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 ハーシュは籠を頭に載っけて午前中町かどに立っていましたがどう云うわけか一つも仕事がありませんでした。呆れて籠をおろして腰をかけ辨当をたべはじめましたら一人の赤髯の男がせわしそうにやって来ました。
「おい、大急ぎだ。兵営の普請に足りなくなったからテレピン油を工場から買って来て呉れ。そら、あすこにある車をひいてね、四缶だけ、この名刺を持って行くんだ。」
「どこへ行くのです。」ハーシュは辨当をしまって立ちあがりながら訊きました。
「そいつを今云うよ。いいか。その橋を渡って楊の並木に出るだろう。十町ばかり行くと白い杭が右側に立っている。そこから右に入るんだ。すると蕈の形をした松林があるからね、そいつに入って行けばいいんだ。いや、路がひとりでそこへ行くよ。林の裏側に工場がある。さあ、早く。」
 ハーシュは大きな名刺を受け取りました。赤鬚の男はぐいぐいハーシュの手を引っぱって一台のよぼよぼの車のとこまで連れて行きました。
「さあ、早く。今日中に塗っちまわなけぁいけないんだから。」
 ハーシュは車を引っぱりました。
 間もなくハーシュは楊並木の白い杭の立っている所まで来ました。
「おや、蕈の形の林だなんて。こんな蕈があるもんか。あの男は来たことがないんだな。」ハーシュはそっちの方へ路をまがりながら貰って来た大きな名刺を見ました。
「土木建築設計工作等請負 ニジニ、ハラウ、ふん、テレピン油の工場だなんて見るのははじめてだぞ。」
 ハーシュは車をひいて青い松林のすぐそばまで来ました。すがすがしい松脂のにおいがして鳥もツンツン啼きました。みちはやっと車が通るぐらい、おおばこが二列にみちの中に生え 何べんも日が照ったり蔭ったりしてその黄いろのみちの土は明るくなったり暗くなったりしました。ふとハーシュは縮れ毛の可愛らしい子供が水色の水兵服を着て空気銃を持ってばらの藪のこっち側に立ってしげしげとハーシュの車をひいて来るのを見ているのに気が付きました。あんまりこっちを見ているのでハーシュはわらいました。
 すると子供は少し機嫌の悪い顔をしていましたがハーシュがすぐそのそばまで行きましたら俄かに子供が叫びました。
「僕、車へのせてってお呉れ。」
 ハーシュはとまりました。
「この車がたがたしますよ。よござんすか。坊ちゃん。」
「がたがたしたって僕ちっともこわくない。」こどもが大威張りで云いました。
「そんならお乗りなさい。よおっと。そら。しっかりつかまっておいでなさい。鉄砲は前へ置いて。そら、動きますよ。」ハーシュはうしろを見ながら車をそろそろ引っぱりはじめました。子供は思ったよりも車ががたがたするので唇をまげてやっぱり少し怖いようでした。それでも一生けん命つかまっていました。ハーシュはずんずん車を引っぱりました。みちがだんだんせまくなって車の輪はたびたび道のふちの草の上を通りました。そのたびに車はがたっとゆれました。子供は一生けん命車にしがみついていました。みちはだんだんせまくなってまん中だけが凹んで来ました。ハーシュは車をとめてこどもをふりかえって見ました。
「雀とってお呉れ。」こどもが云いました。
「今に向うへついたらとってあげますよ。それとも坊ちゃんもう下りますか。」ハーシュは松林の向うの水いろに光る空を見ながら云いました。「下りない。」子供がしっかりつかまりながら答えました。ハーシュはまた車を引っぱりました。
 ところがそのうちにハーシュはあんまり車ががたがたするように思いましたのでふり返って見ましたら車の輪は両方下の方で集まってくさび形になっていました。
「みちのまん中が凹んでいるためだ。それにどこかこわれたな。」ハーシュは思いながらとまってしずかにかじをおろしだまって車をしらべて見ましたら車輪のくさびが一本ぬけていました。
「坊ちゃん、もうおりて下さい。車がこわれたんですよ。あぶないですから。」
「いやだよう。」
「仕方ないな。」ハーシュはつぶやきながらあたりを見まわしました。たしかに構わないで置けば車輪はすっかり抜けてしまうのでした。
「坊ちゃん、では少し待っていて下さいね。いま縄をさがしますから。」ハーシュはすぐ前の左の方に入って行くちいさな路を見付けて云いました。そしてそのみちは向うの林のかげの一軒の百姓家へ入るらしいのでした。ハーシュはそのみちを急いで行きました。麦のはぜがずうっとかかってその向うに小さな赤い屋根の家と井戸と柳の木とが明るく日光に照っているのを見ました。
 ハーシュはその麦はぜの下に一本の縄が落ちているのを見ました。ハーシュは屈んで拾おうとしましたら、いきなりうしろから高い女の声がしました。
「何する、持って行くな、ひとのもの。」ハーシュはびっくりしてふり返って見ましたら顔の赤いせいの高い百姓のおかみさんでした。ハーシュはどぎまぎして云いました。
「車がこわれましてね。あとで何かお礼をしますからどうかゆずってやって下さい。」
「いけない。ひとが一生けん命綯ったものをだまって持って行く。町の者みんな斯うだ。」
 ハーシュはしょげて縄をそこに置いて車の方に戻りました。百姓のおかみさんはあとでまだぶつぶつ云っていました。
「あの縄綯うに一時間かかったんだ。仕方ない。怒るのはもっともだ。」ハーシュは眼をつぶってそう思いました。
「ああ、くさび何処かに落ちてるな。さがせばいいんだ。」
 ハーシュは車のとこに戻ってそれから又来た方を戻ってくさびをたずねました。「早くおいでよ。」子供が足を長くして車の上に座りながら云いました。
 くさびはすぐおおばこの中に落ちていました。
「あ、あった。何でもない。」ハーシュはくさびを車輪にはめようとしました。
「まだはめない方がいいよ。すぐ川があるから。」子供が云いました。
 ハーシュは笑いながらくさびをはめて油で黒くなった手を草になすりました。
「さあ行きますよ。」
 車がまた動きました。ところが子供の云ったようにすぐ小さな川があったのです。二本の松木が橋になっていました。
 ははあ、この子供がくさびをはめない方がいいと云ったのは車輪が下で寄さってこの橋を通れるというのだな、ハーシュはひとりで考えて笑いました。
 水は二寸ぐらいしかありませんでしたからハーシュは車を引いて川をわたりました。砂利ががりがり云い子供はいよいよ一生けん命にしがみ附いていました。
 そして松林のはずれに小さなテレピン油の工場が見えて来ました。松やにの匂がしぃんとして青い煙はあがり日光はさんさんと降っていました。その戸口にハーシュは車をとめて叫びました。
「兵営からテレピン油を取りに来ました。」
 技師長兼職工が笑って顔を出しました。
「済みません。いまお届けしようと思っていましたが手があきませんでね。」
「いいえ、私はただ頼まれて来たんです。」
「そうですか。すぐあげます。おい、どこへ行ったんだ。」
 技師長は子供に云いました。
「どうも車が遅くてね。」
「それはいかんな。」技師長がわらいました。ハーシュもわらいました、ほんとうに面白かった、こんなに遊びながら仕事になるんなら今日午前中仕事がなくていやな気がしたののうめ合せにはたくさんだとハーシュは思いました。