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グスコンブドリの伝記

一、森、

 グスコンブドリは、イーハトーヴといふ北の方の県の大きな森の中に生れました。お父さんは、グスコンナドリといふイーハトーヴの名高い木樵りで、百尺もあるやうな巨きな樹でもまるで赤ん坊でもねかしつけるやうにそうっと伐ってしまふ人でした。

 ブドリにはネリといふ妹がありました。

 二人は毎日森で遊びました。青いひかげのかつらで冠をこしらえ木いちごの実をとったり、時にはごしっごしっとお父さんの木を鋸いてゐる音も聞えないやうな遠くまで行って二人でかはるがはる山鳩のなきまねをしたりしました。するとあっちでもこっちでも蓮華の花でも咲くやうに鳥が返事をするのでした。また春に二人がお母さんの麦を播いてゐる畑のへりにむしろをしいて座ってブリキ罐で蘭の花を煮るまねをしたりしてゐますといろいろな鳥が頭の上を挨拶するやうに鳴いて通りすぎるのでした。

 二人はだんだん大きくなりました。するとプドリのお母さんは町から美しい絵本を買って来てその絵についた文字を読むことを教へました。まもなくプドリは字をかけるやうになりましたので家の扉も家の前の土間にも字をかきました。しまひには森でホップの蔓が両方からのびて門になってゐるやうな所の木の皮を剥って消炭で「かくこうどり、こゝを通るべからず。」とさへ書けるやうになりました。

 そしてブドリが十二になりネリが九つになったのでした。ところがどうしたわけですかその年はお日さまが春から変に白くぼんやりして、いつもなら雪がとけるとすぐまっしろな鳩のやうな花をいっぱいにつけるマグノリアといふ樹も蕾がちょっと膨れただけ、五月になってもたびたび霰が降り、柿や栗の木も新らしい芽を出してもしぱらく黄いろでのびませんでした。野原の方ではいろいろな噂がありました。ある人はこれは地震のしらせだといひある人は今年はもう穀物は一つぶもとれないだらうといひました。ブドリの家の近処でもずうっと北の方へたのまれて樹を伐りに行ってゐた人が帰って来て、今年は北の海はまだ氷がいつもの五倍もあって、それがいまはじの方からとけてイーハトーヴの東の方へどんどん流れ出してゐるといふことを話しました。

 そしてそのまゝ夏になりますといよいよ大へんなことになりました。それは夏になっても一向暑さが来ないために去年播いた麦もまるで短くて粒の入らない白い穂しかできず、大抵の果物も花が咲いたゞけで小さな青い実が粒のまゝ落ちてしまひました。秋になっても栗の木は青いからのいがばかりでしたしみんなでふだんたべるいちばん大切なオリザといふ穀物が一つぶもできませんでしたので野原ではずゐぶんひどいさわぎになってしまひました。ブドリのお父さんもお母さんも度々薪を野原の方へ持って行ったり冬になってからは何べんも巨きな樹を町へそりで運んだのでしたがいつもがっかりしたやうにしてわづかの麦の粉などもって帰ってくるのでした。それでもどうにかその冬は過ぎて次の春になり畑には新らしい種子も播かれましたがその年もまたすっかり前の年の通りでした。そして秋になるともうほんたうの飢饉になってしまひました。

 ブドリのお父さんもお母さんももうそのころは仕事もやめてゐました。そしてたびたび心配さうに相談してはかはるがはる町へ出て行ってやっとすこしばかりの大豆や黍の粒など持って帰ることもあれば、なんにも持たずに顔いろを悪くして帰ってくることもありました。そしてみんなはこならの実や葛やわらびの根や木の柔らかな皮やいろんなものをたべてその冬をすごしました。けれどもその待ちに待った春が来たころはもうお父さんもお母さんもまるでひどい病気のやうなやうすでした。ある日お父さんはじっと頭をかゝへていつまでもいつまでも考へてゐましたが俄に起きあがって
「おれは森へ行って何かさがして来るぞ。」と云ひながら、よろよろ家を出て行きましたが、まっくらになっても帰ってきませんでした。つめたい風が森でごうごう吹き出したとき二人はお母さんにお父さんはどうしたらうときいてもお母さんはだまって二人の顔を見てゐるぱかりでした。夜があけてブドリがお父さんをたづねに行かうと云ってもお母さんはやっぱり黙って座ってしげしげと二人の顔を見てゐるぱかりでした。

 晩方になって森がもう黒く見えるころお母さんはにはかに立って炉に榾をたくさんくべて家ぢゅうすっかり明るくしました。それからわたしはこれからお父さんをさがしに行ってくるからお前たちはうちに居てあの戸棚にある粉を二人ですこしづつたべなさいと云ってやっぱりよろよろ家を出て行きました。二人は何だか大へんかなしくなって泣いてあとから追って行きますとお母さんはふり向いて「何たらいふことをきかない児だ。」と叱るやうに云ひました。そしてまるでつまづくやうに足早に森の中にはいってしまひました。

 二人は何べんも行ったり来たりしてそこらを泣いてゐました。たうたうこらえきれなくなってまっくらな森の中へ入ってあちこちうろうろ歩きながらお母さんの名を一晩呼びました。

 暁方ちかくあんまり寒くなってそれにつかれて二人はいつかぼんやり家に入ってゐました。そして倒れるやうにねむってしまひました。その午ころブドリは眼をさましました。そしてお母さんの云った戸棚の粉のことを思ひだして開けて見ますと戸棚のなかには袋に入れた麦粉やこならの実や松の白い皮やまだたくさん入ってゐました。ブドリはネリをゆりおこして二人でその粉をなめました。

 このやうにして二十日ぱかりぼんやり過ぎましたらある日戸口から
「今日は誰か居るかね。私はこの地方の飢饉を救けに来たものだ。さあ何でも喰べなさい。」と云ひながら一人の目の鋭いせいの高い男が入って来て大きな籠の中から円い餅をぼんと投げ出しました。

 二人はしばらく呆れたやうにしてそれを見てゐましたら

「さあたべるんだたべるんだ。」とその男が云ひました。二人はそこでなんだかこわいやうでしたしうそのやうでしたが手にとってたべはじめました。

 すると男はじっとその模様を見てゐましたが
「お前たちは二人きりかい。」と云ひました。

 ブドリがたべながらうなづきますとその男がまた云ひました。

「お前たちはいゝ子供だ。けれどもいゝ子供だといふだけでは何にもならん。わしと一諸についておいで。尤も男の子は強いしわしも二人はつれて行けない。おい女の子。おまへはこゝにゐてももうたべるものがないんだ。おぢさんと一諸に野原へ行かう。毎日パンを喰べさしてやるよ。」

 ブドリもネリもまだ何のことだかわからないでゐるうちに男はぷいっとネリを抱きあげてさっきの餅の入った籠の中へ入れてそのまゝせなかへしょふと、「おゝほいほい。おゝほいほい。」と云ひながら俄かに風のやうに家を出て行きました。きょろきょろしてゐたネリが戸口を出てからはじめてわっと泣き出しブドリが
「どろぼうどろぼう」と泣きながら叫んで追ひかけましたが男はもう森の横を通ってずうっと向ふの緑いろの草原を走って行くのがちらちら見えネリの泣き声がまるでかすかにふるえてゐるのがやっと聞えるだけでした。

 ブドリは泣いてどなって追ひかけて行きましたがたうたう疲れてばったり倒れてしまひました。

二、てぐす工場

 それからいくら時間がたったかわかりませんでしたがブドリは眼をひらきました。

 そらはきれいに晴れて日がかれ草にほかほか照ってゐました。するとブドリの頭の上でいやに平べったい声がしました。

「おい。子供。やっと目がさめたな。まだお前は飢饉のつもりかい。すこしおれに手伝はないか。」

 見るとそれは肥った馬の尾を編んだ帽子をかぶって外套にシャツを着た男でした。巻煙草を右手にもって口へあてゝゐました。

「おぢさん。もう飢饉は過ぎたの。手伝ひって何を手伝ふの。」

「張掛けさ。」

「こゝへ網を掛けるの。」

「掛けるのさ。」

「網をかけて何にするの。」

「てぐすを飼ふのさ。」

 見るとすぐブドリの前の栗の木に二人の男がはしごをかけてのぼってゐて一生けん命何か網をなげたりそれを繰ったりしてゐるやうでしたが網も糸も一向見えませんでした。

「あれでてぐすを飼へるの。」

「飼へるさ。いやにうるさい子供だな。おい、縁起でもないぞ。てぐすも飼へないところにどうして工場なんか建てるんだ。飼へるともさ。現におれはじめ沢山のものがそれでくらしを立てやうてんだ。」

 ブドリはかすれた声でやっと「さうですか。」と云ひました。

「それにこの森はすっかりおれが買ってあるんだからこゝで手伝ふなら居てもいゝがさうでもなければどこへか行って貰ひたいのだ」

 ブドリは大変いやな気がしました。男は又云ひました。

「おれの仕事に手伝へ。さうでもしなかったらお前は食ふものもなからうぜ。」

 ブドリは泣き出しさうになりましたがやっとこらえて云ひました。

「おぢさん。そんなら僕手伝ふよ。けれどもどうして網をかけるの。」

「それは勿論教へてやる。いゝか、そら。」

 男は外套のポケットから小さく畳んだ洋傘の骨のやうなものを出しました。

「いゝか。こいつを延ばすとはしごになるんだ。いゝか。そら。」

 男はだんだんそれを引き延ばしました。間もなく長さ十米ばかりの細い細い絹糸でこさえたやうなはしごが出来あがりました。

「いゝかい。こいつをね。あの栗の木に掛けるんだ。あゝ云ふ工合にね。」男はさっきの二人の男を指さしました。二人は相かはらず見えない網や糸をまっさをな空に投げたり引いたりしてゐます。

 男ははしごをこっちの栗の樹にかけました。その栗の木はブドリが何べんもネリと下で遊んだところでした。

「いゝか。今度はおまへがこいつをもって上にのぼって行くんだ。そら、登ってごらん。」

 ブドリは仕方なく男の持ったまりのやうなものをもってはしごにとりついて登って行きましたがはしごの段々がまるで針金のやうに細くて手や、足に喰ひ込んでちぎれてしまひさうでした。

「もっと登るんだよ。もっと。そら、もっと。」下では男が叫んでゐます。ブドリはすっかり頂上まで登りました。

「そら、さっきのまりを投げてごらん。栗の木を越すやうにさ。そいつを空へ投げるんだよ。何だふるえたりして。意気地なしだなあ。投げるんだよ、投げるんだよ。そら、投げるんだよ。」

 ブドリは何とも云へず厭な心持がしました。けれども仕方なく力一杯にそれを投げました。するとそれはずうっと青空の方へひろがって行ったかと思ふと俄かにはしごはぐらぐらゆれてブドリはお日さままでがまるで黒い土の球のやうに見えそれからまっすぐに下へ落ちました。もう死んだとブドリは思ひました、がさうではなくてブドリはいつかその男に受けとめられてゐました。男はブドリの手をつかんでぶりぶり云ひながら立ってゐました。

「お前もいくぢのないやっだ。何といふふにゃふにゃだ。俺が受け止めてやらなかったらお前は今ごろは頭がはぢけてゐたらう。おれはお前の命の恩人だぞ。これからは失礼なことを云ってはならん。ところでさあ、こんどはあっちの木へ登れ。登るんだよ。も少したったらごはんもたべさせてやるよ。」

 紳士はまたブドリに新しいまりを渡しました。

 ブドリは仕方なく次の樹へはしごをもってきてやっと上へのぼって又力一杯空に網を投げました。それからわくわくする足をふみしめふみしめ下りてきました。

「よしなかなか上手になった。さあまりは沢山あるぞ。なまけるな。この森ぢゅうの栗の木に片っぱしからなげるんだ。」

 男は向ふへ行きました。ブドリはまた栗の木へ二っぱかりまりを投げましたがどうしてもつかれてだめでしたのでもう家へ帰らうと思ってそっちへ行きました。すると愕いたことには家にはいつの間にか細い赤いえんとつがついて戸口もまるで変ってゐました。

 そして中からさっきの男が出て来ました。

「さあこども、たべものをもってきてやったぞ。これを食べて暗くならないうちにもう少し稼ぐんだ。」

「ぼくはもういやだよ。うちへ帰るよ。」「うちってあすこか。あすこはおまへのうちぢゃない。何でももうてぐす工場だよ。あの家から何からおれは買ってあるんだからな。おまへはこゝで稼ぐより仕方ないんだ。」

 ブドリは泣き出しさうになりましたが、俄かによしっといふやうな考になって「そんならいゝよ。稼ぐよ。」と云ひながらその男の持ってきたバンをむしゃむしゃたべてまたまりを十ばかり投げました。

 その晩ブドリは昔のじぶんのうちいまはてぐす工場になってゐる家の隅に小さくなってねむりました。

 さっきの男や三四人の知らない人たちは遅くまで火をたいて酒を呑んで何かいろいろしゃべって居りました。

 次の朝早くからブドリは森へ出て昨日のやうにはたらきました。そのうちに栗の木はだんだん芽を出してきました。

 そしてまもなく葉がだんだん大きくなるやうになりますと栗の梢には何か小さなけむしの児のやうなものがいっぱいにっきました。栗の葉がだんだん大きくなり月光いろの花をつけるやうになりますとその虫もちゃうど栗の花のやうな形になりました。そして間もなく大きな黄いろな繭をあの綱い網にかけました。すると男は狂気のやうになってみんなを使ってその網を引っぱらせて繭を集めさせました。そしてその繭を片っぱしから鍋に入れて煮て糸をとりました。その八月の末にはその繭からとった太い黄いろな糸が小屋ぎっしりできました。

 するとある日六七台の荷馬車が来てそれをみんなつけて運んで行きました。すると男がブドリに「おい。お前の来春まで食ふくらゐのものは家の中へ置いてやるからこゝで森と工場の番をしてゐるんだぞ。いゝか。」と云って荷馬車についてさっさと行ってしまひました。ブドリはぼんやりあとへ残りました。する少そこへ誰が置いて行ったのか七八冊の本がありました。ブドリは飛びつくやうにそれを見ますとどうやら読めるのでした。ブドリは一生けん命それにかぢりついて毎日読んだり書いたりしました。あきると森へ出てたった一人で歩きました。

 そしてその年の秋と冬は過ぎて次の春になりますと亦あの男が六七人の人たちを連れてやって来ました。その中には去年知った人も二人居りました。そして次の日からすっかり去年のやうな忙しい仕事がはじまりました。そしてそれも大低できたころある日ブドリは森の樹の上でふと野原の方を見ましたらふしぎなことには野原は灰いろと桃いろと緑と三いろのトランプの札のやうなものでいっぱいになってゐました。どういふわけだらうと思ってまたぼんやりしてゐますと俄かに遠くで何か瓶などの壊れるやうな音がしました。それから何か灰のやうなものがしばらくばしゃばしゃ降って来て木の枝は少うし白くなりました。すると間もなくあの男が大へんあわてゝやって来ました。

「おいもうだめだ下りろ、今年はもう大失敗だよ。灰で虫がみんなやられたんだ。おいブドリ。お前もこゝに居たかったら居てもいゝがこんどはたべ物は何んにもないぞ。お前も野原へ出て何か稼ぐ方がいゝぜ。」

 さう云ったかと思ふともうどんどん走って行ってしまってブドリが樹を降りて工場へ行って見たときはもう誰も居りませんでした。そこでブドリはさっきの桃いろと緑と灰いろのものが何か明日行って見やうと思ひました。

三、沼ばたけ。

 ブドリはぼんやり森を出てだんだんその野原の方へあるいて来ました。こっちにもやはり灰は降ったやうでしたが見た眼には別に変りもありませんでした。あの森の高い木の上で見た美しい桃いろや緑や灰いろのカードはだんだん眼の前に大きくなってたうたう一枚一枚がまはりに細いどてをきづいた長方形の圃になりました。いよいよそばへ寄って見るとその桃いろなのにはいちめんにせいの低いむっとする様な匂の花がいっぱいに咲いてゐて黒い蜜蜂がいそがしく花から花をわたってあるいてゐましたし緑いろなのには小さな槍のやうな穂を出したみぢかい草がいっぱいに生えてみんな風にゆれてゐました。たゞあの森の木の上から灰いろに見えたのは今日はもう灰色ではなくて晴れたそらを映し水がいちめんに湛えてゐるのでした。そしてその水の中を一人がくつわにつけた竹をとって馬をひき一人はうしろから馬にひかせた何か大きな櫛のやうなものを両手で泥に押しつけながらぐるぐるまはってゐるのでした。馬は汗で黒くぬれてゐましたしたびたびぱっと水けむりもあげました。また草穂のあるはたけも桃いろの花のいっぱいなはたけもやっぱり同じやうな形をした馬がその小さな土手に添ってあるいて行きますと土は細い条に截られて引っくりかへされ花や草は惜しげもなくどんどん土の下になってしまふのでした。ブドリはぼんやり立ってそれを見てゐますとうしろで誰か高声に談しはじめました。

「おれも今年は大山師を張るときめた。」

「ほう、どういふしかけだ。」

 プドリはうしろを向いて見ますとぼろぼろの浅黄いろの麻のきものを着てはだしな鬚の赭い人が白い笠をかぶったせいの高い藁のくつをはいた人に勢込んで談してゐました。けれどもその談しは何のことか少しもわかりませんでした。

「どういふしかけって花こをみんな埋めてさ、それから豆粕を二枚入れて、それから鶏のかへしを三駄入れてそれから十本づつ一米へ六ならべにしてそれからどっぷり深水十日掛けて置くのさ。」

「おれはさういふことは不賛成だ。さういふことをして置いて、去年のやうな寒さでも来たら一粒だって実はなるもんでないからな。」

「なあに今年は二年分暑いさ。とにかく植え付けまであと十日だから急がしいのなんのって。」

 ブドリは思はずそっちの方へ一足あるいて寄りました。

「かう忙がしくなれぱ碗豆の蔓でもいゝから手伝ひに頼みたい位だな。」

 ブドリは思ひ切っておじぎをして云ひました。

「そんならどうかぼくをつかってください。」

 すると赭ひげはぎょっとしたやうに顔をあげてあごに手をあてゝしぱらくブドリを見てゐましたが
「お前水へ入って稼いだことあるのか。」と聞きました。

「あゝ、ぼく、一日ぢゅう沢で蟹とりもしたことが何べんもあるよ。」

 すると二人いっしょにそらを向いてわらひ出しましたがさっきの笠をかぶった方が教へるやうに云ひました。

「馬引っぱって毎日泥へ入ってるのと沢で石を起して蟹捕ってあそぶのとはちがふよ。」

「馬だって何だってひっぱるよ。ぼくはどこへも行くとこがないんだから。」

 すると緒ひげかわらって
「そんならいっしょに来て見なよ。ほんとにさゝげの蔓でも頼みたいときだからな。それではまづ。」と云ひながら笠をかぶった人にちょっと目で挨拶して別れていそいで歩き出しましたので、フドリはあとをついて行きました。

 鬚の赭い人は小さな路にプイッと入ってあちこち働いてゐる人たちに挨拶しながら黙ってどんどん歩いて行きました。間もなく水のいっぱいかかった四角な沼ぱたけに着きました。そこには一疋のたてがみのちゞれた赭茶けた耳の長い馬が水の中に入ったまゝじっと立ってそばには一人の半ずぼんをはいたちゃうどブドリぐらゐのこどもが馬のくつはにつけた竿のはじをもったまゝやっぱりだまって立って待ってゐました。鬚の赭い人が云ひました。

「さあ、一人手伝ひたのんで来たぞ。今度はこのこどもに竿をとらせるからお前は豆粕播いて歩け。一枚へあのざるで五つだぞ。」

 こどもは何も云はずに馬のくつわについた竹のはじをブドリの方へつき出しましたのでブドリは大急ぎで沓をぬいで泥にはいって云はれたやうにそれをとりますとこどもはやっぱりだまって土手にあがってすたすたと向ふへ行ってしまひました。

 鬚の赭い男は馬のうしろの櫛のやうなものにとりつきながら云ひました。

「さあいゝか、その竹をもってこの沼ばたけぢゅうすこしも落ちのないやうぐるぐると廻るんだ。いゝか。ほい。しゅう。」すると馬は首を垂れたまゝだまってばしゃばしゃ水をわたり出しました。ブドリは竹をもって馬について行きました。赭ひげの男はうしろで櫛を押して来ますと泥はみんな櫛の歯にあたって横の方へ二つに分れてあふれるのでした。しぱらくまっすぐに歩いて行くと短い土手につきあたりさうになりました。

「右へ曲れ、右へ、早く。」うしろで叫んでゐます。ブドリは馬の影法師をふみながらゆっくり右へ曲りました。馬も膝を曲げてがぼがぼ音をたてゝ右へまがってついて来ました。櫛の歯も泥をたてながら円くまがって来ました。

 さっきのこどもは大きな笊を重さうにかゝえてとなりの沼ばたけへはいってぱらばら泥へ何か播いてゐます。あっちのはたけもこっちのはたけもすっかり同じでした。ブドリは泥の中を一生けん命まはりました。馬はたびたびぴしゃっと泥水をはねあげてブドリの顔や手へ打ちつけました。その田を何べんかぐるぐるまはりますと赭ひげの男が「こんどはまっすぐに土手を越えてとなりの沼へはいれ。」とさっきこどもが何かばら播いた沼をあごで指して叫びました。ブドリはその通りしますと馬もやっぱり土手を越えてついて来ました。あとから主人は両手で櫛を持って少し反るやうにして土手を越してまたっいて来ました。さっきのこどもはいっかずうっと向ふの四つばかり向ふの沼でやっぱり笊をもって何か播いてゐます。そこでも同じやうにブドリはぐるぐるぐるぐるまはりました。風が何べんも吹いて来て泥水に魚の鱗のやうな波をたてたり遠くの方の水をブリキいろにしたりして行きました。あっちでもこっちでも馬が水けむりを白くあげてゐます。そらでは幾きれもの雲がゆっくりゆっくり流れてゐてそれがじつにうらやましいやうに見えました。ブドリはもう足が重くなって歩いてゐるのか何だかわからなくなりました。けれどもそれは主人の赭ひげも同じらしく櫛にとりっいてゐながら口をあいて半分よろよろしてゐるやうすでした。

 じつに日が永かったのです。いつまでたってもさっぱり誰もやめる模様がありませんでした。もうこれだけだらうと思ひながら一つの沼がやっと済みますとすぐまたとなりの沼にはいるのでした。

 そのうち日は西の山へ入ってしまって水は夕焼けを映して黄いろに光りました。それでもみんなはまだやめませんでした。夕焼けが納って水は泡をぶつぶつ噴いて変にどす黒く見えました。それでもまだやめませんでした。ブドリはまるで肩から胸からじぶんのものか何かわからないやうな気がしました。そのうちいっかさっきのこどもが近くの土手へ来てゐて
「みんな播いてしまったよ。」と云ひますと主人はそっちには返事をしないで「それ、この田ばかりだ。しっかり歩けしゅう。」とブドリにとも馬にともつかず云ひました。そしてあたりがとっぷりくらくなって星がちらちら光り出すころやっと主人は馬をとめさせました。

 それから櫛のやうなものをはづして近くの暗い水路へ持って行ってじゃぶじゃぶ洗ひました。こどもはブドリから馬を受けとってやっぱり馬を水路に入れて手で水を馬の脚や腹へはねかけて洗ひました。ブドリも水へはいって泥を洗ひ落しましたら足がなんだかひどく膨れてゐるやうでした。

 主人がさっきの鉄の巨きな櫛のやうなものを馬に背負はせました。それからこどもか馬をひいて三人でぼんやり白く見えるみちを主人のうちの方へ急ぎました。どこをどう歩いたかわかりませんでしたがしぱらくすると向ふにまっ黒なひのきに囲まれた大きな家が見えて中には黄いろなあかりがちらちらしてゐました。その前まで来ると三四人の人たちがやっぱり家の前の水路で足だの農具だの洗ってゐました。それからみんなで家の中にはいりますとやっぱりブドリの家のやうに大きな炉が切ってあって火がまっ赤に燃えてゐました。ブドリはその土間の隅にぼんやり座ってゐましたらさっきのこどもが馬鈴薯のゆでたのを盛った皿を二つ持って来て一つをブドリによこしました。ブドリは何だか胸がつまるやうに思ひながら味も何もわからず食べました。それから疲れていつかそのまゝ睡ってしまひましたのであとどうなったのかまるで知りませんでした。

四、沼ばたけ

 ブドリは森の中の昔のじぶんのうちのなかに睡ってゐました。

 お父さんやお母さんたちはもう起きて家のまはりで野菜や薪の支度をしてゐる様子でした。妹のネリもブドリの近くにまだ睡ってゐる様子でした。そのうちお父さんが何べんもブドリの枕もとを何かさがす様子で歩いてゐました。それからブドリは烈しくゆり起されました。眼をさまして見るとブドリはぎくっとしました。そこはブドリの昔の家ではありませんでした。いつの間に移されたのかブドリは台所の隣りの板の間にむしろをしいて睡ってゐてブドリをゆり起してゐるのは昨日からの主人のあの赤鬚の男でした。

「さあすぐ畑へ行くんだぞ。植え付けの済む問は畑へ顔を洗ってでかけるのは恥かしいことになってゐるんだ。」ブドリははね起きやうとしましたが腰が痛いやうに重くてしばらく手で擦ってゐました。主人はもう土間へ下りてゐる様子です。ブドリも下りて行きました。主人のおかみさんらしい眼の大きな女の人が「これおまへしょって行け。」と云ひながら何か朝のごはんを入れたらしい包みをブドリに渡しました。昨日のこどもが馬をもう馬屋から連れ出して家の前に立ってゐました。主人は馬にまた昨日の鉄の櫛のやうなものをつけました。そしてみんなは昨日の田へ行きました。そしてその日もすっかり昨日の通りでした。ぎらぎら光る泥ぱかり一日見てゐるうちにそれが何か飴のやうな気がして来たり濁った水もまるでさういふスープのやうな気もしてきたりするのでした。ブドリは何べんもため息をついて青いそらを見ました。そしては主人に叫ぱれてまた馬を歩かせました。

 このやうにして毎日毎日は過ぎて行き結局三十枚の沼ばたけをすっかりどろどろに掻き廻してしまひますとはじめへ戻ってまた前のやうに掻き廻しはじめました。そのころは近処のどのはたけもみんな一様に水をかぶった泥になってゐてもう桃いろのも緑青いろのも一枚もありませんでした。かうして二十日がまるで夜と昼の堺もないやうに過ぎて全部もう一度済みますと次の朝ブドリはまだ夜中から起されました。見るとうちぢゅうの人たちももうすっかり起きて仕度をしてゐたのです。それからみんなはいままでとちがって家の横の方へ出掛けました。そこはやっぱり小さな沼ばたけでしたが中には緑いろの短いオリザの苗がぎっしり植って露をいっぱい吐いてゐました。みんなは中に入ってそれをていねいに指で堀り起して藁で束ねはじめました。どの人もまるでひどく急いでゐましたし赭ひげの主人もいきなり大声で笑ったり叫んだり大へん気が立ってゐる様子でした。

「さあブドリ、これからのお前の仕事は楽だぞ。いゝかこの苗を籠に入れてあっちの沼ばたけへ持って行くんだ。けれども大急ぎで帰ってくるんだぞ。」

 ブドリは云はれた通り二つの籠に山のやうにその葉の緑で根のまっ白な苗を積んで籠の蔓に棒を通してかつぎはじめました。ところがそれは少しも楽でもなんでもありませんでした。歩きはじめると両方の籠がぶらぶらゆれて足にぶっつかって歩かれませんでしたし肩がまるで食ひ込むやうに痛いのです。ところが苗をとってゐたみんなはこのやうすを見ると一ぺんにどっと笑ひ出してしまひました。

「なあにあいつはまだこの間立って歩ぎ出したぱかりだもな。」と誰かゞ云ひますとみんなはまたどっと笑ひました。それはブドリのまだこどもなことを云ったのか森の中でほかの鳥だの獣と遊んでばかりゐたことを云ったのかよくわかりませんでした。ブドリはまっ赤になって急いで昨日までの沼ばたけの方へ歩かうとしましたら籠にひどく足をからまれていきなり倒れてしまひました。するとみんなはまたどっと笑ひましたが主人が飛んできて落した苗をみんな籠に入れてじぶんでかついで見せました。

「いゝか。かういふ風にかつぐんだ。両手でこの籠の蔓をもって籠がゆれる通りからだをうごかして一足づゝ調子をとって歩くんだ。全体これでは苗が多いからな。」主人は一ぺん入れた苗をまたとり出してそこへ置きました。ブドリはまたかついで見ました。こんどは可なり軽くなったのでやっとどうやら歩けるやうになりました。向ふの沼ばたけへ着いてみるとそこにはもう沢山の人たちが列になって屈んであとずさりしながら一生けん命いままでブドリの馬をひっぱってこしらえた泥の上に苗を植えてゐました。その馬は今日はあのこどもがやっぱり苗をつけて来てゐました。ブドリは籠をおろしますとそのこどもがそばへ来て「籠ずゐぶん重かったらう。今に馬と代るよ。」と云ひながらブドリの苗たばをとってまだ植えない泥の上へあちこち運びました。それから二人はならんで苗沼の方へ戻りました。そしてそこからまた苗をはこびました。

 かういふ仕事をそれから丁度三日やりますとブドリのところの沼田はもうすっかり植りました。するとその次の日はすこしはなれたほかの沼ばたけへ行きました。そこでも仕事はすっかり同じでした。そこを二日で済ますとその次の日はまた外の沼へ行きました。おしまひはもうどこがどこだかわからずたゞもうみんなの行く通り云ひつけられる通り働いて歩いてちゃうど一月ばかりたちますとその辺の沼ばたけはもうすっかり苗が植ってしまひ早く植えたブドリのところではもう苗が大きくまっ青になって風にふさふさゆれてゐました。

 するとその次の朝ブドリたちはまた暗いうちに起されました。そしてちやうどこの前に植え付けたときのやうにみんなでならんで田にはいりました。今日はブドリもみんなのなかにはいって仕事をすることになりました。みんなは両手で草の根をつかんでそれを泥へ埋めながらだんだん前へ進んで行くのでした。泥からはむっとするやうな臭の泡がごぼごぼのぼりました。この仕事は昨日までの苗を運ぶ仕事よりずっと苦しかったのですがそれでもブドリはもうだんだんなれて来てあんまり苦しいことに気をとられないやうにはたらくやうになつてゐました。そして次の日もその通りでした。その次の日もその通りでした。四日ばかりで主人の田が済んでこんどはほかへ行ってそれから一週間ばかりたちますと葉はもうまるで濃い緑色になって風が吹くとひらひらする位になりました。十五日ばかりあるいた后ある朝また主人は今日もほかへ行く途中ブドリをつれてじぶんの沼ぱたけへまわって見ました。するとその小さな土手に立って主人が俄かにあっといふやうに叫んで棒立ちになってしまひました。

 どうしたのかと思ってブドリは主人の顔を見ますと主人は唇のいろまでまるで水いろになってぼんやりまっすぐを見たまゝ立ってゐました。

 ブドリはあわてゝ「どうかしたのですか。」とききました。すると主人はだまって前のオリザの株を指しました。見るといつか草にはぼんやり茶いろのけむりのやうなものがいちめんかかってゐてあるものは赤い点々になってゐたのです。

 ブドリは何のことかわからず立ってゐました。すると主人が云ひました。

「病気が出たんだ。もういままでの骨折りはすっかりだめなんだ。」

 ブドリは何のことかさっぱりわかりませんでした。ところが主人はだまって沼ばたけを出て家の方へ帰って行くのでブドリもついて行きますと主人はやっぱりだまって家の中へ入って頭へぬれた巾をのせて板の間に寝てしまひました。

 すると間もなく主人のおかみさんが表からかけ込んで来ました。

「葉の病気がついたといふのはほんたうかい。」

「あゝついたもうだめだよ。」主人がまっ青な顔をして云ひました。

「どうにかならないのかい。」

「なるもんか。いちめんなんだ。すっかりさき一昨年をとどしの通りなんだ。」

「だからわたしはあんなに山師をやめろといったんぢゃないか。あんなに肥しをたくさん入れるからこんなことになるんだ。」おかみさんはいつかおろおろ泣きだしました。すると主人が俄かに元気になって云ひました。

「よし、イーハトヴの野原で指折り数へられる大百姓のおれが、こんなことで参るか。ようし。来年こそやるぞ。ブドリ、おまへ来てからまだ一日もぐっすり寝たことがないな。さあ、五日でも六日でもいゝからぐうといふくらゐ寝てしまへ。おれはそのあとであすこの沼ぱたけで面白い手品をやって見せるからな。その代り今年の冬は家ぢゅうそばぱかり喰ふんだぞ。お前そばはすきだらうが。」主人は俄かに元気になってまるで今までにないやうなことを云ひはじめました。ブドリも思はず愉快になっていままでの疲れもつらいことも忘れてはねあがるやうな気もちになりました。

 けれどもおかみさんは却って何とも浮かない顔つきでそのまゝ台所の方へ行ってしまひました。「さあブドリ、納屋へ行ってぐっすり寝ろ。かまふことない、寝ろ。」主人がまた云ひながらじぶんは土間から笠を出してかぶってさっさと家を出てどこかへ行ってしまひました。

 ブドリは云はれた通り納屋へ入って藁の上にぐっすり睡りました。それから眼をさまして見ると夕方だか朝だかとにかく納屋のなかはうすぐらくなってゐました。はね起きて母家の方へ行って見ますと誰も居りません。沼ばたけへ行って見ますといつの間に来てゐたのか主人がたった一人土手に立ってゐました。見ると沼ばたけには水がいっぱいで苗は葉をやっと出してゐるだけ上にはぎらぎら石油が浮んでゐました。

 ブドリがそぱへ寄りますと主人が云ひました。

「いまおれこの病気蒸し殺してみるとこだ。」

「石油で病気の種が死ぬんですか。」

「頭から石油に漬けられたら人だって死ぬだ。」主人はさう云ひましたが何だかさっきの元気はなくなってじつはどうなるかわからないらしく頬をびくびくしてゐました。

 二人はだんだん暗くなる土手にだまって立ってゐました。すると向ふからせいの低い肩のがっしりしたとなりの沼ばたけの持主が息を切ってかけて来て大きな声でまるでせかせかしながらどなりました。

「やあ、何だって油など水へ入れるんだ。みんな流れて来ておれのはたけへ入ってるぞ。」

 主人はやけくそのやうに答へました。

「何だって油など水へ入れるったって、苗へ病気ついたから、油など水へ入れるのさ。」

「何だってそんならおれの方へ流すんだ。」

「何だってお前の方へ流すったって、水は流れるから油もついて流れるのさ。」

「そんなら何して水とめないんだ。」

「何して水とめないったって、あすこはおれの水口でないから水とめないのさ。」

 するとその男はかんかん怒ってしまってもう物も云へないでしぱらくスウスウといふやうな音だけたてゝゐましたがいきなりだまって向ふを向いてすたすたと歩いて行ってじぶんの沼へ入ってくる水をとめやうと泥をしきりに積み〔数文字不明〕。

 主人はにやりとわらひました。「あの男むづかしい男でな。こ〔数文字不明〕とめたと云ふから向ふへとめさせ〔数文字不明〕とめれぱ今夜中にこの水はす〔数文字不明〕かゝるからな。あしたの朝は病気〔数文字不明〕かもしれない。〔数文字不明〕帰〔数文字不明〕たって〔数文字不明〕

 次の朝〔数文字不明〕主人と沼ばたけへ〔数文字不明〕主人は水の中から葉を一枚とってしきりに〔数文字不明〕ゐましたがやっぱり浮かない顔で土〔数文字不明〕しまってじっと一日水を見てゐました。その次の〔二文字不明〕その通りでした。その次の日もその通りでした。その次の日の朝たうたう主人は決心したやうに云ひました。

「さあブドリ、いよいよこゝへ蕎麦播きだぞ。お前あすこへ行って水口こわして来い。」

 ブドリは水口をこわして来ました。石油のはいった水はどんどんとなりの田へ流れて行きます。きっとまた何か云ってくるなと思ってゐますと、ひるごろ例のとなりの持主が大きな鎌をもってやって来ました。

「やあ、何だってひとの田へ石油ながすんだ。」

 主人がわらひました。

「石油ながれれぱ何だって悪いんだ。」

「オリザみんな死ぬでないか。」

「オリザみんな死ぬかオリザみんな死なないかまづおれの沼ばたけのオリザ見なよ。今日で四日頭から石油かぶせたんだ。それでもこの通りでないか。お前のは今日半日オリザの足のところを石油が通るだけなんだ。却っていゝかもしれないんでないか。」

「石油こやしになるのか。」向ふの男は少し顔色をやわらげました。「こやしになるかならないかしらないがとにかく石油油だないか。」「それは石油は油だな。」向ふの男はすっかり顔色を直してわらひました。

 水はどんどん退きました。オリザの株はだんだん顔を出しました。見るとこの間のけむりのやうなものはいっのまにかすっかり赤い斑になって葉は焼けたやうになってゐます。

「さあ、おれの所ではもうオリザ刈りをやるよ。」主人がまた笑ひながら云ひました。

「風に飛ばないうちに早く刈って貰ひたいな。」となりの持主もにやにや笑って云ひました。

 次の朝主人はうちぢゅうみんなをつれて沼ばたけへ出て行ってすっかり水の落ちた沼の上を歩いて片っぱしからオリザの株を刈りはじめました。そして刈ったあとへは片っぱしから蕎麦の種子を落して土をかけて歩きました。間もなくそばは芽を出しました。そしてほかの沼ばたけではオリザがいちめん水いろの穂を出した頃はこっちでは根もとのうす赤いそばがうねになってきれいにならびまっ白な花が咲いてちゃうど春の桃いろの花のときのやうに蜜蜂がぶんぶんとびまわりました。

 次の春になりますと主人が云ひました。

「ブドリ今年は沼ばたけは去年より三分の一へらしたからな。仕事は去年より楽だぞ。その代りおれはどうも字が読めないでな。おれも読みたくて、いままで何十冊も買ったんだが、買ってみると読めなくてな。おまへいくらか読めるやうだから一生けん命オリザの作り方だのこやしのことだの勉強してくれな。」

 しめたとブドリは思ひました。

 それからブドリはひるやすみにも夜も一生けん命本を読みわからないところはあのこどもにきゝました。そしてブドリは本で病気をふせぐには黒土を樹の葉でむし焼きにしたものを入れるといゝといふことを見て主人に云ひましたら主人は大へんほめてそれから十日ぱかりかかって黒土のむし焼をこさえてみんな田にちらばしました。

 さてその年も仕事はすっかり去年の通りでした。

 去年病気にかかったころも無事にすぎてもう一ぺん草をとりましたらまもなくみんな水いろの穂をそろって出して来ました。まもなくその穂には小さな白い花が咲き花はだんだん水いろの籾にかは〔数文字不明〕。そしてその秋はブドリの主人の沼ばたけには一つの実に三百も粒のついたオリザスの株が風にゆらゆらしてゐて人もたくさん見に来たほどでした。主人のよろこび様威張りやうと云ったらじつにありませんでしたしほんたうにいままでの倍もよろこびブドリも働いた甲斐があってじつに愉快でした。

 その次の年も作はよくブドリは仕事にもなれてもう一日もそんなに苦しいと思はずに過ごすやうになりました。ところがその次の年はちゃうどオリザを植え付けるころから雨がまるで降らず毎日そらはまっ青で風は乾いてゐましたのでどこの沼ばたけもまるで泥がかさかさに乾いてしまひだんだんひゞも大きくなってきました。ブドリたちは一生けん命上流の方から水を引いて来やうとしましたがどこのせきにも水は一滴もありませんでした。主人もまるで幾晩も睡らないで水を引かうとしてゐましたがやはりだめでした。その年も仕方なくブドリの主人は馬を売ってみんなに勘定をきめずうっと遅れてやはりそばを播きました。

 次の年の春主人はブドリに云ひました。

「今年は馬も鶏もなくなったので沼ばたけには入れるこやしがなくなってしまった。お前本よんで何か工夫つかないか。」

「そんなら今年は去年のこやしも残ってゐるんだから木灰だけ入れませう。」主人はよろこんでその年は灰だけ入れて作をしました。それでもその秋はどうやら実もとれたのでしたが次の年の春主人の沼ばたけはもう去年の半分になってゐました。ある日主人はブドリを呼んで云ひました。

「ブドリ、おれももとはイーハトーヴの大百姓だったしずゐぶん一生けん命稼いでも来たのだがたびたびの寒さだの病気だの早魅だののためにいつの間にかもう沼ばたけも昔の三分一になってしまってせっかくお前にはたらいて貰ってもいつになって礼をするといふこともできさうもなくなってしまった。それで何とも済まないけれどもお前はまだほんたうに若いんだし何でももう一人前にできるんだからこれを持ってどこへでも行って運を見つけてくれ。」といって一ふくろのお金とだぶだぶの縞の上衣と新らしい赤革の靴とをくれました。ブドリはいままでの仕事のひどかったことも忘れて俄かにこゝをはなれることが悲しくなりましたがもう居てもみんなで働くくらゐ仕事がないので何べんも何べんも礼を云って六年の間はたらいた沼ばたけと主人の家をあとヘイーハトーヴの町へ出て見やうと考へました。

五、フウフィーボー大博士、

 ブドリは赤鬚の主人から貰っただぶだぶの上着と赤革の靴をはいて一番近い停車場へ来ました。

 それからイーハトヴの市までの切符を人に教へられて買ってイーハトヴ行きの汽車に乗りました。

 まもなく汽車は走り出してちゃうどこの前野原へ出てきたときと同じやうに桃いろや緑や灰いろをしたたくさんの沼ばたけをどんどんどんどんうしろの方へ送ってしまってもう一散に走りました。その向ふにはあの昔ブドリのなつかしい家があって妹のネリとも遊んだやうな黒いいろの森が次から次と形を変へてやっぱりうしろの方へ行くのでした。ブドリはぼんやりそれを見送ってゐますとうしろから誰か肩を叩くものがありました。ふり返って見るとそれはきちんとカラとネクタイをはめたせいの高い立派な紳士で
「や、この前は大へんお世話になったね」と云ふのです。ブドリはまるでどぎまぎしてゐますと紳士はすぐ前へ来てこしかけて足を組んでたばこを一本出してくわいながら
「どうだい。あすこの尾根みちはうまくついたかい。」と云ひました。ブドリは尾根みちって何だらうと思っていよいようろたへてしまひました。

 すると紳士ははじめて気がついたやうにけげんさうにブドリの顔を見てゐましたが
「なんだ、きみはヒームキアのネネムではないのか。」と云ひました。

「えゝぼくはブドリといふんです。」ブドリはびくびくしながら答へました。

「ブドリ? 奇体な名だねえ。わたしはきみを山案内人のネネムと間ちがへたんだ。うしろかたちがあんまりそっくりだったもんだからね。それできみは仕事は何だ。」

「ぼくはイーハトーヴの市へ勉強するか仕事を見附けるかに行くんです。」

「勉強するか仕事を見附けるかするに行く? そんなことはできるもんでない。いままでどこに居たんだ。」

「森にも居たし沼ばたけにも居たんです。」

「そんなら何でも稼げるだらう。」

「稼げます。」

「さうか。けれどもいまイーハトーヴの市へ行ってもなかなかきみのはたらく仕事なぞないよ。」

「なくてもいゝんです。」

「さうか。」紳士はだまってしまってしばらくたばこをすぱすぱ呑んでゐましたがまた云ひました。

「そんなら勉強をするのか。」

「勉強も永くはできないんです。」

「そんならどうするんだ。」

「まづイーハトーヴの市へ行って見やうと思ふんです。」

「さうか。」紳士はまたしばらく考へてゐましたがまた云ひました。

「おまへはなかなかいゝところがある。おまへが行くのにちゃうどいゝ学校を教へてやらうか。」

 ブドリははねあがりました。

「それは何といふ学校なんですか。」

「フウフィーボー成人学校だ。」

「それはいゝ学校ですか。」

「いゝとも、フウフィーボー大博士がやってゐる。たった一人でやってゐる。卒業はたった九時間で毎日試験がある。それで遊んでばかりゐるものは三千回でも落第するんだ。あんまり及第する人が少いのでフウフィーボー博士はこのごろどうも機嫌が悪いさうだ。」

「何を教へるんですか。」

「つまり学校へはいらないで勉強するしかたを教へるんだ。」

 ブドリは思はず両手をうちました。紳士はまただまってたばこをくゆらしてゐましたがぷいっと立って向ふへ行ってしまひました。ブドリはもう胸がわくわくしました。もう早くイーハトーヴの市に着いて勉強したい、そして早くあの沼ばたけもあんなにみんなでひどい思ひをしないでいゝやうに工夫し、火山の灰だのひでりだの寒さだの何とか害にならないやうにしたいと思ふともう矢も楯もたまりませんでした。

 汽車はちゃうどその日のひるすぎイーハトーヴの市に着きました。みんなといっしょに停車場に下りますとなにかしらず地面のそこからのんのんといふやうなひゞきとどんよりした黒いけむり、行ったり来たりする沢山の電車や自働車を見てブドリはもうぼんやりしてしまひました。それでもブドリは気をとり直してフウフィーボー成人学校をたづねました。すると誰へ訊いてもみんなブドリの顔を見て吹き出しさうにしながら「そんな学校は知らんね。」とか「もう五六丁行って訊いて見な。」とかいふのでした。あちこち歩いてもうぐったりしてしまひながらふと気がつきますといつどこで貰ったのかブドリは学校の番地を書いた書き付けを手にしっかり持ってゐました。そこで俄かに元気がついて一生けん命その番地をきいてやっと学校の前まで来て見ますとそれは大きなこわれかかった木造の二階建てで二階で誰か大きな声でしゃべってゐました。

「今日は。」ブドリは高く叫びました。誰も出て来ませんでした。

「今日は。」ブドリはあらん限り高く叫びました。

 するとすぐ頭の上の二階の窓から細長い小さな灰いろの頭が出てめがねが二つぎらりと光りました。そして「今授業中だよ。やかましいやつだ。用があるならはいってこい。」とどなりつけ、二階はしいんとしてしまひました。

 ブドリはそこで思ひ切ってなるべく足音をたてないやうに二階にあがって行きますと階段のつき当りの扉があいてゐてじつに大きな教室がブドリのまっ正面にあらはれました。中にはさまざまの形をした学生がぎっしりです。向ふは大きな崖くらゐある黒い壁になってゐてそこにたくさんの白い線が引いてありさっきのせいの高い眼がねをかけた人が大きな声で講義をやって居りました。

「すなはちこゝのところから昔の方を見ると昔といふものがいかにもかういふ風のものであると見える。決してもうこの外でないと見える。ところがこゝのところから見れぱ昔といふものがかういふ風のものであると大ぶ変って見える。そしてもうその外のものでないと見えるから、前のこの見方はうそだと云ふ。ところがもっとこの辺に来て見るとかういふ風に見えてくる。そしてどれがほんたうであると何人も云ふことができぬ。」

 みんなはしきりに首をかたむけてどうもわからんといふ風にしてゐましたがブドリにはみんななるほどと思はれました。

「そこでこういふ図ができる。」

 先生は左の方へべつの図をどんどん書きました。左手にもチョークをもってさっさっと書きました。学生たちもみんな一生けん命そのまねをしました。

 ブドリもふところからいままで沼ばたけで持ってゐた汚ない手帖を出してそれにその図を書きとりました。先生はもう書いてしまって壇の上にまっすぐに立ってじろじろ学生たちの席を見まはしてゐます。ブドリも書いてしまってその図を見てゐますとブドリのとなりで一人の学生が「あゝあ。」とあくびをしました。ブドリはききました。

「ね、この先生は何て云ふんですか。」すると学生はばかにしたやうに鼻でわらひながら答へました。

「フウフィーボー大博士さ。お前知らなかったのかい。」

 それからじろじろブドリのやうすを見ながら、
「はじめからこの図なんかわかるもんか。ぼくでさへもう三千回から同じ講義をきいてゐるんだ。」と云ってもう自分のノートをふところへしまってしまひました。

 その時教室にパッと電燈がつきました。もう夕方だったのです。大博士が向ふで叫びました。

「いまや夕はしづかに来りわが校もその全課を了へた。諸君のうちの希望者はけだしいつもの例によりそのノートをば拙者に示しその合格者は更に数箇の試問を受けて確め以て去るべきである。」

 学生たちはわあと叫んでみなぱたぱたとノートをとぢました。それからそのまゝ帰つてしまふものが大部分でしたが五六十人は一列になって大博士の前を通りながらノートを開いて見せるのでした。すると大博士はそれを一寸見てそれから一言か二言質問をしてそれから白墨でえりへ「合」とか「不可」とか「退校」とか書くのでした。学生はその間いかにも心配さうに首をちゞめてゐるのでしたがそれからそっと肩をすぼめて廊下まで出て友達にそのしるしを読んで貰ってよろこんだりしょげたりするのでした。ぐんぐん試験がすんでいよいよブドリ一人になりました。プドリが小さな手帳を出したときフウフィーボー大博士は大きなあくびをやりながら、屈んで眼をぐっと手帳につけるやうにしましたので手帳はあぶなく大博士に吸ひ込まれさうになりました。ところが大博士はうまさうにこくっと一つ息をして
「よろしい。この図は大へんよくできてゐる。かうわしの考通りに書いたのは今までになかった。では問題を答へなさい。煙突から出るけむりにはどんな色のものがあるのかね。」

 ブドリは面白くて顔をぱっとしながら答へました。

「黒褐色がいちばん普通です。しかしはじめ白くてあとで黒くなるものもあります。はじめから白いのもあります。しかしまったくの白よりは青じろいものが多いやうです。もちろん青はあります。茶と黄もあります。無色もあります。」

 大博士はわらひました。

「無色のけむりは大へんよろしい。そんならその形はどんな風であるか。」

「煙が多くて風のないときならばたての棒ですがさきは太くなります。雲まで行って横へひろがることもあります。風があれぱそれが斜めに横になりますが、その程度は風によっていろいろです。きれぎれになったり波になることも勿論あります。あまり煙の少ない時はコルク抜きのやうにもなります。それから煙突の口からたくさんの紐になって房のやうに四方へ落ちることもあります。」

 大博士はパチパチと手を叩きました。

「じつによろしい。きみはどういふ仕事をしてゐるのか。」

「仕事を見附けに来たんです。」

「どんな仕事がすきか。」

「どんな仕事でもいゝんです。とにかくほんたうに役に立つ仕事なら命も何もいりませんから働きたいんです。」

 大博士はうなづきました。

「面白い仕事がある。名刺をあげるからそこへすぐ行きなさい。」博士はいきなりチョークをとってブドリの胸に何か書きつけました。ブドリはおじぎをして戸を出て行かうとしますと大博士は、ちょっと眼で答へて
「もうパンを焼いたかな。」と低くつぶやきながらテーブルの上にあった革の鞄に白墨のかけらやはんけちや本やみんな一諸に投げ込んで小脇にかゝへ、さっき頭を出した窓からプィッと外へ飛び出しました。びっくりしてブドリが窓へかけよって見ますといつか大博士は玩具のやうな小さな飛行船に乗ってハンドルをじぶんでとりながらもううす青いもやのこめた町の上をまっすぐに飛んで行くのでした。ブドリがいよいよ呆れて見てゐますと間もなく大博士は向ふの大きな灰いろの家の平屋根みたいなところに着いて飛行船を何かかぎか何かにつなぐやうなかたちをしたきりぽろっと中へはいってしまひました。

六、イーハトーヴ火山管理局

 ブドリはもう誰も居ないがらんとした廊下を通っておもてへ出てじぶんの胸に書いてある番地を指してどっちへ行ったらいゝかききました。

 するとその人は「あゝ火山管理局ですか。このみちをまっすぐに行きますと大きな川がありますからそれを渡ってすぐ右へ二丁ばかり行きますと房のやうな形のした高い柱が見えます。そこです。すぐわかります。」とまるでさっきとはちがって親切に教へてくれました。ブドリは云はれた通り夕方の忙がしさうなまちを通ってそこへ行って見ました。それは大きな茶いろの建物で門には「イーハトーヴ火山管理局」と看板が出てゐました。

 ブドリはうまく伝ってくれれぱいゝと思ひながら玄関に立って呼鈴を押しました。

 すると建物の中から少し髪の白くなった人のよささうな立派な人がゆっつくり出て来て何の用かときゝました。ブドリはどぎまぎしましたが元気を出して云ひました。

「こちらで私を使って下さるさうですが。」するとその人はわらって云ひました。

「あゝきみがグスコブドリ君ですか。さっきフウフィーボー大博士からお電話があつたので待って居りました。お入りなさい。」その年老った人はやはり馬鹿にした風でもなく叮ねいにさう云ひました。

 ブドリは思ひ切って中へ入らうと靴の泥を落しはじめました。その間その人はじつとブドリのやうす見てゐたのです。

 それからブドリはその年老った人についてつき当りの大きな室に入りました。そこには今までに見たこともない大きなテーブルと立派な椅子がありました。

 愕いたのはその室の右手の壁いっぱいにイーハトーヴ全体の地図が美しく色どった巨きな模型になってこしらえてあって鉄道も市も川も野原も山もみんな一目でわかるやうになって居りそのまん中をはしるせぼねのやうな山脉とそこから枝を出してのびてたうたう海の中で点々の島をつくってゐる一列の山山にはみんな赤や橙や黄のあかりがついてゐてそのあかりが代る代る色が変ったりジーと鳴ったり数字が現はれたり消えたりしてゐますとその下のテーブルにはたくさんの細い紙がみんな二本のロールに巻かれてしづかに回転しますと針がその上に黒い線を書いてゐるのでした。

 ブドリはわれを忘れてそれを見とれてゐますとうしろでさっきの年老った人がしづかに笑ひながら云ひました。

「そこへお掛けなさい。これがあなたのこれからの椅子です。」ブドリはもぢもぢしながらその椅子に座りました。するとその年老った人は名刺を出して「私はかういふものです。こんどあなたに手伝って貰ふことになりました。どうかいっしょにしっかりはたらいて下さい。」と云ひました。ブドリはこわごわ名刺をとって見ますとイーハトーヴ火山局技師ペンネンネムと書いてありました。ブドリはぎくっとしました。

「私はいままで森や沼ぱたけに居りまして何んにもわからないのです。どうか教へてお使ひ下さい。」

 その人はうなづきました。「それは勿論大丈夫です。けれどもこゝの仕事といふものはそれはじつに責任のあるもので半分はいつ噴火するかわからない火山の上で仕事するものなのです。それに火山の癖といふものはなかなかわかることではないのです。むしろさういふことになると鋭いそして濁らない感覚をもった人こそわかるのです。たゞさういふ感覚をもった人がわかるだけなのです。私はもう火山の仕事は四十年もして居りましてまあイーハトーヴ一番の火山学者とか何とか云はれて居りますがいつ爆発するかどっちへ爆発するかといふことになるとそんなにはきはき云へないのです。そこでこれからの仕事はあなたは直観で私は学問と経験で、あなたは命をかけて、わたくしは命を大事にして共にこのイーハトーヴのためにはたらくものなのです。」

 ブドリは喜んではね上りました。

「あゝ私はいま爆発する火山の上に立ってゐたらそれがいつ爆発するかどっちへ爆発するかそれはきっとわかります。そしてそれがみんなの役に立つといふなら何といふ愉快なことでせう。どうかこれから教へて私を使ってください。どんなことでもしますから。」

「それではあした局長が来ましたら私がお連れしますから今晩はまづお寝みなさい。私はこれからまだまだ仕事がありますから。では。」

 ペンネン老技師は机へ座って何か機械にかゞみ込んでしまひました。ブドリはもうさっきの模型の前へ行っていつまでもいつまでも沢山の火山のはたらいてゐる工合をながめてゐましたがそのうち一人のブドリぐらゐの若ものが来てブドリを食堂へつれて行きました。ブドリはそれから間もなく案内された寝室へ入ってぐっすり睡ってしまひました。

 次の朝ブドリはペンネン老技師につれられて局長の室へ行きました。局長はもう髪がまっ白でした。ペンネン技師がブドリの名前を云ってブドリにおじぎをさせました。すると局長が
「きみがグスコブドリか。きみの仕事はなかなか重い。一つ間違へば人が何十年もかかって苦心してこしらえた牧場でも沼ばたけでも林でもみんな一ぺんに灰の下にしてしまふ。たくさんの人や家畜の命にもかゝはる。しっかりやってくれ給へ。いまこゝでは噴火をみんな海へ向ける工夫をしてゐるのであるから、きみもせっかくペンネン技師に教はって勉強するやうに。」

 ブドリはたゞ「はっ。」と云ったきり頭を下げました、あんまりさうだと思ったので口がきけなかったのです。

 すると局長は「では」と云ひながら一枚の白い紙を渡しました。見るとグスコブドリ、イーハトーヴ火山局助手心得を命ず と書いてありました。ブドリはしばらくぼんやりしてそれから何か眼が熱くなって泣き出しさうになりました。

 すると老技師はブドリにおじぎをさせて一諸に室を出ました。それから建物のなかを一一つれて歩いてさまざまの機械やしかけを詳しく教へました。その建物のなかのすべての機械はみんなイーハトーヴ中の三百幾つかの活火山や休火山に続いてゐてそれらの火山の煙や灰を噴いたり熔岩を流したりしてゐる状態は勿論、みかけはじっとしてゐる火山でもその中での熔岩や、瓦斯のもやうまでみんな数字になったり図になったりしてあらはれて来るのでした。そして烈しい変化のある度に模型はみんな別々の音でジーと鳴るのでした。働いてゐる人たちは交代で夜も昼もありませんでした。

 それから一ヶ月の間にブドリはあらゆる機械の見方から計算の仕様をすっかり教はってあちこちの火山の噴火の豫報を出したりいろいろしました。それからほかの人たちといっしょにあちこちの火山へ機械を据え付けに出されたり据え付けてある機械の悪くなったのを修繕にやられたり教はった通り根限りに慟きながらいつか五年を過しましたのでもうブドリにはイーハトーヴ中の三百幾つの火山とその動き工合はまるで掌の中にあるやうにわかるやうになりました。じつにイーハトーヴには七十幾つの火山が毎日煙をあげたり溶岩を流したりしてゐるのでしたし五十幾つかの休火山は硫黄や炭酸瓦斯を噴いたり熱い湯を出したりしてゐるのでしたし、残りの百六七十の死火山のうちにもいつまた何か起るかわからないやうなものもあるのでした。

 するとある日老技師が外から急しく室に帰って来て模型を指して云ひました。いまはブドリはすっかり老技師の弟子でもあり友だちでもありました。

「ブドリ君、あしたわれわれはこの海岸にあるサンムトリに行かなければなるまいよ。」

「はい今朝から俄かに機械に働きだして居ります。」

「さうだ。どうも爆発が近いらしい。それももう二ヶ月ぐらゐのうちでないかと思ふんだ。これに大きなことをやられるとこゝにあるサンムトリの市は全減するしこの辺のはたけは全部だめになるのだ。今のうちに手術してガスを抜くか鋳岩を出させるかしないと危いと思ふんだ。見給へもうサンムトリを中心とする小さな地震はこの一ヶ月のうちに七十回も超えてゐる。来月は千回にもなるに違ひない。そして内部のガスの圧力は三億気圧になってゐるし山の脚の膨らみはこの一ヶ月に今までの十年分を増してゐる。ところがこの山のうちでいちばん弱いところは却ってサンムトリの市に寄った方なんだ。今度爆発すれぱ多分山は三分の一サンムトリの側をはねとばして牛や卓子ぐらゐの岩は熱い灰や瓦斯といっしょにどしどしサンムトリ市に落ちてくる。

 そこで今のうちにこの海に向いた方のこゝのところにボーリングを入れて傷口をこしらえて置かなけれぱならない。でわれわれはあした一番でこの山を見に行かうと思ふ。きみは今日中にこっちの仕事をすっかり整理してあづける処は助手にあづけて置いて呉れ給へ。」

 ブドリはよろこんではね上りました。いよいよこれから火山を手術するのだ、面白い面白いと思ふとその晩は一晩仕事を片附けたり調べものをしたりしてまんじりともせず過してしまひました。

七、サンムトリ火山

 朝の一番の汽車でブドリはペンネン老技師と四人の助手たちについてサンムトリ市に行きました。早くも新聞はこの事を知って二人の到着を書き市のたくさんの人たちは二人を迎へてその意見をきゝました。老技師はじぶんの考をおだやかにみんなに談しました。そしてすぐ自働車で山の麓まで行ってそこから山の機械を据えつけてある小さな小屋へ行きました。

 そこはサンムトリ山の古い噴火口の外輪山が海の方へ向いて欠けた所でそこに座ってながめますと海は青や灰いろの幾つもの縞になって見え、その中を汽船は黒いけむりを吐き白い水脉を引いていくつも滑って居りました。それといっしょにブドリは小さな地震と足の下で何かつぶやくやうな音をきゝました。

 老技師はしづかにすべての観測機を調べそれからブドリに云ひました。

「この山は爆発までもう十日もありさうでない。この地震の形を見給へ。明日か明後日のうちに工作をしてしまはないと取り返しがつかないことになる。私はこの山の海に向いた方ではあすこが一番弱いと思ふ。」老技師は指で山腹を指しました。

「あすこには熔岩の層がなくて柔らかな火山礫や灰の層だけだと思はれる。あすこでは熔岩までの深さは二百尺を超へてゐまいと思ふ。そしてこゝは牧場になってゐる。道路も立派にあるのだ。同じやうなところがサンムトリの市に向いた方にもある。そして向ふはこっちよりは一層弱いのだ。ぼくは工作隊を申請しやう。」

 老技師は急がしくまた小屋の中へ入って局へ無電をうちはじめました。その時脚の下ではまたつぶやくやうな微かな音がして粗末な観測小屋はしぱらくぎしぎしぎしぎし軋みました。

 小屋のうしろの火口壁は燃えるやうにまっ赤でしたしずうっと麓の方の林は焼石からたつかげらふにちらちらゆれその向ふでは海がやはり青や群青の縞をつくって黒い船がいくつも静かに滑って居りました。

 老技師は機械を離れました。

「局からすぐ工作隊を出すさうだ。工作隊といっても決死隊だ。私はいままでにこんな危急に迫った仕事をした事がない。」

「明後日までにできるでせうか。」ブドリがきゝました。

「きっとできる。明後日までにボーリングの装置さへしてしまへぱあとはサンムトリ市の郊外から電流で機械を働かせるのだ。」

「それで爆発に間に合ふでせうか。」

「やっと間に合ふだらう。熔岩はもうあすこの地表から三十尺ぐらゐの所までも来てゐるのだ。おしまひは天気が一つ変って気圧が低くなっただけで爆発もする位なんだから。」

 足もとはまたごろごろと鳴り小屋はうしろでまたしばらく軋みました。

「サンムトリ市へ安心させてやらう。地震のたびにびくびくしてゐるだらうから。」老技師はまた無電を市へかけました。それから笑ひました。

「きみ、サンムトリでは火山の方は心配ないといったらそっちはすっかり安心してしまってたゞわれわれが心配だといふんだ。われわれはそこで一つ茶をわかして呑まうではないか。あしたはうんと急がしいんだから。」

 ブドリは持って来たアルコールランプに火を入れて茶をわかしはじめました。技師はまた機械をまはって読みはじめました。空にはだんだん雲が出てそれに日ももう落ちたのか海はさびしい灰いろに変りたくさんの白い波かしらは一せいに火山の裾に寄せそれといっしょに湯沸しはことこと鳴りだし湯気をふきはじめました。

 二人は海をながめながらしづかに茶をのみました。突然山はいままでにないやうな怒ったやうなうなる様な烈しい音をたてました。同時に二人が手にもってゐた茶椀からは湯がこぼれ小屋の窓は向ふの水平線のこっちを三四へん烈しくうごきました。二人は思はずきっとなって顔を見合せましたが老技師がさきに笑ひだしました。

「やるぞ。やるぞ。いまのはサンムトリの市へも可成感じたにちがひない、」ブドリははね上りました。

「先生、かう来なくっちゃ駄日ですな。」

「さう……」老技師が笑ひながら返事しかけたときまたぐらぐらぐらっと山はゆれて二人は床へ投げ出されました。ブドリはもう笑ふどころではありませんでした。

「先生、こゝの観測はあとは私がしますから、先生はどうかサンムトリの市までお引き上げ下さい。」

「それはさうだ。あしたの工作まで二人こゝに居る必要はない。けれども観測はぼくがするからきみは工作隊を迎へに行ってくれ給へ。」老技師は機械をしらべながら云ひました。

「先生、私はフーボー大博士に何の仕事を望むかときかれたときほんたうになければならない仕事なら命を投げ出してもやりたいと云ったのです。観測は先生に教はった通りきっとやりますからどうか先生はサンムトリの市までお引き上げねがひます。」老技師は次の機械にうつりながらわらひました。

「はっは。ぼくもこの仕事にはいるときは亡くなられたパーマー大博士へ似たやうなことを云った。ではまあ落ちつき給へ。この山はいくら吠えてもゆすぶってもあさってまでは噴火せんよ。さわぐ割合にはまだ瓦斯の圧力はそんなに昂ってゐない。今のぐらぐらはぼくらの足もとから北へ一キロばかり地表下七百米ばかりの所でこの小屋の六七十倍ぐらゐの塊が溶岩の中に落ち込んだらしいのだ。ところが瓦斯がいよいよ最后の岩の皮をはね飛ぱすまでにはそんな塊を五百も千もじぶんのからだの中にとらなければなるまい。まあ今晩はひとばんこの通りだらう。いよいよ二十四時以内となったらサンムトリの市へ避難を云ってやらなければなるまい。」

 老技師は機械をはなれて椅子により二人はまた卓をへだてゝ対ひ合ひました。そのうちに海はだんだん青ぐろく変り山はかすかにどこかでうなってゐるだけしばらくの間そこらはしいんとしました。

 そのときブドリは山のうなりのほかに何かかすかなプロペラのやうな音をきいて
「はてな飛行機でせうか。」とつぶやきますと、老技師もいぶかしさうに表を見てゐます。

 ふと窓の左のはじ青じろい夕方の雲のこっちへまるで小さな玩具のやうな飛行船があらはれました。それはぐるうっと山に添ってカーヴしてだんだん観測の小屋の方へ廻ってくるらしいのでした。一人の男がじぶんでかぢをとって乗って居りました。

「あ、フーボー大博士だ。」ブドリは叫びました。

「さうだ。」老技師もぱっと顔いろを熱らせました。

 玩具の飛行船は見る見る大きくなってそれから速力をゆるめました。しらずしらず二人が外へ飛び出したときそれはもう小屋の前の焼石へぴたりととまって居りました。中から灰いろの服を着たせいの高いフウボー大博士がひらりと飛び下りてそこの巨きな岩のさけ日へかぎの様なものを引っかけてそれから手早くねぢをしめました。

 大博士はこっちへやって来ました。

「やあ、お茶をよばれに来たよ。」老技師は手を出し二人はしぱらく手を握ってふりました。

「どうだい。ゆれるかい。」大博士はにやにやわらひました。

「やるねえ。」

「それでは今夜は眠られまい。」

「どうも岩がぽろぽろ上から落ちてゐるらしいんだ。」

「すると手術はあしたかね。」

「あゝあす一日でやらうと思ふ。」

「おいブドリ君。こんどはうまく行きさうかね。」

「は、先生にサンムトリの市までお下りをねがってもさっぱりお許しありませんので。」

「どうしてどうして、この先生は動かんよ。この先生の気持ちでは、火山がみんなこどもだからな。その大病をさし置いてどこへも行けるもんではないんだ。」

「は、けれどもわたくしこゝに居りますから。」

「そんなに今にもやりさうかい。」フーボー大博士ははねあがってどんどん岩をふみました。

 ちゃうどそのとき山は俄かに怒ったやうに鳴り出してブドリはまるで眼の前が青くなったやうに思ひました。それからぐらぐらまだゆれました。気がついてみるとフーボー大博士も老技師もしゃがんで岩へしがみついてゐましたし、大博士の飛行船も大きな波に乗った船のやうにゆっくりゆれて居りました。

 地震はやっとやみフーボー大博士は起きあがってすたすたと小屋へ入って行きました。それから一つ一つていねいに機械を兄廻ってそれから三人でしばらく談し合ひました。山は何べんもぐらぐらゆれその度に三人は床へしがみつきました。外はだんだん暗くなって寒くなりました。

 フーボー大博士はまっくらなおもてへ出て行ってしばらくすると外套を着てはいって来ました。

「麓の方へたくさんあかりが見えるよ。工作隊が来たんでないか。」

 老技師ははねあがりました。

「よし。ブドリ君。こんどこそきみへ観測を頼むよ。ぼくはあすこへ行ってこんやのうちに仕事をきめてしまふから。」

「よしぼくも行かう。ではブドリ君こゝはいよいよきみ一人だぞ。しっかりやってくれ給へ。ネーム君、飛行船へはいり給へ。下りるだけだから二人でも大丈夫だから。」

「さうか。それでは乗せてくれ給へ。」大博士はさきに老技師を船に入れじぶんも乗ると「ブドリ君そのねぢを右にまはしてかぎをはづしてくれ給へ。」といひました。まもなく飛行船はモートルを鳴らしながら一ぺん海の方へ浮き出して沈むやうに下へ沈んで行きました。

 山はまたぐらぐらゆれ下の方のあかりはだんだん山をのぼって来ます。まもなくあかりは一つづつだんだんとまりました。そこヘフーボー大博士の飛行船も行ってゐるらしいのです。それからしぱらくぢっとして居りましたが俄かに青い大きなアークライトがともりやぐらを組み建てる仕事がはじまった様子でした。

 無電のベルが鳴りました。ブドリは小屋へ入って行きました。いろいろ物を言ったり鉄と鉄のふれ合ふ音のこっちからペンネン老技師の声がしました。

「ブドリ君か、瓦斯の圧力はいまいくらだい。」

「三十億気圧です。」「山の形は?」「やっぱり市の方へいくらかづつ喰み出して居ります。」「よし、工作隊は手落ちなく仕度して来た。そこを動かないでゐてくれ給へ。」「は。」無電は切れました。そして朝までに老技師からは六十回ばかりの電話がありました。間にフーボー大博士の何か誰かに言ってゐる声も聞えました。夜があけました。窓の外はすっかり明るくなりました。

 ペンネン技師から発信が来ました。

「ブドリ君だな。ネームだ。いま圧はいくら?」「二百億気圧です。」「山の歪みは」「〇、○○八です。」「よし、こっちは支度ができた。急いで降りて来たまへ 観測の機械はそのまゝで一ぺんしらべて。表は全部持って来給へ。もうその小屋は今日の午后にはなくなるんだから。」ブドリは雀踊こをどりしました。そしてぐらぐらゆれるなかをすっかり云はれた通りに支度して山を下りて行きました。そこにはもう赤く塗っていままで局の倉庫にあった大きな櫓がすっかり組み立ってゐて烈しい真空装置の鑿がそのまん中に装置されモートルはすっかり電線につながって廻るぱかりになってゐました。フウフィーボー博士はもう居ませんでした。けさ早く学校へ帰ったのだといふのです。ペンネン技師は頼がげっそり落ちてゐました。工作隊の人たちも青ざめて眼ぱかりきょろきょろしてゐました。ブドリもきっと同じだったでせう。

「あとはもう電線が向ふの支線まで届けばいゝんだ。」「ブドリ君ぼくは先に少し睡るからこの針を見てゐてくれ給へ。」ペンネン老技師は小さな内部圧カ計を渡して睡ってしまひました。工作隊の人たちもごろごろ睡りました。山は続けてごろごろ鳴りましたが老技師はしづかに睡ってゐます。電線隊からは絶えず報告が来ました。そして丁度一時間ばかりたっとペンネン技師は起き上って「さあブドリ君こんどは君が睡るんだ。向ふへ電線が屈いたら起すから。」ブドリもこれからの仕事があると思って草にねころびましたがどうしても睡れませんでした。

 そのうちペンネン技師は叫びました。

「さあ届いたぞ。動かして見やう。よろしい。そっちの線を連結し給へ。」老技師はスヰッチをひねりました。たちまち鑿は眼にも見えない速さで廻り岩の粉は細いけむりになって櫓の上から飛び綱は見る見る十尺二十尺と沈んで行きました。それから三時間ほどすると綱はもう老技師の計算した三百尺の半分まで沈みました。「では退却しやう。さあいゝか。みんなすっかり仕度して。」みんなは大急ぎで二十台の自働車に乗りました。自働車はいっさんに山の裾をめぐってサンムトリの市に走りました。

 丁度山から二里をへだてた野原でペンネン技師は自働車をとめさせました。「さあこゝへ天幕をはって自働車をみんな入れ給へ。」

 みんなは云はれた通りにしました。

 そこにはクラレといふ百合のやうな花が、まっ白にまぶしく光って、丘にもはざまにもいちめん咲いて居りました。ペンネン技師は草に座って、つくづくとまっ青な空を見あげました。

 みんなの影法師が草にまっ黒に落ちました。みんなはまばたきもせず、じっとサンムトリのあの工作をした裾を見つめました。そしてしいんとしました。

 俄かに向ふのサンムトリの青い光がぐらぐらっとゆれました。それから海の方へ少しまがったやうに見えましたが、忽ち山裾にまっくろなけむりがぱっと立ったと思ふとおかしなきのこの形にそらにのぼりました。

 それから黄金色の熔岩がきらきらきらと流れ出して見る間にずっと扇形にひろがって海に入りました。

「あゝやったやった。」とみんなはそっちに手を延して高く叫びました。

 その時はじめて地面がぐらぐらぐら波のやうにゆれ
「ガーン、ドロドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」と耳もやぶれるぱかりの音がやって来ました。それから風がどうっと吹いて行きました。サンムトリの煙はこのときずうっとひろがりましたが忽ちそこらはまっくらになって大豆ぐらゐの熱いこいしがぱらぱらぱらぱら降ってきました。みんなは天幕の中に入ってなほ山の方を見ましたがまるでそっちは暗くて見えなくなりました。

 礫はしばらくぱらぱらぱらぱら降って居りましたがだんだんそれが小さくなってたうたう生ぬるい火山灰がいちめんに霧のやうに雪のやうにひしひしと降ってきました。野原は一寸の間にまるで古い塩でもまいたやうになりあっちでもこっちでも苦しさうにこんこんせきをする声がしました。ペンネン技師は時計を見つめたまゝじっと立ってゐます。

 けれどもそのうちにだんだん息が楽になってきましたので頭をあげて見ますと野原はもうまるで一めん鼠いろになって灰は一寸ばかり積ってゐました。

「はっは、サンムトリの裾へ瘤ができた。」

 老技師がまるで粉屋のやうになりながら云ひました。みんなは互に灰をはたき合ひました。

 その夕方みんなは一寸もある灰の上をまた火山の方へ自働車を走らせました。灰はだんだん深く粗くなり大きな岩はごろごろころがってみちも何ももうわからなくなり車はもう進まれなくなりました。みんなはさっきは三十分ばかりで来た分を四時間ばかりかかってやっと小さな天幕をまっ赤な熔岩流の噴き口、ごたごたした黒い岩の小山の下に今朝やぐらのあったずうっとこっちへ張りました。もちろん櫓も電線も影も形もありませんでした。

七、

 サンムトリから帰りますとある日ブドリはペンネン技師と、クーボー大博士から招待を受けました。博士が今日は大へん機嫌よくいろいろ冗談を云ったり笑ったりして居りました。博士が云ひました。

「ブドリ君。きみは林のなかにも居たし、沼ばたけでも働いてゐた。沼ばたけではどういふことがさしあたり一番必要なことなのか。」

「いちばんつらいのは夏の寒さでした。そのために幾万の人が飢え幾万のこどもが孤児になったかわかりません。」

「それは容易のことでない。次はどういふことなのか。」

「次はひでりで雨の降らないことです。幾万の百娃たちがその為に土地をなくしたり馬を売ったりいたしました。」

「それはいくらかどうにかなる。次はどういふことなのか。」

「次はこやしのないことです。百姓たちはもう遠くから肥料を買ふだけ力がないのです。」

「それはどうにかなるだらう。ねえ。ペンネン君。火山工事をするためには、もうどうしても潮汐発電所を二百も作らなければならない。その原料は充分ある。それが首尾よく作れれば、あとはひとりで解決される。きみはこの春その案を、工務委員へ出したまへ。」

 それから三年の間にクーボー大博士の考通り海カ発電所はイーハトーブの沿岸に二百も配置されました。イーハトーブをめぐる火山には観測所といっしょに例の櫓があちこち立って居りました。ブドリはいつか技師心得になって一年の大部分は火山から火山と飛行艇に乗って廻ってあるいたり危くなった火山を工作したりしてゐました。

 その年イーハトーブの火山の頂上にはみんな巨きな櫓がたちました。それから火山局からみんなへ次のやうな通知が出ました。

「ほしいくらゐ窒素肥料を降らせてあげます。

 潮汐発電所が全部完成しましたから、火山局では今年からみなさんの沼ばたけや果樹園や歳菜ばたけへ硝酸肥料を地方ごとに空中から降らせることにいたします。みなさんの方からその必要な分を云ってよこして下さい。」

 すると各地方からたくさんの手紙が火山局にやって来ました。その夏の六月の曇ったある日クーボー大博士とペンネン技師とブドリとはイーハトーブ火山の頂上の放電所に立ってゐました。

 下はいちめんの雲の海であちこち黒い火山の峯が島のやうに黒く出てゐました。その上を一隻の飛行船がその船尾のところからまっ白な煙幕を噴いて一つの峯から一つの峯へちゃうど橋をかけるやうに飛びまはってゐました。そのけむりは下の雲の海にどんより沈んで行って間もなくいちめんの雲の海にはうす白く光る大きな網が山から山へ張り亘されました。まもなく飛行船はけむりを納めてブドリたちに挨拶して雲の中へ沈んで行ってしまひました。

 クーボー大博士は愉快さうに口笛を吹きました。

「下ではザアザア降ってるさうだ。」ペンネン技師も受話器を置いて愉快さうに云ひました。

 まもなく下の局から合図が来ました。

 ブドリはぼたんを押しました。見る見るさっきのけむりの網は美しい桃いろや青や紫にパッパッと日もさめるやうにかゞやきながら点いたり消えたりしました。クーボー大博士はまるでこどものやうに喜んで手を叩きました。

「もう硝酸が見えてるさうだ。」ペンネン技師は、また受話器をはなれて云ひました。「来年からは加里の粉も播くとしやう。」

 そして三人はその夜ひとばん山の上でその美しい景色を見ながらこれからの計画をいろいろ語りつゞけました。暁方近くなっていつかあの網の目はぼんやり消えてしまひ、はじめはぶつぶつ眩くやうにしか聞えなかった雷がだんだん烈しくなって来ますとクーボー大博士はブドリに放電を止めさせました。

 こんな工合にしてイーハトーブのその年のオリザの株はいままで七年の間に見たこともないほどよくなり秋には稔りも非常によくてあっちからもこっちからも礼状が沢山着きました。ところがある日ブドリがタチナといふ火山へ行った帰り沼ばたけの間を通りますと一人の百姓がいきなりブドリの行手に立ちふさがりました。

「おいお前今年の夏電気で肥料降らせたブドリだな。」

「さうだ。」ブドリはお礼を云はれると思って笑って答へました。するとその男は向ふを向いて高く叫びました。「火山局のやつ来たぞ。みんな集れ。」

 すると七八人の百姓たちがみんな血相を変へてかけつけて来ました。

「この野郎きさまの電気のお蔭でおいらのオリザみんな倒れてしまったぞ。何してあんなまねしやがったのだ。」

 ブドリは身構へして云ひました。

「倒れた? そんなに沢山こやしを降らせたのでない。おまへたちが沢山やったのだらう。」

「何、この野郎」それからみんなは寄ってたかって、ブドリを胴上げにしました。ブドリは草の中へ落されてたうたう気絶してしまひました。

 気がついて見るとブドリは病院に入ってゐました。起き上らうとしてもからだ中痛くてどうしても起きあがれませんでした。枕もとにはいろいろな花や何かゞ沢山ありました。クーボー大博士からの見舞の電報もありました。その次の午ころでした。看護婦が入って来ました。

「ネリといふご婦人のお方が訪ねておいでになりました。」ブドリははね上らうとしましたができませんでした。「連れてきて下さい。その人を。」ブドリは叫びました。まもなく一人の百姓のおかみさんのやうな人がおづおづと入って来ました。ブドリは釘づけにされたやうにみつめました。それこそはあの森で誰かにつれて行かれたネリだったのです。

「あゝネリ、おまへはいままでどこに居たんだ。」

 ネリはしばらく半巾を顔にあてゝ泣いて物を云へませんでしたがやっとおづおづとイーハトーボの百姓のことばで、森から連れて行かれたあとのことを談しました。ネリはしばらく籠へ入れられて行きましたが、何と思ったか三日ばかりの后その男はネリをある小さな牧場のクローバーの上に置いて行ってしまったのでした。ネリが泣いてゐますと、この牧場の主人が可哀さうに思って家へ入れて赤ん坊の世話をさせたりしてゐましたらだんだんネリはいろいろ働けるやうになってたうたう三四年前にその小さな牧場の一番上の息子と結婚したといふのでした。そして今年は肥料も降ったのでいつもなら厩肥を遠くまで運び出したり大へん難儀するのを近くのかぶらの畑へみんな入れたし遠くの牧草地もよくできて父も悦んでゐたけれどもまだその仕事をブドリがしてゐたのは知らなかったのに新聞でブドリのけがしたのを知って見舞に来たのだと云ひました。ブドリはもう病気も治ったやうに思ひました。そしてまた訪ねてくる約束をしてネリは帰って行きました。

八、次の寒さ。

 それから二年過ぎました。

 その年の春測侯所では今年も丁度ブドリの十二の年と同じ寒さが来るといふことをみんなに知らせました。野原ではもう非常にみんなさわぎ出しました。

 大博士も
「早舷ならぱ何でもないが、寒さとなると仕方ない」とだけしか云はなかったのでした。ところが五月も過ぎ六月も過ぎてそれでも緑にならない樹を見ますとブドリはもう居ても立ってもゐられませんでした。あのイーハトーブの森にも野原にも今年の秋ちゃうどブドリのお父さんたちやお母さんたちのやうになる人やまたブドリとネリのやうにいろいろな難儀にあふ人ができてくるのです。ブドリは潮汐発電所の電気を全部電燈に代へて沼ばたけを照すことを考へてみました。けれどもそれは計算して見ると何にもならないのでした。たうたうたまらなくなってブドリはクーボー大博士を訪ねました。

「先生、今年もとてもだめらしいのです。」

「いや、きみ、そんなにあせるものでない。人はやるだけのことはやるべきである。けれどもどうしてもどうしてももうできないときは落ちついてわらってゐなければならん。落ちつき給へ。きみも森や沼ぱたけに永い間居たことのあるものなら沼ばたけの水路に春生れるおたまじゃくしの何疋が蛙になるかよく知ってるだらう。イーハトヴ川が一ぺん氾濫すれぱ幾億の野鼠が死ぬかもきみに想像がつくだらう。落ちつき給へ。」

 ブドリはけれどもどうしてもまだあきらめかねるのでした。もう肥料は自由に降らせることができるし旱魃は自由に避けることができる、もし今年のこの夏の寒さを救へたら、ブドリは深くうなだれてため息をつきました。

 クーボー大博士が云ひました。

「きみはどうしてもあきらめることができないのか。それではこゝにたった一つの道がある。それはあの火山島のカルボナードだ。あれは今まで度々炭酸瓦斯を吹いたやうだ。僕の計算ではあれはいま地球の上層の気流にすっかり炭酸瓦斯をまぜて地球ぜんたいの温度の放散を防ぎ地球の温度を七度温にする位のカをもってゐる。もしあれを上層気流の強い日に爆発させるなら瓦斯はすぐ大循環の風にまじって地球全体を包むだらう。けれどもそれはちゃうど猪の首に鈴をつけに行く鼠のやうな相談だ。あれが爆発するときはもう遁げるひまも何もないのだ。」ブドリが云ひました。「私にそれをやらせて下さい。私はきっとやります。そして私はその大循環の風になるのです。あの青ぞらのごみになるのです。」

「私はそれを何とも云ふことができない。きみはペンネン技師と相談し給へ。」

 ブドリは帰ってペンネン技師に相談しました。

 すると技師が云ひました。「それは面白い計画だ。けれども僕がそれをやらう。僕はもう今年六十なのだ。さういふ仕事でからだを灼くなら何といふ本望だらう。」

 「先生、私はきっとしくじるかも知れません。そしたらどうか先生がお出で下さい。はじめの一ぺんだけはどうか私にやらせていたゞきます。」

 ペンネン技師の眼には涙がひかりました。

 ブドリはすぐに仕度をとゝのえはじめました。ある日玄関が大へんさわがしいので出て見ますとそれはいつかのブドリを胴上げにした連中でした。ブドリが出て行くとみんな泪を流して云ひました。

「先生私たちはじぶんらのしくじったことを知らないで先生をひどい眼にあはせました。どうかこんどの海の爆発へおつれ下さい。おねがひいたします。」

 ブドリは考があったので承知しました。

 それから十日の后一隻の船はカルボナード島へ行きました。そこへいつものやぐらが建ち電線は連結されました。ブドリはみんなを船で返してしまってじぶんが一人島に残りました。

 それから三日の后イーハトーブの人たちはそらがへんに濁って青ぞらは緑いろになり月も日も血のいろになったのを見ました。

 みんなはブドリのために喪章をつけた旗を軒ごとに立てました。そしてそれから三四日の後だんだん暖くなってきてたうたう普通の作柄の年になりました。ちゃうどこのお話のはじまりのやうになる筈のたくさんのブドリのお父さんやお母さんたちはたくさんのブドリやネリといっしょにその冬を明るい薪と暖い食物で暮すことができたのでした。