このテキストは「銀河鉄道の夜」原稿の変遷を色分けで表示したものです。色分けの区分は以下のとおりです。

初期形までに削除された部分
最初からあって最終形で削除された部分
最初から最終形までそのままの部分

        四、ケンタウル祭の夜

(そら、ぼくの影ぼうしは、だんだんみぢかくなって、ぼくへ追ひついて来る。じきにすっかりちぢまっちまふぞ。)
 ジョバンニは、口笛を吹いてゐるやうなさびしい口付きで、 うしろをふりかへって、こんなことを考へながら、 檜のまっ黒にならんだ町の坂を下りて来たのでした。
 坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立ってゐました。 ほんたうに ジョバンニが、どんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののやうに、長くぼんやり、うしろへ引いてゐたジョバンニの影ばうしは、だんだん濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の方へまはって来るのでした。
(ぼくは まるで軽便鉄道の 機関車だ。ここは勾配だから こんなに 速い 。ぼくはいまその電燈を通り越す。 しゅっしゅっ。 そ ら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまはって、前の方へ来た。)
 とジョバンニが思ひながら、大股にその街燈の下を通り過ぎたとき、いきなり 一人の顔の赤い 、新しいえりの尖ったシャツを着 た小さな子が 電燈の向ふ側の暗い小路から出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがひました。

「ザネリ、 どこへ行ったの。 」ジョバンニが 半分云ひかけたときは、もうまるでだしぬけに、うしろの坂のさっきの檜の方から、その子が投げつけるやうに叫んでゐました。
「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」
 ジョバンニは、ばっと胸がつめたくなり、そこら中きぃんと鳴るやうに思ひました。

 なぜならジョバンニのお父さんは、そんならっこや海豹をとる、 密猟船に乗ってゐて、それになにかひとを怪我させたために、遠くのさびしい海峡の町の監獄に入ってゐるといふのでした。ですから今夜だって、みんなが町の広場にあつまって、一緒に星めぐりの歌をうたったり、川へ青い烏瓜のあかしを流したりする、たのしいケンタウル祭の晩なのに、ジョバンニはぼろぼろのふだん着のままで、病気のおっかさんの牛乳の配られて来ないのをとりに、下の町はづれまで行くのでした。
(ザネリは、どうしてぼくがなんにもしないのに、あんなことを云ふのだらう。ぼくのお父さんは、わるくて監獄にはいってゐるのではない。わるいことなど、お父さんがする筈はないんだ。去年の夏、帰って来たときだって、ちょっと見たときはびっくりしたけれども、ほんたうはにこにこわらって、それにあの荷物を解ゐたときならどうだ、鮭の皮でこさえた大きな靴だの、となかひの角だの、どんなにぼくは、よろこんではねあがって

叫んだかしれない。ぼくは学校へ持って行ってみんなに見せた。先生までめづらしいといって見たんだ。いまだってちゃんと標本室にある。それにザネリやなんかあんまりだ。けれどもあんなことをいふのはばかだからだ。)

 ジョバンニは、せはしくいろいろのことを考へながら、さまざまの灯や木の枝で、 きれいに飾られた街を通って行きました。時計屋の店には明るくネオン燈がついて、一秒ごとに石でこさえたふくらふの赤い眼が、くるっくるっとうごゐたり、 眩いプラチナや黄金の鎖だの、いろいろな宝石のはいった指環だのが 海のやうな色をした厚い硝子の盤に載って ゆっくり循ったり、また向ふ側から、銅の人馬がゆっくりこっちへまはって来たりするのでした。
(あゝ、もしぼくがいまのやうに、朝暗いふちから二時間も新聞を折ってまはしにあるいたり、学校から帰ってからまで、活版処へ行って活字をひろったりしないでもいいやうなら、学校でも前のやうにもっとおもしろくて、人馬だって球投げだって、誰にも負けないで、一生けん命やれたんだ。それがもういまは、誰もぼくとあそばない。ぼくはたったひとりになってしまった。)
 ジョバンニはきうくつな上着の肩を気にしながら、それでも胸を張って大きく手を振って町を通って行きました。そのケンタウル祭の夜の町のきれいなことは、空

気は澄みきって、まるで水のやうに通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまっ青なもみや楢の枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木などは、中に沢山の豆電燈がついて、ほんたうに 人魚の都のやうに見えるのでした。子どもらは、みんな新らしい折のついた着物を着て、星めぐりの口笛を吹いたり、
「ケンタウルス、露をふらせ。」と叫んで走ったり、青いマグネシヤの花火を燃したりして、たのしさうに遊んでゐるのでした。けれどもジョバンニは、いつかまた深く首を垂れて、 まるでちがったことを考えながら、 町はずれへ 急ぐのでした。
(お母さんは、ほんたうにきのどくだ。毎日あんまり心配して、それでも無理に外へ出て、 燕麦を刈ったりはたらいたのだ。あの晩、おっかさんは、あんまり動悸がするからジョバンニ、起きてお湯をわかしてお呉れと云ってぼくをおこした。おっかさんが、ぼんやり辛さうに息をして、唇のいろまで変わってゐたんだ。ぼくはたったひとり、まるで馬鹿のやうに火を吹きつけてお湯をわかした。手をあたためてあげたり、胸に湿布をしたり、頭を冷したり、いろいろしても、おっかさんはたゞだるさうに、もういゝよといふきりだった。ぼくはどんなに、つらかったかわからない。)  ジョバンニは、いつか

町はづれのポプラの木が幾本も幾本も、高く星ぞらに浮んでゐるところに来てゐました。その牛乳屋の黒い門を入り、牛の匂のするうすくらい台所の前に立って、ジョバンニは帽子をぬいで「今晩は、」と云ひましたら、家の中はしぃんとして誰も居たやうではありませんでした。
「今晩は、ごめんなさい。」ジョバンニはまっすぐに立ってまた叫びました。するとしばらくたってから、年老った 下女が、横の方からバケツをさげて 出て来て 云ひました。
「今晩だめですよ。誰も居ませんよ。」
「あの、今日、牛乳が僕んとこへ来なかったので、貰ひにあがったんです。」ジョバンニが一生けん命勢よく云ひました。
ちち、今日はもうありませんよ。 あしたにして下さい。」
下女は着物のふちで 赤い眼の下のとこを擦りながら、 しげしげ ジョバンニを見 云ひました。
「おっかさんが病気なんです がないんでせうか。
「ありませんよ。お気の毒ですけれど。」下女は もう行ってしまひさうでした。
「さうですか。ではありがたう。」ジョバンニは、お辞儀をして台所から出ました けれども、なぜか泪がいっぱいに湧きました
(今日、銀貨が一枚さえあったら、どこからでも

コンデンスミルクを買って帰るんだけれど。ああ、ぼくはどんなにお金がほしいだらう。青い苹果だってもうできてゐるんだ。カムパネルラなんか、ほんたうにいいなあ。今日だって、銀貨を二枚も、運動場で弾いたりしてゐた。
 ぼくはどうして、カムパネルラのやうに生まれなかったらう。カムパネルラなら、ステッドラーの色鉛筆でも何でも買へる。それにほんたうにカムパネルラはえらい。せいだって高いし、いつでもわらってゐる。一年生のころは、あんまりできなかったけれども、いまはもう一番で級長で、誰だって追ひ付きやしない。算術だって、むづかしい歩合算でも、ちょっと頭を曲げればすぐできる。絵なんかあんなにうまい。水車を写生したのなどは、をとなだってあれくらいにできやしない。ぼくがカムパネルラと友だちだったら、どんなにいゝだらう。カムパネルラは、決してひとの悪口などを云はない。そして誰だって、カムパネルラをわるくおもってゐない。けれども、あゝ、おっかさんは、いまうちでぼくを待ってゐる。ぼくは早く帰って、牛乳はないけれども、おっかさんの額にキスをして、あの時計屋のふくらふの飾りのことをお話しやう。)
 ジョバンニは、せわしくこんなことを考へながら、さっき来た町かどを、
まがらうとしましたら、向うの 雑貨店の前で、黒い影やぼんやり白いシャツが入り乱れて、六七人の生徒らが、口笛を吹いたり笑ったりして、 烏瓜

の燈火を持ってやって来るのを見ました。その笑ひ声も口笛も、みんな聞きおぼえのあるものでした。ジョバンニの同級の子供らだったのです。ジョバンニは思はずどきっとして戻らうとしましたが、思ひ直して、一さう勢よくそっちへ歩いて行きました。
「川へ行くの。」ジョバンニが云はうとして、少しのどがつまったやうに思ったとき、
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」さっきのザネリがまた叫びました。
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」すぐみんなが、続いて叫びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いてゐるかもわからず、急いで行きすぎやうとしましたら、そのなかにカムパネルラが居たのです。カムパネルラは気の毒さうに、だまって少しわらって、怒らないだらうかといふやうにジョバンニの方を見てゐました。
 ジョバンニは、遁げるやうにその眼を避け、そしてカムパネルラのせいの高いかたちが過ぎて行って間もなく、みんなはてんでに口笛を吹きました。町かどを曲るとき、ふりかへって見ましたら、ザネリがやはりふりかへって見てゐました。そしてカムパネルラもまた、高く口笛を吹いて 行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも云へずさびしくなって、いきなり走り出しました。すると耳に手をあてゝ、わああと云ひながら片足でぴょんぴょん跳んでゐた小さな子供らは、

ジョバンニが面白くてかけるのだと思ってわあいと叫びました。どんどんジョバンニは走りました。
 けれどもジョバンニは、まっすぐに坂をのぼって、あの檜の中のおっかさんの家へは帰らないで、ちゃうどその北の
町はづれへ走って行ったのです。そこには、河原のぼうっと白く見える、小さな川があって、細い鉄の欄干のつゐた橋がかかっていました。
(ぼくはどこへもあそびに行くとこがない。ぼくはみんなから、まるで狐のやうに見えるんだ。)
 ジョバンニは橋の上でとまって、ちょっとの間、
なき出したいのをごまかして せわしい息できれぎれに口笛を吹 いて 立っていましたが、俄かにまたちからいっぱい走りだしました。

        五、天気輪の柱

  のうしろはゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は、北の大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも低く連って見えました。
 ジョバンニは、もう露の降りかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼって行きました。まっくらな草や、いろいろな形に見えるやぶのしげみの間を、その小さなみちが、一すじ白く星あかりに照らしだされてあったのです。草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もゐて、ある葉は すかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの持って行った烏瓜のあかりのやうだとも思ひました。
 そのまっ黒な、松や楢の林を越えると、俄かにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亘ってゐるのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねさうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢の中からでも薫りだしたといふやうに咲き、鳥が一疋、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。
 ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。
 町の灯は、暗の中をまるで海の底のお宮のけしきのやうにともり、子供らの歌う声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の

草もしづかにそよぎ、ジョバンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。 ジョバンニはじっと天の川を見ながら考へました。

(ぼくはもう、遠くへ行ってしまひたい。みんなからはなれて、どこまでもどこまでも行ってしまひたい。それでも、もしカムパネルラが、ぼくといっしょに来てくれたら、そして二人で、野原やさまざまの家をスケッチしながら、どこまでもどこまでも行くのなら、どんなにいいだらう。カムパネルラは決してぼくを怒ってゐないのだ。そしてぼくは、どんなに友だちがほしいだらう。ぼくはもう、カムパネルラが、ほんたうにぼくの友だちになって、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやってもいい。けれどもさう云はうと思っても、いまはぼくはそれを、カムパネルラに云へなくなってしまった。一緒に遊ぶひまだってないんだ。ぼくはもう、空の遠くの遠くの方へ、たった一人で飛んで行ってしまひたい。)
  野原 から汽車の音が聞え ました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらったり、いろいろな風にしてゐると考へますと、ジョバンニは、もう何とも云へずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。 あの青い琴の星さえ蕈のやうに脚が長くなって、三つにも四つにもわかれ、ちらちら忙しく瞬いたのでした。
「カムパネルラとたった二人、まっすぐにあの天の川の
「あゝあの白いそらの帯が 牛乳の川だ
[以下原稿五枚なし]

ら、やっぱりその青い星を見つゞけてゐました。
 ところがいくら見てゐても、 そこは博士の 云ったやうな、がらんとした冷いとこだとは思はれませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のやうに考へられて仕方なかったのです。そしてジョバンニは その 琴の星が、 また二つにも三つにも なって、ちらちら瞬き、脚が何べんも出たり引っ込んだりして、たうたう蕈のやうに長く延びるのを見ました。

        六、銀河ステーション

(さっきもちゃうど、あんなになった。)
 ジョバンニが、こう呟くか呟かないうちに、愕いたことは、いままでぼんやり蕈のかたちをしてゐた、その青じろいひかりが、にわかにはっきりした
三角標の形になって、しばらく蛍のやうに、ぺかぺか消えたりともったりして ゐましたが、 たうたうりんとうごかないやうになり、濃い鋼青のそらの野原にたちました。いま新らしく灼いたばかりの青い鋼の板のやうな、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。
(いくらなんでも、あんまりひどい。ひかりがあんなチョコレートででも組みあげたやうな三角標になるなんて。)
 ジョバンニは、思わず誰へともなしにさう叫びました。
 するとちゃうど、それに返事をするやうに、どこか遠く遠くののもやの中から、セロのやうなごうごうした声がきこえて来ました。
(ひかりといふものは、ひとつのエネルギーだよ。お菓子や三角標も、みんないろいろに組みあげられたエネルギーが、またいろいろに組みあげられてできてゐる。だから規則さえさうならば、ひかりがお菓子になることもあるのだ。たゞおまへは、いままでそんな規則のとこに居なかっただけだ。ここらはまるで約束がとがふからな。)

 ジョバンニは、わかったやうな、わからないやうな、おかしな気がして、だまってそこらを見てゐました。
 するとこんどは、前からでもうしろからでもどこからでもない
ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと きこえました。そしていよいよおかしいことは、その語が、少しもジョバンニの知らない語なのに、その意味はちゃんとわかるのでした。
(さうだ、やっぱりあれは、ほんたうの三角標だ。頂上には、白鳥の形を描ゐた測量旗だってひらひらしてゐる。)ジョバンニがさう思ったときでした。
いきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたといふ工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばら撒いたといふ風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼を擦ってしまいました。 実にその光は、広い一本の帯になって、ところどころ枝を出したり、二つに岐れたりしながら、空の野原を北から南へ、しらしらと流れるのでした。
(あの光る砂利の上には、水が流れてゐるやうだ。)
 ジョバンニは、ちょっとさう思ひました。するとすぐ、あのセロのやうな声が答へたのです。
(水が流れてゐる?水かね、ほんたうに。)

 ジョバンニは一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きはめやうとしましたが、どうしてもそれが、はっきりしませんでした。
(どうもぼくには水だかなんだかよくわからない。けれどもたしかにながれてゐる。そしてまるで風と区別されないやうにも見える。あんまりすきとほって、それに軽さうだから。)ジョバンニはひとりで呟きました。
 すると、どこかずうっと遠くで、なにかが大へんよろこんで、手を拍ったといふやうな気がしました。
 見ると、いまはもう、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとほって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のやうにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立ってゐたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、或ひは三角形、或ひは四辺形、あるひは電や鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光ってゐるのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。するとほんたうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかゞやく三角標も、てんでに息をつくやうに、ちらちらゆれたり顫えたりしました。
「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。」ジョバンニは

呟きました。「けれども僕は、ずうっと前から、ここでねむってゐたのではなかったらうか。ぼくは決して、こんな野原を歩いて来たのではない。途中のことを考へ出さうとしても、なんにもないんだから。」ところが、ふと  気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗ってゐる小さな列車が走りつづけてゐたのでした。ほんたうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら座ってゐたのです。車室の中は、青い天蚕絨を張った腰掛けが、まるでがら明きで、 ほんの六七人の、アラビヤ風のゆるい着物を着た人たちが、眼鏡を直したり、何か本を読んだりしてゐるだけ、 向うの鼠いろのワニスを塗った壁には、真鍮の大きなぼたんが二つ光ってゐるのでした。
  ところが、ジョバンニは、眼をじぶんの近くに戻して、ふとじぶんの すぐ前の席に、ぬれたやうにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見てゐるのに気が付きました。そしてそのこどもの肩のあたりが、どうも見たことのあるやうな気がして、さう思ふと、もうどうしても誰だかわかりたくて、 涙がでるくらゐ、 たまらなくなりました。いきなりこっちも窓から顔を出さうとしたとき、俄かにその子供が頭を引っ込めて、こっちを見ました。
 それは 級長の カムパネルラだったのです。
  (ああ、さうだ。カムパネルラだ。ぼくはカムパネル

ラといっしょに旅をしてゐたのだ。) ジョバンニが、 思ったとき、カムパネルラが 云ひました。
「 ザネリ ね、ずいぶん走ったけれども 乗り遅れたよ。 銀河ステーションの時計はよほど進んでゐるねえ。
 ジョバンニは、(さうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)とおもひながら、
次の停車場で下りて、ザネリの来るのを 待ってゐやうか」と云ひました。
「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎ひにきたんだ。」
 カムパネルラは、なぜかさう云ひながら、少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいといふふう に、頬をぴくっとしま した。するとジョバンニも、なんだかどこかに、 大へん済まないことがして あるといふやうな、おかしな気持ちがしてだまってしまひました。
 ところがカムパネルラは、窓から外をのぞきながら、もうすっかり元気が直って、勢よく云ひました。
「ああしまった。ぼく、水筒を忘れてきた。スケッチ帳も忘れてきた。けれど構はない。もうぢき白鳥の停車場だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんたうにすきだ。川の遠くを飛んでゐたって、ぼく きっと見える。」そして、カムパネルラは、円い板のやうになった地図を、しきりにぐるぐるまはして見てゐました。まったくその中に、白くあらはされた天の川の左の岸に沿って一条の鉄道線路が、南へ南へとたどって行くのでした。そしてその地

図の立派なことは、夜のやうにまっ黒な盤の上に、一一の停車場や三角標、泉水や森が、青や橙や緑や、うつくしい光でちりばめられてありました。
「この地図はどこで買ったの。黒曜石でできてるねえ。」
 ジョバンニが云ひました。
「銀河ステーションで、もらったんだ。君もらはなかったの。」
「あゝ、ぼく銀河ステーションを通ったらうか。いまぼくたちの居るとこ 、ここだらう。」
 ジョバンニは、白鳥と書いてある停車場のしるしの、すぐ北を指しました。
「さうだ。おや、あの河原は月夜だらうか。」
 そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすゝきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立ててゐるのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云ひながら、まるではね上りたいくらゐ愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹き ました。
「ぼくたち、どこまで行くんだったらう。」ジョバンニはふと天の川のこっちに、大きな一つのからな小屋が建ち、そこから滑車や綱が、たくさんぶらさがってゐるのを見ながら、カムパネルラにききました。
「どこまでも行くんだらう。」カムパネルラがぼんやり答

へました。
「 この汽車石炭をたいていないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云ひました。
「石炭たいてゐない? 電気だらう。」
 そのとき、あのなつかしいセロの、しづかな声がしました。
「ここの汽車は、スティームや電気でうごいてゐない。ただうごくやうにきまってゐるからうごいてゐるのだ。
ごとごと音をたててゐると、さうおまへたちは思ってゐるけれども、それはいままで音をたてる汽車にばかりなれてゐるためなのだ。
「あの声、ぼくなんべんもどこかできゐた。」
「ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞ゐた。」

 ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすゝきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。
向ふの席で、灰いろのひだの、長く垂れたきものを着たひとが、ちょっと立ちあがって、そのえりを直しただけ、ほんたうにそこらはしづかなのでした。
「ああ、りんだうの花が咲いてゐる。もうすっかり秋だねえ。」カムパネルラが、窓の外を指さして云ひました。
 線路のへりになったみぢかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたやうな、すばらしい紫のりんだうの花が咲い

てゐました。
「ぼく、飛び下りて、あいつをとって、また飛び乗ってみせやうか。」ジョバンニは胸を躍らせて云ひました。
「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」
 カムパネルラが、さう云ってしまうかしまはないうち、次のりんだうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。
 と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんだうの花のコップが、湧くやうに、雨のやうに、眼の前を通り、三角標の列は、けむるやうに燃えるやうに、いよいよ光って立ったのです。

        七、北十字とプリオシン海岸

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか。」
 いきなり、カムパネルラが、思ひ切ったといふやうに、少しどもりながら、急きこんで云ひました。
 ジョバンニは、
(ああ、さうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのやうに見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考へてゐるんだった。)と思ひながら、ぼんやりしてだまっていました。
「ぼくはおっかさんが、ほんたうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないぢゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんたうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。
 俄かに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金剛石や草の露やあらゆる立派さをあつめたやうな、きらびやかな銀河の河床の上を

水は声もなくかたちもなく流れ、その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光の射した一つの島が見えるのでした。その島の平らないただきに、立派な眼もさめるやうな、白い十字架がたって、それはもう 貴蛋白石で組み立てたと云ったらいゝか 凍った北極の雲で鋳たといったらいゝか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立ってゐるのでした。
「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。ふりかへって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶の珠数をかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そっちに祈ってゐるのでした。思はず二人もまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬は、まるで熟した苹果のあかしのやうにうつくしくかがやいて見えました。
 そして島と十字架とは、だんだんうしろの方へうつって行きました。
 向ふ岸も、青じろくぽうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風にひるがへるらしく、さっとその銀いろがけむって、息でもかけたやうに見え、また、たくさんのりんだうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐火のやうに思はれました。
 それもほんのちょっとの間、川と汽車との間は、すすきの列でさえぎられ、白鳥の島は、二度ばかり、う

しろの方に見えましたが、ぢきもうずうっと遠く小さく、絵のやうになってしまひ、またすゝきがざわざわ鳴って、たうたうすっかり見えなくなってしまひました。ジョバンニのうしろには、いつから乗ってゐたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリック風の尼さんが、まん円な緑の瞳を、じっとまっすぐに落して、まだ何かことばか声かが、そっちから伝はって来るのを、虔んで聞いてゐるといふやうに見えました。旅人たちはしづかに席に戻り、二人も胸いっぱいのかなしみに似た新らしい気持ちを、何気なくちがった語で、そっと談し合ったのです。
「もうぢき白鳥の停車場だねえ。」
「ああ、十一時かっきりには着くんだよ。」
 早くも、シグナルの緑の燈と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄のほのほのやうなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一列の電燈が、うつくしく規則正しくあらはれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。
 さわやかな秋の時計の盤面には、青く灼かれたはがねの二本の針が、くっきり十一時を指しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなってしまひました。

〔二十分停車〕と時計の下に書いてありました。
「ぼくたちも降りて見やうか。」ジョバンニが云ひました。
「降りやう。」二人は一度にはねあがってドアを飛び出して改札口へかけて行きました。ところが改札口には、明るい紫がかった電燈が、一つ点いてゐるばかり、誰も居ませんでした。そこら中を見ても、駅長や赤帽らしい人の、影もなかったのです。
 二人は、停車場の前の、水晶細工のやうに見える銀杏の木に囲まれた、小さな広場に出ました。そこから幅の広いみちが、まっすぐに銀河の青光の中へ通っていました。
 さきに降りた人たちは、もうどこへ行ったか一人も見えませんでした。二人がその白い道を、肩をならべて行きますと、二人の影は、ちゃうど四方に窓のある室の中の、二本の柱の影のやうに、また二つの車輪の輻のやうに幾本も幾本も四方へ出るのでした。そして間もなく、あの汽車から見えたきれいな河原に来ました。
 カムパネルラは、そのきれいな砂を一つまみ、掌にひろげ、指できしきしさせながら、夢のやうに云ってゐるのでした。
「この砂はみんな 石英 。中で小さな火が燃えてゐる。」
みんな水晶だよ。すきとほるんだよ。六方錐に結晶してゐるだらう。 」どこでぼくは、そんなこと習ったらうと思ひながら、ジョバンニもぼんやり答へてゐました。
 河原の礫は、みんなすきとほって、たしかに水晶や黄

玉や、またくしゃくしゃの皺曲をあらわしたのや、また稜から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、 酸素よりもまだ軽く、 水素よりももっとすきとほってゐたのです。それでもたしかに流れてゐたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるやうに見えたのでもわかりました。
 川上の方を見ると、すすきのいっぱいに生えてゐる崖の下に、白い岩が、まるで運動場のやうに平らに川に沿って出てゐるのでした。そこに小さな五六人の人かげが、何か堀り出すか埋めるかしてゐるらしく、立ったり屈んだり、時々なにかの道具が、ピカッと光ったりしました。
「行ってみやう。」二人は、まるで一度に叫んで、そっちの方へ走りました。その白い岩になった処の入口に、
〔プリオシン海岸〕といふ、瀬戸物のつるつるした標札が立って、向ふの渚には、ところどころ、細い鉄の欄干も植えられ、木製のきれいなベンチも置いてありました。
「おや、変なものがあるよ。」カムパネルラが、不思議さうに立ちどまって、岩から黒い細長いさきの尖ったくるみの実のやうなものをひろひました。
「くるみの実だよ。そら、沢山ある。流れて来たんぢゃ

ない。岩の中に入ってるんだ。」
「大きいね、このくるみ、倍あるね。こいつはすこしもいたんでない。」
「早くあすこへ行って見やう。きっと何か堀ってるから。」
 二人は、ぎざぎざの黒いくるみの実を持ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚には、波がやさしい稲妻のやうに燃えて寄せ、右手の崖には、いちめん銀や貝殻でこさえたやうなすすきの穂がゆれたのです。
 だんだん近付いて見ると、一人のせいの高い、ひどい近眼鏡をかけ、長靴をはいた学者らしい人が、手帳に何かせわしさうに書きつけながら、鶴嘴をふりあげたり、スコープをつかったりしてゐる、三人の助手らしい人たちに夢中でいろいろ指図をしていました。
「そこのその突起を壊さないやうに。スコープを使いたまへ、スコープを。おっと、も少し遠くから堀って。いけない、いけない。なぜそんな乱暴をするんだ。」
 見ると、 ほんたうに その白い柔らかな岩の中から、大きな大きな青じろい獣の骨が、横に倒れて潰れたといふ風になって、半分以上堀り出されてゐました。そして気をつけて見ると、そこらには、蹄の二つある足跡のついた岩が、四角に十ばかり、きれいに切り取られて番号がつけられてありました。
「君たちは参観かね。」その大学士らしい人が、眼鏡をき

らっとさせて、こっちを見て話しかけました。「くるみが沢山あったらう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新らしい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れてゐるとこに、そっくり塩水が寄せたり引ゐたりもしてゐたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこつるはしはよしたまへ。ていねいに鑿でやってくれたまへ。ボスといってね、いまの牛の先祖で、 ごくありふれたものさ。けれどもぼくの考へてゐるのはそんなことでない。 ぼくらからみると、ここ 厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたといふ証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。わかったかい。けれども、おいおい。そこもスコープではいけない。そのすぐ下に肋骨が埋もれてる筈ぢゃないか。」大学士はあはてて走って行きました。
「もう時間だよ。行かう。」カムパネルラが地図と腕時計とをくらべながら云ひました。
「ああ、ではわたくしどもは失礼いたします。」ジョバンニは、ていねいに大学士におぢぎしました。
「さうですか。いや、さよなら。」大学士は、また忙がしさうに、あちこち歩きまはって監督をはじめました。

二人は、その白い岩の上を、一生けん命汽車におくれないやうに走りました。そしてほんたうに、風のやうに走れたのです。息も切れず膝もあつくなりませんでした。
 こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思ひました。
 そして二人は、前のあの河原を通り、改札口の電燈がだんだん大きくなって、間もなく二人は、もとの車室の席に座って、いま行って来た方を、窓から見てゐました。

        八、鳥を捕る人

「ここへかけてもようございますか。」
 がさがさした、けれども親切さうな、大人の声が、二人のうしろで聞えました。
 それは、茶いろの少しぼろぼろの外套を着て、白い巾でつつんだ荷物を、二つに分けて肩に掛けた、赤髯のせなかのかがんだ人でした。
「えゝ、いゝんです。」ジョバンニは、少し肩をすぼめて挨拶しました。その人は、ひげの中でかすかに微笑ひながら、荷物をゆっくり網棚にのせました。ジョバンニは、なにか大へんさびしいやうなかなしいやうな気がして、だまって正面の時計を見ていましたら、ずうっと前の方で、硝子の笛のやうなものが鳴りました。汽車はもう、しづかにうごいてゐたのです。カムパネルラは、車室の天井を、あちこち見ていました。その 黒い瞳は、十二の一列の小さな電燈を一つづつ走り、 赤ひげの人は、なにかなつかしさうにわらひながら、ジョバンニやカムパネルラのやうすを見てゐました。汽車はもうだんだん早くなって、すすきと川と、かはるがはる窓の外から光りました。
 赤ひげの人が、少しおづおづしながら、二人に訊きました。
「あなた方は、どちらへ入らっしゃるんですか。」

「どこまでも行くんです。」ジョバンニは、少しきまり悪さうに答へました。
「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ。」
「あなたはどこへ行くんです。」カムパネルラが、いきなり、喧嘩のやうにたづねましたので、ジョバンニは、思はずわらひました。すると、向ふの席に居た、尖った帽子をかぶり、大きな鍵を腰に下げた人も、ちらっとこっちを見てわらひましたので、カムパネルラも、つい顔を赤くして笑ひだしてしまひました。ところがその人は別に怒ったでもなく、頬をぴくぴくしながら返事しました。
「わっしはすぐそこで降ります。わっしは、鳥をつかまへる商売でね。」
「何鳥ですか。」
「鶴や雁です。さぎも白鳥もです。」
「鶴はたくさんゐますか。」
「居ますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか。」
「いゝえ。」
「いまでも聞えるぢゃありませんか。そら、耳をすまして聴いてごらんなさい。」
 二人は眼を挙げ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の湧くやうな音が聞えて来るのでした。

「鶴、どうしてとるんですか。」
「鶴ですか、それとも鷺ですか。」
「鷺です。」ジョバンニは、どっちでもいいと思ひながら答へました。
「そいつはな、雑作ない。さぎといふものは、みんな天の川の砂が凝って、ぼおっとできるもんですからね、そして始終川へ帰りますからね、川原で待ってゐて、鷺がみんな、脚をかういふ風にして下りてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押へちまふんです。するともう鷺は、かたまって安心して死んぢまひます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押し葉にするだけです。」
「鷺を押し葉にするんですか。標本ですか。」
「標本ぢゃありません。みんなたべるぢゃありませんか。」
「おかしいねえ。」カムパネルラが首をかしげました。
「おかしいも不審もありませんや。そら。」その男は立って、網棚から包みをおろして、手ばやくくるくると解きました。「さあ、ごらんなさい。いまとって来たばかりです。」
「ほんたうに鷺だねえ。」二人は思はず叫びました。まっ白な、あのさっきの北の十字架のやうに光る鷺のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い脚をちぢめて、浮彫のやうにならんでゐたのです。
「眼をつぶってるね。」カムパネルラは、指でそっと、鷺

の三日月がたの白い瞑った眼にさわりました。頭の上の槍のやうな白い毛もちゃんとついてゐました。
「ね、さうでせう。」鳥捕りは風呂敷を重ねて、またくるくると包んで紐でくくりました。誰がいったいここらで鷺なんぞ喰べるだらうとジョバンニは思ひながら訊きました。
「鷺はおいしいんですか。」
「えゝ、毎日注文があります。しかし雁の方が、もっと売れます。雁の方がずっと柄がいいし、第一手数がありませんからな。そら。」鳥捕りは、また別の方の包みを解きました。すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのやうにひかる雁が、ちゃうどさっきの鷺のやうに、くちばしを揃へて、少し扁べったくなって、ならんでゐました。
「こっちはすぐ喰べられます。どうです、少しおあがりなさい。」鳥捕りは、黄いろな雁の足を、軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできてゐるやうに、すっときれいに とれたのです
「どうです。すこしたべてごらんなさい。」鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっと喰べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでゐるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、

この人のお菓子をたべてゐるのは、大へん気の毒だ。)とおもひながら、やっぱりぽくぽくそれをたべてゐました。
「も少しおあがりなさい。」鳥捕りがまた包みを出しました。ジョバンニは、もっとたべたかったのですけれども、
「えゝ、ありがたう。」と云って遠慮しましたら、鳥捕りは、こんどは向ふの席の、鍵をもった人に出しました。
「いや、商売ものを貰っちゃすみませんな。」その人は、帽子をとりました。
「いゝえ、どういたしまして。どうです、今年の渡り鳥の景気は。」
「いや、すてきなもんですよ。一昨日の第二限ころなんか、なぜ燈台の灯を、規則以外に間〔一字分空白〕させるかって、あっちからもこっちからも、電話で故障が来ましたが、なあに、こっちがやるんぢゃなくて、渡り鳥どもが、まっ黒にかたまって、あかしの前を通るのですから仕方ありませんや。わたしぁ、べらぼうめ、そんな苦情は、おれのとこへ持って来たって仕方がねえや、ばさばさのマントを着て脚と口との途方もなく細い大将へやれって、斯う云ってやりましたがね、はっは。」
 すすきがなくなったために、向ふの野原から、ぱっとあかりが射して来ました。
「鷺の方はなぜ手数なんですか。」カムパネルラは、さっきから、訊かうと思ってゐたのです。
「それはね、鷺を喰べるには、」鳥捕りは、こっちに向き

直りました。 「天の川の水あかりに、十日もつるして置くかね、さうでなけぁ、砂に三四日うづめなけぁいけないんだ。さうすると、水銀がみんな蒸発して、喰べられるやうになるよ。」
「こいつは鳥ぢゃない。ただのお菓子でせう。」やっぱりおなじことを考へてゐたとみえて、カムパネルラが、思い切ったといふやうに、尋ねました。鳥捕りは、何か大へんあわてた風で、
「さうさう、ここで降りなけぁ。」と云ひながら、立って荷物をとったと思ふと、もう見えなくなってゐました。
「どこへ行ったんだらう。」二人は顔を見合せましたら、燈台守は、にやにや笑って、少し伸びあがるやうにしながら、二人の横の窓の外をのぞきました。二人もそっちを見ましたら、たったいまの鳥捕りが、黄いろと青じろの、うつくしい燐光を出す、いちめんのかはらははこぐさの上に立って、まじめな顔をして両手をひろげて、じっとそらを見てゐたのです。
「あすこへ行ってる。ずゐぶん奇体だねえ。きっとまた鳥をつかまへるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといゝな。」と云った途端、がらんとした桔梗いろの空から、さっき見たやうな鷺が、まるで雪の降るやうに、ぎゃあぎゃあ叫びながら、いっぱいに舞ひおりて来ました。するとあの鳥捕りは、すっかり注文通りだといふやうにほくほくして、両足をかっきり

六十度に開いて立って、鷺のちぢめて降りて来る黒い脚を両手で片っ端から押へて、布の袋の中に入れるのでした。すると鷺は、蛍のやうに、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消えたりしてゐましたが、おしまひたうたう、みんなぼんやり白くなって、眼をつぶるのでした。ところが、つかまへられる鳥よりは、つかまへられないで無事に天の川の砂の上に降りるものの方が多かったのです。それは見てゐると、足が砂へつくや否や、まるで雪の融けるやうに、縮まって扁べったくなって、間もなく熔鉱炉から出た銅の汁のやうに、砂や砂利の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についてゐるのでしたが、それも二三度明るくなったり暗くなったりしてゐるうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまふのでした。
 鳥捕りは二十疋ばかり、袋に入れてしまふと、急に両手をあげて、兵隊が鉄砲弾にあたって、死ぬときのやうな形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕りの形はなくなって、却って、
「ああせいせいした。どうもからだに恰度合うほど稼いでゐるくらゐ、いゝことはありませんな。」といふききおぼえのある声が、ジョバンニの隣りにしました。見ると鳥捕りは、もうそこでとって来た鷺を、きちんとそろへて、一つづつ重ね直してゐるのでした。
「どうしてあすこから、いっぺんにこゝへ来たんです

か。」ジョバンニが、なんだかあたりまへのやうな、あたりまへでないやうな、おかしな気がして問ひました。
「どうしてって、 さうなってるから仕方ないぢゃありませんか。 ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか。」
 ジョバンニは、すぐ返事しやうと思ひましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考へつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思ひ出さうとしてゐるのでした。
「あゝ、遠くからですね。」鳥捕りは、わかったといふやうに雑作なくうなづきました。

        九、ジョバンニの切符

「もうこゝらは白鳥区のおしまひです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの観測所です。」
 窓の外の、まるで花火でいっぱいのやうな、あまの川のまん中に、黒い大きな建物が四棟ばかり立って、その一つの平屋根の上に、眼もさめるやうな、青宝玉と黄玉の大きな二つのすきとほった球が、輪になってしずかにくるくるとまはってゐました。黄いろのがだんだん向ふへまわって行って、青い小さいのがこっちへ進んで来、間もなく二つのはじは、重なり合って、きれいな緑いろの両面凸レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみ出して、たうたう青いのは、すっかりトパースの正面に来ましたので、緑の中心と黄いろな明るい環とができました。それがまただんだん横へ外れて、前のレンズの形を逆に繰り返し、たうたうすっとはなれて、サファイアは向ふへめぐり、黄いろのはこっちへ進み、また丁度さっきのやうな風になりました。銀河の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんたうにその黒い測候所が、睡ってゐるやうに、しづかによこたわったのです。
「あれは、水の速さをはかる器械です。水も……。」鳥捕りが云ひかけたとき、
「切符を拝見いたします。」三人の席の横に、赤い帽子を

かぶったせいの高い車掌が、いつか 三人の席の、横に まっすぐに立ってゐて云ひました。鳥捕りは、だまってかくしから、小さな紙きれを出しました。車掌はちょっと見て、すぐ眼をそらして、(あなた方のは?)といふやうに、指をうごかしながら、手をジョバンニたちの方へ出しました。
「さあ、」ジョバンニは困って、もじもじしてゐましたら、カムパネルラは、わけもないといふ風で、小さな鼠いろの切符を出しました。ジョバンニは、すっかりあはててしまって、もしか上着のポケットにでも、入ってゐたかとおもひながら、手を入れて見ましたら、何か大きな畳んだ紙きれにあたりました。こんなもの入ってゐたらうかと思って、急いで出してみましたら、

「さあ、」ジョバンニは困ってカムパネルラの眼を見ました。カムパネルラももぢもぢしてたしかに持ってゐないやうでした。(あゝ、殊によったら僕が二人のを持ってゐたかも知れない。)と思ひながらジョバンニが上着のかくしに手を入れて見ましたら、何か大きな畳んだ紙きれにあたりました。こんなもの入ってゐたらうかと思ってあわててゝ出して見ましたら それは四つに折った はんかち ぐらゐの大さの緑いろの紙でした。車掌が手を出してゐるもんですから何でも構はない、やっちまへと思って渡しましたら、車掌はまっすぐに立ち直って叮寧にそれを開いて見てゐました。そして読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したりしていました から、ジョバンニはたしかにあれは証明書か何かだったと考へて少し胸が熱くなるやうな気がしました。
「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」車掌がたづねました。
「何だかわかりません。」もう大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑ひました。
「よろしうございます。南十字へ着きますのは、次の第三時ころになります。」車掌は紙をジョバンニに渡して向ふへ行きました。
 カムパネルラは、その紙切れが何だったか待ち兼ねたといふやうに急いでのぞきこみました。ジョバンニも全く早く見た くな ったのです。ところがそれはいちめん黒い

唐草のやうな模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見てゐると何だかその中へ吸ひ込まれてしま ってまた新しい世界の中へでも入る やうな気がするのでした。すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあはてたやうに云ひました。
「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんたうの天上へさへ行ける切符だ。天上どこぢゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね。」
「何だかわかりません。」ジョバンニが赤くなって答へながらそれを又畳んでかくしに入れました。そしてきまりが悪いのでカムパネルラと二人、また窓の外をながめてゐましたが、その鳥捕りの時々大したもんだといふやうにちらちらこっちを見てゐるのがぼんやりわかりました。
「もうぢき鷲の停車場だよ。」カムパネルラが向ふ岸の、三つならんだ小さな青じろい三角標と地図とを見較べて云ひました。
 ジョバンニはなんだか となりの鳥捕りが気の毒でたまらなくな って、殊にあの 鷺をつかまへて よろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符を ちらちら 横目で見て 愕いたり 、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバン

ニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。ほんたうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊かうとして、それではあんまり出し抜けだから、 (鷲の停車場もうぢきでせうか)とまで話し掛けやうと 考へて振り返って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居ませんでした。網棚の上には白い荷物も見えなかったのです。また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕る支度をしてゐるのかと思って、急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と 向き岸の 白いすゝきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも尖った帽子も見えませんでした。
「あの人どこへ行ったらう。」カムパネルラもぼんやりさう云ってゐました。
「どこへ行ったらう。一体どこでまたあふのだらう。僕はどうしても少しあの人に物を言はなかったらう。」
「あゝ、僕もさう思ってゐるよ。」
「僕はあの人が邪魔なやうな気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変てこな気もちは、ほんたうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思ひました。

「何だか苹果の匂がする。僕いま苹果のこと考へたためだらうか。」カムパネルラが不思議さうにあたりを見まはしました。
「ほんたうに苹果の匂だよ。それから野茨の匂もする。」ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでも入って来るらしいのでした。いま秋だから野茨の花の匂のする筈はないとジョバンニは思ひました。
 そしたら俄かにそこに、つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が ひどくびっくりしたやうな顔をして はだしで立ってゐました。隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹かれてゐるけやきの木のやうな姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立ってゐました。
「あら、ここどこでせう。まあ、きれい 。」青年のうしろに 姉妹らしい三人の少女がお互みんな堅く手をつないでジョバンニのうしろに立ち、 不思議さうに窓の外を見てゐるのでした。
こんなとこへ来たんだな、みんないっしょに、ああよかった。さあ、そら、こゝへお掛けなさい。 もうなんにもこわいことありません。 ぢきおかあさんの居らっしゃるとこへ行けますから。 」黒服の青年は よろこびにかがやいてその女の子に云ひました。けれども なぜか 額に深く皺を刻んで、それに大へんつかれてゐるらしく、無理に笑ひながら男の子をジョバンニのとなりに座らせました。
「あなたはそこへお掛けなさい。」眼のまっ黒な、まん中に  

居た女の子に、青年は カムパネルラのとなりの席を指さし て云ひ ました。女の子はすなほにそこへ座って、きちんと両手を組み合せました。
「ぼく お父さん のとこへ行くんだやう。」 男の子は顔を変にして 向ふの席に座ったばかりの青年に云ひました。青年は何とも云へず悲しさうな顔をして、ぢっとその子の、ちぢれてぬれた頭を見ました。 一番大きな姉 は、いきなり ハンケチを出して 泣いてしまひました。
「お父さん は すぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんは あんな に永く待ってゐらっしゃ るんですから、それはそれは、もうひどく心配して待ってゐらっ るんですから、早く行っておっかさんにお目にかゝ らないといけないのです 。」
「 僕、船に乗らなけぁよかったなあ。」
「ええ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの 川 ね、 こゝ はあの夏中、 トゥ ヰンクル、 トゥ ヰンクル、リトル、スター をうたっ とき、いつも ぼんやり白く見えてゐたでせう。あすこですよ。ね、きれいでせう、あんなに光って 。」
 泣いてゐた姉もハンケチで眼をふいて外を見ました。青年は そっと 同朋たち にまた云ひました。
「わたしあちは なんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないゝとこを旅して、ぢき神さまのとこへ行 くし、 わたしたちの代りにボートへ乗れた人たちは、

きっとみんな助けられて、 めいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうぢきですから元気を出しておもしろくうたって行きませう。」青年は男の子のぬれたやうな黒い髪をなで、みんなを慰めながら、自分もだんだん顔いろがかゞやいて来ました。
「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」 ジョバンニのうしろの席の人が、さっきから聞いてゐたらしく 青年にたづねました。青年はかすかにわらひました。
「いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さん より、 一足さきに本国へ 帰るとこだったのです。 私は大学へはいってゐて、家庭教師にやとはれてゐたのです。ところがちゃうど十二日目、今日か昨日のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは 半分 だめになって しまって 、とてもみんな 乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は もう 必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いて 呉れました。けれどもそこ にはまだまだ小さな 赤いジャケツの子 や親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。 そのうち船はもうずんずん沈みますから、私 たち は かたまって 甲板につかまってゐました。

ライフヴイが一つ飛んで来ましたけれども 私たちにはあたらなかったのです。 私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして、 みんな それにしっかりとりつきました。 けれども私たちはすぐ渦に巻き込まれました。それから ここへ来てゐたのです。この方たちのお母さんは一昨年没くなられ たのです。 ボートはきっと助かった でせう 、何せよほど熟練な 風で 漕いで 船からはなれてゐましたから。」
  みんなの嘆息は、あっちにもこっちにも 聞え ました。 ジョバンニ はきいてゐるうちにほろほろ泪がながれ、 いままで忘れてゐたいろいろのことを 思ひ出し ました。
(あゝ、 の大きな パシフィック の海をよこぎらうとして、この人たちは波に沈んだのだ。そして私のお父さんは、 その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかって、 僕に厚い上着を着せやうとしたのだ。それを心配しながらおっかさんはあの小さな丘の家の家で牛乳を待ってゐらっしゃる。僕は帰らなけぁいけない。けれどもどうしてここから帰れやう、いったい家はどっちだらう。 )ジョバンニは首を垂れて、すっかりふさぎ込んでしまいました。
「もう帰りたくなったって。そんなにせかなくてもいゝ。まだ二分もたってゐない。まあ安心しておいで。いつでもその切符で帰れるから。」またあのセロのやうな声がどこかでしました。ジョバンニは気持がすっかりなほってまた叫びだしたいくらゐ愉快になりました。青年は

うしろの人と何か話し合ひ、 あの 男の子 はもうつかれて ぐったり席によりかかって睡ってゐました。さっきのあのはだしだった足には 白い柔らかな靴をはいてゐたのです。
 ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。向ふ 方の窓を見ると、野原はまるで幻燈のやうでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い点点をうった測量旗も見え、野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集ってぼおっと青白い霧のやう、そこからかまたはもっと向ふからかときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のやうなものが、かはるがはるきれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとほった奇麗な風は、ばらの匂でいっぱいでした。
あら、お姉さん、 苹果 持ってゐるわ。 」向うの席の いちばんちいさな女の子がびっくりしたやうに叫びました。「えゝ、さっきから持ってゐたわ。みんなで五つあるのよ。」その髪の黒い姉は、 黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないやうに両手で膝の上にかゝえてゐました。
「苹果お呉れ、ねえさん。」いつか眼をさましてゐたジョバンニのとなりの男の子はすばやく一つとりました。
「いけないわ。タアちゃん」カムパネルラのとなりにゐた女の子は頬をまっ赤にしてジョバンニたちの方を気兼

ねしながらたしなめるやうに云ひました。
「いゝのよ。ちゃうと1つづつあるわ。」姉はこっちへ一つ渡してそれから向ふの小さな妹に云ひました。「これあなたよ。」男の子はまるで飛びつくやうにしてその大きな苹果にかぢり付いてゐました。あんまり大きいので中々その白い冷たさうな肉が噛みとれないで汁がぼとぼと落ちました。
「先生、苹果ございましたわ。」姉はうしろ向きになってはなし込んでゐた向ひのあの黒服の青年におしまひの二つのうち一つを出しました。
「おや、どっから来たの。立派ですねえ。こゝらではこんな苹果ができるのかなあ。」青年は手にもってまるでびっくりしてしまったやうにいろいろに場処を変へたり眼を細くしたりして眺めてゐました。みんなはいつかきらきらのナイフで苹果をむいてゐました。
 ジョバンニは僕はもうあゝ云ふ苹果を百でももってゐるとおもひました。みんなはナイフで皮をむいてはゐましたが、それもたしかに剥かなくてもいゝやうでした。なぜならその小さな


男の子はまるでパイを喰べるやうにもうそれを喰べてゐました、また折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜きのやうな形になって床へ落ちるまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発してしまふのでした。
  「いまどの辺あるいてるの。」ジョバンニがききました。
 

「こゝだよ。」カムパネルラは鷲の停車場の少し南を指さしました。
「鷲の停車場もう過ぎたの。」
「過ぎた。さっきあの人が船のはなししてゐた時だ。」
 男の子がこしかけの上に大威張りで立ってゐました。そしてジョバンニの向ふの窓をのぞいて叫びました。
「あまの川、
 底のすなごも見ぃへるぞ
 かはらの石も見ぃへるぞ。
 いつまで見ても、
 見えないものは水ばかり。」みんなは一度に窓の外を見ました。その景色の立派なこと、殊に
 川下の向ふ岸に青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光る円い実がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまぢって何とも云えずきれいな音いろが、とけるやうに浸みるやうに風につれて流れて来るのでした。
 青年はぞくっとしてからだをふるふやうにしました。
 だまってその譜を聞いてゐると、そこらにいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまっ白な蝋のやうな露が太陽の面を擦めて行くやうに思はれました。
「まあ、あの烏。」カムパネルラのとなりの 女の子が叫びました。

「からす ぢゃ ない。みんなかささぎだ。」カムパネルラが 何気なく叱るやうに叫びましたので、ジョバンニはまた思はず笑い、女の子はきまり悪さうにしました。まったく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列になってとまってぢっと川の微光を受けてゐるのでした。
「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから。」青年は 誰へともなし 云ひました。
 向ふの青い森の中の三角標はすっかり汽車の正面に来ました。 そして譜がにはかに あの聞きなれた 主よみもとの歌にかはったのです。 青年はさっと顔いろが青ざめ、 いちばん大きな姉はまた ハンケチを顔にあて ました。 それがすぐとなりの小さな妹に伝はったもんですから、 ジョバンニまで何だか鼻が変になりました。けれどもいつともなく誰ともなくその歌は歌ひ出されだんだんはっきり強くなりました。思わずジョバンニもカムパネルラも一諸にうたひ出したのです。
「主よみもとにちかづかん
 のぼるみちは十字架に
 ありともなどかなしむべき
 主よみもとにちかづかん。」
 男の子もまるで教会にでもゐるやうに一生けん命にうたひました。そのうつくしいさまざまの語の賛美歌は、見えない天の川の水を吹いてくる風をふるはせ、広い銀

 そして青い橄欖の森が見えない天の川の向ふにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまひそこから流れて来るあやしい楽器の音ももう汽車のひびきや風の音にすり耗らされて 聞こえないやうに なりました。
「あの森琴の宿でせう。あたしきっとあの森の中に立派なお姫さまが竪琴を鳴らしてゐらっしゃると思ふわ、お附きの腰元や何かが立って青い孔雀の羽でうしろからあをいであげてゐるわ。」
 カムパネルラのとなりに居た女の子が云ひました。
 それが不思議に誰にもそんな気持ちがするのでした。第一
 ジョバンニはその小さく小さくなっていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのやうに見える森の上にさっさっと青じろく時々光って ゐるのはきっと その孔雀 のはねの 反射 だらうかと思ひました。
けれどもカムパネルラがやはりそっちをうっとり見てゐるの気がつきましたら 「さうだ、孔雀の声だってさっき聞えた。」カムパネルラがかほる子に云ひました。
「えゝ、三十疋ぐらゐはたしかに居たわ。ハープのやうに聞えたのはみんな孔雀よ。」女の子が答へました。ジョバンニは 何とも云へずかなしい気がして思はず
「カムパネルラ、こゝからはねおりて遊んで行かうよ。」とこわい顔をして云はうとしたくらゐでした。
ところがそのときジョバンニは川の遠くの方に不思議なものを見ました。それはたしかになにか黒いつるつるした細長いものであの見えない天の川の水の上に飛び出してちょっと弓のやうなかたちに進んでまた水の中にかくれたやうでした。おかしいと思ってまたよく気を付けてゐましたらこんどはずっと近くでまたそんなことがあったらしいのでした。そのうちもうあっちでもこっちでもその黒いつるつるした変なものが水から飛び出して円く飛んでまた頭から水へくぐるのがたくさん見えて来ました。みんな魚のやうに川上へのぼるらしいのでした。「まあ何でせう。タアちぁん。ごらんなさい。まあ沢山だわね。何でせうあれ。」睡さうに眼をこすってゐた男の子はびっくりしたやうに立ちあがりました。
「何だらう。」青年も立ちあがりました。「まあ、おかしな魚だわ、何でせうあれ。」「海豚です。」カムパネルラがそっちを見ながら答へました。「海豚だなんてあたしはじめてだわ。けどこゝ海ぢゃないんでせう。」「いるかは海に居るときまってゐない。」あの不思議な声がまたどこからかしました。ほんたうにそのいるかのかたちの

のおかしいこと二つのひれを丁度両手をさげて不動の姿勢をとったやうな風にして水の中から飛び出して来てやうやくし頭を下にして不動の姿勢のまゝまた水の中へくぐって行くのでした。見えない天の川の水もそのときはゆらゆらと青い焔のやうに波をあげるのでした。「いるかお魚でせうか。」女の子がカムパネルラにはなしかけました。男の子はぐったりつかれたやうにまた席にもたれて睡ってゐました。「いるか魚ぢゃありません。くぢらと同じやうなけだものです。」カムパネルラが答へました。「あなたくぢら見たことあって。」「僕あります。くぢら、頭と黒いしっぽだけ見えます。」「くぢらなら大きいわねえ。」「くぢら大きいです。子供だっているかぐらゐあります。」「さうよあたしアラビアンナイトで見たわ。」姉は細い銀のいろの指環をいぢりながらおもしろさうに向ふでそのはなしをきいてゐました。
 (カムパネルラ、僕もう行っちまうぞ。僕なんか鯨だって見たことないや)ジョバンニはまるでたまらないほどいらいらしながらそれでも堅く唇を噛んでこらえて窓の外を見てゐました。その窓の外には海豚の形ももう見えなくなって川は二つにわかれました。そのまっくらな島のまん中に高い高いやぐらが一つ組まれてその上に一人の寛い服を着て赤い帽子をかぶった男が立ってゐました。そして両手に赤と青の旗をもってそらを見上げて信号してゐるのでした。ジョバンニが見てゐる間その人はしきりに赤い旗をふっていましたが俄かに赤旗をおろしてうしろにかくすやうにし青い旗を高く高くあげてまるでオーケストラの指揮者のやうに烈しく振りました。すると空中にざあっと雨のやうな音がして何かまっくらなものがいくかたまりもいくかたまりも鉄砲丸のやうに川の向ふの方へ飛んで行くのでした。ジョバンニは思はず窓からからだを半分出してそっちを見あげました。美しい美しい桔梗いろのがらんとした空の下を実に何万といふ小さな鳥どもが幾組も幾組もめいめいせわしくせわしく鳴

いて通って行くのでした。
「鳥が飛んで行くな。」ジョバンニが窓の外で云ひました。
「どら、」カムパネルラもそらを見ました。そのときあのやぐらの上のゆるい服の男は俄かに赤い旗をあげて狂気のやうにふりうごかしました。するとぴたっと鳥の群は通らなくなりそれと同時にぴしゃぁんといふ潰れたやうな音が川下の方で起ってそれからしばらくしいんとしました。と思ったらあの赤帽の信号手がまた青い旗をふって叫んでゐたのです。
「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥。」その声もはっきり聞えました。それといっしょにまた幾万といふ鳥の群がそらをまっすぐにかけたのです。二人の顔を出してゐるまん中の窓からあの女の子が顔を出して美しい頬をかゞやかせながらそらを仰ぎました。
「まあ、この鳥、 ずいぶんだ わねえ、あらまあそらのきれいなこと。」女の子はジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニは生意気ないやだいと思ひながらだまって口をむすんでそらを見あげてゐました。女の子は小さくほっと息をしてだまって席へ戻りました。カムパネルラが気の毒さうに窓から顔を引っ込めて地図を見てゐました。
「あの人鳥へ教へてるんでせうか。」女の子がそっとカムパネルラにたづねました。
「わたり鳥へ信号してるんです。 射手のとこから鉄砲が あがるためでせう。」カムパネルラが少しおぼつかなさうに答えました。そして車の中はしぃんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ込めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったのでだまってこらえてそのまゝ立って口笛を吹いてゐました。
(どうして僕はこんなにかなしいのだらう。僕はもっとこゝろもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向ふにまるでけむりのやうな小さな青い火が見える。あれはほんたうにしづかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしづめるんだ。)ジョバンニは熱って痛いあたまを両手で押へるやうにしてそっちの方を見ました。(ああほんたうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだらうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろさうに談してゐるし

僕はほんたうにつらいなあ。)ジョバンニ は なぜか また泪 いっぱいになり ました。
 そのとき汽車はだんだん川から 一つの をへだてゝ高いところ を通るやうになりました。向ふ岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流に下るにしたがってだんだん高くなって行くのでした。そしてちらっと大きなたうもろこしの木を見ました。その葉はぐるぐるに縮れ葉の下にはもう美しい緑いろの大きな苞が赤い毛を吐いて真珠のやうな実もちらっと見えたのでした。 たうもろこし はだんだん数を増して もういまは列のやうに崖と線路との間にならび思わずジョバンニが窓から顔を引っ込めて向ふ側の窓を見ましたときは美しいそらの野原の地平線のはてまでその大きなたうもろこしの木がほとんどいちめんに植えられてさやさや風にゆらぎその立派なちゞれた葉のさきからはまるでひるの間にいっぱい日光を吸った金剛石のやうに露がいっぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光ってゐるのでした。カムパネルラが「あれたうもろこしだねえ」とジョバンニに云ひましたけれどもジョバンニはどうしても気持がなほりませんでしたからたゞぶっきり棒に野原を見たまま「さうだらう。」と答へました。そのとき汽車はだんだんしづかになっていくつかのシグナルとてんてつ器の灯を過ぎ小さな停車場にとまりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示しその振子は風もなくなり汽車もうごかずしづかなしづかな野原のなかにカチッカチッと正しく時を刻んで行くのでした。
 そして まったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてからかすかなかすかな音楽が糸のやうに流れて来るのでした。「新世界交響楽だわ。」向ふの席の姉がひとりごとのやうにこっちを見ながらそっと云ひました。全くもう 車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見てゐるのでした。
(こんなしづかないゝとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだらう。どうしてこんなにひとりさびしいのだらう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗ってゐながらまるであんな女の子とばかり談してゐるんだもの。僕はほんたうにつらい なあ 。)ジョバンニはまた両手で顔を半

分かくすやうにして ぢっと 向ふの窓のそとを見 ながら次から次と痛い頭で考へてゐました。 すきとほった硝子のやうな笛が鳴って汽車はしづかに動き出しカムパネルラもさびしさうに星めぐりの口笛を吹 いてゐ ました。
「えゝ、えゝ、もうこの辺はひどい高原ですから。」うしろの方で誰か 老人 らしい人のいま眼がさめたといふ風で 半分夢の中で はきはき談してゐる声がしました。
「たうもろこしだって棒で二尺も孔をあけておいてそこへ播かないと生えないんです。」
「さうですか。川まではよほどありませうかねえ、」
「えゝえゝ河までは二千尺から六千尺あります。もうまるでひどい峡谷になってゐるんです。」
 さうそさうこゝはコロラドの高原ぢゃなかったらうか、ジョバンニは思はずさう思ひました。向ふではあの一ばんの姉が小さな妹を自分の胸によりかゝらせて睡らせながら黒い瞳をうっとりと 投げて何を見るでもなしに考へ込んでゐるのでしたしカムパネルラはまださびしさうにひとり口笛を吹き、二番目の女の子はまるで絹で包んだ苹果のやうな顔いろをしてジョバンニの見る方を見てゐるのでした。突然たうもろこしがなくなって巨きな黒い野原がいっぱいにひらけました。新世界交響楽は 地平線のはてから湧き 一人のインデアンが白い鳥の羽根を頭につけたくさんの石を腕と胸にかざり小さな弓に矢を番えて一目散に汽車を追って来るのでした。
「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。おねえさまごらんなさい。」
 黒服の青年も眼をさましました。ジョバンニもカムパネルラも立ちあがりました。
「走って来るわ ねえ 、あら、走って来るわ。追ひかけてゐるんでせう。」
「いゝえ、汽車を追ってるんぢゃないんですよ。猟をするか踊るかしてるんですよ。」青年はいまどこに居るか忘れたといふ風にポケットに手を入れて立ちながら云ひました。
 まったくインデアンは半分は踊ってゐるやうでした。第一かけるにしても足のふみやうがもっと経済もとれ本気にもなれさうでした。にはかにくっきり白いその羽根は前の方へ倒れるやうになりインデアンはぴたっと立ちどまってすばやく弓を空に ました。そこから一羽の鶴が また走り出した

インデアンの大きくひろげた両手に落ちこみました。インデアンはうれしさうに立ってわらひました。そして もうどんどん その影は 小さく遠くなり電しんばしらの碍子がきらっきらっと続いて二つばかり光 こっち側の窓を見ますと汽車はほんたうに高い高い崖の上を走ってゐてその谷の底には川がやっぱり幅ひろく明るく流れてゐたのです。
「えゝ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易ぢゃありません。この傾斜があるもんですから汽車は決して向ふからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでせう。」さっきの老人らしい声が云ひました。
 どんどんどんどん汽車は降りて行きました。崖のはじに鉄道がかゝるときは川が明るく下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだんこゝろもちが明るくなって来ました。汽車が小さな小屋の前を通ってその前にしょんぼりひとりの子供が立ってこっちを見てゐるときなどは思わずほうと叫び 出したいと思ったほどでした。
 どんどんどんどん汽車は走って行きました。室中のひとたちは半分うしろの方へ倒れるやうになりながら腰掛にしっかりしがみついて ゐたのです。 ジョバンニは思はずカムパネルラと 顔を見合せて わらひました。もうそして天の川は汽車のすぐ横手をいままでよほど激しく流れて来たらしくときどきちらちら光ってながれてゐるのでした。うすあかい河原なでしこの花があちこち咲いてゐました。汽車はやうやく落ち着いたやうにゆっくりと走ってゐました。
 向ふとこっちの岸に星のかたちとつるはしを書いた旄がたっていました。
「あれ何の旗だらうね。」ジョバンニが カムパネルラにたづねました。
「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄の舟がおいてあるねえ。」
「あゝ。」
「橋を架けるとこぢゃないんでせうか。」女の子が云ひました。
「あゝあれ工兵の旗だねえ。架橋演習をしてるんだ。けれど兵隊のかたちが見えないねえ。」

 その時向ふ岸ちかくの少し下流の方で見えない天の川の水がぎらっと光って柱のやうに高くはねあがりどぉと烈しい音がしました。
「発破だよ、発破だよ。」カムパネルラはこおどりしました。
 その柱のやうになった水は見えなくなり大きな鮭や鱒がきらっきらっと白く腹を光らせて空中に抛り出されて円い輪を描いてまた水に落ちました。ジョバンニはもう 踊り出し たいくらゐ 愉快に なって云ひました。
「空の工兵大隊だ。どうだ、鱒やなんかゞまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕こんな愉快な旅はしたことない。いゝねえ。」
「あの鱒なら近くで見たらこれくらゐあるねえ、たくさんさかな居るんだな、この水の中に。」
「小さなお魚もゐるんでせうか。」女の子が談につり込まれて云ひました。「居るんでせう。大きなのが居るんだから小さいのもゐるんでせう。けれど遠くだからいま小さいの見えなかったねえ。」ジョバンニはもうすっかり機嫌が直って面白さうにわらって女の子に答へました。

 川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のやうに赤く光りました。まったく向ふ岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでした。ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく酔ったやうになってその火は燃えてゐるのでした。
「あれは何の火だらう。あんな赤く光る火 を僕はいままで見たことない。 」ジョバンニが云ひました。
「蝎の火だな。」カムパネルラが又地図と首っ引きして答へました。
「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」
「蝎の火って何だい。」ジョバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」
「蝎って、虫だらう。」
「ええ、蝎は虫よ。だけどいゝ虫だわ。」
「蝎いゝ虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫されると死ぬって先生が云ったよ。」
「さうよ。だけどいゝ虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がゐて小さな虫やなんか殺してたべて生きてゐたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられさうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどたうたういたちに押へられさうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたといふの、
 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられやう

としたときはあんなに一生けん命にげた。それでもたうたうこんなになってしまった。あゝなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふ。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんたうにあの火それだわ。」
「さうだ。見たまへ。そこらの三角標はちゃうどさそりの形にならんでゐるよ。」
 ジョバンニはまったくその大きな火の向ふに三つの三角標がちゃうどさそりの腕のやうにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのやうにならんでゐるのを見ました。そして 実に そのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく燃えたのです。
 その火がだんだんうしろの方になるにつれてみんなは何とも云へずにぎやかなさまざまの楽の音や草花の匂のやうなもの口笛や人々のざわざわ云ふ声やらを聞きました。それはもうぢきちかくに町か何かゞあってそこにお祭でもあるといふやうな気がするのでした。
「ケンタウル露をふらせ。」いきなりいままで睡ってゐたジョバンニのとなりの男の子が向うの窓を見ながら叫んでゐました。
 あゝそこにはクリスマストリイのやうにまっ青な唐檜かもみの木がたってその中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の蛍でも集ったやうについていました。
「あゝ、さうだ、今夜ケンタウル祭だねえ。」
「あゝ、こゝはケンタウルの村だよ。」カムパネルラがすぐ云ひました。〔以下原稿一枚?なし〕

「ボール投げなら僕決してはづさない。」
 男の子が大威張りで云ひました。
「もうぢきサウザンクロスです。おりる支度をして下さい。」青年がみんなに云ひました。
「僕も少し汽車へ乗ってるんだよ。」男の子が云ひました。カムパネルラのとなりの女の子はそはそは立って支度をはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないやうなやうすでした。
「おっかさんが待ってゐらっしゃいますよ。」 青年はきちっと口を結んで男の子を見おろしながら云ひました。「厭だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」
 ジョバンニがこらえ兼ねて云ひました。
「僕たちと一諸に乗って行かう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」
「だけどあたしたちもうこゝで降りなけぁいけないのよ。こゝ天上へ行くとこなんだから。」 「天上へなんか行かなくたっていゝぢゃないか。もっといゝとこへ行く切符を僕ら持ってるんだ。天上なら行きっきりでないって誰か云ったよ。」
「だっていけないわよ。お母さんも行ってゐらっしゃるんだし。」女の子はほんたうに別れが惜しさうでその顔も少し青ざめて見えました。

「さあもう仕度はいゝんですか。ぢきサウザンクロスですから。」
 あゝそのときでした。見えない天の川の まん中 に青や橙や 綺麗にかざられた 十字架がまるで一本の木といふ風に川の中から立ってかゞやきその上には青じろい雲がまるい環になって かかって いました。 汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのやうにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜に飛びついたときのやうなよろこびの声や何とも云ひやうない深いつゝましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉のやうな青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞ってゐるのが見えました。
「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひゞき

みんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとほった何とも云えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになりたうたう十字架のちゃうどま向ひに行ってすっかりとまりました。
「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひき姉妹たちは互にえりや肩を直してやってだんだん向うの出口の方へ歩き出しました。
「ぢゃさよなら。」女の子がふりかへって二人に云ひました。
「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらへて怒ったやうにぶっきり棒に云ひました。女の子はいかにもつらさうに眼を大きくしても一度こっちをふりかへってそれからあとはもうだまって出て行ってしまひました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまひ俄かにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。
 そして見てゐるとみんなはつつましく列を組んであの十字架の前の天の川のなぎさにひざまずいてゐました。そしてその見えない天の川の水をわたってひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子の呼子は鳴らされ汽車はうごき出しと思ふうちに銀いろの霧が川下の方からすうっと流れて来てもうそっちは何も見えなくなりました。たゞたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち黄金の円光をもった電気栗鼠が可愛い顔をその中からちらちらのぞいてゐるだけでした。

 そのときすうっと霧がはれかゝりました。どこかへ行く街道らしく小さな電燈の一列についた通りがありました。それはしばらく線路に沿って進んでゐました。そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆いろの火はちゃうど挨拶でもするやうにぽかっと消え二人が 通って 行くときまた点くのでした。
 ふりかへって見るとさっきの十字架は もうまるでまるで 小さくなって ほんたうにもうそのまゝ胸にも吊されさうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白い渚にまだひざまずいてゐるのかそれともどこか方角もわからないその天上へ行ったのか もう ぼんやりして わかり ませんでした。
 ジョバンニはあゝと深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば そしておまへのさいはいのためならば 僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」
「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。
「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。
「僕わからない。」カムパネルラ はさうは云ってゐましたがそれでも胸いっぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしました。 がぼんやり云ひました。
「僕たちしっかりやらうねえ。」ジョバンニが 云ひました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいてゐるのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずたゞ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云ひました。
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」
「あゝきっと行くよ。 」カムパネルラは さうは云ってゐまし

ゐましたけれどもジョバンニはどうしてもそれがほんたうに強い気持から出てゐないやうな気がして何とも云へずさびしいのでした。そしてジョバンニが窓の外を見ましたら 向ふの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立ってゐました。「カムパネルラ、僕たち一諸に行かうねえ。」ジョバンニが 何とも云へずさびしい気がして ふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えず ただ黒いびらうどばかりひかってゐました。 ジョバンニはまるで鉄砲丸のやうに立ちあがりました。そして はげしく胸をうって叫び ました。

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」
そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかゝって光りつゞけました。「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、カムパネルラのためにみんなのためにほうたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。 天の川を数知れない氷がうつくしい燐光をはなちながらお互ぶっつかり合ってまるで花火のやうにパチパチ云ひながら流れて来向ふには大犬座のまばゆい三角標がかゞやきました。
「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなか

でたった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない。」あのセロのやうな声がしたと思ふとジョバンニはあの天の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹き自分はまっすぐに草の丘に立ってゐるのを見また遠くからあのブルカニロ博士の足おとの 近づいて来るのをききました。
「ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を
伝へる実験をしたいとさっき考へてゐた。お前の云った語はみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢の中で決心したとほりまっすぐに進んで行くがいゝ。そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」
「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」
「あゝではさよなら。 」博士は ちょっとジョバンニの胸のあたりにさわったと思ふと もうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。ジョバンニはまっすぐに走って丘をおりました。そしてポケットが大へん重くカチカチ鳴るのに気がつきました。林の中でとまってそれをしらべて見ましたら あらそれは 大きな二枚の金貨 でした。
「博士ありがたう、おっかさん。すぐ乳をもって行きますよ。」
ジョバンニは叫んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸に集って何とも云えずかなしいやう

な新しいやうな気がするのでした。
 琴の星がずっと西の方へ移ってそしてまた蕈のやうに足をのばしてゐました。