶりになる筈の子供の代りになって死んだり致しました、さてさて永い旅でございました、この多感な旅人は旅の間に沢山の恋を致しました、女をも男をも、あるときは木を恋したり、何としたわけ合やら指導標の処へ行って恭しく帽子を取ったり、けれども、とうとう旅の終りが近づきました。旅の終とは申すものの、それはこの様なやはり旅の一部分でございました、
あるとき一つの御城に参りました、その御城の立派なことは何にたとへませうか 道ばたに咲いてゐるクローバアの小さな一つの蝶形花冠よりもまた美しいのでした。年老った王様が、こゝに居りました、その国の広い事、人民の富んでゐる事、この国には生存競争などゝ申す様なつまらない競争もなく労働者対資本家などゝいふ様な頭の病める間題もなく総てが楽しみ総てが悦び総てが真であり善である国でありました、決して喜びながら心の底で悲む様な変な人も居ませんでした、この御城を一寸のぞいて見ましたら王様がつかつかと出て来ました。旅人はびっくりして逃げやうとしました、その時王様にだきつかれて居ました、旅人は此の王様の王子だったので、ございます、王様は此の王子の為にこの国を作りました、それに其子は東京で買った白い帽子をよごし洋傘の骨を何返も修繕して貰ひながら永い間、歩いて居ったのでございました、王子は永い旅に又のぼりました、なぜなれば、かの無窮遠のかなたに離れたる彼の友達は誠は彼の兄弟であったからでありました、それですから今も歩いてゐるでせう。
盛岡高等農林学校に来ましたならば、まづ標本と農場実習を観せてから植物園で苺でも御馳走しやうではありませんか。
新しい靴を買って来て、この旅人のはなしを又書きたいと思ひます。